手を伸ばすこともできない

「ううっ」

 ピンク一色になっている頭の上を見あげながら、成充しげみつは時折ふき抜ける風に身をちぢこませていた。

 風にゆれる木々はその枝の先ひとつひとつに花びらをまとわせていた。五枚でワンセットになるようにどれも同じ並びで。

 桜の木たちは風になでられていても、散る様子はなかった。今は八分咲きといったところで、あと一、二日でほとんどの桜が満開になっていくことだろう。桜の木にとっては今が見せ場になっているということに他ならない。

 その桜の木々を成充は自分が敷いたブルーシートに腰を下ろし、足を投げだしながら見あげていた。ブルーシートにはおもし代わりに履いていた革靴と一本だけ買っておいたペットボトルのお茶、それから成充自身をおもしにして、風でとばされないようにしていた。

「いくら場所取りで、早めに仕事をあがっていいといわれても、これじゃぁなぁ……」

 桜の枝のすき間から見える空は、ピンク色に映えることがない、グレーだった。泣き出しそうになるほどの色の濃さではないものの、その灰色のおかげか成充が座る地面まで日の光が届かず、気温があがることはなかった。遠く雲が切れているところからはブルーとオレンジが混じりあったような空になっている。

 成充はペットボトルをチラリと見るが、手を伸ばすことはしなかった。そのペットボトルのキャップは白色だったからだ。

「はぁ……」

 小さくため息をつく。ついたからといって、何かが変わるわけでもないが、それでもつかずにはいられなかった。伸ばしていた足をもぞもぞと動かし、あぐらをかく成充。それに合わせて、ブルーシートがガサガサとこすれる音をたてる。

「よぉ、勝野かつの。まじめに場所とってるか?」

 成充は呼ばれた方に顔をむける。

 そこにはダークブルーの三つ揃えのスーツをしわなく着こなす男性がいた。少しだけ茶色に見える髪はきっちりとヘアセットをされていて、風がふいても崩れる様子はない。その茶色の髪も黒にほんの少しだけ茶色を混ぜたようなものだった。光の加減で茶色かもしれないと感じられる程度。

 立ち上がろうとしていた成充に男性は手で制していた。その手には缶コーヒーが二つ。

「わざわざ立つな。どうせ、俺も座るんだから」

「はぁ、お疲れ様です。生田いくた係長」

 革靴をいたませるようなことはせず、器用に脱いでブルーシートにのる生田。そのまま流れるように、成充の目の前に缶コーヒーをむける。

「えっ?」

「取れよ勝野。いくらなんでも寒いだろ。それに缶コーヒーくらいで怒られるとでも思ったか?」

「え、いえっ……ありがとうございます」

 成充は差し出された缶コーヒーをひとつ受け取る。ほんのりと温かい缶コーヒーは成允の白くなってしまった手を少しだけ赤くしていた。

 生田は受け取ったことを確認し、少しだけ口の端を持ち上げる。それからゆっくりと腰を下ろす。ちょうど人ひとり分の距離を取って、少しだけ斜めになるように座った。さらに流れるように手の中にあった缶コーヒーのプルタブを引く。軽い音が響く。

 成允もそれにならい缶コーヒーを開けようとするが、かじかんだ指が缶コーヒーの温かさだけで十分に温まることはなく、何度もプルタブをはじく音だけが響いていた。

「かせよ。開けるから」

「い、いえ。大丈夫です」

 遠慮をする成允から缶コーヒーを奪い取る生田。そのままためらうことなくプルタブを引く。開いた缶コーヒーが成允の手に渡される。コーヒーの湯気が成允のもとまでゆっくりと届いてくる。

 すでに生田は缶コーヒーに口をつけていた。成允もまた同じく飲むことにする。口の中に甘味と苦みが広がり、飲み下すとコーヒーがもっていた温かさがゆっくりと体の中にしみていった。

「ったく。こんなときまで遠慮するなよ」

「す、すいません……」

「……ふぅ。まあいいか」

 生田がため息とも息継ぎともとれるようなものをする。そのとき、生田の口から白いもやが出ているのが見えた。

「しかし、桜がこれだけ咲いてるっていうのにどうしてこんなに寒いんかね。こんな中で花見をやろうってか?」

 桜の花を見ながら生田が悪態をつく。動かした口からは、白いもやが勢いよくあらわれては空中に混ざるように消えるということを繰り返していた。誰に投げかけたわけでもない言葉もまた同じく空中に消えていく。

 成充はその生田の様子をみながらも、彼よりも前に来ていた人たちを見ていた。周囲では寒いながらもすでに花見や酒盛りをしている人たちが集まってきている。その誰もが寒さをしのげるよう、毛布のようなものを持ってきていたり、食べ物や飲み物から湯気が立ち昇っていたりと用意周到な様子で花見をしていた。

「そ、それで生田係長はどうして?」

「早く来た理由か? そりゃ勝野、お前の陣中見舞いってやつだな」

 笑いながら成充の肩を叩く生田。成充は肩を叩かれながら、口元だけを笑わせ、目は生田の手を見ていた。

「じ、陣中見舞いですか……。それは……ありがとうございます。それにコーヒーも」

「ああ、気にするな。そんなもん大したことじゃない」

 生田が成充を叩くのをやめ、もともと座っていた場所に戻る。

「しかし、お前が席取りをやらされるとはな」

「な、何かあるんですか? 花見の席を取りに来ることに……」

 生田が成充から体を離し、缶コーヒーを置いて両手を体の後ろのほうにつく。ブルーシートのかさついた音が鳴る。そのまま、ぐるりと視線を巡らせながら話し始める。

「今日ここに来るように行ってきたのは課長だろ?」

「えっと……はい。そうです」

 生田はブルーシートについた手を曲げたり伸ばしたりしながら、辺りの花見客をみている。成充はというと、あぐらをかきながら視線を缶コーヒーと生田に何度も往復させている。

「だよなぁ、やっぱり。どっちなんだろうなぁ……」

「ど、どっちというのは?」

 体を丸くしながらたずねる成充。

「ウワサがあるんだよ」

「う、ウワサって……」

「よっと。そうだな。本当かどうかは知らないが、うちの会社、花見の席取りは入社二年目のやつにやらせてる。毎年な。新入社員とか、中途採用の一番新しく入ったやつじゃなく、新卒から入って入社二年目のやつがさせられる。……何でだと思う?」

 生田は体を起こして、成充の方をみる。生田と成充の視線が交差するが、すぐに成充はその視線から逃れるように、缶コーヒーを見る。それを見た生田の右の口の端がわずかにあがる。

