38・風邪と看病と
夏休みを数日後に控えた朝、制服に着替えていると机の上でスマホが鳴った。
シャツのボタンをとめながら覗くと、画面の上には藤岡紗良と表示されており、当然すぐに内容を確認した。
『朝からごめんなさい。風邪ひいたみたいだから、学校休むね』
『風邪って大丈夫? 熱とか咳はどう?』
『熱は38.6どだった。席はないけど、頭痛いよー。京は大人しく寝とくね』
『そうして。冷えピタとか薬はある? ご飯は簡単に食べれるものある?』
『薬とかはないけど、五番はカップのうどんとかあるから大丈夫』
『わかった。学校終わったら必要そうなもの届けに行くから、欲しいものがあれば連絡して』
『いいよー、詩織さんにうつしたら悪いし。これくらい兵器』
さっきから、いつもはしないような変換ミス繰り返しておいて、何が平気なんだか。初めて会った時から、こういう遠慮しがちな性格は変わっていない。そんな紗良に少しだけムッとして、
『拒否権はありません。行くから』
と、やや強引に了承させる。これくらいしないと、多分あの子はOKしてくれないだろう。
だから、『ありがとう、助かる』という返事に、少しだけ安堵した。
「というわけで、今日は生徒会のお仕事休むから」
紗良の一大事に、そんなことしてられない! と、朝一番に陽子に休む旨を伝えると、呆れたような顔で「わかった。会長にも言っとく」と頷いた。
本当なら生徒会どころか学校も休みたいくらいの気持ちだけど、さすがにそれが許されないのはわかっている。どこでもドアがあれば、休み時間の度に駆けつけれるのにと、まだ猫型ロボットが誕生していないことを悔しがる程度には紗良が心配だ。
「でもさ、紗良ちゃんの家族は? 共働き?」
「あ、ええ、共働き。今日も遅くなるみたい」
「そっかー、そりゃ心配だよね」
紗良が一人暮らしをしていることは、防犯のためにも周りには秘密にしている。
いつもならそれでいいのだが、こういう時、一人暮らしは心細いだろう。まだ16歳ならなおさらだ。
「弱ってる子に手を出さないようにね」
「だから、そういうのじゃないってば」
相変わらず、陽子は私が紗良に恋をしているのだと思っているらしく、時々こういうことを言ってくる。会長との一件以来、セクハラ発言は少し減った分、私と紗良の関係について口にする回数が増えた気がする。というか、確実に増えた。
何度否定しても、はいはいって感じで流されるものだから、ちょっとイラッとする。
「友達なんだから、心配くらいするわよ」
「えー、じゃあさー、私が一人で寝込んでたら、詩織はわざわざお見舞い来てくれるの?」
「絶対行かない」
「あはは、ほらねー!」
ほらねー! じゃない!
紗良はほら、推しだから。それに一人暮らしだし、可愛いし、年下だし、推しだから!
好きとか、そういうのじゃないから!!
※ ※ ※ ※
氷枕、冷えピタ、風邪薬、スポーツドリンク。あと、みかんの缶詰と桃の缶詰、プリンとゼリー、お粥を作るための卵とネギ。ご飯は紗良の冷凍庫にあるからすぐ作れるはずだ。
これだけあれば大丈夫だろうと、一階から紗良の部屋のインターホンを鳴らすと、少し気怠げな声の後、オートロックの扉が開いた。寝てたらどうしようかと思っていたが、起きてて良かった。
「こんにちは、紗良。……まだしんどそうね」
通された玄関で迎えてくれたのは、まだ顔を赤くして体に力の入っていなさそうな様子の紗良だった。私が来たことで余計に無理をさせてしまって、途端に申し訳なくなる。
「起こしてごめんね、また寝てて。薬とか冷えピタとか色々買ってきたから、早速使ってね」
「ありがとう……」
ぽやぽやとしている紗良を布団に押し込み、おでこに冷えピタをぺったん。氷枕はすでに冷えているものを買ってきたから、これもすぐ使える。直接だと冷たすぎるから、タオルに巻いて頭の下に敷いてあげると、気持ちいいのか表情が少し和らいだ。
「薬は、っと。紗良、ご飯はいつ頃食べたかわかる?」
「……11時半くらい」
「そう、じゃあ先に何か軽くお腹に入れた方がいいわね。プリンとゼリーと桃缶とみかんの缶詰、どれか食べれそう?」
「……桃缶、食べたいな」
食べれそうじゃなくて、食べたい。良かった、どうやら食欲はあるみたいだ。ベッドの中の紗良に「少し待ってて。キッチン借りるわね」と、勝手知ったるキッチンに向かう。
冷蔵庫の中に入れておくものは全部しまい、ガラスの器に食べやすいサイズにした缶詰の桃を盛り付け、薬と水と一緒にお盆に載せて寝室に運んだ。
「お待たせ。少しだけ起きれる?」
「うん……」
せっかく横になったのをまた起こすのは忍びないが、背中を支えてゆっくりと体を起こす。触れた背中は熱く、汗でしっとりと湿っていた。
桃を入れた器を差し出すも、受け取ってぼんやりと見つめたまま。口に運ぶのも億劫なほどしんどいのかと、試しに私がフォークで桃を口まで運んでみると唇を小さく開き、ぱくりと食べた。
「……おいし」
「――――――っ!!」
これは看病! これは看病!!
