ルビーレッド・ワン・デイ

半井幸矢

ルビーレッド・ワン・デイ


「そうだ。シルバーカップの受信機入ったよ」

「おー、やっときた。やったぁありがとうございまァす」

「いつ空いてる? 届けるよ」

「じゃ今週末、土曜の夕方か日曜にでも。支払いどうしよ、現金でいいすか」

秋保あきやすに持ってってもらうから渡しといて」

「え、秋保さん休日出勤になんない? じゃあこんな急に頼むのわりィな……来週……水曜の夜に取りに行きますわ。金もそんときに」

「了解~。……それでさ、あっくん。そろそろアレだ」


 会食の最中、武菱政孝は、座布団から下りて手をつき、深く、頭を下げた。


「鈴音を、どうか、よろしくお願いします」


 突然の土下座に篤久はぎょっとした。

「ちょ、なに、やってんの、小父さん」

「きみにしか頼めない。きみに任せたい」

「や、だからさ、困るよ頭上げてよほんと何やってんの」

 それまでその件はまるで世間話でもするかのような言い方をしていたのに――ここまでするということは、末娘に対する罪悪感と、妻や上の娘たちの援護射撃の勢いに負けて、というだけではないのか。


 ひとつ、大きな溜め息をついて。


「何かあんの?」

 篤久もその場で姿勢を正した。ぴしっと背筋の伸びたその姿勢は、口調とはちぐはぐだ。

 頭を上げぬまま、武菱は続けた。

「あの子は、〝愛人の子〟だ。確かに武菱家に受け入れられて馴染んでいる、真澄ますみさんやみおたちにも可愛がられてる。でも、事実は変えられない。養子という扱いになっている実の娘だというのを知っている人も実は少なくはない。ちょっと調べればすぐわかる」

「……まぁねェ」

「それを理由に、嫁いだ先で蔑ろにされてしまうかもしれない。もしそうなった場合、表向きは取りつくろうだろう、けど、あの子は強いからこそ、きっと一人で戦おうとしてしまう。そんな環境に置きたくない」

「そんなの、『もしもの話』だろ。鈴音ちゃんはいい子だし頭もいい。しかも可愛い。気に入られる要素の方が多いでしょーよ」

「それでも任せるなら信頼できる人がいい。子に愛情のある親ならそう思うもんさ。実の親子じゃなくても、謠子ちゃんを育ててるならわかるだろう?」

 ようやく頭を上げた武菱に、篤久は目を細めた。

「信頼できる? 俺が? それ本気で言ってんの?」

「見てきたからわかるよ。きみなら、鈴音に良くしてくれる」

「は、買いかぶりすっげェ!」

 苦笑しながら料理の方へ向き直り、陶板とうばんの上で焼けて少し時間が経ち冷めていた肉を一切れ、はしで摘まむ。

「はいはいわかったわかった、そんなに言うなら検討しときますよ」

「そこは『ありがたく頂戴ちょうだいします』って言うとこじゃないの?」

 呆れた顔で座布団の上に座り直す武菱。しかし篤久は構わず食事を続ける。

「生憎ね、子育て終わってねえんですわ。だから返答致しかねま~す」

「謠子ちゃんもそんなに手がかからない歳になったんだから、もういいんじゃない?」

「親だったらわかるっしょ、まだ手ェかかるんですよあいつは。自分じゃ大人と同じだと思ってるけど結構感情的でしょーもねえワガママばっかり言いやがンだから。成人するまで三……や、成人年齢引き下げられるんだっけなそういや……え、あれ? 二年?」

「再来年だね」

「うっそ、再来年!? はえぇな! ……そっか、再来年……」

 難しそうな顔でもう一切れ肉を口に運ぶと、小さなグラスのオレンジジュースで流し込んだ。 


     ◇     ◇     ◇



 その日浄円寺邸は謠子が不在だった。キャプターの方の仕事の関係で、朝から楽園エリュシオンに行っているのである。

 とはいえ、そんな状況は特別なことではない。キャプター内における謠子は自他共に認める異分子だが、職務に関しては基本的に真面目にこなしているので、定例会議以外で呼び出されることもたびたびあるのだ。


 こういうとき、浄円寺データバンクの業務は当然篤久と鈴音とアルバイトで雇っている何人かの調査員で回すことになるのだが、いくら篤久にベタベタに惚れている鈴音でも、就業時は大体ちゃんと切り替えて仕事モードになっている。