「わ、わかりません。上の人の考えていることなんて」

 成充はじっと俯くように缶コーヒーを見ながら話している。

「そうだよな。なかなかわかんねぇよな。上司の上司のそのまた上の上司の考えていることなんてな。まぁ、それでも聞けよ。なんでも、毎年頼まれているのは一人で、そこに男も女も関係ないらしい。ちなみに俺も昔したし、去年は確か、依里より主任だったかな」

「えっ? 去年は依里主任が花見の席取りをしてたんですか?」

 勝野が勢いよく顔をあげる。目は見開かれ、ほんの少しだけ顔に赤みがさしている。

「おっ? 少しは缶コーヒーであったまったか?」

 生田の言葉に成充が再び下をむき、両手の中に納まる缶コーヒーを見る。その缶コーヒーを成充はクルクルと手の中で回し始め、飲み口がゆっくりと動く。

「いやぁ、悪い悪い。話の腰折っちまったな。だけど、さっきの話でわかったんじゃないか?」

 視線だけを動かし、成充の表情をうかがう生田。しかし、成充は手の中の缶を見続けていた。

「…………」

 成充の動きが止まることはなかった。

「……そうか。まぁ、わかんねぇなら無理にわかれともいえないし仕方ないな」

 生田が缶コーヒーに口をつける。そのまま、ゆっくりと首の角度をあげていく。ふぅ、と息を吐きながら離した缶をそのままブルーシートの上に置く。小さなおうとつがブルーシートの下の地面からあがってきていたが、缶は倒れることなく立つ。

「つまりだ、この花見の席取りの役目ってのが、課長以上のいわゆる上役に期待されているかもしれないってことだ。もちろん、方針が変わっていなければ、の話だがな」

「ほ、方針、というのは?」

 成充は手の中の缶をもてあそびながら、時々生田の方に視線だけを向けている。生田が自分の目の前にある缶コーヒーを指で弾く。弾かれた音が鳴り、缶が倒れるが、中身は空になっていたようで、ブルーシートの上に倒れるだけだった。

「方針は、方針さ。今までは目をつけていたやつにこの役目をさせていただけで、今年からはお荷物になったからブルーシートの重しにでもしてしまえ、みたいな感じとか」

「それって——」

「いくら何でもいじめが過ぎるってやつだな。そこまでするとは思いたくないが……」

 成充が缶を落としそうになるが、ほとんど地面に接していたおかげでブルーシートがコーヒーまみれになることはなかった。ぐらつきかけた缶は成充の手にひっかかっているだけでもあった。

 目を見開いたままの成充は生田の表情をみることができず俯いたままでいた。倒れそうになっている缶を持ちあげ、口まで運び顔をあげる。そのまま喉をならしながら、缶コーヒーの残りを飲み干していく。生田はその行動のすべてを見ていた。

「い、生田係長」

「どうした?」

 突然、名前を呼ぶ成充。生田はその成充から一瞬たりとも視線を外すことはなかった。

「そ、そもそも、生田係長はどうして、ぼ……私のところに来たんですか? コーヒーを持ってきたわけじゃないでしょう?」

 搾りだすように声を出す成充。缶を持つ手は震えているが、もう片方の手は握り込まれていて真っ赤になっていた。

「いや、コーヒーを持ってくるためだ」

「ほらやっぱり…………え?」

 成充の顔が固まる。目を見開き、生田をじっと見る。缶が手元から落ちるが、こちらも空っぽだったのでブルーシートがコーヒー色に変色することはなかった。

「強いていうなら、勝野、お前と話をするためかな。手ぶらってわけにもいかんし、どこかのカフェで飲むかもわからんコーヒーを買うくらいなら、これぐらいがちょうどいいだろう?」

 生田は口の端をあげて成充をみる。

「それにだ。一人挟んでいるとはいえ、部下にわざわざイヤな話だけしにくるほど、性格も悪くないつもりだ」

「あっ、はい」

「勝野、お前は仕事ができている。俺にはそう見えている。だから、この話はここで終わりだ」

 言い切った生田は、左腕を見る。そこには黒の金属の腕時計がはめられていた。それをチラリと見てから、再び成充をみる。

「まだ、もう少しみんながくるまでの時間があるな。さぁて、そしたら、俺の愚痴でも聞いてもらおうかな」

「ぐ、愚痴、ですか?」

 生田が手元の缶を右手で持ちながら、人差し指で叩いていた。規則的な音が鳴り、成充はそれを見てしまう。

「ああ、愚痴だ。仕事の話なんかしねぇよ。どうせこのあと花見だ。これからまた会社の人間に会おうってのに、何が悲しくて話したいよ」

 規則正しい音が生田の手から鳴り続けている。

 成充の方はというと、視線を生田の手から徐々にあげて、生田の顔を見る。成充の目には生田の口が弧を描いているのが目に入った。

「そ、それで愚痴っていうのは?」

「ははっ。へんな質問だな。愚痴っていうのは、か。かえって話辛いがまぁいい」

 生田は缶を叩くことをやめ、周囲を見渡す。それからほんの少しだけ、成充の方へと体重をかけ、体をよせる。

「一応、言っておくが今からはなすことは他言無用でいてくれ。誰にでも知られたいことじゃないしな」

「ぼ、僕、いえ、私だったらいいと?」

「そうだな。お前なら誰にでも話したりはしないだろう? 社内でお前を呼びだすほどの話じゃないし、かといって誰彼かまわず聞いてほしいもんでもないからな。こんな機会でもなきゃはなしゃしないさ」

 軽い口調で話している生田の言葉を聞いていた成充は、体を小さくして生田を見ていた。それから、おもむろにそして静かにあぐらから正座へと、姿勢を正していた。

「まぁ、気楽に聞き流してくれ。少し前の二月だけどな。ちょっといろいろあってへこんでた時期があってな」

「へこんでいた、ですか。……そういえば、生田係長少し調子悪そうな時期がありましたね。二月ぐらいだったかもしれないですね」

 生田が目を見開きながら、口笛を軽く鳴らす。その口笛の音は花見客の喧騒の中に消えていったが、成充の耳には届いていた。

「よく見ているな。そう、二月だ。ちょうどバレンタインの日に彼女に呼ばれてな。世間ではチョコを渡す日だ。俺は仕事帰りにワクワクしながら、呼び出された場所にむかったよ。いつもの待ち合わせ場所にいって、そこからメシでもって思ってた」

「はぁ」

 成充が生返事を返す。生田はその返事を聞くか聞かないうちに続ける。

「まぁ、そこに彼女がいたんだよ。ただ、いつもとちょっと違ったんだよな。寒かったから待たせて怒っているとか、そんなもんだろうと俺は軽く思っていたんだ。俺が彼女に近づこうとした時だった。彼女は俺に突然話しかけてきた」

