一緒にいきたい
懐かしさを覚えながら夕涼みを兼ねて川沿いの道をゆっくりと歩いていた。セミの鳴く声が少しずつ少なくなり、代わりに鈴虫の鳴く声が多く聞こえるようになったのに、夏のような暑気を感じるのはいまだ季節が移ろってはいないことを示しているのだろうか。しかし、流れる川を通る空気は、その身を冷やし、川沿いの道もまたゆっくりと冷やしていった。
川面に目をやると、街や月の光が写り込んでいた。それらが水の動きとともに揺れる姿は、幻想的なものにも見える。川沿いの道の脇には小さな階段があり、そこを降りると川岸に作られた芝生へ行くことができた。水面からうつる光のおかげで、カップルであったり、ランニングや運動をする人であったり、私と同じ会社帰りのサラリーマンであったりといろいろな人の姿が見えた。
少しの涼を求めて、私は芝生へと降りていく。護岸工事が施された上に作られた芝生は、歩くと植物のやわらかさを、革靴を通して足の裏に伝えてくる。
緩やかにふく風と水面からの涼が忙しかった一日の疲れを暑さとともに取り払っているようにも感じられた。時々、街の明かりや月の光を眺めながら歩く。
ふと、バッグの中の何かが揺れているのに気づく。
のぞき込むと、スマホが青白く光を放っているのが見えた。その横には光に照らされた葉書が見える。内容はわからないが日付は明日になっていた。
葉書を詳しく見るよりもスマホを改めてみると、ディスプレイには懐かしい人物の名前が表示されていた。
中学の頃から知ってはいたが、大学に入ってから仲が良くなった女友達だ。高校までは特に印象はないが、大学生になって、大学の構内や他の友達と遊びに行った時に、なぜか一緒にいることが多かった。卒業以来、一度だけ飲んだがその日もどこかの教会の前を、意味を持たない会話をしながら歩いていた記憶しかない。
バッグの中からスマホを取り出し、着信の応答をする。
「もしもし? ジュン? 元気?」
「桜香か? 久しぶりだな。どうした、突然電話なんてかけてきて?」
懐かしい呼び方だ。
一瞬で学生の時に戻ってしまったかのような、そんな感覚に襲われる。そう思えるほどに彼女の声に変わった様子は感じられなかった。
「いきなりゴメンね。なんか、ジュンの声が聞きたくなって」
「珍しいことをいうなぁ。何かあったのか?」
懐かしいことをいう桜香に私は思わず尋ねた。まったく他意はなく、話の流れとして出した言葉だった。
「んー? 何にもないんだけどね。ところでさ、今から会えないかな?」
「いきなりだな。仕事帰りだし、時間もあるから大丈夫だ。どこにいけばいい?」
んー、という声がスマホの向こうから聞こえてくる。どこに来いというのかわかならないが、久しぶりに会うんだから、どこへだって行きたい。
「そうだね。川原の近くにある公園なんてどうかな? 大きな桜の樹とブランコがあるあそこ」
「ちょうどよかった。今、川沿いを歩いている。この先に公園があるから、そこあってるか?」
「うん。それでよろしく。私も行くわ」
そういって、通話が切れる。川を流れる水の音が耳にまで届く。その音で本当なら落ち着きそうなものだが、桜香に久しぶりに会えるということに、どこか浮ついた感情が胸の奥に広がっているのがわかる。
さっきよりほんの少しだけ公園へと向かう歩みは早くなっていた。
高い位置に設置されている街灯と月に照らされて、その桜の樹はその存在をはっきりと示していた。季節が合えば美しい夜桜を見せてくれていたのだろうが、残念ながら今の季節ではその姿を目にすることはできない。
葉桜の姿を見せているが、それはそれで美しいと思ってしまう自分がいた。
桜の樹に小さく穿たれた穴からは、月の光が差し込んでいて葉桜とともにみると、どこか幻想的なものを表現しているようでもあった。
