屋上にクーラーボックス

 その扉を開くと真っ青な空に白い雲が流れていた。強い日差しが飛び込んできて、まぶしさに思わず目を細める。


 そっと、扉をくぐって音を立てないように後ろ手で閉める。大きな音はしなかったものの、ドアノブが戻る音だけが鳴る。あの程度であれば、気づく人はいないだろう。そう思い、私は日差しの下へとその身をさらす。


 夏の日差しは肌を刺すような痛みがあり、露出している部分を容赦なく、しかしゆっくりとやきつけていく。それは地面も同じで黒く塗られたコンクリートであったとしても、熱は吸収しきることができず、足元からも暑さが伝わってくる。


 手で触れてみるとさわれないほどでもなかったので、そのままコンクリートの地面に腰を下ろす。お尻の辺りが熱いがそれでもよかった。雨ざらしで誰も掃除をすることもない場所。スカートが汚れてしまうかもとも思ったが、そんなことよりもここにいられることの方が私には大切だった。


「あれ? 今日も、来たのかい?」


 誰もいなかったはずなのに、誰かが声をかけてきている気がした。辺りを見回すと、私がくぐった扉の上にも登れるところがあるようで、そこに誰かが座っていた。


 プラプラと揺れるチェック柄のズボンと少し汚れているスニーカー。どちらも学校指定のものだ。


 私は立ち上がって、そちらをむく。


 そこには一人の少年が座っていた。ズボンより上にはこれも学校指定の白いポロシャツを着ていた。少し茶色っぽい黒の髪と眠そうな目をこちらに向けている。唇の横に白い何かがついていたが、それを器用に舌で舐め取っていた。その少年の横には青いクーラーボックス。手には食べかけのアイスキャンディーがあった。


「別にいいじゃん。ここはみんなの場所だし」


「へぇ……」


 そういいながら、アイスキャンディーを口の中に入れてかじりはじめる。シャクシャクと氷がかみ砕かれる音が響いてくる。そのまま、二口、三口と少年は食べ続けていた。


「アンタねぇ。へぇ、っていったんなら、その後になんかあるんじゃないの?」


「いやぁ。特に何も思わなかったから、アイスを食べようかなと思ってね。何か考えた方が良かったですか?」


「話しかけてきたのなら、そうするほうがよかったかもな」


「なるほど……。それもそうかもしれませんね。だったら、少し考えてみましょうか……」


 そういって、少年はさらにアイスをかじりながら空をむく。


 私は少し苛立ちと暑さをしのげないかを考え、日陰を探す。ちょうど、くぐったドアから九〇度曲がった角の向こうが日陰になっているようだ。少年を無視してそっちに移動する。日陰に入り、私はブラウスの襟元をつまんで服の中に空気を送り込む。熱い空気とはいえ、送り込むと少しだけ楽に感じる。


「そんなことをしていると下着が見えてしまうかもしれませんよ。あんまりはしたないマネはしないほうがいいんじゃないですか?」


 頭の上から少年の声が聞こえてくる。見えているのかと思い上を見たが、少年はさっきの位置から変わっていないので、見えているということはなさそうだった。


「あのなぁ、考えた結果がそれなのか?」


「いえいえ。ちゃあんと考えていますよ。ただ、音がしたのでそうなのかなと思って言いました」


「聞き耳立ててんじゃないよ! それに見られないように私はキャミソール着てんのよ。このエロガキが」


「エロガキって……。また、妙な呼び方をされますね、あなたは。知っているとは思いますが、一応先輩ですからね。僕の方が」


 私はブラウスの中に空気を送り込みながら、地面へと腰を下ろす。さっきのところに比べたら幾分か地面の熱さは緩かった。


「そんなことは関係ないっての。先輩だろうが、後輩だろうが、エロガキはエロガキ!」


 シャクとアイスをかじる音が聞こえる。


「ふぉれはふぉれはへきびひい」


「口の中にアイスを入れながらしゃべるな! 行儀悪い!」


 先輩を称するこの少年のどこか相手をイラつかせる態度に思わず声が大きくなってしまう。壁と床に反響した音は、遠く空の彼方へと消えていく。日中のこの時間だ。聞こえているかもしれないが、どこからかというのはわからないだろうと思っておく。できれば、この場所に制限がかかるのは、私としてもよろしくなかった。