「…………」

 成充の姿勢が少しずつ前のめりになっていく。同時に顔だけは下がらずに生田の方を見ていた。

「最初に言ってきた言葉が、あなたの中にわたしはいるの? だった。どういう意味か分からなかった。だから俺はきいたんだ。どういう意味だ、って」

「……かっ、ごほっ。彼女さんは、なんて?」

 口の中が乾いたのか、あるいはつばがおかしなところに入ったのか。成充は声を出すと同時にせきこむ。しかし、それでも質問は何とか口にしていた。

「大丈夫か? まぁいい、続けるぞ。その時、あいつはいったんだ。そのまんまの意味よ、って。それからあいつは、俺がプレゼントしたネックレスを返してきた。ものすごく静かに近づいてきて」

「そ、それで、生田係長は、ど、どうしたんですか?」

 生田は缶コーヒーを持ちあげようとして、再びブルーシートの上に置く。それから、目線を下げて、缶を右手から左手、左手から右手へと動かす。顔をあげた時にわずかに喉元が動いていた。

「ちょっと記憶がないんだけどな。気がついたら俺の左手の中にネックレスがあって、彼女はいなくなっていたよ」

 そういって生田は缶を動かすことをやめて、左手をただじっとみつめていた。

「…………い、生田係長。そ、それって……愚痴ですか?」

 成充は生田にたどたどしく問いかける。生田の方はというと、それを聞いてゆっくりと左手を開いたり閉じたりしていた。

「勝野、お前、いうなぁ……」

 消え入りそうな声で生田がいう。その声は桜と喧騒の中にとけていく。

「…………」

 成充が何も言えずにいると、生田が立ちあがり、上を見る。その視線の先には桜の花が咲き誇っている。

 しばらくそうしていた生田が成充を見下ろしてきた。

「さて、俺の愚痴かどうかもわからない話は終わりだ。お前の方は何かないのか?」

「ぼ——私ですか? 私は恋愛には縁遠い人間ですから。そんな話はなにもないですよ」

「勝野、お前な。まぁ別に無理に聞き出すつもりはないが……だけど、これまでの人生で誰かのことが気になった、一緒にいたいとかそんなのはなかったのか?」

 ため息をつきながら話す生田の声は最初は低いものだったが、声を出していくと少しずつ元の声に戻っていく。それでも生田の両手は腰に置かれていた。

「えーっと、そうですね。……どう、だったかな。あっ、そういえば」

「お、なんか思い当たることあったか?」

 生田が腰に手をあてたまま視線を下げてくる。ちょうど、成充と同じ高さの視線になった生田だが、その目の周りは少しだけ赤くなっていた。

「気になる人ではなく、話ですがいいですか?」

「はなしぃ? 他人の恋バナか?」

 細めた目で成充を見てくる生田。ついでに少しだけのぞきこんだ生田に押されるように成充が少しだけ顔を後ろに引かせる。二人の間に成充が右手を差し入れて、激しく振りはじめる。

「ち、違いますよ。気になる話ですって。なんでも恋愛成就の」

「ほう。それはそれで面白い。聞かせてもらおうか」

 どっかりと座り込んであぐらをかく生田と手を引っ込めて少しだけ姿勢を正す成充。成充が口を開く。

「生田係長はここから会社までの間に川があるのを知っていると思います。整備されて緑地ができている川です」

 ああ、とだけ答える生田。

「その川に桜が植えられているんです。何本も。ただそのうちの一本でバス停のすぐそばにある桜なんですが不思議な言い伝えがあるそうです。なんでもその桜の樹の下で告白すると恋がみのるとか」

「そりゃ、なんかのゲームの設定じゃねぇのか?」

 生田が話をさえぎり、半分怒りながら言ってくる。

「いやいや。ゲームじゃないですよ。うちの女性社員にきいたんですから」

「おいおい、いったい誰だよ。そんな迷信みたいな話をするやつは」

「えっと誰だったかな。確か、モトなんとかって名前だったかな」

 成充の中途半端なヒントを聞いた生田は、ああ、あいつ、とだけ口に出す。

「知ってるんですか? 生田係長」

「まぁ、何となく誰かはわかった。気にするな。それでそのゲーム設定の話はいったい何なんだ?」

「いやいや。だから、ゲーム設定じゃないですから。何ていってたかな。恋守……桜だったかな?」

 突然、風もないのに遠くから桜の木の枝が揺れる音がした。それは波のようにやってきて、二人の上を通り過ぎていく。まるで波が通った後のよう。花見客の多くがその桜を見あげていた。二人も同じく桜を見ていた。

「勝野。お前、桜の木を怒らせたんじゃないか? 間違ったこと言ってるから」

「そ、そんなことないですよ。だけどびっくりしました。桜からクレームいわれたらやってられませんよ」

「上手いこというな。それでその桜がどうだっていうんだ?」

 生田が脱線していた話を戻すように促す。

「そ、そうでしたね。その桜なんですが、満開に咲いている時の夜にするといいらしいです。なんでもさっき話してたモトなんとかさんの知り合いで、想いが通じ合った人がいたそうですし」

「ほ、ホントか、それ?」

 生田が自分の膝に肘をついて、成充の方へと顔をよせる。動いた影響でブルーシートがガサガサとなる。

「ほ、ホントらしいですよ。それにほら、今ちょうど満開ですし、その話知ってる人が話してるかもしれないですよ。なんか気になってきたし、行ってみませんか?」

「お前なぁ。花見の席取り忘れてるだろ?」

 それに、といって桜を指さす生田。その先には開ききっていないつぼみがいくつもあった。

「まだ、満開じゃない。せいぜい八分咲きだ」

 はぁ、とため息をつきながら、生田はいう。しかし、その視線は生田の左腕につけられている時計に向けられていた。それから立ちあがる生田。

「わ、忘れてないですよ。生田係長」

「…………そろそろ来てもいい時間なんだよな」

 生田が空を見ながらつぶやくようにいう。成充もそれにならい、空を見ると、雲はいつのまにか流れ、深い色のブルーが徐々にその範囲を広げていっていた。時間が遅くなっていくことに合わせて、少しずつ親子連れの数が減っていった。代わりに二人と同じスーツ姿や大学生なのか、バラバラの服を着た男女のグループが増えていた。

