川辺の夜に祈る


「これはまた遅なってしもうた。はよ帰らんと旦那さんに怒られてしまう」

 お天道様てんとうさまがまだ高い所にあった時は人もあふれるほどにいたのに、夜も更け、空にまん丸のお月さんが出ている今ではほとんど人の姿をみることはございません。道のはしに出ている屋台や飲み屋から提燈ちょうちんの灯りが漏れておりますが、それ以外は手前が持つ小さな提燈の灯りと月明りだけがかろうじて先を照らすしるべとなっております。

 満開の桜が川べりに何本も咲いております。

 こちらも昼には桜をさかなに酒盛りでもしていたであろうが、今はそのような人の姿は見られず、揺れる桜と散る花びらが、どうしても白く際立って見えております。薄桃色うすももいろであるはずなのにそれはどこか怖ろしいものにも思えてなりません。

 そういえば、昔、旦那さんに聞いたことがあるが、桜が鮮やかに咲いているのは、その下に死体が埋められているからとかなんとか。その死体から桜が養分を吸い取って、怪しく鮮やかに咲き乱れるとか。

 いつのまにか足を止め、桜を見入っていたらしく、怖ろしくなって帰り路を急ぐことにいたします。

 行く先は少し坂になっており、上りきった辺りにひと際大きな桜の樹が見えております。そして、その横には大きな橋がかかっており、そこから対岸へと渡り、その先に手前の奉公をさせてもらっている店があります。

普段であれば、こちらの道は通ることはございません。今日のように遅くならなければ、店が連なる道を歩きます。そちらであれば、この時間であっても提燈の灯りだけで歩くことはないからでございます。

 手前が坂を上りきった時でした。

 そこに立つ桜の樹の影から、別の影が現れたのです。それはもう驚きました。遠くで見た時には、そのような兆しは全く見られなかったのですから。

 先ほども桜の下に死体が埋まっているなどと考えていただけに、怖ろしさのあまり、足が動かなくなってしまいました。

 影はゆっくりと動き出し、少しずつ坂を下りてまいります。

「お、お止まりなさい ど、どちら様でございますか」

 手前は怖さが勝ってしまい、提燈をかかげ近づく影に、止まるように言います。声が上ずり、上手く言えなかったのは、手前の恐怖の現れでございます。

 近づく影はそこで歩みを止めましたが、提燈を掲げているために、手前も相手が何者なのかはわかりかねます。ただ、影が人の形をしているので、獣の類ではないことはわかります。言葉も通じているようです。しかしながら、人に見えるだけで物の怪の類であることも、頭をよぎるのでございます。

「も、もし。あなた様は呉服問屋の平介様ではございませんか」

 影は女子のようで、その声は耳心地の良いもので……。

「いやいや。どうして手前の名前をご存じで 手前と顔見知りでございましょうか」

確かに手前の名前は平介ではございますが、このような夜更けに道端で呼ばれることなど、想像できましょうか。

「以前、あなた様の店にてお世話になりました」

 一歩、影が前に出られました。そこは桜の樹の影から外れ、月明りが届くところであったようで、影の姿が見えてきました。

 そこには、一人の女子おなごが立っておりました。薄い藍色あいいろの着物を着た女子は、提燈を掲げる手前を見ているのかもしれません。ですが、手前は提燈を掲げており、女子の顔はその向こうにありまして、確認をすることはできないのです。

「わたくし、かよ、と申します」

 女子は名乗りましたが、やはり記憶にはないお名前です。よく耳にする名前ともいえますが。かよ、と名乗る女子の顔を見るために提燈をわずかに下げ、見えるようにいたしました。

 提燈越しに見るそのお顔は、月明りに照らされていることもあるのかもしれませんが、大変白く感じました。しかし、健康を害しているような様子はございません。女子自身のお顔にも似合っている藍色の着物ですので、美しさがいっそう際立っているようにも思えてなりませんでした。

 そのような女子が手前のことを存じ上げていると、男冥利に尽きるというものです。

 しかしながら、突然桜の樹から現れた女子である事に変わりはなく、手前はこれ以上、近づくことはできずにいました。美しくあるがゆえに、どこか怖ろしさを感じるのです。急いで帰らなければならないはずなのですが、足はいっこうに前に動こうとはしません。

