甘やかな毒

Goat

1


 こんな不細工、もう、死んでしまえ。

 鏡の向こう側で私と寸分違わぬ自分が、私を罵る。


 ホテルルームの化粧室としては巨大で絢爛が過ぎる部屋に、絶え間ない水音が空虚に響く。精緻せいちな装飾の施された洗面台は、蛇口から注がれる液体を受け止めきれずに情けなく床を濡らしていた。


 流れ落ちる水を手で掬って、私は私の身体に塗りたくる。

 少しでも清くなれるよう、美しくなれるよう、身体を濯ぐ。

 けれど、姿見の中の私は、変わらない。

 しなやかで淑やかだと褒められた細い指も、すべやかで陶器のようと言われた白い足も、情熱的だと囁かれて噛み付かれた首筋も。

 全部、全部、穢れていて醜い。


「・・・気味が悪い」


 腕に無数の黒い虫が這っている。潰しても払ってもどこからか湧いて出てくる。

 もちろん幻覚だとはわかってる。服用してる薬剤の副作用だ、と耳が痛くなるほど説明されたから、頭では存在しないとわかっている。


 ただ、この不快感ばかりはどうしようもない。

 私の胸に確かな実感として巣食っている。

 もう顔も忘れてしまったが、私の担当医師がこんなことを言っていた。


「毒薬転じて薬となる。少しキツイかもしれないが、それはひとえに薬効からくるものだ。君を守るためだということは忘れないで欲しい」


 髪と同じく真っ白い髭を口元に蓄えた彼は、優しい眼で私を見ていた。

 まるで私の内側のがらんどうを、そこで際限なく繁殖する虫けらのおぞましさを見透かしているようにも思えた。きっと、それに触れてくれないであろうこともわかった。


 ──コンコン、と。

 ノックの音がして、私は我に返る。


「・・・もう少しお待ちくださいね」


 意識して鼻にかけた声で扉の向こうに呼びかける。すると、焦れたような足音が戻っていくのが聞こえた。蛇口を閉めて、目線を落とす。歪んだ水面に映る自分は、幾分かマシに見えた。


「仕事をしなければ」


 言葉が呪詛のように零れる。

 そう、私は仕事をしなければいけない。

 醜くかろうと、汚かろうと、時間は進むし、生きなければいけない。

 これは私が選んだ生き方だ。


 最後にもう一度だけ鏡を見た。映る私はただの私だった。

 頭からつま先まで自由に動かせる私。腕の虫も湧いていなかった。

 ドアノブに手を掛け、力を込めてグイ、と押す。大仰な音を立てて扉は開く。


 ──甘ったるい匂いが、私の鼻腔を蝕んだ。



 ──アメリ様、今日もお疲れさまでした。明日に備えてお休みください。


 機械音声がそう告げて、ドアのロックが掛かる。

 一瞬の暗転の後、シーリングライトの柔らかい暖色がモノトーンの部屋を照らした。

 部屋の色は毎日変わる。今日は夕焼けの薄いオレンジ色、昨日は海のような青色だった。

 私の体調や気分を自動で読みとって、幾何学的な感情パターンに則った彩色を施してくれる。それだけじゃなく温度、湿度、リネン、食事なども全てが過ごしやすいようにシステムによってカスタマイズされている。

 この部屋は私が快適に生きるための仕組みに満ちている。

 靴を脱ぎ、服を脱ぎ、整えられたベッドに一糸まとわぬ姿で倒れこんだ。

 衣服もバッグもその辺りに捨てておけばいい。後で勝手に片付けてくれるから。


「・・・疲れた」


 天井を見つめながらつぶやく。


 嘘だ。疲れてなんかいやしない。今すぐ隔離区まで走れと言われたって出来るに違いない。それ程に身体の不調は見つからない。そりゃそうだ。四六時中、完璧に調整されているのだから不具合なんてあるはずもない。


 私は大切にされている。商品として。


 ──食事の時間です。


 間抜けな音がポンッと鳴って、ベッド横の引き出しが開く。僅かなモーター音がしてから、丁寧に盛り付けられた食事の乗るプレートが無機質に提供される。

 私は枕に顔半分を埋めながら、その様子を見ていた。

 味も見た目も栄養も申し分ない。食欲をそそる香りが唾液の分泌を促す。

 でも、私はむざむざと食べる気にはなれない。


「こんなの、餌付けだ」


 ペットを、もっと言えば家畜を生き長らえさせるために行うタスク。

 意志や想いではない利益効率に基づいた施しは、まさしく給餌と呼ぶにふさわしい。

 それは自由な人間でありたい私にはどうにも受け入れがたい仕打ちじゃないだろうか。

 そんな簡単に扱えると思われているなら心外極まりない。

 寝返りを打って、出された食事に背を向ける。


 従ってたまるものか。私は言いなりになんてならない!!