「おっ、来たな。こっちだ!」

 生田が誰かに手を振って居場所を伝えている。手を振っている先には同じ会社の人たちが見える。その誰もが、クーラーボックスや何かの包みを持って歩いてきていた。

「場所取りお疲れ様です。生田係長、勝野さん」

「そっちこそ荷物運びお疲れさん」

 生田が声をかけてきた社員に返事をしている。成充もまた頭を下げる。

 集まった社員たちが、クーラーボックスを開け、スーパーで買ってきたであろうオードブルなどの食材を広げ始める。

 それを見ていた生田が、成充へと近づく。

「ちょっと来い」

「どうしたんですか?」

 生田が耳もとでささやくように言う。

「さっき話してた場所に行こう」

 生田の申し出に成充は目を丸くするが、すぐに首を縦に振る。

「なぁ、課長たちは?」

 生田が準備を進める社員にたずねる。たずねられた社員は準備の手を止めて、生田の方を向いて答える。

「課長と何人かは後から来ます。僕たちはいわゆる準備班ってやつですかね」

「そうか、わかった。ちょっと俺と勝野は離れるぞ。あとで戻ってくる」

「わかりました」

 準備班の社員が笑顔で返事をしてくる。

「よし、じゃあ行くぞ」

 生田と成充は会場を後にしていた。

 

 二人は言葉をかわすことなく歩みを進める。会社へと戻る道程には二つの流れができていた。花見の会場へ向かう流れとそこから帰宅の途へとつく流れ。二人はその片方の流れに乗っていた。

 帰宅の途につく多くの親子連れ。彼らと一緒に歩いている二人のスーツの男は周囲から見れば奇妙に思えたことだろう。その上、二人は一言も言葉を介することなく、無言のまま同じ速度で歩みを進めている。

 車道では行き交う車が花見をするためと帰宅のために渋滞をおこし、赤いテールランプが遠くまで並んでいる。入り込むすき間もないほどに並んだ車のすき間をぬって道路を渡ろうとする子供や年寄りが何人もいて、子供には親がついていたのか、危ない、と注意をされていた。

「……もう少しか?」

 生田が口を開く。人ごみにうんざりしたのか、歩き疲れたのか。生田の顔が少しだけ赤くなり、わずかに肩が上下に動いていた。

「はい。あと少し歩けば着きます」

 成允は答えると同時に、こちらです、といって道を曲がる。

「そ、そうか」

 二人が息を切らしながらやり取りをしていると、少しずつ道路の渋滞から離れていく。いつのまにかアスファルトを叩く革靴の音だけが響くようになっていた。

 無機質な壁から木造住宅の壁へ、ただ無作為に放ち続けるネオンの光から家の窓からもれてくる暖かな光と街灯へと変化し、賑やかさから静けさへと移り変わっていく。時々、家の中からは、笑い声のようなものが漏れ出ている。

 そんな中、成充が生田の横に並ぶ。

「大丈夫ですか? 生田係長」

「ああ、問題は、ない」

 相変わらず、生田は息を切らせているが、成充の上司としてなのか、気丈な態度を示している。二人の足並みは自然に同じものになっていく。どちらがどちらに合わせたのかはわからない。

「生田係長。聞いてもいいですか?」

「おう……なんだ?」

「係長はどうして、さっき話していた桜を見に行きたいって思ったんですか?」

 成充が問い掛けながら生田の方へと視線を送る。明かりが減った道。繁華街とは違い、街灯もぽつんぽつんととりあえず置かれている程度。年数の経った建物と新築の建物が混在している町並みとが、時折照らされる生田の顔の向こう側で流れていく。

 成充の言葉を聞いてか、揃っていたはずの足並みが少しだけずれる。

「…………」

 少しずつ、歩みがゆっくりになる生田。それに合わせるかのように、成充もまた歩幅を狭める。

「ど、どうか……しましたか?」

 黙ったままでいる生田に、さぐるようにしてたずねる成充。生田はチラリと成充の方を見て、口を開きかけるがそれもすぐに閉ざされてしまう。成充からは死角になる側の頬がわずかに動いていた。

 成充と生田はそのまま歩き続ける。成充が少しだけ前を歩いて。たびたび、成充は後ろに生田がいるか確認をしている。首を動かさず、ただ、耳を傾けているだけの確認。それでも二人は何も話すことなく、静かに歩みを進めていた。靴音だけがこだましている。

「…………きたいんだ……」

「えっ?」

 足音にも劣る消え入りそうな声がわずかに空気をゆらす。成充はそれに反応し、歩みを止めて後ろを振りかえる。いつのまにか開いていた成充と生田の空間。

「い、生田係長。何か、言いましたか?」

「あっ……いや……まぁ、そのなんだ……。み、見ておきたいんだ」

「見ておきたいというのは……桜を、ですか?」

 二人の距離はちょうど街灯の明かりが届くかどうかというものだった。それは同時にお互いの顔を読み取るには距離があるものでもあった。

「そ……そうだ」

 生田が少しだけ間を開けて答えてくる。

「そうでしたか。もう少しでつきます。宴会が始まる前に戻れるようにしましょう」

「ああ……」

 どこか歯切れの悪い返事を返す生田。

「勝野、さっき話したこと覚えてるか?」

「さ、さっきというと、いったい、いつのこと、ですか?」

 後ろを歩く生田のほうをみながら、言葉を区切りながら成允はたずねる。

 生田が静かに近づいてくる。唇が忙しなく動き、中に入ったり、外に出てきたりしている。

「さっきの、愚痴の話、だ」

 声に出した後すぐにせき込む生田。成充はどうすることもできず、ただ見ているだけだった。

「す、すまない。唾がひっかかっただけ、だ。さっきの愚痴の話はそこで終わっている。が、そのあとは勝野、お前がいったように全然ダメだった。二週間位したときだったかな。俺はある人に助けられた。隠していたつもりだったんだがな。さっきの勝野と一緒でその人はすぐに気づいたみたいだった。……正直、救われたよ。自分としては上手く隠しているつもりだったからな。その人はそっと俺にコーヒーとメモを渡してきた。メモには、つらいことがあったのなら話をきく、と書いてあった。嬉しかったよ」

 決壊したダムのように言葉がつむぎ出てくる。その言葉は時に低く、そして時に高く、声の調子を変化させながら溢れ出てくる。生田は言葉を吐き出すごとに少しずつ、顔をあげていき、今は自分自身の真上を見ている。

 暗い夜空。

 街明かりのせいでほとんどの星は見えないが、強く明るく輝く星だけはかろうじて見ることができた。月はみえない。

「うれしかったんだ」

 まっすぐに成充を見る生田。

「…………」

 そして、歩きはじめる。

「その人は俺を見てくれていた。そう思った時に、俺の中で何かが温かくなっていくのを感じた。少し前まで冷たかったはずの俺の中の何かが、だ。それから俺はその人に会うのが楽しみになっていった。特に笑った時にできる左の頬のえくぼがかわいらしくも感じている。コーヒーを待ち遠しくなる日々がやってきた」

 歩みは進んでいく。ゆっくりとだが、止めることなく。

「……勝野、お前は怒るかもしれない。振られてすぐに他の人のことを思うようなやつは最低だ、と。だが、そんな風に言われても俺は自分の中に芽生えている気持ちに嘘をつくことなんかできない」

