地の底から天の頂へ

木崎 浅黄

第1話 プロローグ

『あの頃の青春時代に戻りたい』

『青春時代はよかった』



 大人たちは口を揃えて言う。

 朝学校に来ては前日のテレビ番組やドラマの話で盛り上がり、休み時間は友達と一緒に話しながら別の教室に向かったり、みんなで机を並べて弁当を食べたり、放課後に数人でカラオケやゲームセンターに出かけたり。もしくは、甘酸っぱい恋を経験したり、誰かと誰かが付き合っているだの、別れただのと言った噂が流れたり。一般に、人々が思い描く青春とはそういうものだろう。

 そんな薔薇色の高校生活や淡い青春とは縁遠い、代わり映えしない静かな日常。俺、地崎健樹じさきけんきの高校生活とはそういうものだった。現に今もこうして周りに憚れることもなく、机の上で小説を読んでいる。

 別に今の日常に、退屈さや寂しさを覚えて羨んでいるわけではない。決して他人に憐れんで欲しいわけでもない。むしろこの穏やかな日常に、大きな幸せを感じているくらいだ。

 教室は他愛もない会話が飛び交う喧噪な雰囲気。そんな中で白い紙に書かれた活字の列に目を通していく。こうして物語の世界に没頭することで、周りの声など何一つ聞こえなくなる。

 本というのは実に面白い。

 言ってしまえば、本の中の物語とは、作者が脳内で描いた空想の集合体に過ぎない。その集合体を文字を使い巧みに表現し、いかに読者にその世界を面白く見せられるかが、作家の腕の見せ所である。

 しかし、人の言葉の捉え方は多種多様である。例えば、『一本の木が立っている』という情景描写があるとする。読者はどのような風景を思い浮かべるだろうか。木が一本だけ立っているのか、木が周りにはいっぱいあるがそのうちの一本という意味なのか。木の種類は何だろうか。樹齢何年くらいの木だろうか。読者が全員、『樹齢三十年の桜の木が一本だけ立っている』描写を思い描くことはないだろう。

 要するに、作者が思い描いた情景はたった一つであるのに、読者によって違った描写が創り上げられるのである。読者にとって本は、購入するものであり、消費するものである。しかし本質的には、自分の中に自分だけの世界を創り出すことに等しい、つまり消費とは真逆の一種の創造をしていると言えるだろう。

 本を読まない人や本を読むのが嫌いな人は、きっとこの本質に気づくことで、本へ向ける視線そのものが変わると思うが、それはきっと本が大衆に愛される文化であってほしいと望む、俺の希望的解釈に過ぎないのかもしれない。


「あのー。地崎健樹君ですか?」


 俺が今読んでいる小説は、教師と生徒の禁断の恋愛を描いた作品。上半期の売り上げランキングでは上位に食い込むほどの人気作で、非常に繊細な心理描写と美しい背景描写の評価が高く、ストーリー自体も申し分ない。特に光るのは伏線の使い方にある。良い作品ほど、伏線がさりげないことが多く、伏線回収時にハッとさせられるのだが、この作品もその例外ではなく、驚きの連続だった。


「地崎健樹君、地崎君?」


 今はその物語の後半。生徒は抱いていた恋は決して実ることがないと自ら悟り、次第に教師と距離を取り始めた。あからさまな態度からそのことを悟った教師が生徒を屋上に呼び出し、問いただすことになる。避けていた理由を問い詰められ、生徒は伝えないと心に秘めた教師への想いを……。


「地崎健樹!」


 俺は長くいた自分の世界から突然戻ってきた。というよりは、誰かによって自分の世界の壁を破壊されたような……。


「何回呼ばせるの!」


 俺は今の状況を整理することにした。

 現在、一限開始の十分前。授業は古文で教室の移動もない。したがって、授業開始前までは一人の時間を続けてもいいはず。まぁ、授業が始まっても、担当教師が後ろまで巡回してくることはなく、教科書を読んでいるふりでもしておけば、一人の時間を続けることはできる。

 実際、読んでいる小説が佳境に差し迫っているときや、クライマックス途中の時はしばしばその方法を使っている。先生には悪いが、そもそもこれだけ読者を惹きつけて離さない作品を執筆した作者が悪いのである(これは作者に対する誉め言葉)。