桜の樹を見上げることができる位置に、石で作られたベンチのようなものがある。ゴツゴツとした感触はあるが、立っているよりはいいと思い、腰を落ち着ける。少し速足で歩いていたせいか、足に軽い疲労感を感じた。しかし、それは決して苦痛を伴うものではなく、緩やかにふきぬけていく風が運び去ってくれそうな、そんな感じのするものだった。
金属のきしむ音が耳に入ってきた。公園にある唯一の遊具、ブランコだろう。
視線をブランコへと移すとそこには一人の女性がジーンズを履いてブランコに座り、ゆっくりと加速をつけて漕いでいた。そのブランコに重なるように十字架の影が伸びていた。
私はゆっくりと立ち上がり、ブランコのところにいく。
「いきなりブランコを漕ぎだすなんてな。一声かけてくれてもいいんじゃないか」
「見たら急に乗りたくなったのよ。ジュンも乗ったら?」
桜香は悪びれることもなく、私をブランコへと誘う。
大人の私が乗っても大丈夫なのか。そんな不安を感じながら、ブランコへと近づき、ゆっくりと腰を下ろす。私の体重にブランコが小さく音を出す。ブランコにとっての悲鳴なのか、あるいは座ってもいいという合図なのかはわからない。ただ、ゆっくりと漕ぎ出しても、壊れるということはなかった。
「久しぶりだね、ジュン。元気にしてた?」
「ああ。突然で驚いた。そっちも元気にしてたか?」
桜香は強くブランコを漕ぎながら、こちらを見てくる。ブランコの動きに合わせて視線を動かすのは大変だ。
「元気だよ。携帯見てたらふと名前が見えてね。思わず電話しちゃった」
言って、勢いよくブランコから飛び降りる。
ブランコから抗議の声のように金具の鳴る音が聞こえてきた。その音もやがて静かになる。
「いきなりいなくなって……どこに行ってたの?」
「実は転勤でいろんなところにな。昨日こっちに戻ってきた」
「ふーん」
桜香が息を吐くように小さく言った。
沈黙が二人の間におとずれる。
「で、いきなりなんだけどさ……今から一緒にどこかいかない?」
「えっ? ああ、どこかメシでも食べにいくか?」
「ううん。そういう意味じゃないよ。どこか、
一瞬何を言っているのかの理解が追いつかなくなる。てっきり他愛もない話でもするのか、せいぜいがメシでも一緒に行くのかと思っていた。
だが、彼女の中では近くではなく、遠くの場所に行くつもりだったようだ。しかも、場所は決まっていないらしい。
「い、いきなりどうしたんだよ? それに遠くってどこだ?」
どうしてもしどろもどろに話してしまう私自身がいた。いったい何を考えているのか。
「いきなり思いついたから、いきなり言ったんだけどね。それに場所は決めてない。一つ決まっていることがあるとすれば、ジュンと一緒に行きたい、ってことだけかな。場所はどこだっていいよ。ジュンが一緒にいてくれるなら」
漕いでいたブランコを、地面に両足をつけて無理矢理止める。軽い衝撃がおそってきたがそれよりも、心臓がドキリと跳ねたのがはっきりとわかった。言葉の意味をはっきりとくみ取ることができないでいる。だが、桜香は私と一緒にいることを求めていることだけはわかる。しかし、なぜ、そう思っているのか。
「桜香。遠くってどういう意味だ? 旅行みたいなものか? それにどうして私なんだ?」
「そうだね。旅行……でもいいし、それ以上でもいいかな。誰も知らない土地で一緒に暮らすのも楽しいかもしれない。ジュンを選んだ理由は、本当に何となく。ジュンと一緒に行きたいと思ったから」
暮らす。
それはつまり一緒に生活するということだよな。その相手が私。
桜香はいったい何を考えているのか。どんどんわからなくなっていく。
「……一緒に暮らすっていうのはつまり……」
「同居、同棲、居候。どんな言葉でもいいけど、一緒にいたいってことかな」
言葉の一つ一つがとてつもなく大きな衝撃をもって、私のところにぶつかってくる。そして、そのすべての言葉が私自身の心を大きく揺さぶってくる。彼女のいっていることは、つまり同じ意味ということにも聞こえてくる。
桜香の表情を見る。