美味しいと言って小さく微笑む紗良に、うっかり撃ち抜かれてしまった。相変わらず、私の推しは不意打ちで可愛さをばら撒いてくる。防御してないものだから、破壊力は抜群だ。
『弱ってる子に手を出さないようにね』
おそらくこれはゲームで言う『看病イベント』に該当すると思うのだが、もちろんそんなことはしない。
ただ、実は以前から看病イベントそのものに対して、「病人に何してるんだ! そもそも、病人相手にそんな気持ちになるなんて!」と疑問に思っていたのだけど、長年の疑問は今解消した。
弱ってる時の破壊力は、大増量マシマシだ。
よくわかりました。ええ、わかりましたとも。
頼りきってくる信頼感、庇護欲をそそる弱りっぷり、潤んだ目、上気した頬。そして、火照った体。愛おしさまで大増量してしまうのも無理はない。
まあ、私は紗良に恋愛感情はないから、何かしようなんて思わないけど!
ものすごくドキドキしてるけど、これは推しの尊さに心臓が打ち震えてるだけだから!!
桃を食べ終わった紗良に薬を飲ませる。これで少しは楽になればいいのだが。
サイドテーブルにお盆を置き、紗良にはもう横になるよう促そうとしたら、左手で私の腰のあたりのシャツを摘まれた。
「……詩織さん、帰っちゃうの?」
寂しそうにそう訊いて、コテンと頭を肩に預けてきた紗良に数瞬、頭がついていかなかった。
しがみつく体力もないのか、ただ力なくもたれ、添える程度に手が回される。カッと身体中が熱をもった。しなだれかかる紗良の熱さに、ふわりと立ち上る汗の香りに、こちらまで頭がクラクラしそうだ。
無意識に、ごくりと唾を飲み込む。
「まだ、いるわよ」
少しかすれてしまった返事に、肩のあたりで「良かった」と呟き、甘えるように首筋に額を寄せた。シャツ越しに、浅い吐息を感じる。熱く、甘いそれに、――何かが弾けた。
無防備に体を預ける彼女の肩を掴み、ゆっくりと横たえる。軟体動物みたいに抵抗なく、くにゃりと枕に頭を埋めた紗良の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけたが、彼女は自分がどういう状態かわかっていないようだった。
目を閉じたままの紗良が私の手に頬を摺り寄せ、気持ちよさそうに「冷たい……」と呟く。そこでようやく、さっと頭が冷えた。私こそ自分がどういう状態なのかを理解して、あんなに熱かった身体が今度は冷や汗を流す。
「お……おやすみなさい」
逃げるように寝室を後にして、扉を閉めたところで自身を抱きかかえるようにして崩れ落ちた。
今、私は何をした? あの子に、紗良に、一体何をしようとした!?
信じられなかったし、信じたくもない。まさか自分があんなことをするなんて。前世も今世も含め、理性が飛ぶほどの欲なんて初めてだった。押し倒したあの時、私の顔はさぞかし欲に染まっていたことだろう。
……紗良が目を閉じてくれていて助かった。
『弱ってる子に手を出さないようにね』
陽子の冗談が、今となっては笑えない。
さっきの私は、まさに手を出そうとしていたのだ。弱った紗良に、同意もなく触れようとした。
今まで陽子にあれだけ言われても恋ではないと言い続けてきたが、その最たる理由が紗良に触れたいと思わなかったことだ。しかし、もうそんな言い訳は出来ない。出来ないくらい、自覚してしまった。
――これが恋か!
相手が何より大事で、そばにいたくて、愛おしい。それでいて、相手の全てを求めてしまうほどに欲深く、獰猛なこの感情。こんなもの、私に飼い馴らせるのか。
こんなの、私の知っている恋じゃない。恋は、片思いは、もっと楽しくキラキラしたものだと思っていたのに。なんだ、これは!
「気づきたくなかった……!」
気づかなければ、幸せなまま一緒にいれたのに。
こんな厄介なものを抱えて、あんなことをしでかしておきながら、これから先、私はどの面下げて紗良といればいいのだろう。そもそも、そばにいてもいいのだろうか。
底なし沼に捕まってしまったような絶望に、私はしばらく動くことすら出来なかった。
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