 ──食事の時間です。食事の時間です。


「・・・」


 ──食事の時間です。食事の時間です。


「・・・っ」


 ──食事の時間です。食事の時間です。食事の──。


「・・・うるさい・・!」


 上体を起こしプレートを奪うように取り上げて、私は食事を開始した。

 向こう何百回目の反抗も、やはりあっけなく散る結果となってしまった。

 成功した試しはまだない。

 備え付けのスプーンでお粥のようなものを口に運ぶ。


「・・・あー、くそぉ、美味しい」


 今日も変わらず、笑ってしまうくらいに好きな味がした。


 ──こうして私は今日も飼われている。


「さて、どこか行きたいところはあるかね?」


 質のいいスーツに身を包んだ中年男が私に尋ねる。


「どうしましょう・・、困りました」


 深紅のドレスを着た私が男に答える。


「ふむ、ではアメリ君。月を肴に一杯どうだい?具合の好いバーを知っているんだ。今夜はとても夜空が綺麗に見える」


 ダフトという名の男は顎を撫でながらそう言った。


「・・・ええ、ご一緒しますわ」


 上層の人間はどうにも歯が浮くような言い回しをする。遠回しというか、芝居がかったというか。私はあまり好きになれない。


 月は酒の肴にならないだろうに。


「よろしい。なら、早速向かうとしようか」


 目の前に腕が差し出される。嫌だなと思う。けれど、思考とは関係なく身体は反射的に動く。ダフトの腕を抱え込むようにして自分の腕を絡ませる。


「そうしましょう」


 生温かい息を吐いて、男は歩き出す。

 電飾で煌びやかな通りは石畳が敷かれていて、ヒールだと歩くのが大変だ。そんなことお構いなしに広い歩幅で男はズカズカと進んでいく。強引に腕を引かれるから何度も転びそうになった。コンディションは最悪。


 ・・・まあ、こんなことは日常茶飯事だ。苛立ちはあるが、口に出してもろくなことにならないのは身をもって知っている。それなら今我慢した方がお互いのためになる。


 お客様に楽しんでいただくための、私なりのマナーだ。


「いやはや、しかしアメリ君がここまで献身的にサービスしてくれるとは。面白いこともあるものだな。大枚を叩いた甲斐があったよ」


 彼は嗜虐的な色を込めて笑った。


「・・・仰っていることが、少し分かりかねます」


「ああ、いや気にしないでくれたまえ」


 そしてすぐにそれを引っこめると、同じ調子でまた歩き出す。


「・・・」


 よく、こういう会話をされる。

 慰み者として仕方がないとは言え、当然気分はよくない。

 私が過去や素性について触れてほしくないのを知っていて、それでも彼らは容赦なく突いてくる。

 罪人の首を晒すように、傷口を抉ることを楽しんでいる。

 それに、もう一つ──。


「・・・!」


 ブティックのショウウィンドウに自分の姿が映る。

 私の姿形をした、もう一人の自分がそこにいた。

 私を指さし、口を吊り上げ嘲笑する。

 思わず、組んだ腕が解ける。


「ん?どうした?気分でも?」


「い、いや、何でも。行きましょう?」


 いけない。今は仕事中だ。幻覚が見えていようと、吐きそうだろうとやり遂げなくては。

 組んだ腕を一際強く手繰り寄せる。腕に挟まれてパキパキと無数の油虫が潰れていく感覚がある。

 肩に掛けたバッグを無意識の内に撫でていた。中には発作を抑える薬瓶が入っている。ズキズキと、頭が鈍く痛んだ。

 ぼんやりとした意識で、腕を引かれるまま歩き続ける。


「さあ、到着だ」


 ダフトは急に立ち止まった。慣性で私は少し前につんのめる。

 その拍子に、通行人の一人にぶつかってしまった。


「・・おっ、と!」


「ぁ、すみませ──」


 ひゅっ、と息が詰まった。

 明るい茶髪に切れ長の目、口元に二つ並んだホクロ、少しだけ褐色の肌。

 ぶつかった青年に、私はひどく見覚えがあった。

 心に深く刻まれた記憶が濁流のように溢れ出る。

 全身から嫌な汗が噴き出した。


「ニ、ニィハ・・?」


 勝手に言葉が転がり出た。


「え?」


 青年は首を傾げる。まるで聞き馴染みのない文字列を聞いた反応をした。


「あぁ、ニィハ・・?じゃ、ない・・」


「・・・いえ、違いますよ。僕はニィハという人じゃないです」


「あぁ、いや・・、なんでも、ないです」


 そうだ。関係ない。関係ないんだ。

 これは他人の空似。アイツとは一切関係ない。

 違う、ちがう、チガウ・・。

 大体、ニィハはもうこの世にいないじゃないか。

 けれど、呼吸はどんどんと浅く苦しくなってゆく。

 堪らず、地面に四つん這いになった。


「おや?おやおやおや、アメリ君。どうしたんだね?まるで野良犬のようだぞ?」


 ダフトの顔は見えない。声は愉しんでいるように聞こえた。


「はっ・・、はっ・・」


 息が出来ない。

 呼吸の仕方が分からない。


「だ、大丈夫ですか・・?」


 青年が手を差し伸べてくる。


「い、いやっ・・!」


 私はそれを払いのける。

 だめ、だめ。さわらないで。

 ごめん、のうのうといきていてごめんなさい。

 つよくなくてごめんなさい。


「ゆる・・、して・・」


 うわ言のように赦しを請うたところで、私の意識は途切れた。

 最後まで、彼は私の顔を覗き込んでいた。

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