「失礼します」

 篤久の私室は仕事部屋も兼ねている。ベッドはあるがまるでホテルのそれのようにぴしっと整えられており、それ以外は机の横のゴミ箱ぐらいしか生活感を感じるものがない――それでも、中のゴミもほとんど仕事関係で出た紙クズだが。


 その机に、篤久は突っ伏していた。寝ているのか。


 指先で肩をとんとん、叩く。

「あの。円英製薬の杉坂常務から、送付したデータの確認ができたから入金したって連絡が」

「うィイ~」

 篤久はのっそりと身を起こし、机の上に置いてあった機械式の腕時計を摘まみ上げて見る。時刻は十四時四十八分。

「……あの人いっつも銀行の営業時間ギリギリで振り込むよな」

「忙しい中でその日のうちに入金してくれようとしてるんですよ、ありがたいじゃないですか。……お茶、入れてきましょうか?」

「丁度いい時間だしこのままおやつにしちゃお。今日は何にしよっかね~」

「あ、今日いいもの持ってきたんです。昨日さーちゃんが帰省したんですけど、今朝『持っていきな』って栗羊羹くりようかんを一さおくれて」

咲希さきちゃんが栗羊羹⁉ 白鷺庵しらさぎあんのだな! やった今日は運がいい!」

 勢いよく立ち上がったので椅子が数十センチ後方へ移動した。さっきまで眠そうにだらだらしていたのがこの変わりよう。彼は和菓子を特に好む。鈴音は笑った。

「せっかくだし、お茶もちょっといいの入れちゃいましょうか」

「実はとっておきがある。グラム三万円」

「さんっ……!? どうしたんですかそんな高いの!」

 すると篤久は目を伏せ嘆息した。

「徹夜明けの勢いでついポチっと……」

「あ、あぁ……ありましたね、やたら忙しいとき……」

 ときどきはそんなこともある。

「でも品評会で賞取ったやつなんだって。一回くらい飲んでみたくね? 誕生日に開けようと思ってとっといたんだけど、飲み損ねちゃってさ。開けちゃお開けちゃお~」

「……謠子ちゃんいないのに、いいんですか?」

 いつもいいものは可愛がっている謠子と楽しみたがるのに、珍しい。しかし、

「たまにはね」

 椅子を戻して部屋を出ようとした篤久の顔は、何だか少し楽しそうだった。


 切り分けた高級栗羊羹と高級煎茶を前に、ダイニングテーブルで向き合って座る。


 二人だけのときは流石に賑々にぎにぎしく楽しくお喋りというふうにはならないが、案外会話は尽きない。


「うっま! やっばこれマジうま」

「……わ……このお茶、すご……これが三万円の味……!」

「な、すっげえな三万円の味。水もいいの使えばもっと美味いんだろうな~、浄水器グレード上げよっかな」

「クレオのウォーターサーバーいいですよ。うちにあるんですけど、意外と場所とらないし、お水もおいしいし」

「ウォーターサーバーかぁ……お湯沸かさなくてもすぐ使えるのいいよな、今度三鍵さんにカタログもらお」

「三鍵さん大阪に異動になっちゃったじゃないですか」

「あ、そうだった……じゃあ次から違う人来るのか。おいしいお菓子くれる人がいいな~」

「何子どもみたいなこと言って」

「いや、三鍵さん手土産センスすっげえいいじゃん、実はこっそり参考にさせてもらっててさ。うぅ、どうしよ師匠がいなくなっちゃったよォ……」

「訊けば教えてくれると思いますよ、『オススメのお菓子教えて下さい』ってメール送ったらどうですか」

「俺三鍵さんの個人アドレス知らなーい……名刺のやつって社用だよね」

「しょうがないなぁ。うちの専務からメールきても怪しまないで下さいって言っときますね」

「やったぁありがと~神かよ俺の秘書~! ……あ、そうだ」

 鈴音から送られてきたメールアドレスを連絡先に登録していたかと思うと、篤久はスマートフォンを皿の横に置き、残っていた羊羹の一切れを一口、二口で食べきって湯呑み茶碗を両手で持った。

「今日、夜、飯食いに行かね?」

「謠子ちゃん泊まりになったんですか?」

「泊まりになったのよ~」


 謠子がエリュシオンに泊まりになることも、ままある。そしてそんなときは、篤久は鈴音を食事に誘う。自分一人だけだと、作るのも、買いに行くのも、外に食べに出るのも面倒になってしまうのだそうだ。


