91・【番外編】こはる視点【後編】

 夕食後、自分の部屋でくつろいでいた私は、階段の下から聞こえてきた声に震えていた。

 確かに、きちんと向き合うべきだとは思ったし、そうするつもりだった。でも、何事も準備が必要だと思う。この場合、心の準備というやつだ。


「留美子さーん、母さんから連絡してたやつ持ってきたよー」

「あら、ありがとう。葵ちゃん久しぶりじゃない!」


 どうやら、葵ちゃんのお母さんが我が家にお裾分けをくれたらしい。うちは親同士も仲が良いので、昔からよくあることだった。親戚から送られてきた果物や野菜を渡したり、誰もお酒が飲めない島本家から我が家に、お中元のビールのお裾分けを貰ったり。

 突然声がして驚いたけど、届けに来ただけならすぐに帰るだろうと胸を撫で下ろしたのだが、そう都合良くはいかなかった。

 お母さんが「スイカ冷えてるから食べていきなさいよ」と誘ってしまったのだ。しかも、私の部屋で待ってるようにと勧めて!

 うわあああああぁ、確かに前はそうするのが当たり前だったけど! でも、ちょっと待って! まだ心の準備が出来てないの!

 葵ちゃんも、二つ返事で階段上らないで!!


「こはるー、開けるねー」


 トントンと軽いノックの後、返事をする間もなくドアが開いた。これも今まで通りのこと。

 どうしていいかわからず、身動きが取れないままベッドの上で固まる私に、「久しぶり」と葵ちゃんは苦笑いを向けた。

 部活で会ってるじゃないか、というツッコミは野暮だろう。葵ちゃんだってそんなことはわかっていて、こうしてちゃんと向き合うのが久しぶりだと言いたいだけだ。多分。


「そろそろこはると話さないとって思ってさ。……いい?」

「……うん、私もそう思ってた」


 こんな急に機会が来るとは思ってなかったけど。

 座るように促したら、当たり前のようにベッドの足下側の定位置に座る。それだけのことで、なぜだか堪らない気持ちになった。

 宿題終わった? とか、他愛もない雑談をしている間にお母さんがスイカと麦茶を持ってきてくれて、短いやりとりの後、ドアがパタンと音を立てて閉まったのを合図に二人とも黙った。

 そして、先に口を開いたのは、やっぱり葵ちゃん。


「こはると話すの、こんなに緊張したのって初めてかも」

「だよね」

「あと、話すぞ! ってあんなに思ってたのに、何話せばいいか全然わかんない」

「私も。話したいこと、いっぱいあるはずなのにね」


 本当の意味で、腹を割って話すのは難しい。

 話さないといけないこと全部を伝えようとしたら、私の恋心とか、嫉妬心とか、これまで抱えてきたコンプレックスとか、自分の中の汚くて情けない部分までさらけ出さないといけなくなるのだ。


