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「名前が欲しい」


 彼はいつもそう言っていた。下層労働者ローワーカーと蔑まれる身分に生まれ、成り上がりなぞ夢のまた夢でありながらも、その眼は憧れと輝きに溢れていた。


「俺は、自由に生きるための名前が欲しい!!数字(28)じゃないホントの名前で、自由に生きてみたい!」


 鼠の走り回る屋根裏部屋で、ニィハはそう語った。


「いつか、俺とお前で上に行こう!そんで、色々なものを見よう!!きっと太陽ってやつは綺麗に違いない!」


 僕の手を力強く握って、彼は言う。彼の手はカサカサでごつごつで、一般的な子供の手としては年季が入りすぎていた。


「う、うん・・!一緒に上に行こう、ニィハ!」


 彼は傷だらけの顔でニッと笑う。つられて、僕も破顔する。

 あの頃、僕たちだけで世界は完結していた。

 今となっては、自分たちがどれほど無知だったか、純粋だったか分かる。

 敵わない力や及ばない願いがあることを知らなかった頃の、僕らの愚直。

 そんなにキラキラとしたものは、どこにも在り得ないというのに。

 僕らなんて木のうろでうごめく、ただ一匹の虫でしかないのに。



「ん、ぅぅん」


「あ、起きましたか?」


「・・・・・・・はっ」


 青年の声で意識が一気に覚醒する。慌てて身体を起こすと、そこはどうやら街外れのモーテルのようだった。大分前に来た記憶がある。


「奴はどこに?」


 お客に対して“奴”なんて言葉は立派なレギュレーション違反だ。絶対に使ってはいけないが、それと同じくらい、絶対にあの中年男がいないという確信があった、


「ああ、あの方ならお帰りになりましたよ?すごく楽しめた、またよろしく頼む、と言伝を頼まれました」


「ちっ、あの性悪タヌキじじいめ・・」


「ははは・・・」


 悪態をつく私に青年は困ったように笑う。


「あ、そうだ。自己紹介がまだでしたね。僕はセブと言います」


「ああ、私はアメ・・、ん?セブ?もしかして君、名前持ちアンナンバードなの?」


「ええ、まあ、一応」


 なぜか恥ずかしそうにセブは頷く。


 上層にしては見窄らしい格好をしていたから、てっきり雇われの中層労働者ミッドワーカーかと思っていた。


「へぇ…、君が名前を」


 生体番号がそのまま氏名として使われるこの国で、名前は尋常ならざる意味を持つ。

 群体ではなく個体として、群衆ではなく個人として扱われるということは、国家運営の中枢を担う職務、またその担い手の助役として公に認められるということに他ならない。

 いくらでも替えの利く下層、中層の労働階級とはわけが違う。

 目の前のセブという青年もそうした“一点もの”として認められているのだ。


 ──私たちとは違って。


「・・・セブね。どうぞよろしく」


「はい!よろしくお願いします」


 白い歯を見せてセブは笑う。私はそれを見てジグジグと胸が重く痛んだ。

 どうしても、アイツの影が重なる。

 ニィハ。生体番号28739。

 私の心を蝕む毒の名前であり、僕のかけがえのない友人だった男の名だ。


 ニィハは僕の親友だった。


 二人とも孤児だったから頼れる肉親は誰もおらず、僕たちは自分の力だけで生きていかなければいけなかった。

 下層の大人たちは誰も手を差し伸べてくれなかった。死んだような顔で働く彼らは、他者に興味を持つ余裕がないように見えた。

 だから、僕たちが頼れるのは僕たち自身しかいなかった。


 街を駆けまわり、ひたすら食べられるものと寝られる場所を探した。

 バカみたいに不味い棒状の栄養食は、腹持ちだけはよくて重宝した。

 雨の日は気兼ねなく身体が洗えるから好きだった。

 中層の奴らの残飯は、僕たちにはこれ以上ないご馳走だった。

 ゴミの最終集積場はまるで宝の山だった。

 決して楽な生活ではなかった。むしろ、辛く苦しい毎日だった。


 でも、僕たちは二人なら何でもできる気がしていた。


 ニィハが17回目の誕生日を迎える時、僕たちはある作戦を計画した。

 無謀で無策で無鉄砲な、夢に溢れた下剋上の設計図。


 僕たちで上層に革命を起こそう──。


 それから私とセブは度々会うようになった。

 彼に買われることもあれば、街でばったり出くわすこともあった。

 そもそも上層自体がそこまで大きな場所ではないから、知った顔に遭うことは結構な頻度である。常に誰かに連れられて、外を出歩いている私は殊更そういう機会が多い。


 畢竟ひっきょう、セブとの仲が深まっていくのにそう時間はかからなかった。