明るく、楽しそうにしていることはわかるが、それ以上の変化は見つけられない。恥ずかしそうにしているとか、照れているとか、そんな様子は見えない。上手く隠しているのかもしれないが、私には読み解くことができなかった。
私は家族以外の他人と暮らしたことはないし、一人で暮らしたこともない。桜香も社会人になってからはわからないが、大学の頃に一人暮らしはしていないはず。実家から行ける距離だったし。
「ちょっと待ってくれ! いきなりすぎて頭が追いつかない」
「まぁ、そうよね。わかった。ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
桜香が公園から走り去っていく。
どこに行くのかはわからない。が、彼女が待て、と言っているのだから、今は待とう。
彼女が何を考えているのか、待つあいだにまとめようとも思ったが、およそそんなことができるような冷静さは残っていなかった。
「お待たせ」
軽く息を弾ませながら、桜香は公園に戻ってきた。走ってきたようで、手に持っていたビニール袋が揺れているのが遠目にもわかる。何か買ってきてくれたのか。
「はいこれ」
私は最初に座っていた石造りのベンチに移動していた。
桜香が近づいてきてビニール袋を見せてきたので、反射的に中をのぞき込む。そこには缶ビールが二本とビーフジャーキーと棒状のチーズが入っていた。どうやら、ここで酒を飲むことになったようだ。
桜香が一本ビールを取り出し、私に差し出してくる。よく冷えているようで、缶の表面に小さい水滴がいくつも付いているのが見えた。
私は、ありがとう、といって受け取る。
桜香もベンチの横に並んで座り、もう一つの缶を取り出し、プルタブを引く。
小気味よい音とともに、缶から空気が飛び出したのがわかる。
「かんぱーい」
缶を差し出してきたので、慌てて缶を開け、軽く缶を当てる。
彼女が口をつけるのを確認してから、私もビールを口に入れる。炭酸が口の中に入り、刺激がやってくる。その波に合わせてビールの苦みが広がり、飲み込むと炭酸と苦みが通り抜けていく。よく冷えたそれは喉を通して、体中を冷やしてくれた。
夜とはいえ、いまだ暑さの残るこの時期にはちょうどいい冷たさのものだ。自分の体が少し冷えたのを感じると同時に、胃が熱を帯びているのを感じた。
「食べる?」
いつの間にかパッケージが開けられ、棒状のチーズの一本をくわえる桜香は、私にチーズの入った袋を向けてくる。なぜかチーズをくわえる唇に目がいってしまった。
どこか、そうどこか、彼女の唇が艶めかしく見えてしまった。
私は視線を外し、パッケージに手を入れる。遠慮することなくチーズを一本取り出し、口の中に放り込む。苦みがチーズの塩気とわずかな甘味に中和され、味覚がフラットに変化していく。
「うまい!」
「でしょ、やっぱりビールにはチーズ!」
「よく覚えてたな。チーズとジャーキーが好きなのを」
「そりゃ、私だって同じの好きなんだから、覚えてるわよ。このセットで何度飲んだことか」
笑いながらさらに一口あおる桜香。ふと缶を持つ手の指に目が行く。アクセサリーやネイルもしていない指だったが、薬指に指輪をしていた跡があった。
男がいるのか、あるいは、いたのか。いるのならなぜ指輪をしていないのか。そもそもなぜ一緒に住むような話になるのか。酒の入った頭ではうまくまとまらない思考で考える。
が、結局はまとまることはずもない。これまたいつのまにか開けられていたビーフジャーキーを一つ私は摘まんでいた。
そういえば、と桜香が話し始める。大学の時に飲んでいたら、一緒に飲んでいた共通の友人がいつの間にか、人形にひたすら話しかけていたとか、やたら人気のあった先生のことがどうしても好きになれなかった話、男子学生にあまりにも人気で、講義室に男が集まりすぎて異様な空気になってしまったマドンナ先生の話、いつだったか酒を飲んで私が動けなくなり二人でしばらくここにいたなどどうでもいいような話をした。