「じゃあさ、先に質問していい?」

「いいよ、答えられる範囲なら」

「じゃあ、前にも聞いたけど……なんで私を避けるようになったの?」


 うん、葵ちゃんが私に聞きたいのって、それしかないよね。

 前に聞かれた時は、のらりくらりと答えを濁してちゃんと答えなかった。というか、答えられなかった。ちゃんと真正面から聞いてきたのに、さぞかし腹が立っただろう。

 今はどうだろう。はっきりと言えるだろうか。葵ちゃんが好きで、杉村先輩への気持ちをこれ以上聞きたくなかったなんて、バカみたいな理由を。


「私、こはるに何かした?」

「ううん、何もしてないよ」

「じゃあ、どうして!?」


 泣きそうな、怒ったような顔で、葵ちゃんが聞く。


「わけわかんないよ。私のこと、嫌いになった? 杉村先輩とのこと、疑ったから?」

「違うよ」

「だったら、なんで避けるの!? 私、こはるといつまでもこんな感じでいるのいやだよ! ずっと一緒にいたんだから、そばにいないと落ち着かないよ」


 嫌いになったことなんてない。今も昔も、ずっと好きなままだ。今だって、私にそばにいてほしいと言われて、涙が出そうなほど嬉しい。いっそ、頷いてしまいたい。

 陽子先輩は、私の気持ちは依存だと言ったし、自分でもそういう部分があるのは認めているけど、それでもやっぱりこの気持ちは恋だ。

 ただ『好き』なだけなら、ここまで悩むこともなかった。


「ずっと説明しないままでごめんね。私、葵ちゃんのこと好きだよ」

「それなら、なんでっ……」

「好き、だからだよ」


 あんなに悩んだのが嘘みたいに、気持ちは言葉になった。

 一度目は全く意味に気づかなかった葵ちゃんも、二回目の『好き』を強調した説明に数瞬だけ目を瞬かせ、そして理解したようにゆっくりとその目を見開いた。


「え……?」


 自分を指さしながら、問いかけるような眼差しを向けてくる彼女に、ひとつ頷く。

 疑惑が確信に変わり、赤くなってるのに顔色が悪いという謎の器用さを発揮した葵ちゃんが、片手でこめかみのあたりを押さえながら俯いた。

 片手でこめかみを押さえるのは、葵ちゃんが狼狽した時の癖だ。ここから顔を両手で額を押さえたら本気で困った時の反応なんだけど、まだそこまではいかないらしい。

 こんな些細なことを知ってるくらい、私たちは長い時間を過ごしてきたし、私は葵ちゃんを見つめ続けてきた。


「ごめん、全然気づかなかった。いつから?」

「もう、ずっと。子供の頃から」

「そんなにかぁ……!」


 あ、困った時の最終形態が出た。

 おでこを両手で押さえながら、気づかなかったー! と悶えている葵ちゃんの姿は、なんだか見ていて気持ちよかった。意地が悪いと思うけど、この子が私のことでこんなに困っている姿なんて、長い付き合いの中でもほとんど見たことない。

 堪えきれずに笑うと、なんで笑うんだと抗議の声が飛んできて、また笑った。


「ごめんね。ずっと言えなかったのに、言ってみたら意外とスッキリしちゃった」

「その分、私は大変なんだけどー!」

「ううん、大変じゃないよ。振るだけなんだから」


 私がそう言うと、葵ちゃんの動きが止まった。


「どう悩んでも、結論は一緒なんでしょ?」


 だって、貴女の好きな人は杉村先輩だから。

 冷たくあしらわれても、一度きっぱり振られていても、諦められないくらい好きなんでしょう?


「大丈夫、ちゃんと振られる覚悟は出来てるよ」

「そんな簡単に……」

「簡単じゃないよ。十年以上かけて、やっとなんだから」

「あはは、それ言われると逆に振りにくいや……」


 力なく笑った後、はぁと大きく息を吐いた葵ちゃんが顔を上げ、「ごめんなさい」と頭を深く下げた。


「こはるとは付き合えない」

「うん」

「他に好きな人がいるんだ」

「知ってるよ」


 これでもかと眉を下げ、情けない顔で謝る葵ちゃんは、お母さんに怒られて泣きべそをかいてた子供の頃から、全然変わっていない。

 ともすれば子供じみたその表情の豊かさが、ずっと好きだった。密かな憧れでもあった。


「さすがに応援はしないけどね」

「それをお願いするほど、私だって鬼じゃないよ!」

「あはは、わかってるよぉ」


 こうして話していると、これまで『好き』という言葉と一緒に、伝えたいことをどれだけ飲み込んでいたのかよくわかる。

 こんな気持ちは友情の域を超えているかもしれない、これを言ったら気持ちがバレてしまうかもしれない。そんな恐怖から言えないことが増えて、嘘や誤魔化しが積み重なったことで、私たちの関係も歪なものになっていた。

 振られてはしまったけど、気持ちをそのまま伝えられるのは気持ちがいい。葵ちゃんと話していて、こんなにも気楽でいられたのはいつぶりだろう。


 それからは、ひたすら話した。世間話のような軽い話から今まで隠してきた本音まで、すれ違っていた時間を埋めるように。

 杉村先輩のどこが好きなのかを聞いてみたら、すごく気まずそうにしていたけど、何度かねだると渋々と教えてくれた。それを聞いて、結局は顔かと結論づけたら、そんな一言で雑にまとめるなとプリプリ怒っていたけど。


