第37話 ヒダル神 2/3

「それで、ヒダル神ってのは一体何なんでえ?」

「餓鬼の一種で、取り付いた人にひどい空腹感を与えて動けなくしてしまう悪霊、あるいは妖怪です。何かを一口でも食べれば祓えるはずなんですが……」


 ヒダル神とは、トウカの説明した通りの存在だ。

 主に山道に出没し、歩いている旅人に取り憑く。山の中で突然虚脱感に襲われて動けなくなったらこの妖怪の仕業だと言われているが、正体はハンガーノック――急性の低血糖症ではないかともされる。登山家が行動食としてチョコレートや飴、レーズンなどの高カロリーな食物を摂取しながら進むのは、これを防ぐためである。


「へえ、何か食えばいなくなんのか。じゃ、なんでオメェさんはいなくなってねえの?」

『えっ、そこでわしに聞くの?』

「そりゃよう、直接聞くのが一番速えし、間違いもねえじゃねえか」

『それはそうじゃが……』


 食中毒の悪霊ではないと知ったリョウコはもはや平常運転である。

 ヒダル神の目の前までずかずかと歩いていき、直接問い質しはじめた。


「あのー、リョウコさん。一応言っておきますけど、悪霊に近づくのは危ないんですからねー。まあ、どうせ聞いてくれないと思いますけど」

「ああン? 食中毒菌じゃねえんだろ? それなら近づこうが触ろうが問題ねえじゃねえか。なあ、ヒダル神さんとやら?」

『あ、うん、そうなんだけど、ちょっと肩を叩くのやめてくれんかの? けっこう痛いんじゃが』

「ははは、悪りぃ悪りぃ!」


 リョウコはヒダル神の人間離れした撫で肩をバシバシと叩いて笑っていた。

 トウカは「なんでこの人、取り憑かれないんだろう……」と思ったが、もはや気にしてもしょうがないのでその疑問を心の棚にそっとしまった。


「ンで、なんでこんなところで人に取り憑いてんだ?」

『もともとこの建物の裏山におったんじゃがのう。走ってきた子どもに引っ張られてこんなところまで来てしもうた』


 この小学校の運動会では、種目のひとつに長距離走がある。

 校舎裏の低い山がそのコースの一部となっているのだが、そこで子どもの一人に取り憑いてしまったようだ。こういった妖怪はある種の自然現象でもあり、己の意思に反して人に憑いてしまうことがしばしばある。


「それで、なんで帰らねえんだ? みんな色々食ってたんだろ?」

『それがのう、儂も帰りたいんじゃけど、こう、子どもたちがな、「あれが食べたい、これは食べられない」ってずうっと考えておってのう。儂、食欲にまつわる妖怪じゃから。そういうのが充満してると帰れんのじゃよ』