そういえば、あの時桜香は私を介抱してくれている時に、何か話していたが全く覚えていない。
そして話はいつの間にか、誰と誰が付き合ってたとか、あの先生と実は付き合っていた友達がいたとかといった恋バナに話は変わっていった。
「そういえば、ジュンは誰かと付き合ってないの? 学生の時はそんな人いなかった気がするけど」
さすがに話の流れがこちらに向けられてきた。来るような気はしていたので驚くことはなかったが、酒のつまみはいつの間にかなくなっていた。彼女が買ってきてくれたので文句は言えないが、ほとんど食べることはできなかった。
手に持つ缶ビールを飲む。半分ほど残っていたのか、時間が経っているためにかなりぬるくなっていたが、気にはならなかった。
「だ、誰とも付き合ってないよ。彼女もいないし」
しどろもどろに答えてしまう自分がひどく情けなく感じてしまう。
そんな私のことなど気にする様子もなく、桜香はこちらを見つめていた。酒のせいだろう。ほんのり顔が紅潮しているのがわかる。
「へぇ、そうなんだ。いい感じの人とか会社にいたりはしない?」
「いないな。彼女がいたってことはないかもな、それに転勤ばっかりで一つのところに長くいなかったし」
「……そう」
なんだって、そんな淋しそうな顔をするんだ。どうしてそんな顔をしているのか、私にはわからなかった。
その表情もすぐに見えなくなった。桜香が上を向いてしまったから。
「だったら、大学の時、もっと相手してあげればよかったかな!」
「いやいや。桜香と一緒にいた時は楽しかったよ」
こちらを見た表情は明るいものに戻っていた。花が咲いたように、華やいだように。
「そういってもらえると、一緒にいたかいがありました」
変な敬語みたいな言葉を話し出した。缶ビール一本で酔ったのか。
そして、視線が交錯する。桜香の瞳からなぜか視線を外すことができない。まるで縫いとめられているようだった。
なぜか、少し潤んできていた桜香の瞳。顔が近づいてくる。なのになぜか動けない。
いつの間にか、私の首の後ろに桜香の手が回されていた。唇と唇がわずかに触れ合う。
すぐに離れていく桜香。だが、その距離はお互いの吐息がかかるほどの距離を保ったまま。目の前には桜香の顔があった。いや、それ以外はみえない。
「ジュン……二人で、どこか遠くに行こう。あなたと一緒に誰も知らないところに行きたい」
「桜香……。わかった。だけど、明日にしよう。明日誰も知らないところに……」
「……うん。わかった。明日、だね」
ゆっくりと離れていく桜香。座っていた場所に戻ると、いそいそとビニール袋にごみを片付け始める。
大した量もないので、それはすぐに終わり、彼女は静かに立ち上がった。
「明日、私の家に来て。時間は……十時くらいに」
「うん」
桜香が私の前までゆっくりとやってくる。静かに右手をさし出してくる。親指から薬指までが握り込まれ、小指だけをたてた形で。薬指にはやっぱり指輪をつけていた跡が薄く残っている。
「約束」
私は彼女の小指に自分の小指をからめる。約束を交わす仕草は大人になったはずの私たちの心を子供の時へと誘っていく。
「じゃあね……」
名残惜しむかのようにゆっくりとほどけていく二人の小指。私は立つこともできず、座ったままだった。
桜香はふらつく様子もなく、静かに公園の入口へとむかっていく。何か言い知れぬ不安のようなものが心の中に芽生えるが、それが何なのかわからない。
公園から出る直前に、足を止めこちらを振り返ってくる。半身だけ向きを変えた桜香は右手を小さく振っている。
「バイバイ」
「ああ」
私は彼女に手を振り返す。
彼女の姿が見えなくなる。バイバイ、といった彼女の言葉がなぜか心にひっかかりのようなものを残していた。それが何なのかはわからない。
思わず、唇を触る。
あの触れた時の熱は間違いなく本物だった。