「平介様。少しよろしいでしょうか」

「は、はい。何でございましょうか」

 手前、上手く声が出せず、変な声になってしまいました。

「お話があるのですが、そのようなところではなく、こちらまで来られませんか」

 彼女はそう言いながら、手前を桜の樹まで招くのです。満開に咲く、桜の花が静かに揺れているのが見えます。怖くはないのですが、桜の樹のことを思うと、少し怖気を感じてしまいます。いやいや、手前の頭の中は全くまとまる様子がございません。

「お、お話ですか、どういったことでございましょうか」

 何とか言葉を搾りだしましたが、それは彼女に届いたのでしょうか。

「かように間を空けて話すようなことではございませんので、良ければ花でも見ながら話しませんか」

 どうやら、覚悟を決めねばならぬようです。手前はゆっくりと坂を登ることにいたしました。かよは月の光のように優しい笑顔を見せてこちらをみています。

 何とか坂を登りきり、藍色の着物を着る彼女の元に参りました。彼女が右手を手前に差し出します。手前は持っていた提燈を左手に持ち替えます。

 女子の手を取ってもよいものか。差し出された右手が、届くか届かないかのところで手を止め、引っ込めようとしたところです。彼女の手がさらに伸びてきて、強引に手前の手を取るではありませんか。

 その手は柔らかく、少し冷たくありましたが、強引さも相まって力強いものでした。

「平介様の手はとても温かいですね」

 驚いてしまい、力が入ってしまいました。その力は彼女の手に伝わってしまいます。

「痛っ」

「す、すみません」

 手前は謝りながら、手にこめてしまっていた力を抜きます。すると彼女の方から、離そうとしていた手をもう一度つなごうとしてきたのです。

「かまいません。驚かせてしまったのですね。いきなりだったのでごめんさない」

 あちらから謝ってくるではありませんか。月に照らされている彼女の顔に温かみがさしているように見えてきているのです。白い肌にわずかに見られた紅い変化。手前はそれを美しいと感じてしまうのです。

 手前はすぐに頭を振り、今の思いを振り払うことにいたしました。なぜなら、つい先ほど初めて顔を合わせ、名前を知り、手を握った相手でございます。そのようなはしたない思いを持つことなど、許されようはずがございません。

「どうかなさいましたか、平介様。わたくしの顔に何かついておりますでしょうか」

「い、いえ。決してそのようなことはございません」

 心の臓が早鐘のように、打ち鳴らされておるのがわかります。無論、それは手前のものでございます。

「そうでしたか。それならばよかったです」

 彼女はそう言いながら、柔らかい笑顔をこちらに向けてこられるのです。

「ところで、お話というのは」

「……桜が、きれいですね」

 彼女がゆっくりと顔を桜の方へと移しながら、静かに言われます。それにつられ手前も桜を見上げます。

「この着物、覚えておいでますか」

 彼女の言葉に手前は彼女の着ていた着物をゆっくりと見てみます。提燈の光に照らされた薄藍のそれは、光の当たり具合によってその見え方が変わり、濃淡がどこか哀しさとか淋しさといったものを感じさせるものに見えたのでございます。

 ただ、覚えているかと問われますと、自信がございません。いろいろな着物を取り扱っておりますし、着物をお渡しした時は忘れることはないのですが。

「申し訳ございません。着物には見覚えがございますが、どなたがお買い求めになられたのかを思い出すことができないのです」

「たくさんのお客様を相手になされているのです。それも当然というもの。お気になさらずに。この着物は父と一緒に買い求めたものでございます。平介様がいくつかの色の反物を持ってこられ、その中から平介様がわたくしに似合うものを選んでくださいました」

 着物をゆっくりと音を立てず大事そうにさわりながら、彼女は話してこられます。

「そういえばこれを買いに行った時、他に買いにこられていたご夫婦ふうふがいろいろと注文を言っていたのを覚えています」

「それはここ最近のことでございましょうか」

「そうですね。桜が咲く少し前でしたね」

 少し前にそのようなことがあったような覚えがございます。確か旦那さんがご夫婦の応対をされていましたが、大層困られていました。買った着物にご納得いただいていなかった様子だったように覚えています。