「わかりました。ちょうど終わったので、しばらくは止めておきましょう。ところで何の話をしていましたっけ? 行儀の話でしたっけ?」


「いやいや。アンタが話しかけてきたから何か話あんのか、ってことよ。何もないのに話しかけてくんなっていってんの」


 文句をいいながら上をみると、そこには先輩とやらがひょっこりと顔をのぞかせていた。ただ、その表情はどこか私のことを小ばかにしたようにも見えて。


 面倒くさくなって、私は視線を空へと向ける。こちら側から見える空にも白い雲が青い空の中に浮かんでいた。ただ、照りつける太陽の日差しはないので、かなり楽に座っていられる。ぼんやりと座りながら、ブラウスの中に風を送り続ける。視線を下ろすと、地面に伸びた影の位置が時々変化しているのが見て取れた。


 私は手を動かすのを止めて、真上を見上げる。先輩と目線があい、先輩の頭が建物の影に消えていく。


「アンタ、いったい何してんのよッ!」


 叫ぶと同時に立ち上がる私。そのまま、くぐってきた扉とは反対のほうへと行き、壁が終わったところでもう一度曲がる。そこには上から伸びた梯子があった。それは壁の途中までだったが、私はそれをつかんで登っていく。


 登りきるとそこには先輩が立っていた。左肩にはクーラーボックスのベルトを下げている。彼の向こうにはただ青い空が広がっていた。


「どこ行こうってのよ?」


「いやぁ。そろそろ暑くなってきたし、影に入ろうかな……と。あなたも暑そうですし、日陰に戻られたらどうですか?」


「逃げようったってそうはいかない。アンタさっきなにしてたのよ? このエロガキ!」


 一歩。先輩に近づく。先輩はまったく動こうとしない。


「いやいや。特に何もしていません。ぼんやりとしていただけです」


「ぼんやりと地面を眺めていたと? それも私がいるほうの?」


「反対ですね。僕が見ていたところにあなたが入ってきたんです。なので、僕が怒られることはありません」


 さらに一歩足をだす。


 駆けだそうとした瞬間、先輩はその身を空中に投げ出していた。なぜか、右手の平を見せながらまっすぐな姿勢で。


「待てッ! このエロガキ!」


「ごきげんよう」


 右手をふらふらと振りながら、私の視界から消えていく先輩。


 下りたところまで行くと、先輩が地面に着地し、屋上を駆けていた。建物の中には入らずに。


 私はスカートを押さえながら先輩の後を追うようにして宙にその身を躍らせる。地面に足が着くと衝撃が来るが、大したことはなくしゃがむことで流すことができた。


 先輩の姿を捜す。いつの間にか落下防止用のフェンスのところまで行き、新しいアイスをくわえていた。今度はゼリー飲料の入れ物に入っている吸い込むタイプのアイス。そのアイスを軽く押しながら、中身を吸い込んでいる。


「——!」


 無性に腹が立った私は、全速力で先輩の方へと駆けだす。


「おや?」


 先輩は一言だけ、間の抜けたような声を出して、私の方を見ていた。細められた目で見られ、少しだけ口元がほころんでいる。私が先輩に届きそうになる直前、彼が動き出す。右手でアイスを持ち、左手でクーラーボックスを抱えて、軽い足取りで横に動く。その動きはなぜか、体重を感じさせることはなく、横に軽く跳んでいるように見えた。


 屋上のコンクリートの小さな破片と先輩のシューズの裏がこすれ合う音が耳に届く。


「あなたもアイスが欲しいんですか?」


「んなもんいるか! アンタがやったことに腹が立ってんだ! 一発殴らせろ!」


 私は拳を握って、先輩に見せつける。先輩はというと手にしていたアイスの飲み口をくわえる。


「殴られる理由はないと思いますが?」


 くわえながら器用に発音している。私は彼の言葉には答えず、一直線に走り出す。


 先輩は、おお、怖っ、と小さくいって私となんとか距離を取ろうとする。いっこうに縮まらない距離。重たそうなクーラーボックスを左わきにかかえながら、素早くステップを繰り返している。私はというとその動きに翻弄されながら、何度も拳を振りかぶっては、空を切っていた。