翌日、休みの私は早めに起きて約束の時間に合わせ、桜香の家へと向かう。服は私服になっているが、かばんは会社に持って行っているものと同じだ。これ以外ないので仕方がない。どこにいくかはわからないが、迎えに来て一度家にとりに帰れば問題はないだろう。
夜のうちに下がったはずの気温は再び上昇をしているようで、じりじりと空気が熱せられているのを感じる。
暑い日になりそうだ。
桜香の家の前につく。時間は九時五十分。約束の時間よりも早く着くことができた。少し早いが、着いた事だけ伝えておこう。そう思ってかばんの中からスマホを取り出そうとした。
「よう」
声とともに肩を叩かれる。
驚いて振り返ると、そこには礼服を着た男が立っていた。見覚えがある。確か、酔って人形に話しかけていたやつだ。昨日、桜香との話の中で出てきたやつだ。しかし、なぜ礼服をきているのか。
「亨、こないと思ってたぜ。なんせ葉書を返さないんだから、出席か欠席なのかもわからねぇ。あいつが声かけるから見に行ってくれっていうから来てみたら、突っ立ってやがるし。本当にいるとは思わなかった。何年もいなくなったのにいきなり現れて。しかも、そんな格好で。いくら自由だからってもう少し祝いの席なんだからカチッとした格好してこいよ」
「葉書? 出席? 欠席? 何のことだ? あいつって誰だ? それに祝いの席とか格好って何の話だ? 何年かぶりに帰ってきたんだ。わかんねぇよ」
「おいおい。本当にわかってないのか。あいつはいったいなんて声かけたんだよ」
何の話をしているのか、わからない話をされても理解すらできない。この男はいったい何を知っているのか。祝いの席。格好。誰かにいいことでもあったのだろうか。
「ったく、桜香のやつ。同窓会の形にして実際は結婚式だもんな。そりゃわかりづらいかもしれないが、もうちょっと説明ぐらいすればいいのに」
「桜香? 結婚式? どういう意味だ」
昨日久しぶりに会った人物と結婚式というつながるようなつながらないような二つの単語。それに祝いの席とか格好とかとも言っていた。何よりこの男は礼服を着ている。
「だぁかぁら、今日は桜香の結婚式なんだって! あいつ、結婚するのに式はあげないっていうから、それならせめて同窓会でもするかって言って、それに合わせて結婚式ぽいことをすることになったんだよ。お前にも招待状は送ったはずなのに、返事が来ないとも言ってたな。大学の時にあんなに仲が良かったのに薄情なやつだよ」
手から力が抜けていくのがはっきりとわかった。
昨夜の話はいったい何だったのか。二人でどこかに行こうと話していた、唇を重ねた。あの行動は嘘だったのか。
ふと、指輪の跡を思い出す。あれは右手に着ける必要がなくなったから跡になっていた。そういうことだったのか。
「ったく。朝っぱらからいろいろやらされる方の身にもなってほしいぜ。まぁしかたないけどな。桜香の方がもっと大変だろうしな。とりあえず、亨。お前の家に行くぞ。せめてまともな格好にしてこねぇと連れて行きづらい。どのみち近くの教会で、十一時からだ。すぐ着替えれば間に合う」
男が矢継ぎ早に言ってくる。
この近くの教会。それは昨日、桜香と会っていた公園の隣に一つあった。そこにいるということなのか。だとすれば桜香は誰かと結婚をするということなのだろう。
「ギリギリ間に合ったな」
教会の時計の時刻は十一時に十分ほどの猶予がある時間を指し示していた。
男に連れられ、家に帰り、礼服へと着替え、目的の教会へとたどり着く。その場所はやはり、昨日桜香と一緒にいた公園の隣に立つ教会だった。
教会の建物の扉までには数段の階段があり、私たちがいる場所と反対のところにもどこかへつながる道が見えた。
「行こうぜ」
教会に入ろうとした時だった。
扉が開き、中から何人もの着飾った男女が出てくる。そのほとんどが見覚えのある人物会った。中には昨日話していたマドンナ先生が小さな子を抱えていたり、桜香が好きになれないと言っていた先生が同級生の女の子と一緒に歩いたりしている。その同級生のお腹はふっくらと丸みを帯びていた。