 夜に二人で食事――とはいえ、勤続六年ともなると、鈴音ももう慣れていた。最初の頃こそデートのようだとどきどきしていたが、鈴音の想いを知り、度重たびかさなるアプローチを受けて尚、彼は変わらぬ態度を取り続け、食事が終わればそのまま家まで送ってくれる。そこに他意などない。


「何食いたい? 何でもいいよ金ならあるからな」

「何でも? よしたにのしゃぶしゃぶとか言っちゃいますよ?」

「いいよじゃあ予約」

 スマートフォンを取ろうとしたのを、

「ちょ、まっ!」

 手を伸ばして止める。流石に客単価が万単位の値段の店でおごってもらうのは、本人がいいと言っていても気が引ける。

「冗談ですから! その辺のファミレスでいいです!」

「え~つまんねえ~。勝手に店選んじゃっていい?」

「お任せします」

「はーい。……じゃ、ディナーを楽しみにもうひと働きしますかねェ! 俺まだちょっとやることあるけど、鈴音ちゃん今日ひまだろ、ゆっくりしてな」

 立ち上がって皿と湯呑みをシンクに持って行く姿勢のいい背に声を掛ける。

「あ、置いといて下さい、洗っておきますから」

「ありがと、お願いしま~す」

 何やら機嫌がよさそうに見える。好物を食べたからだろうか。確かに持参した羊羹は、彼のお気に入りだからと姉が持たせてくれたものではあるが、それにしても――


(何だろ、妙に明るいというか……)


 普段から明るくはある、しかしそれとはまた違うような。


 違和感はあるが、心当たりが見つからない。


「どうしたんだろ……」

 気になりつつも、鈴音は上司のお言葉に甘えてそのままおやつタイムを堪能した。



 終業時間は一応十八時半ということになっている。しかし「やること」を済ませたらしい篤久は、十七時過ぎに鈴音が仕事・宿泊用にあてがわれている八畳の和室に入ってきた。

「しっつれ~い。ちょっと早いけど飯行こっか」

 その姿に鈴音は目を丸くした。

「え、な、ど、どうしたんですかそんなカッコして」


 わんさかあるという父・清海の形見の着物コレクションの中から選んだであろう結城ゆうきつむぎあわせに揃いの羽織、深い赤色の樹脂フレームの、度の入っていない眼鏡。髪も簡単にではあるが整えられている――基本的に謠子を支える裏方に徹している彼がどうしても表に出る必要があるときにとる、「謠子お嬢様の執事(自称)の平田」ではなく「浄円寺データバンクの代表・謠子の伯父にして後見人・浄円寺篤久」としての姿である。


 しかし人前でないからか、態度はいつも通りだ。

「どっか変? 帯迷ったんだけど」

「へ、変じゃない、ですけど、……何で、その」

「ちょっといいとこ行こうと思って。浄円寺で予約入れちゃったし」

「いいとこ!? 私こんな、いつも通りのっ、……一旦帰らせて下さい着替えたい!」

「だいじょーぶだよォ、鈴音ちゃんいつもちゃんときれいな格好してんじゃん。ほら行くよ、準備して」

「う、うぅ……もぉ~」

 きれいな格好といっても、それは浄円寺データバンクの受付兼専務の秘書として相応な服装をしているだけなのだが――納得はしていない、しかしこのままで行かざるを得ないようだ。鈴音は諦めてバッグにスマートフォンと仕事用の手帳を放り込んで立ち上がった。