 セブは区画整理、不動産売買を担当する一族の生まれだった。

 小さい頃から上層の構造地図を読み込んでいるだけあって、誰も知らない裏道や大穴場の店をたくさん知っていた。いくつか自分の仕事で使わせてもらった。


 最初は、というより今も邪な気持ちはある。

 彼はゆくゆく上層でも名が知られてゆくに違いない。今のうちに手籠にしておいて損はないと考えた。

 ただそれ以上に彼と過ごす時間は、子供に戻ったようにワクワクできたのは紛れもない事実だった。

 表通りの人々が知らない道を行ったり、奇想天外な仕掛けを解かなければ入れないお店だったりとか、見慣れた街も知らないことだらけで、まるでテーマパークのように思えた。


 何よりも素晴らしかったのは、私はセブといるときに幻覚を見ないということだった。

 浅ましい理由だが、私にとっては途轍もなく大きな要因だった。

 ニィハの顔をした彼が快活に動くだけで、私は赦されているように感じた。

 仕事でどれだけ蔑まれようが、気にならなかった。

 雑に抱かれても、殴られても全然へっちゃらだった。

 彼が動いて、笑って、生きて。

 それを見ているだけで私はよかった。


──けれど、そんな自慰のような身勝手な日々は、長く続かなかった。


「アメリさん。僕と一緒になってくれませんか」


 彼はニィハではなかった。

 セブはどこまで行ってもセブでしかなかった。




 その日は彼が私のお客様だった。


 忍び込んだ小さな劇場、舞台に腰掛けてセブと私は向かい合う。彼が下手側、私が上手側に座る。

 暗がりの中でも彼の真剣な眼差しは、純粋に光っていた。

 私の汚らしさを際立たせるほどに。


 カサリ、と身体のどこかで虫がまた這いまわる音が聞こえた。

 ああ、崩れてゆく。

 甘い時間が、赦されてた関係が。

 虫に食われてボロボロになっていく。


「・・・一緒に、って」


「はい、僕と婚姻関係になってくれませんか」


「いや・・、ちょっと、まって」


 やめてくれ、こんな偽物に。


「僕は貴女に幸せになってほしい。僕ならそれが出来る」


 やめてくれ、偽物のくせに。


「ちが・・、ねぇ、やめて。おねがい」


 こんなものは、偽物の愛だ。


「貴女は、外の世界にいるべきだ・・!」


「やめて!!」


 声が無人の舞台で反響する。キィンと、鋭い耳鳴りがする。

 やがて波が引いていくように、叫びの残滓はか細く消えていく。


「・・・ホントに、やめて」


 なんでそんなことを言ったのか、と糾弾してやりたい。

 けど、そんなこと言えるはずない。


 どうして君はニィハじゃないの?

 どうして彼のように動いてくれないの?

 そんな願いはあまりに身勝手が過ぎるだろう。


「・・・過去を、知っています」


「!!」


 沈黙を埋めるようにセブは言った。

 彼の言葉に私は明らかに動揺していた。

 言われ慣れたはずのことが、異常なほど神経を逆撫でする。


 私の素性は、私を買った人に公開されるようになっている。何度も私を買っていたセブは、当然それを知っていて、敢えて触れないのだと思っていた。

 別に人間性を否定されることはどうってことはない。言ってしまえばそれが仕事だから。

 ただ、その行為をする人間がセブなのでは全くもって意味が違う。

 彼が私の過去を責めるのならば、それは最早ニィハの亡霊へと成り代わる。


「貴女がどこで生まれ、何をしてきたか。そして、今どんな屈辱を味わっているか。僕は知っています」


「・・・っ」


 侮蔑か、恫喝か、誹謗か。どちらにせよ、飛び出す言葉は深く私の心を抉るであろうことは容易に想像できた。


 いやだ、聞きたくない。

 だが、彼から生まれた言葉はむしろ真逆だった。


「あなたは僕に、いや“僕たち”に必要な存在なんだ」


「・・え?」


 セブは私の手を握り、真っ直ぐに見つめてくる。


「なにを・・」


 彼の目には恋や愛ではない、もっと別種の熱が灯っていた。

 そこで初めて気が付いた。


 ──ああ、そうか。


 自分勝手なのは私だけじゃなかった。

 目の前の青年も同じように利己的に、恣意的に私を欲していた。

 いや、彼が見て欲しているのは私じゃない。


「お願いします。我がレジスタンスに力を貸してください」


 彼が見ているのは、私の過去。


「貴方は、英雄だ」


 私がまだ、男だった頃の面影を見ている。

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