90・【番外編】こはる視点【前編】
昔から、用事のない休日は当たり前のように葵ちゃんと過ごしていた。
外に行くこともあったけど、どちらかの家で宿題をしたりゲームをしたりと、約束したわけでもないのに一緒にいた。去年の夏休みも、毎日のように一緒に受験勉強をしたものだ。
高校に入ってからも最初のうちはそうだったけど、高校生ともなれば貰えるお小遣いも増えるし、行動範囲だって広がる。春過ぎあたりからのわだかまりもあって、私と葵ちゃんが休日を一緒に過ごすことはなくなっていた。
「あんた、葵ちゃんとケンカでもしたの?」
リビングで猫のマオをスケッチしていると、麦茶を片手に下の姉が声をかけてきた。上の姉は苦手だけど、下の姉はまあまあ仲が良い。服の貸し借りもよくするし、勉強を教えてくれることもある。
「最近、葵ちゃん来てないでしょ? こはるがあっちに行ってる感じもないし」
「あー、うん。今、ちょっと気まずい感じ」
「珍しいね。っていうか、初めてじゃない? 何かあった?」
「うーん、私にもよくわかんないんだ」
もう何度も、それこそ毎日、何が悪かったのかなって考えてる。
私が葵ちゃんを好きじゃなくて、素直に杉村先輩との仲を応援できていたなら、きっとこうはならなかったのだろう。振り向いてくれないのが悲しくて、嫉妬で苦しくて、そばにいられなくなったから離れた。
でも、それはもうどうにもならなかったと、最近は諦めている。私の気持ちをなかったことには出来ないから。
「近いうち、ちゃんと仲直りするよ。お姉ちゃんこそ彼氏とはうまくいってるの?」
「うわ、それ聞くかー。……別れたよ」
「えっ、ほんとに!? いつ!? なんで!?」
「夏休み前かなー。他に好きな子が出来たんだって」
信じられない。お姉ちゃんみたいに才色兼備の人でも、振られることがあるんだ。私と違って、欠点らしい欠点なんて見当たらないのに。
「ま、あっちも振られたらしいけどね。ざまぁ」
……性格は、まあこんな感じだけど。
「うちの高校に超絶美少女がいるんだけどさ、藤岡紗良っていう一年生なんだけど」
「え、そ、そうなんだ?」
お姉ちゃんの口からよく知った名前が出てきて、ビクッとする。なに? もしかして、元カレさんが好きになったのって紗良さん? 聞いてはいたけど、本当にモテるんだな。
「その子が一緒に登校してる百合ノ宮の子らしいよ。噂によると、巨乳美少女」
「へ、へえ……」
杉村先輩だーーーーっ!!!
そういえば、聞いたことある。先輩が朝の電車で他校の生徒から告白されたって。葵ちゃんがめちゃくちゃ騒いでた。
噂の猛者、お姉ちゃんの元カレだったのか! そんなの知りたくなかったよ!!
「なーんかさ、最初は藤岡さん可愛いなーって見てたらしいんだけど、だんだん一緒にいる百合ノ宮の子の方が気になったんだって。根っからの面食いだよね」
「ホ、ホントダネー!」
お姉ちゃんはクールビューティー系だし、紗良さんはハーフ美少女だし、杉村先輩は……中身はともかく見た目はセクシー系美少女だ。
まったく、誰も彼も顔が良くて羨ましいことこの上ない。
「ってなわけで、今はフリー。彼氏いるとそっちに時間もお金もかかるから、しばらくは時間もお金も自分のために使うのを楽しむよ。今年は受験生だしね」
「そっか、結構前向きみたいで安心した」
「私はいつだって前向きだよ。あ、でも、いい男の紹介はいつでも受け付けてるから♪」
そう言って投げキッスをしてみせる姉を見る限り、凹んだ様子はない。元々さっぱりした性格だし、立ち直りも早いみたいだ。
姉妹だというのに、なんでこんなにも違うんだろう。うちの三姉妹は、それぞれ全然似ていない。
「私、お姉ちゃんに紹介出来るような人なんて知らないよ」
「あはは、わかってるって。女子高に通ってるあんたに、そんな期待なんてしてないしてない」
「ああ、うん、そうだよね」
確かに、女子高通いの私にそういう知り合いはいないのだから、冗談で当然だ。お姉ちゃんだって、何か悪気があったわけじゃない。過剰反応だって、ちゃんとわかってる。
