第8話

 *


 あたしには、前世の記憶がある。

 いつからこの記憶があったのかは覚えていない。最初は、それが前世の記憶だとすらわからなかった。まるで白昼夢のように、現実と同じくらいの鮮明さで、ずっとその記憶を持っていた。しかもそれは最悪の記憶で、いつもあたしを苦しめていた。


「なんでそんなことするの⁉︎」


 記憶の中のあたしは、いつも怒っていた。


「んなもん、面白いからに決まってるじゃないですかぁー」


 でも。怒鳴りつけたその相手は、まるで意に介することなくヘラヘラと笑っていた。沸点を超えていた怒りは、さらにその色を増していく。


「次マリナに酷いことしたら……殺すからね」

「おーこわっ」


 記憶の中のあたしは……一つ下の妹へのいじめをなくすべく奔走していた。

 自由に動ける時間は、とにかく妹のことを気にかけていた。

 いじめている相手を叱り、何もしてくれない大人に詰め寄り、なるべく妹と一緒にいることで、あたしは妹を守っている気でいた。

 妹と一緒に暮らしていた家の家族からもなぜか同じように暴力を振るわれ、時には妹を庇って殴られたりもしていた。

 絶対に妹は傷つけさせない。その一心で、あたしは行動していた。

 しかし。妹へのいじめは、一向に止むことはなかった。


「私、もうどうしたらいいかわからない……」


 ある日の夜。妹はそれだけ呟くと、突如として夜の闇に飛び出していった。


「待って!」


 記憶の中のあたしは、すぐにその後を追った。暗闇に紛れてしまいそうな小さな背中を、必死に追いかけた。そして――


「危ないっ!」


 大きな道に飛び出した妹の前へ、眩しいほどの光が迫っていた。

 あたしは咄嗟に妹を突き飛ばし、その前に立ち塞がった。

 そこで、あたしの記憶は途切れていた。

 あたしは……妹を守れていなかった。

 下手に動いて、ただ状況を悪くしていただけだった。

 もう、同じ過ちを繰り返したくなかった。

 あたしは、妹に笑っていて欲しかった。

 ただ幸せに、無邪気に、毎日を楽しんで欲しかった。

 あたしはマリナを、妹を…………今度こそ、守りたいんだ――。



「――ユナッ!」


 すぐ近くで名前を呼ばれ、あたしはハッと気がついた。

 そこには、見慣れない木製の天井があった。随分と日焼けしており、建てられてからそれなりの年月が経っているのだろう。

 ぼんやりとする頭で、周囲を見回す。

 どうやら、あたしはベッドの上に寝かされているらしい。左手には窓があり、薄い光が差し込んでいる。朝方だろうか。それとも、夕方に近い時刻……?

 そして徐に首を右へと回し、そこにいる人物を認識してから……意識が急速にはっきりとしていった。


「マ、ナ……?」

「ユ……ユナ? ユナ…………ユナァァッ!」


 目元に涙を浮かべていたマナが、物凄い勢いで抱きついてきた。いきなりの衝撃に、「おふっ!」と思わず声が漏れる。


「ちょ、ちょっとマナ……落ち着いて? ね?」

「む、むりぃぃぃ……グスッ、ううっ……」


 力を弱めるどころか、むしろどんどん強くなっていく始末。思うように息を吸えず、結構苦しい。それに、痛い。

 でも。それと同じくらい、あたしは嬉しかった。


「マナ……その、大丈夫……だった?」


 意識はもうほとんど覚醒しており、それと同時に今自分が置かれている状況を再認識する。

 マナの反応と、今の今まで自分が寝ていたことを踏まえると、きっとあたしは採録の場から逃げるために川へと飛び込んだ後、ずっと気を失っていたんだろう。マナのぐずり具合から察するに、それなりに長い時間が経っているように思えた。