 それは誰かにむかってのものになっていた。その人のことを想ってか、はたまた成充に対しての宣言か。夜の住宅街に生田の言葉が響いていた。

「…………い、生田係長は強いです。……ぼ、僕は係長のことを怒ることなんてできません……」

 ぽつりぽつりと言葉を口にする成充。生田とは反対に下を向いて足を止め、両手を握り込んでいる。

「どうした? 勝野?」

 下を向きながら小刻みに震えている成充に、こちらもまた足を止め問いかける生田。

「ぼ、僕には、生田係長みたいな勇気はありません……」

 成充はうつむいたまま、消え入りそうな声で告げます。

 生田の声とは反対に小さなものだった。にもかかわらず、住宅街の中にありながら、なぜかその声はとおっていた。震えたまま顔を上げない成充。

「なぁ、勝野……話してみないか?」

 生田が少しだけ声のトーンをあげて成充に声をかける。それは自分自身のうちを伝えたために出てきた優しさだったのかもしれない。

 ゆっくりと顔をあげる成充。街灯に照らされたその顔は赤く、目にはわずかに水分が溜まっていた。こぼれるほどではないにしても、それでも潤むという程度のものではなかった。

 生田が先を行く成充に一歩だけ近づく。

「……はい……」

 成充の小さな声は、遠く聞こえる車の駆動音よりも小さく、聞き逃してしまうほどのものだったが、その声は確かに届いていた。

「さ、さっきは話から逃げてしまってすいません。……ぼ、僕にも気になる人がいます。その人は……僕が何か失敗してしまった時には、話を聞いてくれて……なぐさめてくれまして……とんでもないクレームを言われた時なんて! 一緒に相手のところにいって謝ってくれるような人です」

 まくしたてるように話し始める成充。それでも、早口で話すことはせず、ところどころ思い出すようにしながら言葉にしていた。

「電話越しでもカンカンに怒っているような相手に謝って、すぐに相手のところにうかがう約束を取り付けて、一緒にうかがって、一緒に謝ってくれる。自分だって忙しいのにそれだけのことをしてくれたんです。それに僕は仕事が早くはできていないと思っています。その分のフォローをしてくれたり、疲れているはずなのに一緒に残業をして仕事を見てくれたり……。そうやって過ごすうちにいつのまにか気になってしまって」

「…………」

 言葉をつむぎ続ける成充とただ静かに聞いている生田。しかし、その生田は話の途中で何度か口を開きかけるが、すぐに閉じるということを繰り返していた。いつのまにかポケットに入れられていた手が何度か出たり入ったりしていた。

「生田係長の人とは違ってコーヒーじゃなくて、栄養ドリンクを持ってきてくれます。そこに付箋が添えられていて、お疲れ様とか、ガンバレとか書いてあるんです。それを見ただけで、ここがすごくあったかくなるんです」

 その時に成充がさしていたのは、自分自身の胸。その場所が温かくなると話している。

「俺は、お前がすごいと思うよ……」

「それに——ってどうしたんですか? いきなり」

 生田が挟んだ言葉にさらに続けようとしていた成充の言葉にブレーキがかかる。反して生田は歩きはじめる。

「勝野、行こう。歩きながらでも話すことはできる」

 成充に並び、軽く肩を叩いて通っていく。叩いた時はほとんど音が鳴らず、成充もまた叩かれたところを軽くさする程度だった。

 小走りに追いかける成充。横に並んだところで成充が話し始める。

「どうしたんですか? いきなりすごいとか、歩き出すとか……」

「勝野がそれだけ助けてもらえて、勝野も想えるってのはすごいなと思えてな」

「生田係長が想ってる人も助けてくれているじゃないですか。辛いときとか、困ったときとかに助けてくれている。それに強く想っているからこそ、その人の特徴がわかっているんですよね? 僕にはその辺りのことはほとんどわかりません。だから、す、すごいといわれてもいまいちピンとこないんです」

 再び、成充が先導をしながら歩きはじめる。

 目的地に近づいてきたのか、地面に桜の花びらが落ち始める。二人の歩く足音に隠れて、水の流れる音がしてくる。

「そうなのか……そう思っていいんだろうか……。俺はあの人のことを想っているといっていいんだろうか……」

 成允の横を並んで歩いているのに、少し足元をみながら進んでいる生田。

「そうですよ! 生田係長はそのお相手のことを想っていらっしゃいます。例え、失恋した後だとしても、それは誇っていいと思います。後ろ向きな僕なんかとは違います。ちゃんと前を向いているんですよ」

「ああ……ありがとう」

 うつむき気味になって話していた生田だったが、成允の言葉を聞いて、少しずつ顔をあげていく。ほんの少しだけ、生田の口角があがっていた。

「なぁ、お前の想っている人ってもしかして……」

「生田係長。そこを抜ければ、あります」

 成允が指し示したのは古い木造家屋の間にある小さな路地。人が住んでいるかどうかも怪しい家。その家の窓は閉まっているが、障子は穴が開いたり日に焼けて色褪せたりしていた。家の中をその穴からのぞくことができた。しかし、屋内に灯りがついておらず、路地の向こうからもれてくる街灯の光によって、窓ガラスが黒く反射して中をみることはできない。

 その路地を進む二人。いつのまにか、二人の足並みがそろっていた。そのまま、同時に路地から出ていく。

「おおっ!」

 生田が声をあげる。目の前に広がっていたのは見上げるほどの桜だった。並ぶ桜はどれも大きいが、ひときわ大きい桜が静かに自らを揺らし、ゆっくりと花びらを散らしている。まるで、そこだけ雪でも降っているかのように静かに舞い降りている。下からライトアップされている桜はピンクでありながら、夜の空に浮き上がって見えていた。青黒い空の中にぽっかりと現れているようにもなっていた。

 それはまさに息を呑むような桜。

 その大きな桜の下には一つの標識が置かれていた。バス停を示す丸い標識と、ベンチが並んでおかれている。そこにも桜の花びらが舞っていた。

 車が通り過ぎる。地面に下りていた花びらが少しだけ舞い上がるが、すぐに下りたってしまう。

 その後、一台のバスがやってきた。白っぽい色を基本として、オレンジの太いラインが描かれている。そのバスが二人の左手を少し行ったところで停車。何人かの乗客が下りて、桜を見る人と路地へ消えていく人へと分かれて行った。

「渡りましょう」

 成允が道路の左右を確認しながら告げる。ちょうど、車の往来が途絶えたところだったので、二人は道路を抜けていく。反対側のバス停まで到着すると、桜はより大きさを増しているようで、バスから降りた客が何人も見上げ、シャッターをきっていた。