「まさか、よし谷じゃないですよね?」

「もっと気軽なとーこ」


 その言葉に安堵あんどした武菱鈴音であったが、後に「もっと気軽」どころではないと知ることになる。



     ◇     ◇     ◇



 店に到着し、個室に通された鈴音は、立ち尽くした。


 間接照明のひかえめな明かりしかともっていない薄暗い部屋。

 目の前の大きな窓、その向こうに広がる夜景。

 それが見やすいように配置されたテーブルは、花とキャンドルでさりげなく飾られている。


 案内した店員が下がったところで、鈴音は絶叫した。

「何ですかこのクソロマンチックディナーは!?」

 それでも篤久はいつも通りである。

「まぁまぁ、とりあえず座んなよお嬢さん」

「もうお嬢さんって歳じゃないですよ幾つになったと思ってるんですか」

「二十九だねまだまだ若いって、俺もう四十過ぎてんだぞ。……今日は、特別です」

 言われてはっとする。


 「平田改め浄円寺篤久の装い」、「浄円寺で予約を入れた」、「個室」――それがわかった時点で気付くべきであった。


 新たな法が施行しこうされた春に、篤久の姪である謠子は成人した。それはつまり、篤久が務めていた謠子の未成年後見人としての役目が終了したということだ。


 篤久が謠子の未成年後見人ではなくなった。

 鈴音が「終わるまで待った」その結末が、すぐそこに訪れようとしている。


「じゃ、ジャッジメント……ですか……」

 見上げて恐る恐る尋ねると、

「そーんな、深刻な顔しなさんな」

 否定するでもなく、へらっと笑って、鈴音の両肩を掴んでくるりと方向転換させる。

「とりあえず、まずは飯だ」

「何でそんな大事な話するときにこんなとこ連れて来るんですかぁ⁉」

「いいから座んなほれ」

 椅子を引いてくれたので、素直に座る。輝く夜景がとてもきれいだ。目的と場所が釣り合っていない。くらくらする。

「……ほんと、なんで、こんなとこ……」

「こういうとこも一回ぐらい来ておきたいっしょ、鈴音ちゃん他の男と付き合おうとしねえんだから俺が連れてくるしかねえじゃん」

「余計なお世話ですよ、大体その気もないくせに」

「うっわすっげたけえなここ、何メートルあるんだろ」

「話聞いてます?」

 篤久が着席したところに、食前酒が運ばれてきた。テーブルに置いてあった装飾品のような繊細なグラスに注がれた淡い金色の中に、星の粒のような泡が弾ける。それをおとなしく見ていたと思われた鈴音だったが、店員が退室した途端にまた篤久に食ってかかった。

「お酒じゃないですか!」

「そうだよはいかんぱ~い☆ いえーい☆」

「乾杯じゃないんですよ車で来てるでしょう!?」

「代行頼めばいいし」

「お酒飲めないんじゃないんですか!?」

「一杯くらいならイケるよシャンパンなんて泡盛に比べりゃ水だろ……ぅうぇっ」

 一口飲んで顰められた顔を見て、鈴音は呆れた溜め息を漏らす。

「……ノンアルコールの飲み物もらいましょう」

「酒の力を頼れねえのいてえな。この体質が憎い」

 持ったグラスを不満そうに見つめる顔は、とてもこれから真面目な話をするような表情ではない。鈴音が緊張しないようにしているのか。そんなに気を遣わなくてもいいのに――その優しさを少し嬉しく、それでいて少し憎らしく思いながらもシャンパンを一気にあおると、篤久は苦笑いした。

「そ~んな、自棄やけざけみたいな」

「どうせフラれますもん、わかってるんですよ。お酒もっと飲んでいいですか」

「飲みたきゃ飲みな止めねえよ、ここは俺の奢りだからな。……何で、フラれると思った?」

「だってずーっと私のこと『後追っ掛けてくるちっちゃい鈴音ちゃん』だと思ってるでしょ、

「ンぶっフ」

 盛大に吹き出して、また苦笑に戻る。

「なっつかし、その呼び方。いつから使わなくなった?」

「中学入った頃に澪ちゃんに『好きな男にそれはない』って禁じられて」

「そっか、その頃か」

 懐かしむように笑った顔が、ゆっくり、沈んでいく。何か思い出したらしい。

「どうかしましたか」

 眼鏡をはずし、テーブルの隅に置く。

「……や、ごめん、俺その頃彩菜あやなと弁護士はさんで揉めてたなって記憶がよみがえって」

 それでも、口元は少し笑っている。まるで自嘲するような。

「どんな人、だったんですか?」

「え、今それ訊く?」

「こういうの最後なんでしょ、いいじゃないですか。師範代は美人って言ってましたけど」

 嫌がるか誤魔化される気がしていた鈴音だったが、意外にも篤久は、

「顔はめっちゃ好みでした」

 あっさり喋った。

「中身は?」

「一般的な目で見れば、結構キツい子だったんだろうな。でも慣れれば扱いやすかった。鈴音ちゃんより熱烈で、ワガママで、素直で、…………」

 かと思えば、そこまで言って、黙ってしまった。そのタイミングで前菜が運ばれてくる。

 店員が下がってからも、すぐには手を付けず、白く大きな皿に少しだけ盛られている海鮮らしきものがゼリー寄せになっている料理と花のようにあざやかな野菜をじ、と見つめているので、鈴音は手を合わせてからカトラリーを手に取り、言った。