 しかし、手前もその時はお客様の対応をしており、旦那さんのところには行けませんでした。確か、その時のお客様は親子だったはず……。記憶と目の前の女子が一致します。

「ああ、あの時にこられていたお客様でしたか」

「はい。その節はお世話になりました」

 手前に頭を下げる彼女。

「そのようなことはなさらないでください。お気になさらずに」

 そういうのが精一杯です。いきなり頭を下げられるなどという経験はございません。

 静かに顔を上げる彼女。そのお顔は先ほどまでとはどこか違って見えたのです。

「……」

「……」

 手前はなんと声をかければよいのか、言葉が出てこなかったのです。

 彼女もまたこちらをじっと見てこられます。しかし、言葉はなにもございません。ただ、じっとこちらを見てこられるのです。

 と、彼女が少し見上げるように頭を動かしました。ゆっくりと桜を眺めているようにも見えます。

 手前もそれにならい、桜を見上げます。

 風がふき、提燈の中の火と桜が揺れ動きます。

「……平介様。わたくし近々婚姻をすることになっております」

 風音に重なるように聞こえた声は、今にも消えてしまうかと思いました。彼女の顔を横目にみますと、その顔は幸せとはおよそいえず、どちらかというと哀しさを感じさせるお顔をされています。

「そ、それはおめでとうございます」

 手前は彼女に当たり前のことしか言えません。おめでたいことでございますので、これが正しいのだと思います。

ですが、尋ねてみたい気持ちもないわけではございません。なぜ、そのように哀しいお顔をされているのか、と。

「……ありがとうございます」

「お相手はどなたでございましょうか」

「親の決めた相手にございます。一度もお目にかかったことがございませんので、どのような方なのかは存じあげませんが」

「お会いしたことがないのですか」

「はい。ですが、珍しいことではないと思います。親がわたくしのために選んだのですから、良い方だと思っております」

「では——」

「はい」

 手前の言葉と女子の言葉が重なる。

「……いえ。何でも……ございません」

 聞かずにはいられない。その気持ちを必死になって抑えました。

 聞いてどうしようというのでしょうか。手前にできることは何もありません。何もありませんが、彼女の顔を見ていると……。

「平介様。ありがとうございます」

 彼女が何の前置きもなく、手前にお礼を言ってこられました。

「ど、どうしてお礼など」

「平介様がわたくしのお話でききたいことがおありなのに、何も尋ねてこられないこと。ですが、そのお顔にはわたくしを思っていただいているお気持ちが浮かんでおります。ですからお礼を申し上げた次第でございます」

 手前の考えていることが顔に出ていた。それは彼女にとって失礼なことなのかもしれないのに、それを非難することなく、礼を告げてこられたのでした。

「平介様。正直に申します。わたくしは此度の御縁談、できれば受けたくはございません」

 彼女の言葉に手前はさほど驚くことはございませんでした。彼女のお顔がすべてを物語っておいでだったからです。

「わたくしには、ずっとお慕いしている方がおります」

「……」

 手前は彼女の言葉を聞くことにいたしました。

「そして、この桜に祈っていたのです。どうかこの縁談がまとまる前にお目にかかれますように、と」

 彼女は桜へと向き直り、その白い手をゆっくりと合わせ、静かに頭を下げるのでした。その姿は言葉の通り、祈り、といって差し支えないものでした。その魂ごと捧げている。そのようにも見えてなりません。

 彼女がゆっくりと、手前へと向き直ってこられます。その表情はおよそ哀しいものではなくなっておりました。

「……この桜は、願いを叶えるのですね」

 消え入りそうな声で、彼女は話していました。顔を隠すように下を向いてしまいます。

「平介様。お願いがございます」

 俯いたままの彼女でしたが、なぜか声は手前の耳にしっかり届いてまいります。

「わたくしと夫婦めおとちぎりを結んではいただけないでしょうか」

「えっ」

 今なんとおっしゃったのだろうか。

「今なんと」

「ですから、わたくしと夫婦になってはいただけませんか」

 いつのまにか手前の顔を見ながら、彼女はやはり同じことをお話になりました。そのお顔はさきほどの少し紅いとは比較にならないほどで、真っ赤になっておいででした。

 手前は……。

「かよさん。お気は確かですか あなたにはお慕いしていらっしゃる人がいるのではございませんでしたか」

 手前はわけがわからなくなっております。彼女はどなたかと夫婦になる。ですが、その彼女にはお慕いしている方がいる。それは此度、夫婦になる殿方ではない。そして、彼女はこの桜の樹に祈りを捧げていた。会えるようにと。

