第39話 裏稲荷明神 1/2
「ふむ、神気に満ち満ちておるなあ。ちょっとした霊山ほどの霊格があるぞ」
「はあ、そりゃあ縁起がいいってことですかねえ? そんなことよりお客さん、ご注文はお決まりで?」
「ふうむ、ではいなり寿司をもらおうか」
「お稲荷さんだけだとあんまりお腹にたまらないっすよ? 蕎麦やうどんともセットにできやすが」
「なるほど、それならきつねうどんとセットで頼むかの」
「あいよっ! きつねうどんとおいなりさんセット一丁!」
ここは少々さびれた商店街の片隅、年季の入った定食屋間田木食堂。
カウンターを挟んで、古風な着物を身にまとった女と、店主のリョウコが向かい合っていた。
着物の女は淡い黄色の髪をしていて、細く吊り上がった目の美人だ。年の頃は三十絡みだろうか。どこか怜悧な印象があり、一言で表すならキツネを思わせる女だった。
「はい、きつねうどんとお稲荷さんのセット、お待ちどお!」
「ほほう、透き通ったきれいなおだしさんじゃのう。関西風か?」
「へい、昆布と鰹の出汁をしっかり引いて、酒とみりん、色の薄い白醤油で味を整えたもんで。あっちじゃ、あご出汁を使うことも多いっすから、純粋な関西風ってわけでもねえですけどね」
着物の女は割り箸でうどんをつまむと、ふうふうと息で冷ましてそれをすする。桃色の舌で唇をちろりと舐める仕草がなんとも妖艶である。
「しこしことコシの強いおうどんさんじゃのう。これはさぬき風かの?」
「ええ、冷凍のさぬきうどんでさ」
「ほう、これが冷凍?」
「最近のはよく研究されててね、ほとんど打ちたてみたいな味わいなんでさあ」
「ほうほう、最近は進んでおるんじゃのう」
女はつるつるとうどんを飲み込むと、今度は油揚げをつまみ上げ、端から一口かじる。
「ほほっ、これも分厚くて食べごたえがあるの。甘じょっぱい煮汁に、さらにおだしをたっぷり吸っているのがたまらん」
「へい、油揚げは商店街の豆腐屋から毎日仕入れているもんでして。それをうちで煮ているもんになりやす」
「ほう、手作りか。とするとこのお稲荷さんのお揚げも?」
「へい、もちろんうちで煮ておりやす」
油揚げを半分ほど食べた女は、今度はいなり寿司に興味を変える。
セットにつくいなり寿司はふたつで、鮮やかなきつね色のものと、やや黒っぽい色のものが並んでいた。
「ふうむ、いなり寿司も2種類あるのか。ではまず、こちらの普通の色のものから食べてみようかのう」
女はいなり寿司にかぶりつく。
すると米を包んだ油揚げから甘い煮汁がじゅわっとにじみ出て、それから酢飯の酸味がやってくる。口の中で酢飯がはらりとほどけ、大きさに対して食感は軽い。
「うむうむ、これこれ、これでいいのじゃ、という気持ちにさせるおいなりさんじゃの。では、もうひとつの方はどうか……」
続けて、黒っぽいいなり寿司を食べる。
先ほどよりもさらに甘い煮汁。そして米の中には何かが混ぜ込まれており、それが強い酸味とカリカリとした歯ざわりをもたらした。一度は強い甘みに支配された口の中が、その酸味によって爽やかに中和される。
女はかじった断面をまじまじと観察してから尋ねた。
「これは、梅かの?」
「へい、カリカリ梅を刻んで酢飯に混ぜ込んだもんで。黒いお揚げさんは黒糖で煮込んだもんなんですが、普通のよりも甘いが強い。釣り合いが取れるようにメシの印象も強めたくってね。こんな工夫をしておりやす」
「そもそも、なぜ片方は黒糖で煮たのじゃ?」
「うちのお稲荷さんは2つでセットにしてやすからね。どうせなら違う色のほうが面白れえと思っただけでして」
「しかし、それでは手間がかかるのではないか?」
「それはそうですがねえ、まあ、思いついちまったことは試さずにはいられねえ性分でして」
「なるほどのう。見上げた研究心じゃ」
「へへへ、そんな大層なもんじゃあありませんよ」
不意に褒められて、リョウコは照れくさそうに鼻の横をかいた。
常連客から冗談交じりに料理を褒められることはよくあるが、初見の客からその仕事ぶりを真正面から褒められることなどほとんどなかったのだ。
「腹もくちくなったし、燗でもつけてもらおうかの。つまみのおすすめはあるか? 腹にたまらず、酒が進むものがよいのう」
「それなら厚揚げ焼きなんていかがっすかね? きつねうどんにお稲荷さんと来たんで、どうせならお揚げ尽くしってことで」
「ふふ、面白い趣向じゃの。では、厚揚げを頼む」
「へい、厚揚げ一丁!」
リョウコは冷蔵庫から厚揚げを取り出し、炭火台で炙りはじめる。
その間に徳利に酒を移して湯煎にかけ、燗酒を作った。
ほどよく色づいた厚揚げを皿に盛り付け、その上に大根おろし、刻んだネギ、おろしショウガを載せる。そして、厚揚げの脇にもうひとつを何かを添える。
「はい、お待ちどお、厚揚げと熱燗だ」
「ほほほ、たまらんの。染み入るように甘い酒じゃ。む、ところで厚揚げの横のこれは何じゃ?」
女は、猪口で燗酒を一舐めしたあと、割り箸の先で正体不明の何かを示した。
「それは古漬けを刻んだもんでして。ちょいと前までは古漬けはあっしの酒のアテにしちまってたんですが、薬味代わりに出してみたら意外にウケたもんで。いまは試しに色んなもんにつけているところでさ。お好みがあると思うんで、舌に合わなきゃ残してくだせえ」
「ほうほう、刻んだ古漬けはメシに混ぜても旨いからのう。厚揚げにも合いそうじゃ」
女は古漬けの刻みを厚揚げの上に満遍なく散らし、全体に醤油を回しかける。
そして一切れ頬張ると、「むふー」と鼻息をついた。
「おおっと、妾としたことがはしたない。いまのは見なかったことにしてほしいのじゃ。それにしても、古漬けと厚揚げというのは合うんじゃのう。シャキシャキした歯ざわりもよいアクセントじゃな」
「やっこにも合いやすからねえ。厚揚げに合うのも当然って寸法で」
「なるほど、それは道理じゃな」
女が厚揚げの最後の一切れを、口に運んだそのときだった。
「悪霊は、この中に――って、おばあちゃん!?」
店の引き戸をガラリと開けて、巫女服をまとった黒髪の少女が現れたのは。
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