 それに仮に途中で読むのをやめてしまえば、その後の続きを気になって授業に集中できなくなってしまう。それならば区切りのいいところまで、もしくは物語が終わるまで多少のロスタイムをくれてもいいのではないだろうか、いやよくない(反語)。

 ……話を戻そう。今はそんな一人の世界にいられる時間。だが横槍を入れられたことにより、自分の世界の壁はあっさりと崩れ去り、元の喧騒な教室へと戻ってきてしまった。いや、その喧噪だった教室は、なぜかやけに静寂だった。

 周りを見渡すと、あれだけ喧しく話していた生徒たちもピタリと話をやめて、一点に視線を集めている。その一点とはまさに俺のいるこの教室の窓側の後ろ側。一瞬、俺に向いた視線かとも思ったが、若干視線がずれている。改めて生徒たちの視線の先を辿り、俺は視線をゆっくりと右側へと動かした。


「まったく、思わず大声出しちゃったじゃない。なんかすごい注目浴びてるし……」

「え?」


 手に持っていた小説がするっと手から離れて机に倒れた。それは俺が、物語の二人のヒロインが突然家族の一員になるくらいの衝撃を受けたからだった。いや、どちらかというと物語のヒロインの一人が実は義理の妹だったという事実を知ったときくらいの衝撃……。いやそんなことはこの際どうでもいい。とにかくそれくらいの強い衝撃を喰らった。


「『え?』じゃない。こんな状況になったのは君のせいよ?」

「な、なんで……。あの天宮香苗あまみやかなえがこんなところにいるんだ

よ……」


 天宮香苗。一年生なら皆が、いやすでに学校中の人が知っていると言っても過言ではない有名人。子役として活躍し、現在は学業優先のため、仕事を一時的に休んでいる女優。年齢にそぐわない大人の演技と可愛らしさが人気で数々のドラマに出演し、主役を務めた実績もある。

 そして学校では明るく気さくな性格と、女優である所以のルックスで、男女の憧れとなっている優等生だ。

 明るい茶髪のセミロングで、艶のある髪質。目鼻立ちの整った顔つき。胸は年齢相応だが、体のラインは綺麗な曲線を描いている。有名人であるというのを差し引いても、注目の的になること間違いなしの正真正銘の美少女である。

 そんな天宮香苗が、一体なぜ俺に話しかけたのだろうか。自慢ではないが、俺は教室内でも知名度が低く、ほとんど話しかけられることもない。所謂、モブに該当するような俺と彼女では、そもそも住むべき場所が大きく違う。


