第3話
「まあ。それは奥様も……なの?」
話し相手はどうやらティアム侯爵夫人のようだ。
「わかりませんが……」
「それなら……こちらへ……誰にも内緒よ」
くすっと楽しそうに笑う夫人の朗らかな顔が浮かぶような声色だ。
見つかったらどうしようと心配になったが、どうやら二人はさらに奥の方へ歩いていった。屋敷の中に入ったようだったが、あちらはさすがに私的な場所なのでこれ以上ついていくわけにはいかない。
(夫婦をやめたいって言っていたわよね。誰にも内緒って?)
冷や汗が背中を伝う。
(まさか……浮気?)
ティアム侯爵夫人はわたしよりもずっと年上だけれど、年齢を重ねても肌艶はよく、包容力のありそうな柔らかい雰囲気をもった女性だ。彼女に誘われたら男性の方だってその気になってしまうかもしれない。
「私なんかじゃ……」
ほぼ平坦な胸元にちらりと目を落として絶望する。
とてもではないが、相手にならない。
その場に留まっているのがこわくて、急いで夜会の会場に戻った。そこではダンスが始まっており、戻るなり他の招待客に声をかけられ何人かと踊る。何かしていないと不安で押しつぶされそうだったからだ。
ヴィルジールが姿を現したのはしばらくしてから。
ティアム侯爵夫人と一緒にいたことを聞けずに、悶々とした気持ちを抱えながら馬車に乗り、カーテンの隙間から外の景色を眺める。
「真っ暗だろう、何か面白いものでも見えるのか?」
「別に……」
顔を背けたまま答える。
「そうそう。ティアム侯爵夫人から新作の美容液の試作品をもらったんだ。これを塗るともっと……」
「いりません。私は今のままで十分です!」
私は膝の上で固く手を握りしめた。浮気相手かもしれない女からのもらい物など触りたくもない。
「まあ、それでもかまわないが……ん? そのカードはなんだ?」
ヴィルジールに尋ねられて渋々視線を向けると、彼が眉をひそめてミネットのポケットを指さしていた。そこから何枚かのカードの端が見えている。
「ダンスの時にもらったんです。ぜひまた踊りましょうって」
上の空だったので誰と踊ったかなんて覚えていない。一方的に渡されたものだが、その場で突き返すわけにもいかず受け取ったものだ。
ポケットから取り出したカードの名前を確かめようとすると、彼に素早く取り上げられた。
「あ、ちょっ……!」
「ふうん……ぜひ二人きりでお茶でもどうですかと書かれているな、誰にでも渡しているのだろうが」
ヴィルジールは目を細める。
「そんな言い方しなくたって……」
たしかにあの場で書いている様子ではなかったから、あらかじめ書いたものを相手に渡しているのだろう。
「君には必要ないだろう、今後の商売のいい取引先になるかもしれないから俺がもらっておく」
「どうぞご勝手に」
結局仕事のことしか考えていないのだ。
私は呆れてそっぽを向いた。
そこで顔を逸らしたりしなければ、ヴィルジールの苦虫を嚙み潰したような表情を見ることができただろう。
手にしたカードをポケットに入れ、ぐしゃりと握りつぶしたことも、当然知る由もなかった。
――数日後、別の伯爵家の夜会に招待された時、いつも通りヴィルジールと離れた私は、ホールでばったりとティアム侯爵夫人と遭遇してしまった。
「ミネットさん。先日は楽しい時間をありがとう」
夫人は、うふふと微笑を浮かべた。すでに彼女の周りには数人の貴婦人が集まっている。
「アルブレヒト伯にお預けした新作の美容液、使い心地はどうだったかしら? あれ、薔薇水を加工したりして私が開発に携わったのよ」
ニコニコと笑みを絶やさずに尋ねられ、私は引きつりかけた笑顔をなんとか自然な形に持っていった。
(受け取ってもいないなんて言えないわ。大勢の前で夫人の好意を無下にした失礼な人間の烙印を押されたら、ヴィルジールの仕事にも支障が出てしまうかも)
浮気をされているかもしれないというのに、それでも心の優先順位の不動の一番は夫なのが悔しい。
「あ、あの、とても良かったです。ふっくらもちもち? お肌にハリが出たのを実感できました」
白粉をのせた頬に手を当て、精いっぱいかわいく笑ってみせる。
「それはもちろんアルブレヒト伯に塗っていただいたのよね?」
「え?」
私は目をぱちぱちとさせた。
普通の化粧品は自分でつけるものだろう。だが、仲のいい夫婦なら夫に塗ってもらうこともあるのだろうか。
夫婦仲を怪しまれてはいけないと思い、大きく頷いた。
するとティアム侯爵夫人をはじめ、周囲にいた貴婦人たちから「きゃー」と嬉しそうな、恥ずかしそうな弾んだ悲鳴が上がる。
「それはよかったですわ」
「もしかして、以前お話していた例の新美容液?」
「本当に仲がよろしいんですのね」
「そんなに効果があるなら私も買いたいわ!」
たかが小娘の感想だけでここまで盛り上がるとは思っていなかったので、戸惑いながらも愛想笑いを続ける。
「塗るだけでバストアップするなんて夢のような話よね」
「ふふっ、本当に。やっぱりアルブレヒト伯爵ご夫妻は憧れの二人ですわ~」
「え、今なんて……」
ティアム侯爵夫人の言葉に、私の思考にピシリとひびが入る。
「お胸、ハリが出てふっくらしたんでしょう?」
無邪気な笑みを向けられて、私の顔はみるみる真っ赤になっていく。
(塗る場所まで聞いてなかったわ!)
すると自分はもらった美容液をヴィルジールに胸に塗ってもらったのだとあけすけに報告し、肌にハリが出たなどと堂々と惚気倒してしまったことになる。
「い、いえ、あの、実はそれ自分で塗って――」
「もう! いまさら照れなくてもいいのよ」
すでに場は明るくきゃあきゃあと盛り上がるばかりで、誰も私の釈明など聞こうとしない。
「す、少し風に当たってきますぅっ」
その場にいるのがいたたまれなくなって、中庭に向かって駆け出した。
「どういうつもりであんなもの……!」
熱くなった両頬を大きく膨らませながら、私は拳を握り締める。
あれを使って少しは女としての魅力を磨け、と言いたかったの?
今年で十八歳になったけれど、彼から見たらまだまだ子供なのかもしれない。
ティアム侯爵夫人は女ながらもああして美容系の商品を開発し、ヴィルジールとも対等に商売の話もできそうである。
(美人だし、話はうまいし、私とは真逆。もしかしてあの夜、ヴィルジールはティアム侯爵夫人の胸に美容液を……)
そこまで考えて、ぶんぶんと大きく首を横に振る。
「やあ、先日はどうも」
突然、後ろから声をかけられ、わたしは飛び上がるほど驚いた。
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