私たちに気づいた何人かが遠くから、遅い、何やってたの、などと言ってくる。
「やべッ、時間間違えたか。悪い悪い」
男が軽いノリで謝りながら、列席者の中に入っていく。私も足早にその中に入っていく。
私の入ってきた入口とは反対の方へと並ぶように指示が聞こえた。どうやらそちらでパーティーの用意がされているようだ。
並ぶと隣に同級生の女の人が来た。彼女から籠に入った花びらを渡された時だった。階段の上、教会から出てすぐのところに白いドレスをきた女性の姿が見えた。
桜香。
その隣には私には覚えのない男の姿があった。彼が新郎なのだろう。桜香は新郎に腕をからめながらゆっくりと階段を下りてくる。
おめでとうという声とともに横から声をかけられる。
「順道さ。あんたと桜香、大学の時すごく仲良かったじゃん」
「えっ、ああ、そうだね」
私の言葉に反応してか、彼女が小さくため息をつく。
「てっきりあんたたちくっついてるのかと思って聞いてみたら、桜香は告白したけど、あんたは覚えていない風だったって」
「えっ?」
「何? 本当に覚えてないの? いつしたって言ってたかな。一回じゃないってことは知ってるけど」
彼女の言葉は私を揺さぶるのに十分なものだった。
桜香が私に告白していた。それも一度ではない。昨日のあれが告白に入るなら、もしかしたら三回は受けているのかもしれない。いやもっとかもしれない。
昨夜、私は桜香になんて話した。
彼女からの、いい感じの人とかいないのか、という質問に、
「いないな。彼女がいたってことはないかもな」
と、答えていた。
それを何度も告白してきた桜香にしてみたら。
昨夜の自分の言葉が自分の心臓を締め上げていく。
そんな私の変化になど気づくはずもなく、同級生の彼女は続けてくる。
「タイミングなのか、あんたが鈍感なのか、わからないけど、流石に彼女も諦めたってことなのかもね。確か、桜の樹のところで告白したって言ってなかったかな。桜が満開の時に。『悲恋葉桜』ってとこらしいけど。咲いている時だったら成就するからって、験をかついだとかなんとか」
『悲恋葉桜』というのはもしかして……。
「確かあそこにあるやつでしょ? 『悲恋葉桜』って」
彼女が指さしたのは公園の桜の樹だった。
私と桜香は何度となくあの桜の下で話をしている。素面の時も、酔っている時も。素面の時は記憶がある。大したことは話していない。酔っている時はほとんど覚えていない。何か話したかなという程度だ。
ゆっくりと桜香と新郎が近づいてくる。
「そういえば、先週会った時に最後の賭けがどうのこうのって言ってたけど、あんた、思い当たることない?」
「……いや」
「ふぅん。まあいいけど。あんなに一途な娘、いないのにね。それにお似合いだったし」
昨夜のあれが桜香にとっての最後の賭けだった。きっとそうに違いない。
一緒にどこかに行こう。会ってすぐに行ってきた言葉だ。明日という機会は永遠にやってこないことをわかっていたからこそ、かたくなに昨日にこだわっていたのか。
あの、バイバイ、には二つの意味があった。これでさようならと、この想いよ、さようなら。私はそれに気づくことができなかった。
気づけば、目の前に桜香がいる。
同級生に祝福され、フラワーシャワーを浴びながら歩いてきた彼女の表情は幸せそうに見えた。ありがとう、と答えながらゆっくりと進む彼女が私の横に来た。
「おめでとう」
私はなんとかそう言いながら、花びらを新たな誓いを交わした夫婦に向けて、祝う気持ちで空へと舞わせた。
桜香が少しだけこちらを覗き込むように見てくる。
そして、小さい声で告げてきた。
「意気地なし。バカ」
その瞳には涙が一すじ流れていた。
fin
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