66・とある少女の ④【流血シーン注意】
シネコンを後にしたこはるは、階下にあるフードコートの片隅で項垂れていた。どれくらいこうしていたのか、目の前に置かれたカフェオレは口をつけないまま放置され、とっくに冷めてしまっている。
「どうしよう……」
もう何度目かのため息を吐き、こはるが呟く。彼女が噂通りの人物なのは分かったが、どうすれば葵と別れさせられるのだろう。もはや葵のために別れてほしいのか、嫉妬心から別れてほしいのかも曖昧だ。
しかしただ一つ、このままではダメだという気持ちだけははっきりしていた。何としてでも、葵からあの人を引き離さなければならない。
藤岡紗良──なんであんな女性が存在するんだろう。優れた容姿で人の好意を弄ぶ、悪魔のような女。葵は貢ぐようなお金を持っていないから、本当に弄ぶのだけが目的なのだろう。なんて非生産的で、どこまで性悪なのか。
こはるが紗良について考えていると、隣の席から突然、甲高い笑い声が聞こえた。いつもなら大して気にしないのだが、今みたいな気分の時は少しばかり気に障る。
こはるがそちらに目をやると、大学生くらいの女性二人が座って話していた。派手な茶髪の人と清楚系の人。笑い声は清楚系の人のものだった。
「情報が古いなぁ、その人とはとっくに別れたわよ。元々、大して好きじゃなかったしね。その後、研修医と付き合って、今は大学の後輩と付き合ってるの」
どうやら、清楚系の彼女は恋多き女らしい。見た目からはとてもそんなタイプには見えないのだが、だからこそ相手はコロリと騙されるのだろうか。
どちらにせよ、気分の良い話ではない。特に、こんなタイミングでそんな話を聞かされると、嫌でも紗良を思い出させた。
「はぁ~? この短期間でどれだけ渡り歩いてんの、アンタ。相変わらずねぇ。で? その今カレはどんな感じなの?」
「それがさぁ、今回はちょっと趣向を変えて、見た目もお財布も平凡な純情チェリー君と付き合ってみたんだけどー」
「えー、男は顔とお金って豪語してたアンタが? まさか真実の愛に目覚めちゃった?」
「あははは、まっさかー! ウケるー! ほら、ご馳走ばっかり食べてたら箸休めが欲しくなるでしょ? お寿司のガリとか、あんな感じ?」
上手いことを言ったつもりなのか、また甲高い笑い声がキャラキャラと響く。あまりにも耳障りで頭が痛くなりそうだ。しかし、今はそれよりも話の内容が気になった。
パパ活をするような──男を取っ替え引っ替えするような女が、なぜ葵と付き合ったのか。この大学生の彼女のように、ちょっと箸休めのつまみ食い程度の気持ちなのではないだろうか。
「後輩君も、こんな女に引っかかって可哀想に……傷が浅いうちにさっさと別れてあげなよ?」
「言われなくても、長く付き合うつもりありませーん。そうねぇ、せっかくだしハジメテをパクッといただいてから別れようかな~」
「アンタ、そんな天国から地獄に突き落とすような真似……」
「あははは、でもたまにはこういうのも悪くないよー。大好き! って、ずっと尻尾振ってるワンコみたいでさー」
こはるは全身から血の気が引いたような感覚に襲われた。
箸休め? 長く付き合う気はない? ハジメテをパクッと?
もはや隣からの会話なんて耳には届かない。こはるの脳内では、紗良が葵をいいように玩具にして捨てる光景が浮かんでいた。そして、さっき見た葵の様子も。裏で誰かに面白おかしく葵の話をする、紗良の歪んだ笑顔も。
──ダメだ!!!
想像は確信に変わり、こはるの胸に強い憎しみが芽生えた。
そんなことは絶対に許さない。葵を傷つけることも、穢すことも。あんな女、葵ちゃんには指一本触れさせない。
許さない……許さない許さない許さない許さない許さないユルサナイ許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないユルサナイ許さない許さない許さないユルサナイ許さないユルサナイ許さないユルサナイユルサナイユルサナイ
「もうさぁ、そのうちマジで刺されるよ? ってか、刺されちゃえ」
「えー、ひっどー」
ああ、そうだ。そうすればいい。
刺せば──あの女がいなくなれば、葵ちゃんは救われる。他にもきっと大勢が騙されてるはずだ。私が行動すれば、葵ちゃんだけじゃなくて大勢の人が助かる。
あんな女は存在してはいけない、1秒でも早くこの世からいなくなるべきだ。
「私が守らないと……」
そう呟いたこはるが、ゆらりと立ち上がる。その口元にはとても穏やかな笑みを浮かべており、彼女がこれからとんでもないことをしでかそうとしているなんて、誰も思いもしない。
歩く足取りにも迷いはなく、まっすぐに施設内のキッチン用品売り場へと向かう。
こはるの去った後には、手付かずのままのカフェオレだけが所在なげに残されていた。
──15分後。
購入されたのは、刃渡り18cmの出刃包丁。人を刺すなんて考えたこともないこはるに、どれが一番殺傷能力が高いかなんてわかるはずもなく、しっかりとした厚みと長さがあるという理由だけでそれを選んだ。
「……よし」
女子トイレの個室の中、震える手で包装を剥ぎ、むき出しの刃物に触れる。硬い柄の感覚を確かめながら、買ってしまったからにはもう実行するしかないと目を閉じた。
