3


 一年前──。

 

 バシャ、バシャ、バシャ──。


 走るたびに足元で飛沫が舞った。雨は降っていない。跳ねあがるのは全て血液だ。

 辺りには絶えず断末魔が響き、怨嗟の声が後ろ髪を掴むようだ。

 首元に絡みつく冷たい殺意を振りほどくように走り続ける。

 熱い呼気が漏れ出る度に、体温が下がっていくようだった。

 激しく揺れる視界の端では、虫のように命が摘まれていく。


──やめてくれ。そんな目を向けないでくれ。


 こちらを乞うような、請うような、目。

 がら空きの首元に無力さを突きつけられるようだった。


「・・・ぁ」


 だからといって何ができる?


 逆立ちしたって人間は機械には敵わない。そんなことは私が一番よく分かっている。そういう風に創ったのだ。間違えても人が勝つことなどないように。そんな殺戮人形の群れに飛び込んで勇猛果敢に人々を助けに行くこと、それ即ち死と同義だ。


 では、ここで死ぬことに何の意味がある?ここで死んで、一体何が残る?


──何も。


──何もない。


故に、助けにいくメリットは一切ない。


「・・・ッ!!」


 自分に言い聞かせる。


 目的を違えるな。

 感情に囚われるな。非情に成れ。

 向かう先は一つだろう。


 一人、また一人と見捨てる度に脳の一部がショートしていくような気がした。


 元よりまともな倫理観など持ち合わせていないが、それでも虐殺を嬉々として眺められるほど破綻もしていない。希望を無くした人々の仄暗い、恨みすら籠っている瞳は容赦なくこちらを突き刺し、えぐる。


 なぜ助けてくれない!!

 どうして見殺しにするんだ!!


 言葉が明瞭な形を持つ前に、彼ら彼女らは物言わぬ物体へとなり果てる。

 しかし、その暗澹あんたんたる意思は重く、激しく背中に圧し掛かる。


・・・当然だ。私とて、きっとそう思う。


 刹那的な激情の前では、あらゆる合理性も論理も意味をなさない。


「ハァ・・!ハァ・・!」


 みるみる内に動きの鈍る老体に鞭を打つ。こんなところで終わるわけにはいかない。

 私には使命がある。外の世界に向けて伝えなければならないのだ。

 この国の──、国の皮を被った巨大な実験施設の実態を。

 そして、然るべき罰を受けなければいけない。

 私自身も含めて。


「・・・!!!」


 阿鼻叫喚の大通りの先、少しずつ地下鉄の駅が見えてくる。脱出のため、あらかじめ設定したランデヴーポイントだ。


 既に足は限界を超え悲鳴を上げていた。だが、更に一段階ギアを上げる。

 “セントラルシティ”の文字看板を目掛けて、ひた走る。

 ゴールはもう、目と鼻の先だ。


「!?」


──刹那、視界が大きく揺れる。


 気付いた時には、地面が眼前まで迫っていた。手をついて何とか姿勢を保つ。

 躓いた、と一瞬巡った考えは燃えるような激痛で払拭される。

 四つ這いのまま振り返る。

 足に突き刺さった小型の槍、その向こう側から向かってくる──、無表情の機械人形。


「・・・クソっ!!」


 足に刺さった鉄製の棘を抜こうとする。が、返しが引っかかって抜けない。先っぽの方から伸びたロープは、今にもこちらを殺そうと向かってくるアンドロイドに繋がっていた。


 どうにか抜け出せないものかと必死に足掻く。


「・・・っ!」


 徒労に終わる。

 やがて、つま先の距離にまで人形は迫ってくる。

 ガラス玉のような無機質な瞳には、歪んだ自分の姿が映っていた。

 アンドロイドはあくまで無感情アパシーに、淡々と任務を遂行しようとしていた。

 たとえそれが、生みの親だとしても。


──刃物と化した右腕を振り上げる。


 後は首なり、腕なり、重要な血管の集中する部位を目掛けて振り下ろされるだけだ。

 それで、終わる。


「・・・レプリカめ」


 白髪の老人が零した言葉。

 唯物的思想を是としてきた男にとって、それは晩節を汚すに等しい失言だった。

 が、そんな戯言で、アンドロイドの動きは止まる。

 掲げた刃は空中でギラリと赤く光ったまま静止した。

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