 何度目かのパンチで息が上がってしまった私。炎天下でしてしまった大立ち回りのせいで体中から汗が噴き出ている気がする。先輩の方はというと、涼しげにアイスを飲んでいた。


「そろそろ止めたらどうですか? 汗で制服が透けてきますよ?」


「ぜぇはぁ、ぜぇはぁ……。く、くっそ。ちょろちょろと逃げ回りやがって……」


「まぁ、痛いのはイヤですからね」


 飲み終わったアイスのゴミをクーラーボックスの中に片づける先輩。


 肺が全力で膨らんだりしぼんだりしているのがわかる。心臓から血液がすごい勢いで送り出されている感じがする。とにかく心臓が早鐘のように動き、肺が何度も暴れるように動いている。


「ところで……アイス食べますか?」


 結局、私はあきらめることにした。


「どうだい? 少しは涼むことができたかい?」


 先輩からもらったメロン味のカップアイスを食べる。手で食べるアイスばかり食べていたので、てっきりカップアイスなんて持っていないと思っていた。実際、そんなことはなく、いろいろなアイスがクーラーボックスに入っていた。ついでに、今は珍しい木のスプーンを持っていた。


「というか、その中にカップアイスも入ってたのか。てっきり手に持って食べるものばっかりかと思ってたけど」


「確かに僕はそっちの方が好みですけど、カップアイスを食べないとは言ってません。食べ歩くのにはまったく適していないので、一つか二つくらいしか入れてはいませんが。カップアイスでしか味わえないものもありますので、あなたの食べているメロンやこっちのストロベリーなんかはカップでしか見かけないんですよ。だから、こっちが食べたいと思った時はどうしても入れるということになります」


 長々と解説をしてくる先輩。


 走り疲れた私と涼むことを選んだ先輩は二人で屋上の入口横の壁に寄りかかっている。ここはさっきの影が伸びて日差しを遮っているところだ。


 私はクーラーボックスの中のメロン味を選び、先輩はストロベリー味を選んでいた。シャーベット状になったアイスを木のスプーンで削ると、色のついた氷の粒が少しずつ削れていく。それを掬い取ると、なぜか日陰にいるはずなのにキラキラと輝いて見えた。


 口に入れると氷の粒が口の中をヒンヤリとした感覚で満たしてくれる。それからメロンを思わせる風味が広がる。


「この味、懐かしい……」


「そうしみじみと言われると、あげたかいがあったかな。……ところで、何か話があったんじゃないのかい?」


「…………まぁ」


 緑色のシャーベットを削りながら、私はほとんどつぶやくようにして言う。先輩にはささやき程度にしか聞こえなかったかもしれないが。シャクシャクという音が、溶けた氷と混ざって、湿った音へと変わっていく。


「………………」


 なんとなく言い出せないまま、私はシャーベットを崩しては混ぜるということをずっと続けていた。シャーベットだったものが、ゆっくりと熱で溶けて液体へと変わっていくのをなぜかぼんやりと眺めていた。


 溶けていくアイス。


「…………しかし、日陰だけど暑いねぇ」


 何かが開く音がした。視線だけ横に動かすと、それは先輩の持つクーラーボックスで、中から一つアイスを取り出していた。持っていたのはアイスがワッフルコーンにのせられたもの。開ける時に、どうしてもチョコが包み紙について失敗するとそこら中にチョコがついてしまう大変なアイス。ここで食べるのはなかなか大変な代物。


