64・とある少女の ③

「お姉ちゃんに映画のチケット貰ったんだけど、葵ちゃん一緒に行かない?」


 翌日の登校時、こはるが映画好きな葵を誘うと、嬉しそうに「行く行く! 何の映画?」と乗ってきた。

 最近は暗い気持ちになることも多かったが、葵と遊びに行けるのはやっぱり嬉しい。休みの日は紗良に会いたいからと断られる可能性も考えていたので、色良い返事にこはるの胸は躍った。


「これ。今週の金曜から封切りで、話題作みたいだよ」


 そう言って前売り券を見せると、満面の笑みがぴたりと固まる。そして、ゆるゆると申し訳なさそうに眉が下がり、葵は「あー……」と気まずそうに頬を掻いた。


「ごめん、それ日曜に紗良ちゃんと観に行く約束してるやつだ。もうネットで席も予約しちゃってるし、悪いけど他の子誘って」

「……そっか、それじゃあ仕方ないね」


 ――また藤岡紗良!

 せっかく久しぶりに葵と遊べると思ったのに。

 先に約束していたのが向こうなのはわかっているけれど、頭で理解しているのと感情とは別だ。少し前まで葵が真っ先に映画に誘うのは自分だったのにと、恨めしさが抑えられない。

 切望していた恋人の座を得られなかっただけでなく、これまでの自分の場所すら侵食してくる紗良の存在感に、こはるは焦りを感じていた。

 また他のを観に行こうと言う葵の言葉は、残念ながら今のこはるに届かない。そんな口約束をしても、どうせまた紗良と行くのだろうと思う程には、彼女の気持ちもやさぐれていた。


「いつかこはるにも紗良ちゃんを紹介したいな。見た目も中身も、すっごく素敵な子なんだよ」


 こはるの心の澱に気づくことなく、いつものように葵が惚気る。

 葵は誰とでもすぐ仲良くなるが、過去にこんなにも夢中になった相手はいなかった。少なくとも、こはるの記憶ではいないと断言できる。姉の彼氏も葵も魅了する藤岡紗良がどんな少女なのか、こはるだって気にはなっているのだが、会ったところでどんな顔をすればいいのやら。少なくとも、心からの笑顔で挨拶なんてできそうにない。

 会いたくないが、恋に浮かれる葵のこの様子だといつか突然連れて来られかねない。そうなる前に、紗良についての情報がもう少し欲しい。そう思い、葵には内緒で椿ヶ丘に兄弟姉妹がいる友人にさりげなく聞いて回ったところ、紗良についての噂話は驚くほどすぐに集まった。


 曰く、やはり目が覚めるほどの美少女だそうだ。

 曰く、口数は少なく無愛想とのこと。

 曰く、夏休みに数人の男子生徒と交際したが、短期間ですぐ別れた遊び人。

 曰く、パパ活をしているらしい。


 椿ヶ丘では有名人らしく、実際はどこまでが本当かわからないが、ほとんどの人が共通して口にしたのはこの4つだ。

 葵から聞いていた『見た目も中身もすっごく素敵な子』という話とはあまりにも違い過ぎて、こはるは少なからず混乱した。混乱したのだが、結論はすぐに出た。恋は盲目という。恋愛という分厚いフィルターを通して紗良を見ている葵と、他多数の人間の意見、こはるがどちらを信じるかは明らかだった。


「葵ちゃん、騙されてるんだ……」


 すぐにでも紗良から葵を引き離さないといけないと思ったが、葵に噂について話したところで「紗良ちゃんはそんな子じゃないよ」と相手にしてくれないだろう。むしろ、余計に頑なになってしまう可能性の方が高い。葵がそういう性格なのは、こはるもよく知っていた。

 だからといって、このまま何もせずにいるなんて出来るはずもない。どうしたものかと考え、ふと思いついた。


「そうだ、直接見に行こう」


 今週の日曜、二人は映画を観に行くのだから、待ち伏せて様子を窺うだけなら可能だ。何時上映のものを観るかは、葵からさりげなく聞き出せばいい。最近の葵は紗良について話したくて仕方ないのだから、デートプランについて尋ねれば聞いていないことまで教えてくれるだろう。

 もし紗良が噂通りの人物なら、何が何でも葵から引き離さなければならない。この時のこはるは、紗良を憎く思う気持ち以上に、葵を守らなければという使命感を強く抱いていた。

 そうして迎えた日曜日のお昼過ぎ、シネコンの片隅でこはるは葵と紗良を待った。背景に溶け込むような地味な服装で、物販の集団客に隠れるようにして待つこと20分。二人は姿を現した。


「――うわぁ」


 葵の隣にいるのが紗良なのはすぐにわかった。そして、姉や葵が言っていた意味も理解した。藤岡紗良は、噂通りのとんでもない美少女なのだと。憎き恋敵だと認識しているこはるでさえ思わず感嘆の声を漏らすほどに、紗良は美しかった。

 すれ違う人が思わず振り返る美貌。無邪気に話しかける葵に対して、言葉少なに対応する素っ気なさすら、その美しさをクールに際立てている。真っ白なニットを着ている葵と黒いシャツの紗良という対比もまた、そう見せていたのかもしれない。