「ごめんなさい。無理に話さなくていいです」

「あぁ、違う違うこっちこそごめん、その……いや、んー。話しておいた方が、いいんだよな、やっぱり」

「何がですか?」

 同じように、手を合わせていただきますと呟いてからナイフとフォークを持って――手を止めたまま、部屋の外のスタッフに漏れないように小さな声で、篤久は言った。


槍崎うつぎざき、彩菜っていったんだけどね、元カノ。俺、殺しかけたんだ。ギフトで」


 鈴音は返す言葉が見つからず、無意識に食器を置いた。気付いた篤久がおろおろする。

「あっあっごめん、飯の始めにする話じゃなかったな! 食べよ! こんなの聞いてから食うんじゃ不味まずくなっちゃう」

「……あ、の、」

「話させて、全部」


 ざくり。

 篤久の持つフォークが、野菜を突き刺す。


「ちゃんと向き合うって決めたから。こんな歳になるまで、ずっとできなかったけどさ」


 その言葉でさとる。


 彼も、何年もの間、ただ受け流すだけではなくて、ずっと考えていてくれた。


 「結婚はできない」という返答は当初から変わらないだろうが、それでも、鈴音が納得できるように話してくれる。きっと店の予約を入れたのも今日ではなくてずっと前からで、準備を整えて、話す覚悟を決めて、今日という日にのぞんだのだ。


 結果は見えているしそれは少し悲しくもあるが、鈴音はその彼の気持ちを嬉しく感じた。



 食事はいつものように他愛のない雑談を交えながらとどこおりなく進み、あとはデザートを残すのみとなった。

 どう話していこうか考えているのか、テーブルに頬杖をついてぼんやりと夜景を眺めている篤久を見ながら、鈴音は何杯目かのワインをまた一口含む。

「話すなら早くして下さい、大体こういうお店の席の確保時間って二時間くらいですよ」

「うっそ!? そうなの!?」

「知らなかったんですか? 意外」

「だって一日限定一組ってあったから……う、んん、そっか、……うん、ちょっと待ってて」

 立ち上がり、部屋の出入り口まで行くと、ドアを少しだけ開けて店員と一言、二言話し、戻ってきた。軽く嘆息しながら椅子に座り直す。

「人払いをしてきました。流石に〝放浪者ワンダラー〟が殺人未遂とか通報案件聞かれるわけにはいかん、俺は施設外で生きねばならない男……」

 先程もちらりと聞いたとはいえ、あまりにもさらっと物騒極まりないことを言うので、鈴音は危うくグラスを取り落としかけた。

「あの、篤久さん、そのっ、」

「嘘じゃないよ。俺、彩菜のこと焼き殺そうとしたの」

 酒の代わりにと頼んだ炭酸水が半分ほど残っていたグラスを空け、篤久は冷静に言い放った。

「他人の能力ギフトをコピーする力持っててさ。俺の能力をコピーして、操った火で謠子のこと殺そうとした。だから咄嗟とっさね返れって念じて、火だるまになって、そのまま……謠子に止められて、何とか殺さずに済んだけど」


 視線の先のキャンドルの火が揺れて、少し――ほんの一、二センチ程度だけ、浮いた。


「どうしても、ゆるせなかった。よりによって、俺の能力ちからで、謠子を、なんて。もう完全に頭に血ィ昇っちゃって、二度と目の前に現れないように、骨も残らないくらいに全部燃えちまえって考えた。止める気全然ねえもんだから、ガンガン燃えてさ。……今も施設でずっと治療受けてるんだけど、生きてるのが不思議なくらいなんだって」


 淡々と、語る。

 同情を誘おうとする気も、変に突き放そうとする気も全くないのがわかる。


 この話を聞いたら何を考え、どう判断するのかを、鈴音にゆだねようとしているのか。


「一応付き合ってて結婚までしようとしてた相手に、そんなシャレにならねえ殺意を向けた。今でも思い出す度に、次は絶対殺さなきゃ、って、でも謠子が人殺しにならないでって言うから殺せねえなって…………謠子に知られたら縁切られちゃうな、こんなの」


