第2話
アルバートは口元を抑え震えていた。
込み上げる微笑みを抑えるのに必死だった。
(ああ、この人はなんて可愛いのだろう――)
彼女は分かっていない。自分が周囲の者からどう思われているかを。――正確には。
彼女は自分を『悪女』だと思い込んでいる。
ある時、彼女付きの侍女が、彼女の部屋の花瓶を割ってしまったことがあった。彼女はすぐその場でその侍女に暇を出した。
後で話を聞くと、その侍女はその時、熱があり、体調を崩していた。それに気がついた彼女が花瓶を割ったことを理由にまとまった休みをくれたのだ、と。
その侍女はそのさりげない優しさに感激し、体調が回復した後、すぐ仕事に復帰した。彼女の好きなガーベラをアレンジし、飾っていると、それを褒められたと喜んでいた。
彼女は解雇した侍女の顔を覚えていなかったのだが、彼女の優しさに触れた侍女は忠義を尽くすことにした。
別の侍女も彼女から暇を出された。理由は『そんな辛気くさい顔は見ていられないから』というものだった。
その侍女は田舎の両親が流行病にかかっており、死に直面していた。しかし、家に帰れずに心配していることしか出来なかったのだ。
ところが彼女に出された暇により、両親を自身で看病し、最期の時を一番近くで一緒に過ごすことが出来た。
この侍女もまた彼女に感謝し、忠誠を誓った。
いずれの場合も彼女は侍女たちの顔を覚えていなかった。それもそのはず。この屋敷には多数の侍女がいる。
それも顔ぶれは、割とすぐに変わる。多すぎて、敵対する貴族の刺客などが紛れている事が良くあるからだ。
それに対しては、自分や執事長が
だから、侍女はよく変わる。
僕は彼女に近づく奴ほど念入りに調査する。忠義や忠誠を誓った者たちなら側に置いていても問題はないだろう。
こうやって彼女は、彼女が意図せず、自分自身を確実に護る囲いを自分の手で形成していく。
僕が
「予報では雨が降るなんて言ってなかったのに……ツイてないな」
僕の呟きは激しく打ちつける雨音で消えていく。
止みそうにない雨に、いつ出るかタイミングを見計らう。今日は大切な商談があり、仕立てたばかりの一張羅を着ていた。商談はこれからだ。この雨で濡れるわけにはいかないが、あいにく、近くに傘を手に入れられそうな店もない。
不意に、隣の女性が目に入る。
彼女の傘は折れていた。それでもまだ充分に使えそうな傘を彼女は僕に押し付けた。驚いて戸惑っていると――
「折れて、使えないの。ゴミ箱が近くにないから、捨てておいてくれる?」
彼女は真新しい傘を鞄から取り出すと、雨の中を颯爽と歩いていった。
その美しく凛とした後ろ姿に見惚れてしまった。
しばらく、僕はそこから動けずにいた。
彼女から押し付けられた傘を差し、濡れずに商談に行くことが出来た。商談は、驚くほどスムーズに進んだ。商談が終わり、窓の外を見ると、雨はすでに上がり、虹がかかっていた。
――彼女は、女神だ。
彼女に会いたくて会いたくて、たまらなかった。
僕と彼女を結んだ『運命の赤い傘』。
僕はそれを捨てられずに、ずっと持っていた。
その日から僕は何をやっても、ツイている。彼女のお陰だ。
今日も商談が上手くいった。あの赤い傘を、鞄に忍ばせて。僕はトントン拍子に出世していく。
そして、今日はさらにツイていた。ついに彼女に会えたのだ。それから僕はツキ始めた。
彼女の会社はわりと近くにあった。家まではバスで一本。彼女がよく買い物をする店を僕もよく利用するようになった。
ある日。仕事からの帰り道。定休日の店の軒下に彼女が佇んでいた。
その日も、あの日のような土砂降りの雨だった。
鞄から折り畳み傘を取り出し、彼女に差し出す。
「まだ新しいので、良かったら」
