第7話

 **


 ふわりと、風が私の鼻先を掠めた。

 磯の香りがする。なんだか懐かしい。

 海鳥の声が断続的に遠くから聞こえ、徐々に私の意識を覚醒させる。


「ここ、は……?」


 そっと目を開けると、深い青色が見えた。一瞬海の色かと思ったが、もしそうだとするならば、私は今海中にいることになる。

 でももちろん、そんなわけはない。磯の香りも、海鳥の声も、海を連想させるが海の中では感じられない。

 だとするならば、ここは陸の上なわけで。

 仰向けで寝そべっている体勢からして、この青は間違いなく……空だ。


「私は、いったい……?」


 朧げな思考の中、記憶を掘り起こす。

 確か、ユナと採録のために教会に向かって……そこで、ユナの右手が青く光って……勇者だって騒がれて……それで…………


「――っ! ユナッ⁉︎」


 状況を認識し、私は飛び起きた。

 視界が反転する。

 私がいるのは、岩場に囲まれた小さな入り江だった。きっと、カーナの近くにある砂浜沿いのどこかだ。


「ユナ! どこっ⁉︎ ユナッ!」


 一定のリズムで潮騒が響く中、私は必死で辺りを見渡した。けれど、誰もいない。

 もしかして、私だけが流れ着いた?

 嫌な考えがよぎる。

 まさか、あのまま川に飛び込んで、流されて、私だけが生きたままこの入り江に……?


「うそ……うそっ! ユナッ! どこっ⁉︎ 返事をして!」


 頭を激しく振り、最悪のイメージを無理矢理かき消す。軋む身体に鞭を打ち、私はどうにか立ち上がった。でも、足元がふらついて思うように歩けない。


「もうっ、こんなときに……!」


 ひ弱な己が身が情けなくて、腹が立った。教会でも、ユナがいなければ私は死んでいた。ユナの機転と行動力に、私はただ身を任せるばかりだった。


「もう……っ! 動いて! 動いてよっ!」


 涙が頬を伝う。

 私のせいで、ユナを危険な目にあわせた。

 私のせいで、ユナが傷ついた。

 私のせいで、私のせいで……私の――。


「あっ…………!」


 よろめきながらユナを探していると、岩場の影に人の足先が見えた。一瞬身体の痛みを忘れ、一目散に駆け寄る。

 切り立った岩と岩の狭間。波が打ち付ける小さな干潟に……ユナが倒れていた。


「ユナッ!」


 泥まみれになりながら、彼女の身体を抱き起こす。


「ユナ! 目を開けて! ユナッ!」


 何度も何度も名前を呼ぶ。

 傷だらけの身体を激しく揺する。

 頬を叩いてみる。

 でも、目を開けてくれない。


「ユナッ――!」


 そんなわけない。

 そんなこと、あるはずがない。

 そんなこと……あっちゃいけない!


「お姉ちゃぁぁんっ!」


 こだます絶叫の中で、私の脳裏にははるか昔の記憶――前世での記憶が、蘇っていた。



 私には、物心ついた時から前世の記憶があった。

 記憶、といってもほんの一部だけ。それも、一番持っていたくない、忘れたい記憶だった。

 前世で私は、こことは別の世界――日本という国で暮らしていた。その国には戦争がなく、魔術がない代わりに科学が発展しており、人々の生活は豊かで、実に平和そのものだった。