「ってか、さっきまで違うアイス食ってなかったか?」


「ああ、あれはもう終わったのでもう一つを、と思いまして」


「先輩さぁ……いくら何でも食べ過ぎじゃないか?」


「これはこれは。あなたに心配していただけるとは思いませんでした。ありがとうございます」


 いいながら先輩はそのアイスをためらうことなく開く。包み紙をぐるりと一周引っ張ると、アイスの一部分があらわになる。外された包み紙を小さく折りたたむ先輩。続いて上下にわかれた包み紙のうち、上の方を外すとそこにはチョコがコーティングされたアイスが現れた。暑さによって少しだけ溶けてしまっているチョコ。包み紙のほうにもべったりとチョコがついていた。先輩はその包み紙の中に折りたたんだ物を入れそのまま地面に置く。


「どうしたんですか? いりますか?」


「……いらねぇよ。今食べたし。ただそのままにしていたら、チョコがそこら中についちまうなと思っただけ」


「それは大丈夫ですよ」


 いいながら包み紙の下の部分を持って一気に抜き取る。今度は茶色のワッフルコーンが出てきた。こちらにはアイスもチョコも沁み出ておらず、キレイなままだった。


 先輩はアイスを少しだけくわえながら、置いてあった包み紙を持ちチョコがつかないように内側に折り込んでいく。それから下の部分だった包み紙の中に器用に詰めていく。再びアイスを手に持ち、飲みこむ先輩。


「それで? 話す気にはなりましたか?」


 先輩が二口目に進むまでの間に話す。私はその言葉にゆっくりと下を向く。小さく深呼吸をする。


「アンタに話しても誰にも知られないっていうのは本当?」


「そうですね。僕は口だけが固いので。あっ、アイスを食べるのだけは別ですよ。これを食べるためにわざわざ口を閉ざす理由なんてありません」


 いいながら三口目を食べる音が聞こえる。


「ふざけるのは顔だけにしろ。まぁいいや。聞いてほしいことがあんだけど、話していいか?」


「話したかったんですよね? よくここに来られていましたので、こちらの聞く準備はできてますよ」


 のんびりとした声に少しだけひっかかるものがあった。それが何なのかはわからない。


「私には幼馴染がいるんだ。昔からずっと続いている付き合いのこがいるんだ」


「へぇ。そうなんですね」


「……なんだよ。その変なリアクション」


「いやいや。これ以外のリアクション、取りようなくないですか?」


 溶けたアイスがコーンにしたたり、それを舌で舐め取っている先輩。聞く気あるのか、と思ってしまう。


「まぁまぁ、続きをどうぞ」


「ふんッ。まあいいか。いつも一緒にいるこなんだけど、最近一緒にいると変なんだ」


「変というのはいったい何がですか?」


 先輩がアイスを食べながらきいてくる。いつのまにかアイスのワッフルコーンをかじりだしていた。


「何となく目を合わせるのが恥ずかしくなったり、近くにいると脈が速くなったり、手が少し汗ばんだりしている。だからといって、離れたいと思ってるわけじゃない。近くにいたいと思ってる。これってなんだ? 先輩」


「あなたは……それがなにかわからない……と?」


「ああっ! わかんねぇんだよ! いったい何なのか? どうすりゃいいんだ、私は? このよくわからない状態はなんか病気なのか?」


 私は叫ぶと同時に立ち上がり、先輩をにらみつける。メロンのシャーベットは、足元においた。先輩はというとあくまでアイスの方に集中していて、コーンをかじって中のアイスと一緒に味わっているようだった。


「聞いてんのか? てめぇ」


 ただアイスを食べ続けている先輩に明確な苛立ちを感じて、胸倉をつかもうと手を伸ばす。しかしその手は先輩が少しだけアイスを食べるためにかがんだため、何かをつかむということなく壁に手をつく結果になる。簡単につかませないことはわかっていたが、それでもその行動が私の苛立ちを強くさせた。


 先輩は少しだけ横にズレて、座ったままアイスを食べ続けている。そろそろ無くなりそうだ。私は追いかけるようにして先輩の方へと手を伸ばす。


「はい」


 満面のどこか憎たらしい笑顔を見せながら先輩がつかみかかる私の手を先につかみ、反対に何かをつかませてくる。手の中をみるとそこにはさっきまで食べていたアイスのゴミが入っていた。いや、ゴミではなく、中身も入っている。私が食べていたメロンのシャーベットだった。