 桜の向こうにある土手のほうでは川流れる音が二人の耳に届いていた。

「この桜か?」

 生田が一番大きな桜を見あげながらきいてくる。見あげているその目は大きく見開いていた。

「そ、そうだと思います。バス停の前にありますし、一番大きいですから」

 成充もまた、生田と同じように桜を見あげ、その大きさに目を見はっている。

「す、すごいな」

「は、はい」

 桜は大きく枝を伸ばしている。咲き乱れる花がすべての枝につけられ、美しい姿をみせている。そのうちのいくつかから、ゆっくりと花びらがおりてきている。

 二人が桜を見あげていた時だった。二人に近づいてくる集団がいた。

「お疲れ様です。成充くん、生田係長。花見の場所取り良かったんですか?」

 二人に声をかけてきたのは集団のなかの一人の女性。その女性は肩よりも少し長い髪を後ろで編み込んで下ろし、桜色のカーディガンにベージュのロングスカートを着ていた。集団の他の男女もまた、女性にならって、お疲れ様やご苦労さんといった言葉を二人にかけてくる。

「お疲れ様です、課長、依里主任、皆さん」

「さっき別の連中が来たんで交代しました。依里主任は課長たちと一緒に来たのか?」

 成充と生田がそれぞれ返事をする。

「はい。お二人はどうしてここに?」

 依里は少し高いトーンで返事をしてからたずねる。他の人たちも足を止める。

「あ、えっと」

 成充が答えようとしてどもってしまうが、その間に生田が少しだけ体を前に出す。

「この桜を見に来たんです。成充が立派な桜を知っているっていうんで、案内してもらったんです」

 そこで桜を見あげる生田。それにつられて、みんなが桜を見あげる。桜は花びらを少しだけ散らしながらもその雄々しい姿をみせていた。

「確かに立派だ。歩きながらみんなでそう話していた」

 課長が感想を口にする。他の人も口々にすごいとか、キレイとか話す。

「いう通り確かに立派な桜です。いいものを見せてもらってます」

 ポケットの中に手を突っ込み、桜を見あげながら生田は話していた。

「そうだったんですね。成充くん、やるじゃない」

 依里が成充にむかって、笑顔を見せながら片目をつむる。視線に気づき依里をみた成充の顔はみるみる真っ赤に変化していった。逃げるように視線をあげる成充。依里もまた、二人の後をなぞるように桜を見る。

 さっきとは違うデザインの異なる、ガラス張りになっているところ以外、ほとんど緑のバスが停留所に止まる。桜を見あげていたみんながいっせいにバスの方に視線を移す。バスの降車口近くにいた課長たちは道を開けるためにバスの向こう側へと歩み始めている。

 降車口から人が降りてくる。降車した人たちが、成充たち三人と課長たちをさえぎる直前、課長が小さく指先を動かしていた。依里だけがそれをみてうなずく。

 バスから降りた人はバス停からすぐ見える満開の桜を見あげてから降りてくるため、降車に時間がかかる。数人が降りたところで、乗車口のドアが開く。同時にバスの録音済みのアナウンスが響きわたる。バス停近くに立っていたのは、成充、生田、依里の三人。

「御乗りの方はお急ぎください」

 急かすような運転手の声が響く。依里がすぐに乗らないことをジェスチャーでアピールする。それが見えていたのか、マイク越しに小さなため息のようなものが、アナウンスの直前に入り込む。

「乗り口が閉まります。お気をつけください」

 警告音とともに、扉が閉まる油圧の音が鳴り、乗車口のドアが閉まる。降車する人もいなくなっていた。依里と一緒に来ていた課長たちは、バス停から少し離れた場所にいた。

 発車の合図のクラクションが鳴り響き、バスは駆動音をその場に残して走り去っていく。

「バスの運転手に迷惑をかけたかしら?」

 依里がバスを走り去るバスを見ながらつぶやくようにいう。

「大丈夫だと思いますよ。依里主任、対応ありがとうございます」

「ううん。ただ、手をふっただけだから、気にしなくてもいいよ」

 依里が成充に笑顔を見せる。

「ほら遅れちゃうから行こう。生田係長も」

 歩みをはじめる依里。二人の横を通りすぎていきそうになるその時だった。

 生田が依里の手を取って歩き進めることを止める。

「少し……いいか?」

 いつの間にか出されていた生田の手。依里が目を見開いて、自分の手と生田の顔を視線だけで交互に見る。

「あ、えっと、花見に遅れちゃいますよ?」

「だ、大丈夫だ……すぐ、すむ」

 生田がじっと依里の方へと視線をむけ続ける。

「い、生田係長?」

 生田の行動に成充がたずねるように声をかける。しかし、生田は成充をいちべつしただけですぐに視線を依里へと戻す。依里の方は視線を彷徨わせ、成充や課長たちの方をみる。

「どうした? 生田、依里、成充?」

 課長が不信気に声をかけてくる。少しだけ三人のほうへと足をむける。

「なんでもありません。すぐに追いつきます。お先に会場へ」

 生田の業務的な返答の声が響きわたる。その声は課長のもとにも届き、歩みが止まる。

 課長はわずかな時間、動きを止める。それが、誰を見ていたのかはわからない。しかし、すぐに他のみんなの方へと戻っていく。

「三人とも、あまり遅れるなよ」

 そう言い残して、宴会場へと続く路地へと消えていった。

「成充。お前も早く行け」

 生田が鋭い声を出して成充に告げる。しかし、成充は依里の方を見ていた。依里もまた、成充を見ていた。

「い、生田係長。ぼ、いえ、私も依里主任に話があります」

「…………そうか、やっぱりお前もか。だと思ったよ」

 なぜか、生田がフッと笑う。それから依里の手を放す生田。

「えっと、私、宴会場に行きたいんだけど……」

 依里が手をさすりながら答える。ほんの少しだけ足を後ろにも下げていた。

 風がふく。

 桜に当たった風は、咲き乱れる花びらを桜のもとから奪い去っていく。花びらはゆっくりと回転しながら空へと舞い上がり、ゆっくりとその身を風に任せている。それらは地面に、他の桜の枝に、バス停に、ベンチに下りる。そして、依里の桜色のカーディガンにもひとつのる。依里はゆっくりと視線を下げていた。

「勝野依里さん。俺はあなたのことが好きだ! 俺はキミに支えられていることに気づいた。気づいた時にはもっと前からキミはいろいろと俺を支えてくれていたことを思い出したんだ。いつのまにかキミが淹れてくれたコーヒーと一言が楽しみになっていったよ。だから……」