それでも、「期待なんてしてない」という言葉は、耳にするだけで私の心を一瞬で凍りつかせてしまうのだ。
スケッチの邪魔してごめんねーと、マオをひと撫でしてから去っていく後ろ姿を恨めしい気持ちで見送るが、お姉ちゃんは悪くない。私のコンプレックスが、勝手に刺激されただけだ。
でも、と思う。
こんな平凡な私でも、認めてくれる人がいるんだ。
陽子先輩は、私を生徒会役員に欲しいと言ってくれた。
杉村先輩は、私の絵を好きだと言ってくれた。
2人とも、素の私を好きだと言ってくれた。
誘われるがままにお昼を一緒にとるようになったけど、今ではあの空間が心地いい。もう文化祭用の絵が仕上がっていても、葵ちゃんと顔を合わせるのが気まずくても、二人に会いたくて部活に顔を出している。
胸がヒリついたこんな時だって、先輩たちからの言葉を大事なお守りみたいに胸に抱えていれば、気持ちの回復が以前よりずっと早くなった。
「なんか悔しいなぁ」
陽子先輩は暑苦しいし、杉村先輩なんて恋敵なのに、最近の私は葵ちゃんよりあの二人の方が好きっぽい。もちろん別枠の好きだけど、総合点で。
絵を描く時だって、杉村先輩に見せるのを楽しみにしてるのがもうおかしい。あの人、ポンコツヘタレお人好しの三拍子揃ってるくせに、人たらし過ぎる。
「マオは私に、何か期待してくれるのかにゃー?」
名前を呼ばれ、不思議そうな顔でじっと見上げてきた愛猫が、ソファに置いていた私の手にスリスリと頭を寄せた。え、いきなり何? 可愛い!
滅多にない大サービスに、テンションが急上昇する。さっきのお姉ちゃんの言葉なんて、一瞬で吹き飛んだ。
「そっかそっか、なでなでをご希望にゃんですねー?」
わしゃわしゃと撫で回したくなる気持ちをぐっと堪え、首のあたりをそっと撫でる。気持ちよさそうに目を細め、撫でられる体勢に入ったマオが可愛すぎて、心臓に猫パンチがクリティカルヒットした。
やばい。死ぬほど可愛い。この可愛さ、絵では絶対表現できない。
「ご期待にお応えして、好きなだけ撫でますよー」
マオのふわふわの毛並みを堪能しながら、ふと思った。
絵が見たいとか、撫でてほしいとか。人も猫も、期待するのって案外こんな些細なことなのかもしれないなって。
※ ※ ※ ※
「ねえ、お母さんって私に何か期待すること、ある?」
夕飯の手伝いをしている時、思い切ってお母さんに聞いてみた。
こうして改めて聞くなんて初めてだったし、突然こんなことを聞いたら何事かと思われそうだけど、今日聞かなかったらもう一生無理な気がしたから。勢いって大事だ。
「え、急にどうしたの?」
「えっと、大したことじゃなくて、本当にちょっと思っただけなんだけど、私はお姉ちゃんたちみたいに優秀じゃないから……」
あまり期待していないだろう。不出来な娘でごめんなさい。
本音はさすがに口にするわけにいかず、最後は尻すぼみになってしまった。困ったな、さりげなく聞けたらと思っていたのに。
背中に冷や汗を流しながら、どうしようと焦りながらにんじんの皮を剥くが、隣からお母さんの視線を感じた。
「はぁ〜、あんたそんなふうに思ってたの? 期待なんかしまくりよ!」
「え……?」
呆れたようなお母さんの物言いに、思わず隣を見ると、口調通りの呆れ顔が笑っていた。
「えっと、たとえばどんな?」
「そうねー、今日なんかだと夕食の手伝いしてほしいなーって期待してたわよ。他にも、もうすぐ私の誕生日だから今年もケーキ焼いてくれたらいいなーって思ってるし、この後、肩のひとつでも揉んでくれないかなーとも期待してる」
「あはっ、何それ」
指折り数えて、ささやかな期待を楽しそうに口にするお母さんに、思わず吹き出した。最後のなんて、期待じゃなくて遠回しな要望じゃないか。
「普通、もっといい成績をとってほしいとか、何か賞をとってほしいとか、そういうの期待しない?」
「まあ、そういうのもあればいいな程度には期待してるけどね。勉強していい大学に行くに越したことはないし、受賞すれば親は嬉しいもんよ」
「そうだよね」
「でもね、親が子供に一番期待することなんて、健康で幸せに暮らしてくれることだから、他のはおまけよ、おまけ」