 そんな記憶の中で、私は「中学生」という学生の身分だった。もう一年もすればその身分を終え、次の未来へと進む。そんな変化に富んだ環境に、記憶の中の私はいた。

 本来なら、未来への希望や期待に胸を膨らませ、楽しく過ごしているのだろう。少なくとも、記憶にある周囲の友達はみんなそうだった。

 でも。私は違っていた。


「お前さ、なんで生きてんの?」


 前世で、私はいじめられていた。

 理由はよくわからない。ただ、前世でも私は両親を亡くしていて、身寄りのない私と一つ年上の姉を遠縁の親戚が引き取ったあたりから、いじめが始まった。

 これでもかと罵詈雑言を浴びせられ、持ち物を勝手に捨てられ、時には暴力を振るわれた。

 それは外だけでなく、家の中でも同じだった。


「引き取ってやった恩を忘れるなよ、この小娘が」


 当たりの強い親戚。

 信用できない周りの学生。

 見て見ぬフリをする、周囲の大人たち。

 本当に、疲れていた。疲れ果てていた。精神を擦り減らし切っていた。

 私がかろうじて生きていられたのは、大好きな姉がいたからだった。


「私が絶対、マリナを傷つけさせたりしないから!」


 マリナというのは、前世における私の名前だ。

 姉はいつもそう言って、私の味方でいてくれた。

 私をいじめていた人を叱りつけ、時には殴り合いの喧嘩になってでも止めてくれた。

 親戚から暴力を受けていた時も、すぐに駆けつけて私を庇ってくれた。

 こっそり働いて貯めたお金で、たまに二人で遠出したり遊びに行ったりした時はすっごく楽しかった。

 ……でも。それと同時に、私のせいで傷つく姉を見るのが、とても辛かった。


「私、もうどうしたらいいかわからない……」


 いつものように親戚から暴力を受けた日の夜。姉と二人で少ないご飯を食べていた時に、堪らなくなって私は家を飛び出した。


「待って!」


 後ろから、姉の悲痛な叫び声が聞こえた。

 悲しかった。

 どうして私が、こんな目に遭わないといけないんだろう。

 どうしてお姉ちゃんが、傷つかなければならないんだろう。

 どうして……普通に楽しく、幸せに暮らせないんだろう――。


「――危ないっ!」


 心に浮かぶ疑念の嵐を振り払おうといくらか走ったところで、姉の悲鳴が聞こえた。

 その声でハッと我に返ると、何か大きな塊が物凄い勢いですぐ目の前に迫っていた。

 あ、死んだ。

 嬉しさにも似た、そんな考えが浮かんだその時、想像以上に弱い衝撃で私は吹っ飛ばされた。


「きゃあっ⁉︎」


 ゴロゴロと数回転がり、やがて止まる。想定していたよりもずっとずっと弱すぎる衝撃に、私の頭は混乱していた。そして元いた方を振り返ると……


「あ……あ…………あぁぁぁっ…………」


 血の海に沈む姉が……倒れていた。

 記憶は、そこで終わっていた。


 私のせいで、お姉ちゃんが傷ついた。

 私のせいで、お姉ちゃんは死んだ。

 私のせいで、お姉ちゃんは不幸になった。


 私がいなければ、お姉ちゃんは傷つくことはなかった。

 私がいなければ、お姉ちゃんが死ぬことはなかった。

 私がいなければ、お姉ちゃんは幸せに過ごせていたはずだ。


 お姉ちゃんは絶対、私を恨んでいる――。


 後悔と悲しみと自己嫌悪が渦巻く記憶に、私はずっと苦しめられていた。何度も何度も夢に見た。血だらけで倒れている姉の姿が、頭から離れなかった。うなされて起きて、ユナに背中をさすってもらう。そんな夜が、よくあった。


 ――マナって……昔のあたしの妹にそっくりなんだよね……


 あの言葉を聞いたのも、夜だった。幼い頃。両親を亡くしたばかりで、行く宛もなく二人で路地裏を彷徨い、身体を寄せ合って眠ろうとしていた時に、ポツリとユナが呟いたのだ。


「昔の、妹……?」

「そう。あたしね、なんかよくわかんない記憶があるんだ。その記憶の中で、あたしは妹と暮らしているんだけど、他の一緒に暮らしている人とか、周りの人がクズばっかりでさ。大事な妹をいじめてくるの」


 どこかで、聞いた話だと思った。……いや。知っている話だと、思った。


「それで、あたしは妹へのいじめをなくそうと頑張るんだけど、上手くいかなくて。……結局、その妹……マリナを、守れなかったんだ」

「――え?」


 本当に、衝撃だった。驚愕していた。言葉では表せないくらいに、私は驚いていた。


 だって、だって……その名前は――。


「私……マリナ、だった……よ……?」


 気づけば、私も呟いていた。


「え……」

「私、わたし……っ! うわあぁぁぁんっ! おねえちゃんっ! ごめんなさい! ごめんなさいぃぃ……!」


 全てを、吐き出していた。

 自分の気持ちを素直に話せず、傷つけて、死なせてしまったことをずっと謝りたかった。

 私を守ってくれていたことに、ずっとお礼を言いたかった。

 辛かった日常を。その中でも一緒にいられた時間は楽しかったことを。本当に大好きで、かけがえのない大切な存在だったことを――私は前世の記憶とともに全て話していた。


「そっか……グスッ……そっか……」


 ユナは、目に大粒の涙を溜めて、抱き締めてくれた。そしてなぜか、嬉しそうに笑ってもくれていた。

 そのことに、私はまた心底驚いた。

 だって、本当にユナが前世で私の姉だったなら、私のことを絶対憎んでいると思っていたから。

 しかも詳しく聞くところによると、ユナも私と同じ前世の、それも同じ時期の一番辛い記憶を持っていた。

 多少鮮明さに違いはあれど、大枠は同じで。聞けば聞くほど、ユナは間違いなく前世でも私のお姉ちゃんだと思った。

 と同時に、恨まれていないことが本当に不思議で、本当に嬉しくて、本当に申し訳なかった。

 でもユナは、そんな私の言葉を正面から受け止めて……そして言ってくれた。


「――今度こそ、一緒に幸せに生きていこうね!」


 あの言葉のおかげで、私は救われた。

 あの日から、私はまた前を向いて歩き始めることができた。

 お姉ちゃんとの、ユナとの、幸せな未来を目指して――。

 それなのに…………

 それ、なのに……………………――


 私の手には、魔王の運命紋が浮き出た。


 ユナの手には、勇者の運命紋が浮き出た。


 そしてまた、私のせいでユナが傷ついている……。

 私はこれから、どうしたらいいんだろう……――。

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