第5話
「ずっと考えておりましたの。五年も我慢してくれてありがとうございました」
皮肉を込めたつもりなのに、彼は突然立ち上がって隣にくるなり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ありがとうはこっちの台詞だ。なんだ、もっと早く話していればよかった!」
「そ、そんなにきつくされたら、ドレスが皺になりますわ」
こんなにしっかりと抱きしめられたのは初めてだ。嬉しい反面、そこまで夫婦関係を解消したかったのかと思ったら泣きたくなった。
「悪かった。信じられなくて」
眩しいほどの笑顔。それももう見られなくなる。
(今度はそれを誰に向けるのかしら)
涙が零れそうになって、ぷいと顔を背けた。
「少し疲れました。家に着くまで休ませてください」
「わかった」
ヴィルジールは素直に腕の力を抜いたが、手だけはぎゅっと握ったままだった。
「ただいま。今夜は休んでもらってかまわない。ミネットと二人で過ごしたいので」
出迎えてくれた家令に声をかけたヴィルジールは、私の手を握ったまま、まっすぐに彼の私室へ向かう。
これからの身の振り方でも相談しようというのかしら。
今夜はやけに静寂が耳に痛い。ぬくもりを感じて高鳴っている鼓動が彼に聞こえてしまわないか不安だ。
「この時をどんなに待ち望んでいたか」
ぱたんと扉を閉めるや否や、ヴィルジールは私を抱きしめて唇を重ねてきた。
「ん? ふぇ?」
混乱する頭で、慌ててヴィルジールを押し返す。
「ど、どういうことですか?」
「君も俺と同じ気持ちだと言ってくれたじゃないか」
「それは……仮面夫婦を終わりにするっていう……」
「ああ。五年経って……いやもっと前から、かな。どんどん綺麗になっていくミネットに惹かれていた。聡明な君に成り上がりの俺はふさわしくないだろうが、いつか君の気持ちが変わったら、俺でもいいと言ってくれたら、ちゃんと本当の夫婦になろうというつもりだった」
彼は眉根を下げ、自信なさげな笑みを浮かべる。
「だが、他の男に迫られているのを見て、待っているうちにミネットの心が他の奴に向いたら……と思ったら急に不安になって……」
「な、何を言っているんですか? 成り上がりだなんて、私は思いません。あなたは自分の力で人生を切り拓いてきた立派な人です。私の方こそ、ティアム侯爵夫人に比べたら子供で……」
「なぜ夫人と比べる必要がある?」
「だって……あの日、美容液をもらってきた日、夫婦をやめたいって言っているのを偶然見かけてしまって……。夫人に心移りしたのかと……」
「ティアム侯爵夫妻は社交界でも有名なおしどり夫婦で、その、どうしたら距離を縮められるのか相談していたんだ。それで、あの美容液をきっかけに、と」
ヴィルジールの涼しい目元がかすかに赤く染まる。
「そ、それだけ……?」
「それだけ」
しーんとした静寂。
心臓がうるさい、鎮まって!
私はヴィルジールの吸い込まれそうな青い瞳をおずおずと見上げた。
信じられない。徐々に彼の目元に透明な雫が盛り上がってくる。
「わ、私、全然あなたの役に立てないし、魅力もないけど、ヴィルジールのことが好きって気持ちは誰にも負けないから」
「君をないがしろにしてきて済まなかった。これからもよろしく……俺の世界一かわいい奥さん」
涙で滲んだ視界は熱かったが、彼のキスはもっとずっと熱かった。
「私も……拗ねたりしてごめんなさい。あなたは世界一素敵な旦那様です」
胸のつかえがようやく取れたみたいに、心が軽い。
「いや、俺も言葉が過ぎた。君をずっと大切にするから」
もう一度、優しいキス――
愛してる――
夢ではない確かな温もりに包まれて、わたしたちの心は幸せに満ち溢れていった。
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