「『あの天宮』って言い方、私が遥か雲の上の存在みたいで、あんまり好きじゃないからやめてくれる?」

「実際、俺たちとは見てきた景色が違うんだから、強ち間違いでもないだろ」

「少なくとも今は、君と同じ学校に通う同学年の生徒。そうじゃない?」

「はぁ」

「腑に落ちないようだけど、とにかく私を特別扱いするのは気が引けるの。だから、周りと同じように接してもらえる?」

「……分かった」


 俺がそう返すと、天宮は小さなため息をついた。この様子だと、今のようなやり取りを何度も繰り返してきたのだろう。


「それで、面識の全くない俺に話しかけてきたのはなぜだ?」

「君に用があるの」

「用って?」

「中間試験……、一位はあなたで間違いない?」

「まさか、そんなことを確認しに来たのか?」

「そう、やっぱり君が……」

「こっちの質問に答えろよ。その確認のためだけにここに来たのか?」


 俺の質問に彼女は横に首を振った。


「本当はもっと聞きたいことはあるんだけど、この状況のこの場所でするわけにもいかないから」


 これだけ教室中の注目を浴びた中で会話するのは、誰であっても嫌だろう。ましてや、天宮香苗は有名人。異性間での会話によって、色々な憶測や噂が立って広がるよ

うなことがあっては、今後に支障も出かねない。


「まぁでも、こうなるのも最初から見当はついていたのよね……。はい、これ」


 天宮香苗は、ポケットから折り畳まれた紙を取り出すと、そっと俺の机の上に置いた。


「それじゃ、また」

「えっ……」


 天宮はそういって早々とこの場を立ち去って行った。周りの生徒もそれを見て、再び会話を始め、気付けば元の教室の雰囲気に戻っていた。

 俺は立ち去っていく彼女の姿を見て再認識した。見た目にしてもオーラにしても立ち振る舞いにしても、それらは明らかに一流だった。

 そんな彼女が、一体俺に何の用があるというのだろうか。

 俺は先ほど彼女が置いて行った紙を手に取った。そこにはおそらく本人であろう字で、『今日、午後五時半に屋上で』と書かれていた。

 この状況を最初から予見していたんなら、俺だけが気づくようなところにこの紙を入れておくとか、いくらでもやりようあっただろうが……。



『キーンコーンカーンコーン』と一限開始を知らせる鐘がなる。さっきの会話を見ていたクラスメイト達も話すのをピタリとやめ、ほかの席にいた生徒も元の席へと急い

で戻っていく。


「それでは授業を始めます」


 鐘と同時に教室に入ってきた古文の先生はそう言って、教科書のページを捲った。

俺もそれに合わせてページを捲る。ただしそれは教科書ではない。


『先生、どうか今日もロスタイムに突入することをお許しください』


 心の中でそう小さく呟いた。

 そして気づけば、先生の声も徐々に遠のいていき、再び一人の世界に舞い戻っていたのだった。



※ ※ ※



 夏至が近づくにつれ、日がだんだんと長くなる。『今の時間帯は夕方じゃないのでは?』と、しばしば錯覚してしまう。

 五月最終週。三学期制の学校では中間考査が終わり、その結果に生徒は一喜一憂。開放感から遊びに出かけたりする生徒も多いだろう。

 時刻は午後五時十五分。俺は彼女が提示した場所で、彼女の到着を待っていた。

 俺以外、誰も一人いない屋上には、グラウンドで練習に励む生徒たちの声のみが響

いている。そんな彼らの様子をぼんやりと見渡していた。


『部活動でどれだけ頑張ってもプロに行ける人なんてごく僅か。一生それだけで生きていける人となればもっと少ない。もちろん、みんなには上手くなってほしいんだ。だけど私は、君たちには技術以上に、野球を通していろんなことを経験して、心身ともに成長してほしい。そして、いつか人生を振り返ったときに、野球をやっていてよ

かった。そう思ってくれることが、私にとっての本望だ』


 ふと、前に読んだ小説のワンシーンが目に浮かぶ。この言葉は、弱小野球部の監督が練習試合で大敗した際に生徒に言ったものだ。

 もちろん、部活をやっている生徒は、大会での一勝、優勝を目標に日々練習に励んでいることだろう。でも技術云々ではなく、部活を通して得たさまざまな経験こそが今後にとって大切であるということを伝えている。学校の数学や物理が、その専門の知識を得るだけでなく、それを通じて論理的思考を養ってほしいという目的で採用されているのと似たものを読んだ当時感じた。

 今こうしてグラウンドで頑張っている生徒たちは何を思い、何を考えてやっているのだろうか。『上手になりたい』、『大会で優勝したい』と、向上心を持っている生徒もいれば、『早く帰りたい』、『先生が嫌いだ』、と考えている生徒もきっといるだろう。


 何事にも意味や意義がある。一見やっていることに意味を感じられない学校の勉強も、実は大きな意義を持っている。そのことに気づいたならば、人は真面目に勉強に努められるだろう。多くの場合それに気づくことはなく、無為に時間を浪費し、大人になって気づいて後悔するケースは多い。

 部活動においても同じことだ。辛くて苦しい練習をなぜやるのか。それにはそれをやる意義があるわけである。その意義を知った上でやるのとやらないのとでは、効率的に差が出ることになる。世の中の大半で、やることの意義を知るという、大事な作業が欠けてしまっている。

 生徒が自らその意義を見出せることができるのが最も理想。しかし、見出せない生徒もいる。そんな時に手助けをしてやるのが、我々監督の役目である。部活動をやることの意義を知ることで、生徒一人一人の意識が変わり、きっと後悔しない時間を送ることができるだろう。