「こぼれますから立ち上がるなら食べてからにしたほうがよいですよ」


「……ッ! わかったよ!」


 手にねじ込まれたアイスを持って、その場に座り込むことを決める。先輩は最後の一口をちょうど食べ終えていたところだった。メロンのシャーベットを口に入れる。大分溶けているが、甘いのであまり気にならない。


「さて、と。それでは話を戻しましょうか。あなたは自分に起きていることがわからないと話していましたよね?」


 二口目を食べた時に声をかけられたので、すぐに返事ができず、とりあえず飲み込んでから声を出す。


「……そうだよ。だからさっさと教えろよ! なんなんだこれ?」


「うーん。確かにすぐに教えちゃってもいいんですけど……ね。ただ、それだとなぁ…………」


「わかってんなら言えって! こっちは困ってんだよ!」


 何を悩んでいるのかしらないが、この先輩がはっきりと答えを言わないことに、またフツフツと苛立ちが沸き立ってくる。今度はいきなりつかまないように我慢をする。しかし、それもいつまで我慢できるかわかったもんじゃない。


「おそらくですけれども、そのまま教えてしまったとしても、あなたは納得しないのではないかと思うんです。ですので、どうすればいいのかなと思いまして」


「教えられて納得しねぇなんてことはねぇよ!」


「まぁ、そういわれる気持ちはわからなくはないんですけどね。…………そうですね……」


 言いながら先輩が立ちあがる。ぐるりと周囲を見渡してから、屋上のフェンスの方へと歩いていく。それからクーラーボックスと一緒に体をフェンスに持たれかけさせる先輩。そして、私の方をみながら、ひらひらと手を振ってくる。


「おーい! ちょっとこっちに来てくれませんか。暑いところ申し訳ないですけれども」


「なんだってんだよ?」


「いいからいいから。とりあえず来てくださいよ」


 私は残り少なくなっていたアイスを一気に流し込む。溶けてきているとはいってもそれでもまだ冷たさが残っていたせいか、むせそうになる。


「食べ終わったのなら、ゴミも一緒に持ってきてください。回収しますから」


 立ち上がりかけた私にそう声をかけてくる先輩。私は空っぽになったアイスを持って、先輩の方へとむかう。


 屋上をぬるい風がふき抜ける。まとわりついてくるようなその風が少しだけ気持ち悪く感じる。それでも屋上の熱い空気を払ってくれるのはありがたい。ただ、どうせすぐに暑くなるのは間違いないのだけど。


 先輩の横まで来て、同じようにフェンスにもたれかかる私。先輩が手を出してきたので、黙ってアイスのゴミを渡すと、なぜかにっこりと笑って受け取り、持っていたクーラーボックスの中に入れていた。毎回ゴミをクーラーボックスの中に入れていることに少しだけ不思議なものを感じた。


「さて、来てもらってありがとうございます」


「で、先輩はいったい何で私を日陰から引っ張り出したんですか?」


「ここからだとちょっとギリギリなんですが……あの教会見えますかね? ちょうど川の横にある教会ですが」


 先輩が示す方向を視線で追う。かなり遠くではあるが大きな川が流れている。横に建物が見える。茶色っぽい屋根の少しだけ大きな建物。


「あの茶色の屋根の建物か? 教会かどうかはわからないが、わかる」


「それは良かったです。それでですね。その教会の横に公園があるんです。その公園に桜があるんですが……知らないですよね?」


 教会、公園、桜。


 女子たちの間で、きいたことがあるような、ないようなそのワード。しかし、はっきりと思い出すことができなかった。


「聞いたことあるような気もするし、勘違いかもしれないが……それがどうした?」


 ははっと笑いながら、先輩が頬を指でかいている。その手でそのままクーラーボックスを開き、中身を取り出す。その手には新しいアイスが持たれていた。どこかのコンビニのロゴが入れられた袋を開けて、中から白色のアイスを取り出す。棒を持ち手にバニラアイスを固めて食べやすくしたもの。