 浮いていた火が、ゆっくりとキャンドルの芯に戻る。自在に操る力とはいえ、こんなに細かな操作までできるというのは、それだけ修練しゅうれんを積んだ賜物たまものだろう。


 一生付き合っていかなければならない能力。

 思い出せないが大好きだったはずの養父ちちに使い方を教わった能力。


 鈴音は、以前「バレなきゃいい」と言ってしまったことを、少し後悔した。

 それは正論ではあるが、そんなに軽々しく断じていいものではない。


「……あの、今の話って、世利子さんは」

 彼の背負うもの、彼女なら知っているのだろうか。訊いてみると、

「は? 何でヨリちゃん?」

「だって」

 篤久は怪訝けげんな顔をした。そしてすぐに、あぁ、と得心とくしんする。

「いくら付き合い長いったって、そう何でもかんでもは話さねえよ。その頃もうヨリちゃん子持ちの人妻だぞ? 家事育児でお互い頼るこたァあるけどこんな重量級の秘密言えるわけねえじゃん、ののしられて関節という関節められるわ。……このこと知ってるのは、その場にいた謠子と、処理してくれた浄円寺の両親と、今聞いた鈴音ちゃんだけ。秀平も知らねえ話だ」

「…………何で、私にそんな話を?」


 古くから親しい知己ひとにも話すことはなかった秘密。

 それをこれから振る相手になんて。


 顔に出ていたか、今度は、にや、と笑われた。

「鈴音ちゃん、前に俺のこと一生好きって言ってたじゃん。こんなの聞かされても、まだそう思える?」

「嫌われたいんですか?」

「そうじゃないよ」

「貴方という人間のヤバさはある程度知ってるつもりだったし今聞いたのもちょっとびっくりはしたけどあぁやっぱりヤバい人だったんだなでもちょっと想像以上だったなって思ったくらいです」

「鈴音ちゃん結構言うってか、酔ってんね? だいぶ飲んだもんな」

「素面じゃないけどちゃんとわかってます私は冷静です」

「そーかなぁ……お水飲みなほらシュワシュワしてるけど」

 びんからぎ足した炭酸水を差し出されたので受け取って飲み干す。口内から喉を通っていく炭酸の刺激が、心を落ち着かせていく。

 

 ふと、対面の存在を見る。


 目が合うと、 


「ふふ」


 笑われた。

 やっぱり、三十路近いこの歳になっても、彼にとって自分は本当に子どものままで映るのだろう――そう思うと、鈴音は悔しくなった。


「篤久さん」

「あいよ」

「ずっと好きでいていいですか」

「……うん、まぁ、それは、うん」

「じゃあ子ども一人産ませて下さい」

「はァ?」

「結婚も認知もしなくていいですから」

「あのねェ」

 深々と、溜め息をつく。

「それじゃ鈴音ちゃんと武菱の家の二の舞でしょーよ」

「それでも私は、ちゃんとここまで生きてこられました。大丈夫です。お金も貯めてますし」

「俺はそんな不義理はしません。……はぁ……いざとなるとなっかなか上手くいかねえもんだなァ」

 また嘆息し、苦々しく呟きながら額に手を当てて俯いてしまう。何か彼の思惑おもわくとは違うことになっているらしい。余計なことを言ってしまったか、鈴音も下を向く。

「ごめんなさい」

「別に謝ることじゃねえよ、鈴音ちゃんがそんだけ本気なのも意外と突っ走りがちなのも知ってる、特に今かなり酒入ってるし。…………そうだな、ごちゃごちゃ言ってねえで単刀直入にいくか」