あとは親より長生きしてほしいと付け加えるお母さんの言葉は、胸に流れ星が飛び込んできたような衝撃だった。
健康、幸せ、長生き。あまりにも平凡で当たり前の願い。本当にそんなものでいいのだろうか。長生きはまだわからないけど、今の私は健康でそこそこ幸せだと言える。
「そんなんじゃ、よそ様に自慢できないよ?」
「それこそ何言ってるの。母さん、娘自慢してばっかりよ。ここだけの話、外で話して一番羨ましがられるのはあんた」
「え、絶対うそだ」
さすがに、そんなおべっかには誤魔化されない。才色兼備、文武両道の姉たちと私じゃ比較対象にもならないのだから、無理に褒められたところで虚しいだけだ。
「ホント、ホント。もちろんお姉ちゃんたちも褒められるわよ。優秀ねー、凄いわねーって。でもね、こうして毎日のように手伝ってくれたり、誕生日にはケーキを焼いて祝ってくれる娘なんて、世間一般の親からすれば垂涎の的なのよ」
「そんなの普通じゃん」
「それが意外とそうでもないってこと。お姉ちゃんたちだって、疲れたとかめんどくさいとか言って、なかなか手伝ってくれないでしょ」
「あー、そうだね」
私は料理が好きだし、ケーキ作りも趣味の延長みたいな気分で作っていたけど、周りから見たらそんな感じなのか。
そういえば子供の頃からこうして手伝っているけど、きっかけは単純。この時間だけはお母さんを独り占め出来たからだった。盛り付けや味付けがうまくいけば、褒めてもらえるのが嬉しくて。えらいねと頭を撫でてほしくて。──私を見てほしくて。
すっかり忘れていたけど、それが習慣化しただけだった。
「あっ、そうだ。あんた、最近よくマオの絵描いてるけどさ」
「え、うん」
「上手いじゃない。それに、描いてる時のこはるもいい顔してる!」
やるじゃん! と、包丁を持った手でサムズアップするお母さんの姿に、肩に入っていた力が一気に抜けた。
もっと早く聞いたら良かったのかもしれない。随分と長い間、どうでもいい人たちの声に振り回されて、ひとりで勝手に劣等感を育ててきてしまった。それがこんなにもあっさりと溶けてしまうだなんて。
劣等感が完全に消えたわけじゃないけれど、心は随分と軽くなった。
「……先輩のおかげかな」
あの人たちがいなければ、この一歩はきっと踏み出せなかった。踏み出したところで、お母さんの言葉も素直に受け入れられなかったかもしれない。
「部活の先輩?」
「うん、私の絵を好きだって言ってくれるんだ」
「へえ、良かったじゃない。母さんも好きよ、こはるの絵」
「……ありがと」
つい数ヶ月前まで、私を認めてくれるのは葵ちゃんだけだと思っていたのに。
無邪気な笑顔で「こはるちゃん、すごいね!」と褒めてくれた葵ちゃんとの、子供の頃のキラキラした思い出に縋りついて、引きとめようと必死だった。失ったら死ぬんじゃないかって、半ば本気で思っていたというのに。
もう無理に引き止めるのはやめて、きちんと向き合うべきなのかもしれない。それがどんな結果になっても、今の私ならきっと大丈夫だ。
「お母さん、誕生日ケーキは何がいい?」
「お、リクエストしていいの? そうねー、フルーツたっぷりのケーキ、二段になってるやつ」
「太るよ」
「二段重ねの誕生日ケーキは永遠の憧れなのよ」
なるほど、憧れなら仕方ない。
お母さんの少女じみた憧れにちょっとやる気が上がり、頭の中ではどんなケーキを作るか妄想が膨らむ。材料代はお父さんに助けてもらって、お母さんの好きなシャインマスカットを使おうかな。味と色合いのバランス的に、合わせるのはピオーネとオレンジ。そうだ、エディブルフラワーも飾ろう。一度使ってみたかったんだ。
やばい、楽しくなってきた!
「わかった、二段のフルーツケーキね」
「美術部員のセンスあふれるケーキを期待してるわ」
ハードルが上がってしまったけど、期待されているなら応えてみせましょう。
なんたって私は、貴女の期待をたっぷり背負った自慢の娘なんだから。
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