 これもまた、同じ作品の監督の教師の考えである。ちなみにこの作品は、監督が部活動の意義を教えたところ、目の色を変えて練習に取り組んだ生徒たちが、大会で準優勝し、弱小から大きくステップアップしたところで、物語が幕を閉じた。

 物語は時にこうして、自分の考え方を変えるきっかけになる。実際。本を読んで人生が変わったという人も多くいる。これも本の一つの魅力と言えるだろう。


「屋上で一人、ぼーっとしてるけど、好きな人でもいるの?」


 誰一人いなかった屋上に、聞き覚えのある声が響く。


「人を待たせておいて開口一番それか。仮にも社会に出てる人間なら、自分が相手よりも遅れたことに対して、それなりの対応をすべきじゃないのか?」

「まだ集合の五分前よ。紳士なら、相手が自分より遅れても『全然待ってない』というべきじゃない?」

「はぁ……。それで、わざわざ放課後に呼び出して何の用だ」


 天宮 香苗はゆっくりと俺の方へと歩いてきて、俺の正面に来ると立ち止まった。俺は振り返って屋上の落下防止用フェンスにもたれかかった。

 屋上に吹く風が彼女の髪を揺らす。それによって乱れた前髪を軽く整えた彼女は唐突に話しを始めた。


「私は子役として幼いころに芸能界に入ったの」

「そんなのはこの学校では常識だ」


 一生徒の経歴が他の生徒にとって常識というのは、世間では非常識な気もするが、今はスルーしておこう。


「子役の仕事をしながらも、塾に通っていたし、勉学は怠ったことがなかった」

「……それで?」

「小学校から中学卒業まで成績は常に一位。負けなしのままで、この高校に入った」


 絵に描いたような超優等生の武勇伝。この上から目線の自慢話を聞けば、世の中の大半が耳を痛くし、彼女を妬むことになるだろう。

 だが、それは世の中の大半の人の反応であって、少数側の人間であれば話は別だ。

 実際、俺はこの話を聞いても驚きもしなければ羨んだりすることもなかった。なぜなら、彼女とは環境は違えど、この道は一番よく知っている人物が通ってきた道そのものなのだから。


「そして、高校最初の試験で初めて一位ではない順位をとった」

「確か、学年二位」

「そう。私は君に負けて二位」


 高校に入学して最初のテストである中間考査。テスト範囲は約二か月分の学習内容である。そのテストの順位発表はつい先日に行われた。

 別に自分以外の順位なんて一切興味はない。だが、廊下に張り出される形式での順位発表の場合、自分の順位の前後くらいは、嫌でも目に入るものだ(俺の場合、自分より前の順位の人はいないけど)。それがたまたま天宮であっただけのことである。


「今回も全力でやりきったけど、君にだけは及ばなかった。本当に悔しかった」


 彼女は本当に悔しそうに自分の拳を強く握った。


「けどそれと同時に、私より上の人物がどんな人なのか、つまり、君に興味をもったの」

「俺に興味?」


 俺に興味を持ってくれること自体は、特に嫌だと感じることはなかった。むしろ興味を持ってくれた人が片手で数えるほどしかいない俺にとっては、少し嬉しくも感じる。

 だけど、心の奥底ではそのことを嫌がっている自分もいる。何とも複雑な心境だった。


「君のことを知って、そこから色々盗んで、次こそは勝ちたい」

「色々って……」


 技術とかコツってことでいいよな。個人情報とか盗んで弱みを握り、俺を脅して勝とうとかそういうやり方じゃないよな。


「でも俺は、そんな大それたことしているわけじゃない。ただ普通に授業の復習して、予習して、テストに向けてテキストの問題を解いて……。これくらいのことならやってるだろ?」


 授業中読書をするいう、いかにも劣等生がやってそうなことをしているが、その点なら抜かりない。例えば、小説を読んで聞いてなかった今日の古文の授業内容に関しては、休み時間を利用して復習し、穴を埋めている。