彼女が顔を上げ、目が合うと戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「いただけません」
僕は優しく微笑んで、話を続けた。
「でしたら、使っていないのですが……僕が持っていた中古品ですので、百円で」
「え?」
「貰えないって言ったから。僕から買って下さい」
彼女は『ぷっ』と吹き出した。そして、財布から百円玉を取り出すと――
「傘、ください」
そういって僕に手渡した。僕はその百円玉を受け取ると、彼女に赤い傘を渡す。そして、自分の傘を差すとその場から歩き出した。
僕の後ろを彼女がツイてくる。
僕の口角は上がりっぱなしだ。
単身用のマンションに着くと、傘を畳んだ。僕の後ろには――彼女がいた。
「あれ……? 同じマンションだったのですね?」
彼女の驚いた声に、僕は振り返る。
「そう……みたいですね?」
――当たり前だ。僕はツイているのだから。
それから、僕と彼女は、偶然会えば話をするようになった。お互いを認識してしまえば、出会うことなど容易い。
彼女がよく使うカフェ。ランチの場所や仕事帰りに買い物をする店など。行く時間も大体、分かっている。
だけど、その日は違っていた。彼女の様子がおかしかった。彼女は――何かに怯えていた。
僕は堪らなくなって、声をかけた。
「顔が真っ青ですよ? 大丈夫ですか?」
彼女は薄茶色の大きな瞳を見開いた。そして――彼女は大きく首を振った。
「あ、あなたは……」
僕は首を傾けた。
(彼女は……僕に何を伝えたいのだろう?)
彼女は後ずさりすると、急に道路に飛び出した。そこに猛スピードでトラックが突っ込んでくる。
僕は夢中で彼女を抱き締めた。
気がついた時には、この世界にいた。
彼女のいない世界など、僕のいる世界ではない。
(――ツイてないな……)
そう落ち込み、辛く苦しい日々を過ごしていたのだが、親戚の集まりで呼ばれたパーティーで彼女を見つけた時、この上なく歓喜した。
絶望に染まっていた僕の世界は、一瞬にして晴れ渡った。あの日見た、虹のかかった雨上がりの空のように。
彼女はこの世界でも輝いていた。――僕の女神。もう絶対に側を離れない。どこまでもツイていく。
「ねぇ。アルバート」
「はい。お嬢様」
屋敷の主が下がったお嬢様の部屋。思いがけず、かけられた甘い呼び声。耳から入ったその声に僕の脳は溶ける寸前だ。
「ストーカーって、知ってる?」
僕の思考がピタリと止まる。僕は一瞬、俯いた。
ただ次の瞬間には、すでに彼女のことでいっぱいになった。
(ああ、可愛らしい。――やっと……やっと、気がついてくれた。僕を見てくれた)
「ええ。その言葉は存じておりますよ」
彼女は僕に向けて、にっこり微笑む。
「アルバート。貴方は――私のストーカー?」
「いいえ? 私はお嬢様にツイている従者ですよ」
「それをストーカーと言うのではなくて?」
「滅相もございません。私の職務でございます」
「ふぅん。そう……」
(お嬢様は――前の世界を覚えていないのか?)
ずっと、気になっていた。――あの時、なぜ飛び出したのか。僕に、何を言おうとしたのか。
機会があれば、知りたかった。
「お嬢様。お嬢様は、前の世界のことをどの程度、覚えていらっしゃるのですか?」
彼女は僕に視線を合わせる。しかし、すぐに逸らすと俯き、大きく呼吸した。
「ほとんど、覚えていないわ」
「そう……ですか……」
「ただ……」
再度、僕に視線を合わせると、
「なぜか貴方を知っている気がするの」
僕は目を見開いた。
(僕を……僕だけを覚えていてくれている? こんな幸せでツイていることがあって良いのか!)
本当に僕は――ツイている。
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