 一口かじりながら、先輩が口を開く。


「あそこの桜なんですけれども、ある言い伝えがあるのですがご存知ですか?」


 言い伝え、といわれ私は教会の方をじっと見る。今のこの季節で桜を見分けることはできない。当たり前だが、こんな暑い時期に桜が咲くことはなく、葉が生い茂っている状態のはず。だから私は、教会の屋根の横に見える緑色っぽいものを見ていた。


「そういえば……あなたはそもそも教会も公園も桜もご存知ではなかったですね。これは失礼しました」


「てめぇ、わかってんならそんな回りくどい言い方すんじゃねぇよ! めんどくせぇな! その桜がなんだってんだよ?」


 私は先輩の言葉に我慢ができずに怒鳴り散らした。そんな私をみながら、当の先輩はというとアイスをかじっていた。殴りたくなるところをグッとこらえる。


「わかりましたよ。とにかく落ち着いて聞いてくださいね。あの桜にある言い伝えは、簡単にいうと恋が叶う、というものです」


「こい? こいってあのこいか?」


「そうですね。あなたくらいの年齢の人なら、きっと一度はあったことがあるあの恋です」


 ここにきて、こい、という言葉に私の頭が混乱を始める。


「僕にはあなたの想うお相手がどなたなのかわかりません。しかし、先ほどあなたが話していた症状はほぼ間違いないと思いますよ」


 断ずるように話す先輩。


 私はというと、何を言うべきかわからなくなり固まってしまう。


 ペロリとアイスを舐める先輩。舐めながら話しかけてくる。


「いずれにせよ、あなたの心のもやもやみたいなものの正体がわかってよかったんじゃないですか?」


「テメェ! わかった風な口叩くんじゃねえよ! だいたい、あのこは―—」


「僕にはその人がどのような人なのか存じ上げませんが、ただ言えるのは、あなたがその人のことを想っているということ。そして、その想いをどのように伝えるのかはあなた次第ですが、その方法の一つとして、あの桜の言い伝えに託してみるのも一つではないかと思ってお話ししただけですよ」


 アイスを桜のほうにむけて先輩が話す。先輩の熱で少しだけ溶けたアイスが白い水滴となって地面に落ちる。思った以上に大きな音がしたけれど、アイス自体はほとんど落ちてはいなかった。


 先輩は、おっと、といいながら溶けた部分のアイスを舐め取る。舐め取りながら、横目で私のほうをみてくる。その瞳は今までのどこかぼんやりとした目ではなく、ほんの少しだけ鋭さを帯びているようにも見えた。


 じゅるりと音を立てて舐め取りながら、続ける先輩。


「何か、言いかけていましたが、大丈夫ですか?」


「…………な、なんでもねぇよ」


「そう……ですか。それならばいいんです」


 先輩は上を向きながらアイスを食べだす。熱で溶けてしまったから、棒の方に滴ってきているようで、それを防ぐために変な姿勢で食べている。時々、のどぼとけが下がる動きを見せる。汗がついたその首の動きが、まるで獣が何かを飲みこんでいるようにも見えた。


「…………」


「…………」


 私は先輩がアイスを食べ終わるのをなぜか待ち、先輩もまた一言も口を開かずにアイスを食べていた。どうしてそうしているのかはわからない。


 やがて、最後の一口を先輩が口の中に入れる。


「なぁ……先輩よぉ」


「なんでしょうか?」


 私は何をきこうとしているのかわからないまま、なぜか先輩にたずねてしまっていた。先輩はというと、アイスの棒をくわえながら答えてくる。


「私は、そのこ……と上手くやって……いけると…………思うか……?」


 口に出していくとどんどん小さくなってしまう声。それが自分の中で何を意味しているのか、まったくわからなかった。


 いつの間にか穏やかな視線に戻っていた先輩が、くわえたままのアイスの棒をかじりながら口を開く。


「どうでしょうか、ね」


「―—っ」


 言葉が出なかった。どこか意地悪な部分を感じながらも最後は上手いこと背中を押してもらえると思っていたからだ。期待していた言葉とは違っていた返答に、フェンスにもたれかかってバランスを保つ。


