第4話

 振り返って顔を確認するが名前が出てこない。身なりからして上流貴族だということはわかるのだが。


「コンラート・バーダです。先日カードを渡したはずですが」

 じわりと充血した瞳の中年の男は、困ったように頭をかいた。


「あ、ダンスの時の……ごめんなさい、カードをなくしてしまって」


「かまいませんよ。それより今夜もおひとりですか?」


「夫は仕事の付き合いがあるので」

 私にできることは、彼に言われた通り仲のいい夫婦を演じてみせるだけ。


「おやおや、こんな素敵な奥様をほったらかしとは理解できませんな。では、二人きりでお話でもしませんか?」


「えっ」

 ぐいっと腕を引かれたので、その場に留まろうとするが、想像以上に強い力で抵抗が無意味だった。ずるずると引きずられて薄暗い生け垣の方へ連れていかれる。


「他の既婚女性にはない初々しく甘い匂いがたまらない」

 両肩を掴まれて酒臭い息が頬にかかり、ぞわっと怖気立った。


「は……離して! いや……っ」

 コンラートから離れようとしても背中が生け垣に当たって、それ以上避けられなかった。口元を大きな手で塞がれ、ギラギラと理性をなくした目はまるで獣のようだった。


――こわい。いやだ。助けて。助けて。


涙で視界が滲んだ。その時。


「ミネット!」 

 矢のごとく飛んできたヴィルジールの声に、ハッとコンラートが後ろを振り返った。


 夫は無言でコンラートの襟首と、わたしの口元を押さえつけていた手首をぎりぎりと掴み上げる。コンラートが「いででで……!」と汚い悲鳴を上げて地面に引き倒された。


「ヴィ……ヴィルジール……っ」

 涙声で彼の名前を呼ぶと、夫はコンラートを見下ろしている。今までに見たことのない燃えるような怒りを宿した視線だった。


「私の妻に何をしている?」


「ふ……ふん。成り上がりで爵位を手に入れた卑しい者に答える義理はない。せっかくいい気分だったのに、酔いが醒めてしまった」

 コンラートは小鼻を膨らませて、立ち上がる。


「どちらが卑しいというんだ? 教会への寄付金と言いつつ、その一部をご自分の懐に入れているような人間が貴いとでも?」

 ヴィルジールがそう言うと、コンラートの肩がびくっと揺れた。


「ど、どこでそれを……」

 発言してから、コンラートは慌てて手を口に当てる。


「覚えていないのか? おまえが贔屓にしている、とある店の店員が言っていたぞ。酔うとなんでも話してしまうようだな」

 ヴィルジールの目元が冷たく細められる。


「頼む! そのことは、だ、誰にも言わないでくれっ」

 コンラートはすっかり顔色をなくしてその場に膝をつき、頭を下げた。


「二度とミネットに近づくんじゃない」

 ヴィルジールの絶対零度の視線に震えあがったコンラートは「すみませんでした~!」と叫び、一目散にホールの方へ逃げていく。


「怪我はないか?」

 ヴィルジールが体をかがめて顔を覗き込んできた。もう少しで鼻先がつきそうな距離に恥ずかしくて、こくこくと頷く。


「一人にして悪かった」

 そう言ってヴィルジールは私の手を引き、夜会を後にした。


 妻が他の男と関係を持ったことが世間に知られたら、今までの苦労が水の泡だから助けに入っただけであって、私の心配をしてくれたわけじゃないんだ。

 つんと鼻の奥が痛くなる。


 ヴィルジールの人生に自分は不要だ。彼の隣にはもっとふさわしい人がいるに違いない。仮面夫婦などいつまでも続くわけがないのだ。少なくともわたしの方はもう限界だ。気持ちが寄り添っていないのにそばにいるのはつらい。


 ヴィルジールが必要なものはアルブレヒト伯爵家の名だけなのだから。


(全部あげる。私はもう修道院にでも入って静かに暮らすわ)

 ヴィルジールの幸せだけを願って――


「あの……」

「話が……」


 動き出した馬車の中で心を決めて口を開いたものの、ヴィルジールと同じタイミングだったようで気まずくなって口をつぐむ。


「あ。あなたからどうぞ」

 やっとそう言うと、ヴィルジールにしては珍しく視線をあちこちに彷徨わせた後、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。


「今日のことでよくわかった」

 落ち着いた静かな口調だった。


 やはり彼に迷惑をかけてしまったのだ。完璧な妻失格である。


「仮面夫婦のような生活を始めてもう五年が経つが……俺としては限界というか……もうやめたいと思っているんだが、君の気持ちを教えてくれないか?」

 吸い込まれそうな青い瞳が揺れている。


 ヴィルジールはずっと我慢していたのだ。こんなちんちくりんな女を妻にして、見えない所では何かと言われて苦労してきたのかもしれない。


「ええ。私もまったく同じ気持ちですわ」

 彼に不快な思いをさせないように、五年間で培ってきた作り笑顔がここで役に立つとは思わなかった。


「本当か?」

 ヴィルジールの目が輝き、口元には笑みさえ浮かんでいる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る