 そういえば、この方は、一つ告げていた言葉がございました。

 この桜は願いを叶える、と。

 それはつまり。

「平介様。ですから、わたくしがお慕いしているのは、あなた様、でございます」

「…………」

 手前はどのように答えるべきなのでしょうか。あまりのことに言葉がでてきません。

「いきなりのことでしたので、驚かれていることと思います。ですが、この気持ちに嘘偽りはございません」

「かよさん」

「あなた様のお店でお会いした時から、平介様のことが忘れることができないのです」

 かように美しい女子から、このような言葉を告げられて、手前が嬉しくないはずがございません。ですが、婚姻をなされる方から心のうちをさらけ出されるというのは、果たしてそれでよいのかと思ってしまうのです。

「かよさん。あなたは婚姻を間近に控えていらっしゃるのではなかったですか」

「そうでございます。ですが、平介様さえよければ、わたくしはいつでも平介様のもとに参ります」

 お気持ちはしっかりと固まっているようです。

 手前がこちらを通ったのはたまたま急いでいたからでございます。たまたまのはずでございますが……もし、これがたまたまではなく、何かのお導きだとするならば……それはもはや桜の樹に彼女の願いが通じたからとしか言いようがないのかもしれません。

「かよさん。明日、もう一度、会うことはかないませんか。その時にお返事をいたします。そうですね、できればお天道様がお空にいる時に。いつまでもこのような時間にいるべきではないと思います」

「……わかりました。平介様、明日もう一度お会いすることにいたしましょう。そこで改めてお答えをいただきたいと思います。こちらでお待ちいたしております」

 彼女はすんなりと引いて下さいました。手前の気持ちをおもんばかってくれたのでしょうか。本来であれば、すぐにでも返事が欲しいはずなのに……。

「では、手前は急ぎますので」

 そう告げて、手前は橋を渡ります。

 手前をじっと見ている彼女がいます。

「平介様。お待ちしております」

 まん丸の月が桜の樹と彼女を照らしています。それはどこか、朧気にも見えました。

 旦那さんの言葉がなぜか頭に聞こえてきます。

「桜の樹が美しく咲いているのはその下に死体が埋まっているから」

 川上から風がふいてきました。その風は提燈の火を強く揺らめかすのでした。


「まさか、二日続けてかように手間を取ってしまうとは」

 手前は急ぎ、約束の場所へと歩みを進めております。お天道様が何とか空にはおりますが、それでもかなり下がってきております。桜が咲いているにも関わらず、少し肌寒さを感じてしまいます。

 やっとのことで川へとやってまいりますと、昨夜と同じく桜が美しく咲いております。

「おや」

 しかし、違うことも起きておりました。人だかりができているのであります。ちょうど、橋のたもと、桜の樹まであと少しというところでです。

 人だかりがどうにも気になってしまったこと、桜の樹まで参らなければならないことがあったので、そちらへと歩いていきました。

 近づくと人だかりは何かを遠巻きに見ているようです。人の頭の隙間から見えましたのは、川原に敷かれたむしろでした。真っ平ではなく、おうとつがあるように見えます。

「何かあったのでございますか」

 手前は近くにおりました初老の男に聞いてみました。

はて。この初老の男どこかでお会いした気がいたします。思い出せませんが。

「ああ。何でも人死にがあったらしい。入水じゅすい自殺らしいぞ」

「それはまた、ずいぶん思いつめられていたんでございましょうかね」

「そうなんだろうね。ふみを持っていたらしいんだが、聞こえてきた話だと、想い人がいたらしい。その想い人に気持ちを伝えたらしいが、いまいちはぐらかされたらしくて、それに絶望して自殺をしたらしいぞ」

 手前の背中に冷たいものが流れたのがはっきりとわかりました。

「自殺されたのは男ですか、女ですか」

「確か……女だったかな」

 手前の時が止まったようでした。

男が何を言っているのか一瞬わかることができませんでした。いえ、理解したくなかったのかもしれません。

 息を止めていたのでしょう。ものすごく息苦しく感じ、息を吸ったり吐いたりしようとしましたが、上手くいきません。

「おい。大丈夫か。顔色が悪いぞ」

「えっ。だ、大丈夫です」

 男の声でなんとか息をすることができたのです。

「そうか。それならいいんだけどな」

 まさかとは思いますが、むしろの下にいるのは昨夜の彼女なのでは、という嫌な考えがよぎったのです。一刻も早く、あのむしろを取り払って誰なのかを確認したい衝動にかられます。ですが、それを手前はすることができないのです。