「ああ、なるほどなあ。運動会っていやぁ、おかずの交換とかあるもンなあ。隣の弁当は旨く見えるってことわざもあるくらいだ」


 トウカは、「隣の芝生は青く見える、ですね」という言葉を飲み込んだ。


「それじゃ、みんながおんなじもんを食って、満足すればいいってわけだな。わかったぜ、それじゃ、ちょっと材料取ってくるわ。トウカ、ちょいと間を持たせててくんな」

「あー、はい、わかりました。あのー、ヒダル神さん、祝詞とか唱えても大丈夫です? 痛かったら言ってくださいね」

『手間をかけるのう。儂、自分で自分の力を押さえられないタイプじゃから、そうやって抑えてくれると助かるわい』


 トウカは、やたら協力的なヒダル神に脱力しつつ、祝詞を唱えてその邪気を抑えはじめた。


「あ、あと山田先生。2つほど頼みがあるんだけどよ、聞いてくんねえかい?」

「ええ、先生にできることなら協力するけど……」

「なあに、簡単なことよ」


 リョウコは山田教諭に何事かを伝えると、ワゴンに乗って間田木食堂へと戻っていった。


 * * *


「うっし、じゃあはじめるか。山田先生、給食室を貸してくれて助かったぜ」

「うちの学校のためにやってくれるのだもの。そんなことはなんでもないわ。でも、先生には給食室のどこに何があるかとかわからないわよ?」

「ははは、小坊ン頃はよく給食室に忍び……お邪魔してたからよ。説明してもらわなくたって大丈夫だぜ」

「まさか、むかし給食室で食材がちょくちょく紛失してたのは――」

「よーし、まずはにんにくと生姜をすり下ろすところからだな!」


 間田木食堂から食材を取って帰ってきたリョウコは、山田教諭の話を遮り調理を開始する。

 小学校の給食室を借りてそこで調理をはじめようとしていたのだ。勝手知ったる様子で引き出しからおろし金を取り出し、剥いたにんにくと皮付きの生姜をすりおろしていく。


「で、これに輪切り唐辛子、うち特製のカレー粉を加えて炒める、と」


 リョウコは大鍋の底にたっぷりとオリーブオイルを引くと、そこにすりおろしたにんにく、しょうがと輪切り唐辛子、それに自家製のカレー粉を加え、弱火でじっくりと炒めはじめる。しゅうしゅうと油の弾ける音とともに、給食室を刺激的な香りが満たしていった。


『おお、すごい匂いじゃのう。目が開けられなくなりそうじゃ』

「そもそもお前さん、目ん玉はあんのかい?」

『むむむ、そう言われれば、儂って目玉はあるのかのう?』


 ヒダル神の頬っかむりの中は真っ暗である。

 たとえ鏡を見たところで顔が映らないため、目鼻があるのかすら自分でもわからなかったのだ。


「リョウコさーん、材料はこれでいいんですか?」

「おう、念のため確認するからちょいと待ってくんな。……うん、それで大丈夫だ」


 大鍋が焦げ付かないよう木べらで混ぜながら、リョウコは山田教諭から受け取った紙束を確認しながらトウカに応える。


「そしたらそれを、適当に切ってミキサーに放り込んでくんな」

「そんな雑で本当にいいんですか?」

「おう、かまわねえぞ。ぜんぶ形がなくなるまで粉々にしてやってくれ」

「はーい」


 トウカはじゃがいもやニンジン、玉ねぎ、りんごを荒く切って、業務用の大型フードプロセッサーにそれを投入していく。スイッチを入れるとモーター音とともに刃が回転し、食材を粉々にしていった。


「ひゅー、やっぱり給食室の機材は一級品だねえ。店のミキサーじゃそんなにいっぺんに入んねえや」

「給食室ってはじめて入りましたけど、お鍋やフライパンもみんなおっきくて工場みたいなんですねえ」

「毎日数百人分のメシを、それも一度に作るからなあ。下手な料理屋なんかよりずっと設備が整ってんだよ」


 トウカはフードプロセッサーの番をしつつ、物珍しげに給食室を見回した。

 トウカが通っていた学校に給食室はなかったので、生まれてはじめて目にしているのである。


「お、完全にペーストになったな。それをこの鍋に入れてくれ」

「了解です! ひええ、これは重たいですね」


 リョウコがスパイスを炒めている鍋に、トウカが野菜のペーストを流し込む。

 リョウコは火加減を少し強め、大きなしゃもじで混ぜながらさらにそれを炒めていった。


「次はそこの大豆の水煮缶を開けて、ザルで水を切っておいてくれ」

「こんなでっかい缶詰開けるのはじめてです!」


 両手に余るほどの大きさの缶を缶切りで開け、中身をザルに開ける。


「よーく水を切ったら、布巾に広げてさらに水気を飛ばしてくんな」


 トウカに指示をしつつ、飴色になった野菜のペーストに、店から持ってきた黄金色の出汁を注ぎ入れる。昆布と鰹節を冷水に一晩つけてから、さっと煮て旨味を抽出した間田木食堂特製の出汁だ。


「ここまで来ると完全にカレーですねえ」


 トウカが大鍋の中身を覗き込むと、そこにはとろりとした赤茶色の液体がふつふつと煮えていた。焦げ付かないよう、リョウコはそれを大きなしゃもじでゆっくりとかき回している。


「おう、もう少し煮込んで、味を整えたら完成だな。あとは大豆の方を仕上げるから、かき混ぜるのを代わってくれ」

「はーい」


 トウカはリョウコからしゃもじを受け取ると、作業を交代する。

 煮え立つ鍋から漂うカレーの刺激的な香りに、思わずよだれを垂らしそうになるが、慌ててそれを拭き取るのであった。

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