「杉村先輩って、私にはツンツンしてるけど、こはる達とお弁当食べてる時ってどんな感じ?」

「うーん、……へなちょこ可愛い感じ?」

「何それ、ギャップ萌え! 私も見たい!」

「えー、葵ちゃんが好き好き言って追い回してるうちは、ちょっと無理じゃないかなぁ」

「言われなくてもわかってるよー!」


 ああ、やっぱりわかってはいるんだ。

 葵ちゃんはちゃんと気遣いの出来る子なのに、先輩相手だとなんでああなのかずっと不思議だったけど、わかってやってるなら何か考えがあるのだろう。


「なんかさぁ、こはる性格変わってない?」

「元からこんな性格だよ。今までは猫かぶってたのと、気持ちが後ろ向きだっただけ」

「ってことは、今は前向きになったの?」

「うん、葵ちゃんの好きな人のおかげでね」

「うげぇ、やっぱ性格変わったよ」


 言葉とは裏腹に、葵ちゃんは楽しそうだ。


「まっ、前向きになるのはいいことだ」

「そうだね」


 以前は、自分は真っ暗な場所に立ってる気がしていた。希望の光なんて全然見えなくて、怖くて一歩も前に進めなかった。でも、何も見えなくて当然だ。私はずっと俯いていたんだから。

 顔を上げさせてくれたのは、あの二人。呼びかけられて恐る恐る顔を上げた先には、遠くにちゃんと光が見えていた。

 その光に向かって踏み出したら、一歩進むごとにどんどん周りが明るくなって、見える世界がガラリと変わったんだ。


「さっき、こはるを振ったはずなのに、今のこはるを見てたら全然そんな感じがしないなぁ」

「えー、人のこと振っといてそんなこと言う?」

「ごめんって。でも、なんか生き生きしてるんだもん。さっき告白された時、これから先どんな顔してこはると付き合っていけばいいのか心配したのに、普通に喋ってるし」

「そんな心配してたの?」

「普通するよ!」


 まあ、そうだろうなとは思う。私だって、振られた後が怖くてずっと言えなかったんだし。


「私さ、こはるがそばからいなくなるのは嫌なんだよ。でも、気持ちに応えられない以上、こはるが離れたいって言ったら仕方ないのかなって覚悟してたのに」

「そんなふうに思ってたの? 自分は振られても諦めずに食らいついてるのに」

「振られる側の気持ちもわかるから、無理には引き止めれないって思ったんだよぅ」

「あー、なるほど……」


 葵ちゃんには葵ちゃんなりの、葛藤とか諸々の抱えてる気持ちがあったわけだ。

 私としては杉村先輩には紗良さんへの気持ちを成就させて欲しいし、そんなの関係なしにあの二人は両思いなんじゃないかって思ってるけど、葵ちゃんはそんなの知らないからなぁ。


「私は葵ちゃんといるよ、幼馴染として」

「ありがとうっ! 私にとっても、こはるは大事な幼馴染だよ!」


 そう言って、葵ちゃんが私をぎゅっと抱きしめた。

 振った相手にこういうことをしちゃうのが葵ちゃんなんだよなぁと、少しだけ呆れるけれど、私に対するこの遠慮のなさは葵ちゃんなりの甘えなのかもしれないと思い直す。

 恋愛対象に見てもらえなかったのは残念だけど、大事な幼馴染と言ってくれるなら、もうそれでいい。この言葉のおかげで、私はまた一歩前に進める。

 長かった初恋は、これでおしまい。今はまだ少し重いこの気持ちも、きっといつかは綺麗な思い出になるのだろう。こんなこともあったねと、大人になった葵ちゃんと笑い合えるようになったらいいと思う。

 そのためにも、私は前に進むんだ。顔を上げて、自分の足で一歩ずつ。


 葵ちゃんに抱きしめられながら、二人の先輩の顔が浮かぶ。

 聞き慣れた声が「頑張ったわね」と褒めてくれた気がして、ほんの少し鼻の奥がツンとした。

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