 あれが、藤岡紗良。類い稀なる美しさと優秀さを兼ね備え、何人もの男を手玉に取り、今まさに葵を弄んでいるという悪魔のような少女。そんなに何でも自分の好きに出来るのなら、さぞかし人生楽しいだろう。――そう思っていた。だというのに、実際の彼女を見た印象は全然違った。


「つまらなさそうな顔……」


 誰もが欲しがるものを何でも手に入れて、認められて、大事にされて、幸せじゃないなんてあり得ない。認められない。

 葵が話しかけても、甘えるみたいに腕を組んだり寄りかかったりしても、困ったように離れようとするだけの恋敵へと次第に苛立ちが募る。

 こんなところまで、自分は何を見に来たのだろう。もちろん紗良の顔を拝みに来たのだが、想像していたのとはなんだか違った。付き合い始めの恋人たちには、もっと満ち足りた空気が漂っているものだと思っていたのに、あの二人の間には――少なくとも藤岡紗良からはそれが感じられない。

 公衆の面前でも構わずイチャつくべきだとか、決してそんな話ではなく、これではまるで葵だけが恋してるみたいだ。やっぱり、紗良にとって葵はただの遊び相手なのか。男ばかりを手玉に取ってきたが、ちょっと気が向いて女にも手を出してみただけなのだろうか。

 あんなふうに嬉しそうに尻尾を振って、他の女に媚を売るような葵なんて、こはるは見たくなかった。

 愕然とした想いで二人を見つめていると、上映前に葵がお手洗いに行ったのだろう。紗良だけが残り、ロビーのソファに座った。

 少し離れた場所からこはるが様子を窺っていると、葵の姿が通路の向こうへと消えていった後、紗良はさっきまで葵が腕を絡めていた右腕をじっと眺め、綺麗な形の眉を寄せていた。どうしたのだろうと不思議に思ったが、次の瞬間、こはるは怒りで体を震わせた。

 さっきまで葵が身を寄せていた腕を、紗良はまるで汚いものがついているかのように叩いたのだ。何度も、執拗に。

 ここに来た時は声をかけるつもりなんてなかった。むしろ隠れてやり過ごすつもりだったのに、どうしても我慢出来なくて、紗良がどんなつもりで葵と付き合っているのか知らないままだと気がおかしくなりそうで、こはるは吸い寄せられるように近づいた。


「藤岡紗良さん」


 声をかけると、華奢な肩がビクンと跳ね上がった。訝しげに見上げる顔は、近くで見ても腹が立つほど整っている。


「はじめまして。私、若島こはる。葵ちゃんの幼馴染で、二人の関係は葵ちゃんから聞いてます」

「えっ? あ、はい、初めまして」


 顔だけじゃなくて、声まで良いのが腹立たしい。思っていたより可愛い感じの声だ。

 葵がこはるに話していることを知らなかったのか、まだ疑わしそうな表情を崩さない彼女に、こはるは言った。


「貴女、葵ちゃんのこと好きじゃないのに、なんで付き合ってるの?」


 その途端、紗良の目が大きく見開かれた。反射的に「ちがっ……」と否定の言葉を口にしようとしたが、確信に満ちたこはるの強い眼差しにたじろいだようにぐっと黙る。そして少しの躊躇いの後、「そんなにわかりやすい?」と、観念したように聞き返した。


「やっぱり……」

「あの、でもっ」

「本気じゃないなら、付き合ったりしないでよ。葵ちゃんを傷つけないで!」


 紗良が何か言おうとしたようだったが、好きでないと認めたのなら、こはるにとってはそれが全てだ。今は葵が戻ってくるまでに話を終わらせなければないのでゆっくりと話す時間もないし、その必要性も感じなかった。


「早く別れて。話はそれだけ」


 好きじゃないならいいでしょう? と、念押しのつもりで口にしたのだが、意外にも紗良は切なげな表情で押し黙ってしまった。早く返事をしろと無言の圧をかけるこはるに、意を決したように顔を上げた紗良が言った。


「ごめん、それは無理」

「なんで!?」

「貴女には関係ない」

「っ……!」


 残念ながら、その通りだ。こはるは葵のただの幼馴染で、二人の関係に口を挟む権利なんてない。

 友達だから心配して言っているのだと押し通すことも出来たかもしれないが、それを堂々と口にするには胸の内に抱えているものが多過ぎるし、それを棚に上げられるほどこはるは大人になりきれていなかった。

それに、残念ながらタイムアップだ。もういつ葵が戻ってきてもおかしくない。


「……もういい」


 踵を返し、足早にその場を去ろうとするこはるに、紗良が慌てて立ち上がり「待って」と声をかけたが、それを振り切って下りのエスカレーターへと向かう。

 後に残された紗良は遠ざかっていく背中を追うこともなく、こはるの姿が見えなくなった後もただじっと見つめていた。

 紗良のシャツの左袖に葵の白いニットの毛がたくさんついていたことに、こはるは最後まで気づかなかった。

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