「あなたにとって上手くいってほしいというものが、どういうものなのでしょうか? これからもただ仲良くやっていくのか、それともそれ以上の関係を求めるのか? また、求めるのであれば、今のあなたとその方との関係が悪い形になってもいいから変化させたいと想っているのか、それに耐えられる心があるのか。そのあたりのところではないかと思います」


 先輩の言葉が鋭かった。とにかく鋭かった。私は、そこまでのことを考えていたのだろうか。わからない。


「…………っかんねぇ」


「なんですか?」


 フェンスを持つ手に力を込める。そして、ふらついていた体を立て直す。


「わっかんねぇよ!」


「…………」


 先輩は何も言わずに私をみてくる。


「そんなもん、わっかんねぇよ。どうなりたいかなんてわかんねぇ。だけど、私の中からあふれてきそうなものがある! それをどうにかしてぇ。どうにかできるのかもわからねぇし、ぶつけたところで迷惑かもしれねぇ。ただ、何もしないよりはマシだ!」


 私はいつのまにか空に向かって叫んでいた。先輩に向けていたはずの言葉が、空へと登っていき拡散する。誰かに聞かれるかどうかなんてわからない。ただ、私は叫んでいた。


 のどがかれたのか、痛みがはしるし、汗がどんどんと出てくる。苦しくてしんどいはずなのに、私の胸のところはなぜか少しだけ軽くなる。


「……それでいいと思いますよ」


 先輩が静かに語りかけてくる。


「あなたが今ご自身でお話しした通りです。やってみるしかないんですよ。やってみてどうなるか、なんです。一歩を踏み出さなければ何も変わりません。悩んでいるのであれば、踏み出したほうが良いと思います。

 あなたはここまであなたなりに自分の心の中を話してくださいました。もちろん感情的なところだったので、上手く言葉にできなかった部分もきっとあったことだろうと思います。ただ―—」


 先輩がそこで言葉を区切った。


「あなたに幸ある未来が来ることを!」

 


 いつの間にか日が傾いてきていた。私は先輩とそれだけ長い時間を話していたのだろう。だけど、心は晴れやかだった。


 先輩にもう一つだけアイスをもらい、先輩と一緒に食べる。


 なぜかふたりともソフトクリームを選んでいた。お店でだしてもらうものに比べて、長い時間凍らせている影響で普段なら固い。だが、クーラーボックスに入れていたおかげで、程よい柔らかさになっている。


 静かに二人でソフトクリームを食べる。お互い、ベロを白くしながらもミルクの甘味をしっかりと味わいながら、沈む夕陽をぼんやりと眺めながら。


 やがて、ソフトクリームはなくなり、示し合わせたわけでもないのに、コーンの最後の一口を一緒に口の中に放り込んだ。


 私は、静かに立ち上がると、先輩が手を出してにこりと笑う。ここにきて金払えか、と思って財布を取り出すが、首を横に振り小さく、ゴミ、という。ゴミを先輩に渡すと、先輩がいつも通りクーラーボックスを少しだけ開けて、ゴミを中に放り込む。あの中はいよいよどうなっているのだろうかと不思議に思ってしまう。


「ありがとう、先輩。それじゃ行くよ」


「はい。気をつけて帰ってください」


 先輩は私に返事をしながら、持っていたクーラーボックスが開かないようにロックをかけていた。


 私はそれをみて屋上の扉へと歩く。夕陽の反対の空は青と黒がまじったようになっていて、その中で小さな光が瞬いているのが見えた。扉のところまできて、ドアノブに手をかける。後ろを振り向くと先輩がクーラーボックスを抱えながらひらひらと手を振っている。


「アイスごちそうさん。おいしかったよ」


「いえいえ。どういたしまして」


 扉を開く。建物の中に傾いている日の光がさしこんでくる。階段の途中までオレンジ色の光が伸びている。その光のなか、私の影が伸びていた。


「がんばってくださいね」


 屋上の扉をくぐろうとしていた私の背中に声が届いたと同時に、少しだけ強い風がふく。振り向きながら、わかったよ、と口を開きかけた時に見えたものは、屋上の地面に置かれていた青いクーラーボックスだけだった。


to be continued


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