 改めて、背筋を伸ばす。元々姿勢がいい篤久が和装できちっと座ると、空気が締まる。鈴音もつられて姿勢を正した。


 互いに、真っ直ぐ。


「鈴音ちゃん」

「はい」

「手ェ出して」

「え?」

「はよ」

「え?」


 わけもわからず出した掌に、篤久が懐から出した小さな箱を乗せる。



 それは、明らかに、宝飾品が入っているたぐいの――



「え…………?」



 ゆっくり、ふたを開ける。


 真紅の石が一粒まっている金色の小さなが、控えめな照明の薄暗い部屋の中でそこだけが光るようにきらきらと輝く。


「きれい」


 思わず口にした瞬間、頬に一筋、熱が伝った。

 はっとして顔を上げると更にハンカチを差し出され、泣いていると自覚した瞬間一気に涙があふれ出る。



「なん、で?」



 諦めるつもりはない、諦めたくない。


 言っていた、自身に言い聞かせていたが、心のどこかに「きっと無理だろう」という気持ちがあった。


 それでも、想いを捨てろ忘れろと否定されず、ずっと好きでいていいと、尊重してくれた。結ばれることはなくとも、すぐそばにいることは許されているのだと。


 それでいいと思っていた。


「七年。じっくり見させてもらって考えるには、充分すぎる時間っしょ」

 鈴音がハンカチを受け取るのを確認すると、篤久は笑った。

「実際タケビシとの繋がりが強くなるってのは浄円寺データバンクとしてはでかい。娘婿むすめむこになっちまえばワガママ通しやすくなるしな。鈴音ちゃんもうちで一緒に暮らせば通勤の手間もなくなるし、家事分担してもらえれば俺もすげえ助かる。…………ってのは、建前たてまえとして」

 鈴音に飲ませた炭酸水の入っていたグラスを引き寄せ、瓶に残っていた分を全部注いで、半分程度飲む。


 それから、ひとつ、深呼吸して。


「多分、俺、鈴音ちゃんが俺に向けてくれる感情と同じようなのは向けられないと思う。けど、一緒にいてもらえるの、いいな、とか、そういうのも、思っちゃいまして。もうこれから先、俺じーさんになってくばっかりだけどさ。それでもいいかな」


 きっと、たったそれだけでも、過去にありすぎるくらいにいろいろあったこのひとにとっては、だいぶん覚悟のいることだっただろう。


「あたぃまえやないれすかぁ」


 飲んだ分の水分全てが出てきてしまっているのではないかと思える程に涙が流れる。


 これまでの七年間という時間は彼にとってどうしても必要なもので、その中で躊躇ためらい続けていた手をようやく伸ばしてくれた。


 自分の気持ちがどれだけ届いているのかはわからない、が、たまらなく嬉しいと鈴音は感じた。



     ◇     ◇     ◇



 それから程なくして、浄円寺篤久と武菱鈴音は入籍し、鈴音は浄円寺邸で共に暮らし始めた。


 が、


「しっつれ~い。つ~か~れ~た~おやつまだ~? 糖分ほしいよォ」

「まだですよ仕事して下さい専務」

「もう今日分終わらせちゃったもん。あ、これ買い物行くとき郵便局寄って出すから準備おねがーい」

「はぁい…………あっ、封筒あと一枚しかない買わなきゃ」


 割と相変わらずである。双方、就業中は比較的真面目に仕事をするタイプだ。


 座卓で書類を確認し郵送の準備をしている秘書の傍にごろんと横になった暇な専務は、すぐ手が届く場所にあった分厚い雑誌を引き寄せ、ぱらぱらめくった。

「見てきた式場、ページ折ってあるとこだっけ。どこがよかった?」

「最後に見たところがいいかなって。ほとんど身内だけだし、披露宴というよりお食事会みたいな感じでささっと済ませちゃいましょう」

「いいの? ほんとは友達呼びたいんじゃない?」

「るりちゃんとか呼んじゃっていいんですか?」

「やだ絶対気まずい」

「でしょう? それに、私の旦那様は秘密が多い人ですから」

 ベタ惚れなはずなのに意外と容赦のない新妻の発言に、篤久は、

「ぅぐ」

 詰まった。

「……ごめんね……俺が秘密のかたまりなばかりに……」

「その代わり衣装は私に選ばせて下さいね」

「歳相応な感じでお願いします……あまり派手なのはちょっと……」

 そこへ謠子もやってくる。

「失礼。鈴音さんちょっとこれ準備お願いしたいんだけど…………仕事しなよ平田くん」

「もう今日のは終わったのー。おやつ食ったら買い物行くけどどーする?」

「行く。ちょっと外の空気吸いたいし付箋ふせん買いたい。……あ、」

 篤久が寝転がって見ている雑誌を覗き込む。

「今度のお休み、衣装見に行くんだよね? 私も行っていい?」

「別にいいけどお前何着るよ、一緒に何か借りる?」

「お婆様の黒い留袖とめそでは?」

「それはお母さんおばあちゃんが着るやつだろ。何、着物がいいの? 成人式の振袖ふりそで……あー、でもあれ可愛いけど白っぽいからなぁ。喜久ちゃんの振袖の方がいいかな」