「ということは、単純な努力量と質の差……」

「努力量に関しては限度があるし、今回もできる限りを尽くしたんだろ? だったら、必要なのは質の改善だろ」

「質の改善……。因みに君はどんな方法で普段学習しているの?」

「わざわざ敵に塩を送るようなことをすると思うか?」

「別に減るもんじゃないでしょ?」

「それはそうだが、例え俺の勉強方法に変えても、俺より上に行けるかどうかは別なんじゃないのか?」

「まぁ、それはそうなんだけど。君の勉強方法を取り入れてみて、合わないようならまた別の勉強方法を模索するつもりよ」

「そういうことなら、最初からあんたに合わせた勉強方法を、俺が考えたほうが早いんじゃないか?」


 彼女は目をキラキラと光らせてグイグイと近づき、至近距離まで迫ってきた。近いが故に、柔軟剤の香りなのか髪の香りなのかは分からないが、甘い香りが漂ってくる。


「私のために考えてくれるの?」

「誰もやるとは言ってないだろ。それに、今もこうしている間に刻々と勉強時間が減っているわけで……」

「私が君といる限りは別に問題ない」

「一位とりたいなら、三位以下の人たちに抜かされないことが前提だろ……」

「後から配られた成績分布表見て言ってる? 私たちと三位以下じゃ三十点以上差があるのよ。そう簡単にこの差が埋めらるわけがないじゃない」

「人には得意不得意があるわけで、もしかしたら三位以下の人の中には、今回のテストに不得意分野が多く出題されて、偶々点が取れなかったのかも知れない……」

「本当に頭がいい人ってのは、得意と不得意の差が少ないもんでしょ? というかさっきから……」


 彼女は不満げにふくれっ面をする。

 もちろん、自分でもこれくらいの時間ロスで順位が変わったりしないのは理解している。時間が削られたならば、その分効率を上げることでロス分をカバーすればいい話である。


「もしかして私と一緒にいるのが嫌?」


 別に一緒にいるのが嫌なわけではい。だがそれと同時に、俺は彼女と一緒にはいたくなかった。本来同時に存在しえない、二つの相反する気持ちが俺の中には存在している。


「別に……」

「それなら勉強方法教えてくれるくらい、いいでしょ?」


 彼女は一転して満面の笑みに代わったが、その透き通った瞳の奥に『断ったら社会

的に○す』と書いてある気がして、勢いに押されるがままに答えるしかなかった。


「……分かった」

「ありがとう!」


 一般に、彼女がとっている行動は不思議に思えて仕方ないだろう。なぜなら、もし彼女の立場ならプライドというものが邪魔をするからである。誰にも頼らず、ましてや一位に頼ることなど絶対にしないだろう。

 だが彼女は違う。そのようなプライドは完全に排除し、目的のためなら手段を択ばない。一位になれさえすればいいのだ。

 俺の方としては、彼女のお願いを聞き入れても、特に大きなデメリットが生じるわけではない。ならば、断る理由もあるまい。

 ただし、釈然とはしない。確かにこちらにとってデメリットはないがメリットもない。その一方で、彼女にはメリットしかない。

 社会の場で、交渉を持ち出す際、重要となるのは相手のメリットを提示することである。交渉を持ち出す側は、当然自分にとってメリットがあるからこそ交渉を持ちかけるのである。そして相手側にもメリットがあることで、お互いにWin-Winな関係を築くことができる。

 今回の場合、そのメリットというのは提示されていない。したがって、この交渉は一方的なものであり納得がいかない。ならば、こちらから条件を持ち出し、メリットを作り出すまでだ。


「ただし、条件がある」

「条件?」

「人目のあるところで、俺に話しかけるな」

「もしかして、朝のこと怒ってる?」

「別に怒ってるわけじゃない。俺たちが話しているのを見た生徒に、変な噂を流されるのは気分が悪いだろ。それにあんたは活動休止中とはいえ女優だし、今後に悪影響を及ぼす可能性があることは極力避けた方がいい」

「それもそうね……。分かった。約束する」


 彼女は納得したらしく、案外すんなりと条件を呑んだ。

 確かに、この条件を持ち出したのは、彼女の今後に対するリスクが懸念されるからである。

 だが、先ほど言った通り、条件を持ち出したのは自分にメリットを持たせるためである。ではなぜ、わざわざ自分のメリットを隠して言ったのか。それは、彼女に対するメリットを提示し、より条件を呑んでくれやすくするためである。