 なぜならば、本当に彼女がそこにいたら手前の目の前はすべて真っ暗になってしまうだろうからです。

 たった一時の逢瀬で手前の心は彼女につかまれてしまったのでしょうか。

 そのような思いにさいなまれていた時でした

「どいてくれ」

 後ろから押され、手前は倒れそうになりますが、何とかこらえ横にずれることができました。手前の脇を男が一人、人ごみをかきわけて進んでいきます。同心に止められそうになっていますが、勢いで押し通っていき、しかれたむしろを外されました。

 そこには女性が横たわっていました。離れている上に、先ほどの男が女性の顔を見ているので、手前からはその女性が誰なのか判別することはできずにおりました。

 突然、男が女性の亡骸の横に膝をつけたではありませんか。そして、大きな声をあげておられます。

「どうやら、あの男が例の想い人だったみたいだな」

 手前の隣で様子を見ていた男が小さな声で話しかけてきます。

「そのようですね。あの男性もかわいそうに」

「あの男はどこかで見たことがあるな。はて、どこだったか」

 初老の男が突然そのようなことを話し出すのです。手前は何となく、男が思い出すのを待ちます。

「そうだ。前に呉服屋に行った時に見た覚えがある。男には確か女房がいたはずだが、自殺した女ではなかったはず」

「そうなのですか」

「ああ。それにな、ここからじゃ見えないが、さっき聞こえてきた話だと、死んだ女は腹帯はらおびをしていたらしい……」

 腹帯。

「ではあの女性のお腹には……」

「そういうことだろう。何にしてもあの男もこのような場所に出てこなければよいものを」

「どいてくれ」

 後ろからまた声をかけられ、手前は横に避けますと別の同心がおりました。その後ろには荷車を運ぶもの姿も見えます。女を運ぶためでございましょう。

 女にすがる男も同心に連れられて行きます。おそらく不義ふぎ密通みっつうの罪の為、御裁おさばきを受けるのでしょう。証を残しているので言い逃れることは難しいかもしれません。

「お前さん。さっきまで青い顔してたのに、今は大丈夫そうだな。なんだ。もしや、自分の女かと思ったのかい」

「いえいえ。自殺した女性にびっくりしただけでございます」

 そう答えたものの、見透かされているようでなにも言ってはきません。代わりに背中を強く叩かれます。

 これまた、何とか踏ん張っていますと、男が言ってきます。

「まぁなんだ。よかったじゃねえか。自分の想っている女は大切にしろよ。それと、その女のことを裏切るようなことはするなよ」

 そう言った男の目は一瞬、鋭いものになります。

「はい」

 手前はなぜかこの男に強く返事をしたのです。なぜそうしたのかわかりません。

「そんだけ強く言えるなら大丈夫だろう。幸せにしてやんな」

男は柔和な顔になり、ゆっくりと坂を上っていきました。

 ふと、その柔和な顔に見覚えがある。そのように感じたのです。どこかでお会いしたことがあったのかもしれません。

その男の背中を見ておりますると、ちょうど桜の樹のところで誰かと話しているのがみえます。男はそのまま橋を渡っていきました。桜の樹に目を移しますとそこには、着物の袖が見え隠れしております。その袖の色には見覚えがございました。薄い藍色でした。