「お母様の振袖?」

「喜久ちゃんが成人式で着たやつ。どーれ、ちょっと見てみるかね」

 起き上がって部屋を出て行くのを見送り、謠子と鈴音は顔を見合わせた。

「どう? 伯父様といい感じにいってる?」

 謠子の問いに、苦笑いで返す。

「んー……あんまり実感湧かないなぁ。まだ一ヶ月も経ってないし、部屋も別々だし」

「部屋一緒にする? リフォームしてもいいよしようか?」

「や、あのっ、いいよっ」

 鈴音は焦って手と首を同時に横に振った。この謠子という娘、すぐに金銭で解決しようとするので油断ならない。

「あ、篤久さん仕事部屋も兼ねてるし、仕事は一人の方が落ち着くだろうからっ……私もこのくらいの距離の方が、意外といいかなって」

「そう? 二人になりたかったら言ってね、施設に泊まるなりするから。お母様の振袖見てくるね」

 立ち上がった謠子に、鈴音は声を掛ける。

「ねぇ、あの、もしかして……あの日も気を遣って泊まりにした?」

 振り返った謠子は笑う。

「あの日? さぁ、どうだったかな」

「篤久さんが、私と結婚してくれようとしてるの、いつから知ってたの?」

「ずっと知らなかったよ。彼、表に出さないようにするの上手いからね」

 蝶が飛び去るように、謠子は鈴音の部屋から出てふすまを閉めた。鈴音は口をとがらせる。あれは絶対にかなり前から知ってた顔だ。

「そっくりだなぁ、実の親子じゃないのに」

 座卓に向き直り、書類を送る準備を再開する。


 本当に、いつからそう決断していたのだろう?

 鈴音には未だにわからないし、篤久も「秘密」と言って教えてくれない。


 彼が言っていた通り、七年も時間があれば考える時間はたっぷりあったのかもしれない。

 謠子が言う通り、彼は表面に出さないように取りつくろうのが上手いのかもしれない。


 それにしたって、決めたのだったら早く教えてくれたってよかったのに。


 溜め息をつきながら、郵送する書類入りの封筒を二つ、卓上でトントンと整えると、ノックの後に襖が開いた。

「再び失礼~。鈴音ちゃん、いーい?」

「あ、はい」

 封筒を置いて立ち上がり振り返った、その瞬間。


「捕獲~」


 抱き締められた。


 鈴音は硬直する。

 全身が、熱くなる。


「あ、わ、え、えとっ」

「ごめんねちょっとだけこうさせて」

「……はぃ」


 たった十秒前後のこと。

 それでも、その間は、完全に時が止まってしまっていたような気がした。


「ふふ、うん、悪くないなこういうの」


 離れた篤久は笑う。その表情は、とても穏やかだ。


 彼にそう思わせることができている。

 そういう顔をさせることができている。


「よかった」


 今度は鈴音の方から抱き付いた。が、これまでのように、やんわり拒否はされない。

 数秒だけぎゅう、と力を入れて、すぐに離れる。以前は離れたくないと思っていた、いや、今でもそう思うには思うのだが、もう手がすぐ届く場所にいる。捕まえていなくても大丈夫なのだ。


 と。


「鈴音ちゃん」


 肩を掴まれて引き寄せられた、その耳元で、


「――」


 囁かれた言葉に、鈴音は再度固まってしまった。耳から頬、胸から指先に熱が広がっていく。


「ひぇ、は!?」

「来て。謠子の振袖ちょっと見てやってくれる? はい、行こー!」

 くるりと方向転換させられ、後ろから押されながら部屋を出る。

「あ、あの、篤久っ、さんっ」

「なーに」


 呼んだはいいが、思考がまとまらない、言葉が出てこない。

 きっと、いや絶対に、彼はそうなっていることを完全にわかっている。


 何か言い返してやりたい、しかしようやく口から出たのは、


「………………今日、お夕飯、何にしますかっ」


 そんなどうしようもないことだった。絶対笑っているに決まっている。


「鶏の唐揚げにしよっか。他の俺作るから任せていい? 鈴音ちゃんが作ったやつ食べたい」

「……はい」


 肩に乗せられた手にそっと触れると、自分の指に嵌められた金の環がちらりと視界に入る。その真ん中の鮮やかな赤色に、心が溶かされてしまいそうな感覚をおぼえる。


「篤久さん」

「あいよ」

「大好きです」


 少し、間があって、後ろのやや上から聞こえてきた返事は、


「知ってる」


 あたたかな声色だった。




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ルビーレッド・ワン・デイ 半井幸矢 @nakyukya

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