 一気に話し出した生田。その視線は一点に依里の方をみている。依里は少しだけ赤い顔をしながら、視線を下にむけたまま話を聞いている。

「だから、俺と付き合ってくれ!」

 いい放つ生田。その瞬間、依里は目を強く閉じる。

「よ、依里先輩。私も言いたいことがあるんです」

 生田の勢いとは裏腹に下を向いてゆっくりと話し始める成充。なぜか、間を置くということをしなかった。

「お、おま——」

「私は、依里先輩にいろいろと教えてもらいました。情けないやつだったから、なかなか上手くできなくて、そのたびに迷惑をかけて……一緒に謝りに行ってくれて、一緒に怒られてくれて本当に申し訳なかったと思っています」

 成充は生田の答えを聞くよりも先に話し出す。それを咎めようとした生田の声も無視してそのまま話し続けていた。うつむきながら、それでもひとつひとつの言葉をゆっくりと声に出していた。

「今は頼りないかもしれません。だけど、依里先輩を必ず笑顔にしてみせます。どうか私と一緒にいてください…………」

 最後の最後だけ、成充は顔をあげて依里を見る。依里はそれでも視線をあげることなく、下を向いたままだった。

 三人は一言も発することはなかった。

 桜を見物に来ている人は川沿いを歩き、バスも通りすぎていたのでバス停にも三人以外いない。ただ静かな時間がすぎる。

 やがて、依里がゆっくりと顔をあげてくる。頬を赤らめ、口角をあげながら、笑顔で成充と生田をみてくる。

「二人とも……ありがとう。……二人の気持ち、すごく、嬉しかったです」

 依里が口を開く。その言葉は静かにつむがれ、選ぶように告げられる。しかし、その言葉は過去形になっていた。

 流れるように依里が頭を下げる。あまりにも自然に、あまりにも違和感なくその動作が行われた。成充も、生田も、その行動の意味がわからず、ただじっと見ていることしかできなかった。依里のキレイに編み込まれた髪を見ていた。

「ただ……ごめんなさい。私はどちらともお付き合いをすることはできません」

「…………」

「…………」

 成充も生田も茫然と、依里を見ていた。目を見開き、どうすることもできず、ただ立っているだけだった。

「………………私、先に行くね」

 動けないことを察したのか、二人に顔を見せることなく、スカートをひるがえして走り出し、路地の方へと向かっていく。

「待っ」

 一瞬間をおいて、成充と生田も追いかけようとするが、そこに車が走り込んできて、二人の行く手をさえぎる。その刹那の間に、依里の姿は見えなくなっていた。

 成充と生田はその路地をじっと見ていた。

「い、生田係長……」

「あ、ああ」

「ふ、フラれた、んですよね? 僕たち」

 成充が告げるようにも確認するようにも聞こえる言い方で生田に問う。茫然としていた生田はただ、ああ、とだけいうのが精一杯でそれ以外の言葉を発することはなかった。

「どうしましょうか、生田係長?」

 固まってしまっている生田に成充は何度も声をかける。それでも、動くことがなかった生田。生田の顔には表情が抜け落ちたようになってしまっていて、ぼうっと路地の方を見つめているだけだった。

 成充が生田をゆする。ようやく焦点があった生田は成充の方を見る。

「あ、ああ。そ、そうだな。フラれたんだよなぁ」

「や、やっぱりそうなんですよね……」

 生田の言葉を聞いた成充は肩を落とし、大きく息を吐き出す。盛大なため息を横で見ていた生田もまた同じようにため息をついていた。

「なぁ、成充——」

「おーい。はぁはぁ、お前たち! まだ、そんなところに、いたのか?」

 二人に突然声がかけられた。二人がその声の方へと視線を向けると、そこには先にいったはずの課長がいた。肩で息をしながら、左右を気にしつつ近づいてくる。

「か、課長?」

「先にいかれたんじゃないんですか?」

 成充と生田がそれぞれ素っ頓狂な声を出して、課長に声をかける。

「お、お前たち、すぅはぁ、こそ、まだ、ここに、いたのか。よ、依里くんが、一人で、げほっげほっ、来たから、どうしたのか、と思ったぞ」

「だ、大丈夫ですか? 課長」

「すぅはぁ、ああ、大丈夫だ」

 深呼吸を繰り返し、少しずつ呼吸を整えていく課長。その課長をみる二人の表情は眉毛がよったものになっていた。

「何でまだ二人でいるのかは、わからん。が、私の面子というのも考えてほしいものだ」

「課長、それはどういう——」

「生田係長。少なくとも私は、仕事ができないと思っている人間に、大事な仕事を頼むことはしない。それは勝野くんも同じことだ」

 課長は生田が何かを話しだすこともかまわず、重ねて話し続ける。その言葉をきいて、二人は顔を見合わせるが、すぐに二人の表情が崩れる。

「ほらっ、行くぞ!」

 その言葉を合図に三人は花見の宴会場へと歩みを進めていった。


「成充……。何だか今日は疲れたな……」

「そうですね、生田係長」

 二人は課長に連れられて、自分たちが席取りをした花見会場へと戻ってきていた。陽は完全に落ちて、煌々とライトアップされた桜の木の下で、社員の多くが酒と料理に舌鼓をうち、よくわからない会話で盛り上がっていた。

 お酌をして回る社員もいれば、まったく動こうとしない社員もいる。中には他の宴会に混ざり込んでいる人もいて、その人の上司が頭を下げて連れ戻している。新入社員たちは宴会が始まってすぐに社長から紹介を受け、その近くで小さくなりながら酒の肴にされていた。入ってすぐの彼らには残念ながら逃げる先はなく、ほとんどが半笑いで飲み物だけを口に運んでいた。

「働いてたのか? 俺たち」

「そうですね、生田係長」

 まったく同じ返事をする成充。

 二人の会社だけでなく、他の宴会もあるせいか、騒がしさはかなりのものになっている。大学生などは一気飲みをしている。

「……あぶねー」

 成充が大学生たちをぼんやりとみながらつぶやく。そして、手元にあった紙コップのぬるいお茶を一気に飲み干す。

「昔はみんなあんなことしてただろ?」

「そうですね、生田係長。僕はしてません」

「なんだよ、同じことをいうのかと思ったら、お前してないのか?」

 気の抜けた炭酸のように、力無く二人の会話は続けられていた。周りにはなぜか誰もおらず、ぽっかりと空間が空いていた。二人の手元には申し訳程度の揚げ物のオードブルと二リットル入りのぬるいペットボトルのお茶があった。そのお茶もすでに半分くらいなくなっている。