「う、うん……グスッ、私は、大丈夫だよ……。でも、ユナが……ユナがぁぁぁぁ……」

「もうほら。あたしは大丈夫だから、いつまでも泣かないの」

「う、うえっ……うえぇぇぇん……」


 また泣き出してしまった。心配してくれるのは嬉しいのだが、話が一向に進まない。ここはどこなのかとか、あれからどれくらい経ったのかとか、聞きたいことはたくさんある。


「まあ、でも……」


 あたしは、そっとマナを抱きしめた。長く艶やかな銀色の髪を撫でつつ、華奢な背中をさする。

 今優先すべきは、マナの心のケアだ。その後の顛末なんて、二の次でいい。


「大丈夫……大丈夫だから」

「グスッ……ううっ、お姉ちゃん……ごめんなさい……ごめんなさいぃぃぃ…………」

「……あ」


 お姉ちゃん、という言葉に、あたしは自分の読みがまだまだ甘かったのだと悟った。

 マナがあたしのことを、「ユナ」ではなく「お姉ちゃん」と呼んだのは、前世の記憶に苦しんでいた時以来だ。立ち直ってからは、一度として呼ばれたことはない。バカをやらかして気を失ったことは何度かあったが、それでもマナは心配しつつも、「相変わらずなんだから、ユナは」と笑ってくれていた。

 でも今は、そうじゃない。

 泣きながら、「お姉ちゃん」と呼んでしまうくらいだ。

 何を思ってか、「ごめんなさい」と繰り返してしまうくらいだ。

 そのくらい、今のマナは精神的に追い込まれている。


「大丈夫。あたしはここにいるよ。もうマナをひとりになんてさせない」

「ぐすっ……ほ、ほんと……?」

「うん、ほんと。だから、謝らないで。マナは……マリナは……何も悪くないよ」

「うっ……ううっ……」


 優しく、柔らかく、なるべくいつも通りの口調で、あたしはマナを宥め続けた。


「マナ……」


 あたしは、前世で妹に寄り添いきれなかった。

 妹の気持ちをよく聞きもせず、自分自身がこうすべきと思ったことばかりを行動に移し、そして失敗した。

 その行動すべてが悪かったとは言わないが、少なくとももっと上手く行動できたんじゃないかと思う。妹へのいじめも、家庭内暴力も、もしかしたら無くすことができたかもしれない。普通に生活することも、幸せな毎日を過ごすことも、多少時間はかかってもできていたかもしれないのに……。


「大丈夫、大丈夫だよ……――」


 もう、同じ失敗はしたくない。

 あたしは、マナと一緒に楽しく過ごしたい。

 くだらないことで笑って、呆れられて、からかわれて、そしてまた笑顔になって……。


「あたしはずっと、そばにいるから――」


 背中に手を置き、彼女を抱きしめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 少しでも、あたしの「お姉ちゃんとして」の、そして「ユナとして」の……言葉が伝わるように――。


 しばらくそうしていると、最初はそうとわかるほど震えていたマナの身体が、徐々に落ち着きを取り戻していった。しゃくりあげる声も小さくなり、やがてゆっくりと彼女は顔を上げた。


「……ぐすっ…………その、ごめん……ユナ。ちょっと、取り乱しちゃった……」


 恥ずかしかったのか、マナの頬は真っ赤に染まっていた。


「ううん、いいよ。マナはあたしの妹なんだから、いつでも甘えにおいで。あたしの胸は、マナのために空けといてあげるからさ」


 冗談っぽさを含め、あたしは大仰に胸を張ってみる。すると、マナはそんなあたしの行動を見て、クスリとひとつ笑みをこぼした。


「ほんとにもう、ユナったら」

「ふふっ、いいじゃーん!」


 今度はあたしからマナに抱きつく。

 あったかいなあ……。

 なんだか今度はあたしが泣きそうだ。でも、そんなことをしていては永遠に先に進まないのでグッと堪える。

 あたしがマナの温もりに浸っていると、突然入り口のドアが乱暴に開いた。

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