 手前は坂を駆け上ります。

 樹の陰には昨夜の彼女が立っていました。桜の樹の陰にいるはずなのに、彼女には夕日の橙色があたっております。樹に光を通す道があるのかもしれません。

 その光はいっそう彼女を美しく見せております。

「平介様。お待ちしておりました」

「ああ、かよさん。待たせてしまい申し訳ございません」

「いいえ。来てくださって嬉しいです」

 昨夜の彼女——かよさんの華が咲いたような笑顔を見て、手前も思わず笑顔になります。そのまま、かよさんは手前に抱き着いてきました。

「一つお聞きしてもよろしいですか」

 手前の胸の高さから、かよさんの声が届きます。

「なんでしょうか」

「さきほど、人ごみのところで話していた男の人と何を話されていたのですか」

 かよさんは手前から少し離れ、まっすぐに手前を見てこられます。

かよさんが言っているのは、さっき彼女の横を通り過ぎていった初老の男のことなのでしょうか。

「さっき橋を渡って行かれた方ですか」

「ええ」

 やはりそうでした。そして、その答えは手前が自殺した女性がかよさんではないことを知り、安心したということであり、それを問われるとは思いませんでした。

 なんとなく、気恥ずかしく感じ、言葉が出てこず、下を向いてしまいます。いざ、面と向かって問われますと、答えにくいものでございます。

 それでも、手前は意を決してかよさんの顔を見ます。

「かよさんが生きておられて、安心したのでございます。川に入水自殺した女性の話が昨夜かよさんからお聞きしたお話と重なっていたのでございます」

「平介様。それはつまりわたくしと夫婦になっていただけるということでしょうか」

 真っ赤になりながら懸命に伝えてくるかよさん。手前も少し冷えてきているはずなのに、顔が熱く感じております。

「はい。かよさんさえよろしければ」

 かよさんは下を向き、そのまま手前にもう一度抱き着いてこられました。

「……が……て……ました」

 何かを手前に伝えてくれているのですが、あまりに小さな声だったために聞き取ることができませんでした。

「かよさん。もう一度教えていただけますか」

 かよさんは少しだけ顔を離し、下を向いたままやはり小さな声で話されます。

「父が、平介様との、結婚を許してくれました」

 かよさんの言っている言葉の意味が理解できず、空いた口を閉じることもできず、ただただかよさんを見ていました。

「平介様。大丈夫ですか」

「あ、あの。かよさん。手前、いつの間に御父上にご挨拶をしたのでございましょうか」

 不思議そうな表情で手前を見てくるかよさん。

「父とお話しになっていたではありませんか。てっきり存じていて話されているのかと思いました」

 そこでかよさんは言葉をくぎりました。そして、少しだけ悪戯をしたような表情をして手前を見てきます。

「父は平介様に、自分の想っている女は大切にしろよ、とお伝えしたと言っておりました。それと気合を入れたとも」

「あっ」

 かよさんがなぜあの男の人と話していることを気にしていたのか、そして、手前の知らぬ間にかよさんの御父上とお会いしたのか、その全てがつながったのでございます。

「そうです。あの人が父です。平介様のお店にも行っておりますので、父もおそらく存じているはず。だからでしょう。父がすぐに許してくれたのは、平介様の人となりを存じ上げているからと思います」

 当たり前の話でございます。かよさんが手前の店にこられたのはあの時だけでございます。その時、御父上と一緒におこしでした。もしかしたら、御父上はかよさんから打ち明けられ、何度か手前の様子を見に来られていたのかもしれません。

「平介様。この桜の由来、御存知ですか」

 かよさんが桜の樹を見上げながら小さく聞いてきます。手前もつられて桜を見ますが、雄大に広がる枝ぶりとその先に咲かせている多くの花々が見えるのみで、由来のようなものはまったくわかりません。

 手前の表情を見てか、かよさんが小さく笑みをみせながら話してくれます。

「この桜は、恋守の桜、と呼ばれています。その名の通り、恋を守ってくれると言われています。ただ、今の時期のように花が咲いている時でなければ、正しく成就はしないと言われています。それを知らず花が咲いていない時に想いを伝えると、成就はするのですがお互いにとって望んだ形では叶わない、という言い伝えがあります」

「かよさん……」

「だから、わたくしにとっては最後の機会でした。この桜の時期に婚姻の話が来たのも。花が咲いていた昨夜、平介様にここでお会いすることができたのも。桜の樹が見守っていてくれたからなのだと思っています」

 横目にかよさんの顔を見ます。瞳が美しいと思ってしまいました。その潤んだ瞳にはどれほどの想いが込められているのでしょうか。

 手前には想像できないほどの深く、大きな想いがあったのでございましょう。それが手前に向けられている。このような幸せなことがございましょうか。

「かよさん……」

 手前は小さな声でかよさんの名を呼びます。かよさんも手前の胸に顔をうずめます。小さなかよさんを手前は強く抱きしめました。少しでもかよさんの想いに応えられるように。

 桜の樹が揺れた音が聞こえます。風がふいたからでしょうが、手前には違ったものであると思います。

 かよさんを応援していた桜の樹が、手前ども二人を祝福してくれたのだと。そう思えるのでございます。

                                     了

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