 因みに俺のメリットは、これによって本を読んでいる途中に乱入されることがなくなるなることである。

 それにしても、ビジネスの本を読んでおいて本当によかったと思う。やはり本は、漫画だけ、小説だけと偏ることなく、様々な本を読むべきだな、と再認識させられた。


「でも、君に用がある時は、どうすれば……」


 俺は右ポケットからスマホを取り出し電源を入れた。俺はメモが書かれている画面を表示し、彼女にスマホを手渡した。


「俺のアカウントと携帯番号。用があればここに連絡してくれ」

「えーっと……」


 彼女は携帯を少し操作した後、なぜかじーっと画面見つめていた。


「友達二人?」

「ちょっ、勝手にいじるな!」


 そうやって見せたくないものを見られないように、あえてメモの画面を見せたのだが、それは全くの無駄になってしまった。画面のロックさえ解除されていれば、いくらでも操作できてしまうこのシステムは是非とも改善してほしい。


「返せ!」

「はい」


 俺が取り返そうと手を伸ばすと、彼女はすんなりとスマホを手渡した。


「……ちょっと待て。友達の追加は?」


 普通なら携帯に登録するなり、何かメモするなりするものだが、彼女は何一つすることなく俺にスマホを返してきたのである。


「……携帯教室に置いて来ちゃって。あ、でもアドレスと携帯番号ならもう暗記したから大丈夫!」


 彼女はニコッと笑ってそう言った。

 そんな彼女に対して俺は、彼女が長いアドレスと電話番号を暗記したことに対して驚くこともなく、ただ押し黙ってしまった。


「どうかした?」

「いや、なんでもない」



 どこか寂しいような、悲しいような。本人はいつも通りに笑えていたと思っているだろうが、あからさまにその笑顔は不自然でぎこちないものだった。

 きっと今のは作り笑顔だ。彼女は女優で、女優は演技を仕事としている。だから笑顔には自信があるのかもしれない。

 でも、今回のその演技は果てしなく下手だった。こんなのNGで撮り直しに違いない。

 黙り込んだ俺は、彼女の笑顔に感じたほんの僅かな違和感のわけを一人で考え込んでいた。

 それまでは普通に笑っていたのに、なぜ今回は作り笑顔なのか。

 そしてなぜその作り笑顔がこんなにもぎこちなかったのか。

 もしかしたら、何かしらの事情があったのかもしれない。

 俺はそんなことをずっと考え込んでいた。

 今日会ったばかりの彼女の事情など、ちっとも知るはずもないのに――。


※ ※ ※


 あれから俺は、適当に『そろそろ暗くなるし帰ろうぜ』と言葉を絞り出し、二人して屋上を後にした。あのまま考え込んでいたら、変に思われるだろうと思ったからだ。

 辺りは少しずつ茜色に包まれ始めていた。

 俺は玄関口で、教室にスマホを取りに行った天宮を待っていた。

 玄関先から見えるグラウンドでは生徒たちが、今も一生懸命に部活動に取り組んでいる。俺は何となく、またその様子を眺めていた。


「待っててくれたの?」


 鞄を持った天宮が玄関から出てきた。


「何となくな」

「案外紳士的なところあるんだね」

「さっきは紳士じゃないみたいな発言したくせに?」

「ごめんごめん、さっきのは取り消すよ」


 さっきの作り笑顔とは一転して、今は元の天宮に戻っていた。


「時間あるときに、また連絡するから。その時はよろしくね」

「分かった」

「一位を死守したいからって、無視とかはなしだからね?」

「あー、はいはい」


 誰かさんとは違って、俺にはプライドがあるのでそこまでするつもりはない。


「それじゃ、またね、健樹君」

「あぁ、またな、天宮」


 彼女は再び笑みを浮かべて手を振ると、夕日に照らされた道を歩いて行った。


「まさか、天宮香苗とこんな話になるとは……」


 俺は天宮の姿が見えなくなるまで待ってから、帰路に就いた。

 学校に行き、授業を受け、それ以外は勉強か本を読むことをしてこなかった高校での日常は、どうやら変わりそうである。

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