「僕、お酒飲むとすぐに吐くので飲まないんです」

「へぇ。だったら、飲むか酒?」

 いいながら、紙コップを掲げる生田。しかし、成充は知っている。その紙コップの中に入っているのはお茶である事を。

「それ、お茶ですよ。さっき僕が注いだんですから」

 言われた生田がグイッとお茶を飲み干す。

「そうだな。今日は飲まないでおこう。悪酔いしそうだ」

 生田がペットボトルを開けて、自分のコップにお茶を注ぐ。なみなみと注いだあと、ペットボトルを成充にむける。成充はペットボトルを受け取ろうとするが、生田が首を振る。

「コップ」

 その一言に小さくため息をついて、紙コップを差し出す成充。

「なんだ? 俺の茶が飲めないのか?」

「生田係長。お茶で酔わないでください。無理があります」

 生田がペットボトルを傾け、紙コップにお茶が注がれていく。こぼれそうになる直前までいれられたお茶をどうにかこぼさずに口元に運ぶ成充。

 二人とも気が付けば同じ方向を向いていた。桜色のカーディガンを目で追っている。課長に付き従うように、色々な人の間を回り、お酌をしている。

「これ、湿気しけてるな……」

 生田の口からポテトが飛び出しているが、ポテト自体はへたるように下向きになっている。

「オードブルを分けただけですから仕方ないですよ……」

 そう答えながら、成允がつまんだのはから揚げ。一口で食べていたが、指先が油でてかり、手近にあったお手拭きで入念にぬぐっている。

「こっちも油がすごいですよ」

「そうか……お茶だけが唯一の救いか……」

 いいながら二人はお茶をあおるようにして飲む。二人とも油ものを流し込むために飲んでいるようにもみえた。

 二人の視線は相変わらず同じ方向をむいていた。別のグループに移っていた課長とその横にはやはり彼女の姿。食べ物を取り分け、色々な人に渡している。

「男二人でなにたそがれてるんですか?」

 二人の視界をさえぎるように人が現れる。会社からそのままの格好で来たのか、グレーのパンツスーツを上下に着ている女性。黒のショートカットの髪は丸くまとめられ、風のいたずらでセットが乱れている。すき間に桜の花びらがのっかっている。その手には違う種類のペットボトルのお茶と紙コップがあった。

「あっ、お疲れ様です」

 反射的にあいさつをした成允。

「お疲れ様。生田係長と勝野成允くん……でしたよね?」

「お疲れ元森もともり。勝野で合ってるぞ。主任とかぶるからみんな、成允、って呼んでる」

 生田が元森と呼んだ女性に対して、どこか投げやりな言い方で成允のことを説明する。元森はそのことなどまったく無視して、ブルーシートに腰を下ろす。二人とは違い、背筋をすっと伸ばして正座をする。

「へぇ、そうなんですね。この間はどうも、成允くん」

「こちらこそ。あんなすごいものとは思いませんでした」

「あっ、桜のこと? 見に行ったんだ」

「はい、さっき生田係長と二人で行ってきました」

 ふーんといいながら、生田のほうを横目で見る元森。生田のほうはというと紙コップの中身を口に運んでいた。それをみていた元森が、ブルーシートに置かれているペットボトルと自分のペットボトルを持ち替え、生田のほうに向ける。

「ああっ、悪いな」

「それで、生田係長。どうでした?」

「どうって?」

「前に言わなかったっけ? あの桜の話」

 元森はお茶を注ぎながら、会社の方を指し示す。言われた生田と聞いていた成充が会社の方へと視線を向ける。それはさっきまで成充と生田が依里と話していた桜の方向。元森がペットボトルのキャップを閉めながら話す。

「お前、俺にあの桜の話なんかしたか?」

「やっぱ覚えてないんだ。話したじゃん、あの桜のこと。恋守夜桜だって」

「そうだったか?」

 生田は本当に忘れているといった様子で話す。元森がため息をついてから、生田の方を睨むように見る。

「生田係長。あの桜は恋守夜桜といいます。言い伝えがございまして、桜が咲いている時に両想いの二人が告白して気持ちが通じ合うと永遠に幸せになれる、というものです。実際にそうなった人を私は知りませんが、そのように言われています」

 元森が突然業務報告のような話し方をし始める。しかも、話し方に加え、表情すらなくして、ただ事務的に伝える。

「わ、わかったよ。元森。こんな時までそれをするな!」

「わかればいいのよ。そんな記憶力でいったいどうやって係長になったんだか……さっぱりわからないわ。なんか裏でもあるんじゃないの?」

「え、えっと元森さんでしたっけ? い、いくら何でも言いすぎなんじゃ? 生田係長ですよ」

 元森の上司をまったく敬うことがない態度。それを見ていた成充がびくびくとしながら、元森に注意を促し始める。しかし、それは生田の方から止められた。

「気にしなくてもいいさ。そいつは同期だし、昔からの知り合いだから。会社だと、さっきの業務報告みたいな話し方になるからとりあえずの問題はないさ」

 元森も、そうそう、といいながらニコニコと笑っている。

「で? どうだったの? 恋守夜桜」

 しつこくたずねてくる元森。生田が一瞬何かに目線を動かしてから、会社の方へと視線をむける。

「立派な桜だったな。どれだけ大切にされてきたのかがわかる」

「それは良かった。成充くんも良かった?」

 成充に水が向けられる。成充もわずかな間どこかに視線をさまよわせてから、元森の方をむく。

「はい。あの桜はずっと見ていられるなと思いました」

「ふぅん。そうかぁ」

 元森の反応が生田の時とはあきらかに異なっていた。元森の口の端がゆっくりと持ち上がっていく。

「……そういう割に何だけど、二人ともさっきからどこ見てるの? なんか、ううん、誰か捜しているようにもみえるんだけど?」

「…………」

「…………」

 成充と生田は元森の指摘に目を見開いてしまう。それがかえって、彼女の言葉を証明してしまっていた。

「ちなみに、相手は二人ともが想像している通りよ。まして、相手には……」

「た、確か、奥さんとお子さんいませんでしたっけ?」

 成充が口の端にあげてしまった内容。それが聞こえていた元森の表情はどんどん色をうしなっていった。

「そ。いるわ」

 たった二言が、無表情の元森の口から淡々と吐き出される。

 はぁ、と大きなため息をついて生田が口を開く。

「禁断の恋、ってやつに、身を焦がしたってことなのか……」

「さすがですね生田係長。周囲の反対が強いと燃え上がるっていうやつです。今のところ誰も反対はしていませんが、上層部が問題視したらどうなるのか……まぁ、あきらめなさい」

 元森は最後の一言をいう直前に意地の悪い笑顔を浮かべる。

「…………」

「…………」

 成充も生田も口を開くことはなかった。ただ静かに、頭上にある桜の木を見あげた。桜はそこに花を咲かせていた。その身につけた花びらを時折ゆらしながら。

「とりあえず、今日は飲みましょう」

 そういって、元森がお茶の入った紙コップを掲げる。

「ははっ」

「そうですね」

 成充と生田もまた同じく紙コップを掲げる。そして、三人は今日初めて乾杯をした。軽くぶつけて、お茶がこぼれる。新しい気持ちを持つために今までの想いを洗い流していくかのように。

                                    fin

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