葵たちが観ている映画が終わる頃、剥き身の包丁をトートバッグに忍ばせ、いつでも取り出せる状態にしてシネコンで待機する。興奮のせいか、足取りはフワフワと落ち着かないけれど、感覚だけは妙に研ぎ澄まされ、周囲の動きがやけにゆっくりと感じられた。
心臓の音がうるさい。体は熱いのに、指先だけが凍るように冷たい。周りの音が、ハウリングを起こしたように聞こえて気持ち悪い。
包丁を買いに行った時とは違い、充血した目で息を荒くしているこはるのおかしさに誰も気づかないまま、その時はきた。
シアターから出てきた二人を、少し離れた場所から目で追う。パンフレットを購入し、シネコンのロビーを横切っていく彼女達に気付かれぬよう、しっかりと距離をとりながらこはるは動き出した。
最初はゆっくりと歩を進め、徐々に足早に、そしてあと5mほどまで近づいたところでトートバッグに手を差し入れ、一気に駆け出して距離を詰めるその様子は、慎重な肉食獣の狩りのようだった。
「あなたが! あなたのせいで葵ちゃんは……! あなたさえいなければぁぁぁぁぁ!!!」
振り向こうとした紗良めがけ、どん! と体当たりするように脇腹に突き立てられ包丁は、あっけないほどあっさりと半分以上が埋まった。驚いたように見開かれた色素の薄い瞳と至近距離で目が合い、こはるの心臓が鳥肌を立てる。
──まだ、生きてる。
包丁を抜こうとすると、ぬるりと滑って上手く掴めない。刺す時よりも力をこめ、紗良を突き飛ばすようにして引き抜いた出刃の先を追うように舞った赤い飛沫。それを見て、茫然としていた葵が我に返り、引き攣ったような悲鳴を上げた。
鈍い動きで手を伸ばしてくる葵を突き飛ばすと、呆気ないほど簡単に転がる。こはるが葵を突き飛ばすなんて、長い付き合いの中でも初めてだった。
「こ……はる……」
そうしている間に、紗良もずるりと力なく崩れ落ちる。どれくらい刺せば人が死ぬかなんて分からないが、追撃する気持ちはもう湧いてこなかった。
腰を抜かし、涙で顔をぐしゃぐしゃにした葵を改めて見る。怯える彼女を安心させようと笑顔を向けたのに、その表情はより一層恐怖に染め上がった。
「ごめんね。……サヨウナラ」
紗良の血に濡れた包丁の切先を自分の首に向け、そして──、
愛されたかったなぁ……
強烈な痛みと薄れていく意識の中、それがこはるの最期の願いだった。
※ ※ ※ ※
いつものごとく夢から投げ出された私は、しばらく身動きが取れなかった。
見せられたばかりの映像が頭の中でずっとフラッシュバックして、迫り上がってくる胃液を必死で押し戻す。そうしてやっとの思いで落ち着きを取り戻し、そっと吐いた息の酸っぱさで眉間に皺が寄った。
真夏の熱帯夜のせいか夢のせいか、全身が汗だくだ。体を動かすとぬるりと纏わりつくような気持ち悪さに、夢での紗良やこはるの血を浴びてしまったように感じてしまい、胸元からこみ上げてくるような吐き気にまた襲われた。
まったく、なんて夢だ。一緒にランチを食べた後輩が好きな人を刺す場面なんて、たとえ夢でもトラウマものだ。
紗良の夢では刺されるところをはっきり見なかったし、その後のこはるのことまではわからなかった。出来ることなら、知らないままでいたかったと思う。
何かひとつでも違えばあんな悲劇は起こらなかったかもしれない。こはるの育った環境も、姉の彼氏も、あの世界で紗良を取り巻く噂も。映画だって貰ったチケットが違うものだったなら、こはるが紗良の話を最後まで聞いていれば、あの女子大生があそこで話していなければ、本当に何かひとつでも違ったなら、きっとあのバッドエンドは存在しなかった。
あれはこはるの中に渦巻いていた紗良への恨み、妬みが、『葵のために』という大義名分を得て起こした凶行だ。こはるの劣等感を強烈に刺激してくる紗良という存在が憎くて、殺してやりたいくらい目障りだったところに都合のいい言い訳ができてしまっただけ。
それなのに、加害者が被害者ヅラしているのが何よりも気に入らない。胸糞が悪いにも程がある。
それなのにこはるに同情してしまうのは、きっと彼女の最期の願いのせいだ。
ただ、愛されたかった。短い人生の中、最初から最後まで本当にそれだけが、そんな単純なことだけが、こはるの唯一の望みだったのだ。そして、その気持ちはきっと夢だけではなく、今も現実で抱えているものなのだろう。
「私にこはるは救えない……」
私の心は紗良のものだ。こはるに対して同情の気持ちはあっても、それは愛じゃない。むしろ、葵の気持ちをかっさらった憎むべき恋敵だ。
こんな私に、一体何が出来るというのか。
ゲームのシナリオを知っていても、前世での社会人の記憶があっても、そんなものは何も役にも立たない。勘違いするな、今の私は無力な女子高生だ。
私に出来るのは、このまま紗良をあの二人に近づけないようにすることだけ。紗良を守ることに全力を尽くす、それだけだ。わかってる。この優先順位だけは、絶対に間違えない。
それなのに、──それでも、と。そう思ってしまうのは、甘さか情か。そうするべきではないと頭では理解していても、きっと私はこはるを完全には見捨てられない。すでに私は、あの不器用な後輩を自分の懐に入れ過ぎた。
茹だるような暑さの中、胸の前で祈るように両手の指を絡める。枕元の時計なんて見なくても、まだ夜明けが遠いのはわかった。
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