9回表 珠音いろ

Top of 9th inning ―珠音いろ―


 一回戦を終えた鎌大附属ナインは宿舎に戻り、応援団を率いてきた琴音を加えて勝利の美酒(という名の烏龍茶)へ大いに酔いしれていた。

「さて、浮かれるのはそこら辺にして、ミーティングを始めるぞ」

 夕食後、部員たちは大広間に集められ、宿舎従業員の好意で設置された大型モニターを囲む。

「宿の方にお願いして、録画しておいてもらったんだ」

 鬼頭は選手たちのコンディションを考慮して夜間練習を取りやめ、4日後に控える2回戦で当たる対戦校の動画視聴に切り替えた。

 第2回戦の対戦校は、鎌大附属と北信州総合の試合の後に行われた第4試合の勝者で、対戦の様子を生観戦することもモニター観戦することも叶わなかった。

「もう確認した奴もいるだろうが、2回戦の相手は筑前商業だ。福岡県の強豪で、全国常連校だ。背番号1のエース古賀と、4番を務める背番号5の堤はプロのスカウトも注目しているという情報もある」

 マウンド上に立つ古賀の姿を見る限り、浩平よりも大柄な身体から投じられる投球は最速150km/hを超え、変化の鋭いスライダーを巧みに操る本格派の左腕投手に見える。

 制球力も並以上と目され、四死球による出塁のチャンスも少ないだろう。

「おいおい、こっちもすげぇ身体してんな。スイングも凄いじゃないか」

 場面が変わり、大庭が感嘆の声を上げる。傍から見て、両者ともとても同学年とは思えない身体を作り上げている。

 第4試合でも彼の鋭いスイングから放たれた打球は軽々とフェンスを越え、今大会初の1試合2本塁打を記録していた。

「確かにその2人がズバ抜けて凄いのは勿論だけど、他の選手だって気が抜けないよ」

 鎌大附属ナインと比べると大柄な選手が並び、部員数も多い。

 珠音の言う通り、地力の差は明確だった。

「相手は超高校級の選手ばかりだ。破壊力抜群の打撃陣に圧倒的なエースがいて、守備も比較的安定している。普通に考えたら、俺たちに勝ち目はないだろうな」

『ですよねー』

 鬼頭の飾らない言葉に、一同が苦笑する。

 負けん気を見せたいところではあったが、自分たちが講評や予想をする立場なら当然の結論だった。

「だけど、ただ負けるつもりなんてありません。高い壁なら、乗り越えてやりたいと思うのが心理でしょう」

 珠音の強い言葉に、チームメイトが頷く。

「その通り、俺たちは自分たちの野球をするだけだ。信じて続けてきたスタイルを見失わずに自分たちのペースに持ち込めば勝機はある。何せ、相手から見れば我々は遥か格下だからな。ペースを掴めなければ、自ずと焦りも生じて来るだろう。みんな、忘れないで欲しい」

『はいっ!』

 鬼頭の言葉に、部員たちは揃って返事をする。

 ブレない一体感も、このチームの強みの1つだ。

「ここからの3日間、特別なことはせずにいつも通りいこう。......いや、150km/hの速球にだけは目を慣らしておこうかな」

 鬼頭は満足そうな笑みを見せると、部員たちに次戦のゲームプランを提示する。

 若干の驚きこそあったが、鬼頭のアイディアは選手たちに納得の様子で迎え入れられた。



 次戦までに用意された準備期間は僅かに3日。

 どんなに努力を重ねた所で、与えられた僅かな猶予で身体に新たな技能を身に付けることは現実的に不可能である。

「150km/hはやっぱり速いなぁ。さてさて、私が投げられる日は果たして来るのだろうか」

「無理だろうな」

 打席を出た珠音のボヤキに、浩平が思わず苦笑する。

 練習場として借りた近隣の高校の協力も取り付け、鎌大附属ナインはピッチングマシンの出せる最高速度の投球を近距離から見ることで目を慣らすトレーニングを重ねていた。

 野手勢は時折スイングするが、分かっていてもそう簡単に打ち返せるものではない。

 秋の関東大会でも”速球派”と呼ばれる投手はいたが、150km/hに達する投手との対戦はなく、十分な準備ができているとは言えない。

「見るだけでも効果あるのかなぁ」

「まぁ、体感速度はピッチングマシンの方が速く感じるとも言うし、見ないよりはマシでしょ。バットに当てられない事には、何も始まらない」

「それはそうだ」

 鬼頭のゲームプランは、基本的にはいつも通りと言っていい。

 打撃陣は相手の隙を突いて点をもぎ取り、守備陣は僅差の試合展開を堅守する。

 1回戦も2本の本塁打で快勝したようにも見えるが、スコアボードに記されたチームの安打数は僅かに3。

 4四死球と相手の失策で貰った得点のチャンスをものにした結果としての勝利である。

「期待しているよ、チーム一の強打者」

「善処する。そのためにも、最少失点で切り抜ける努力をしないとな、エース」

 少ない情報だが、対戦校の動画を見て浩平なりに配球を思い描いていた。

 これから、投手陣と試合を想定した投球練習を行う予定になっている。

 1回戦では珠音、二神、高岡の3名とも登板しており、身体の疲労回復を優先しなければならない。

「大丈夫、俺たちは俺たちの野球をやればいいって、先生も言っていただろ。”珠音いろ”に染まった俺たちの野球をやろうじゃないか」

「は、恥ずかしいから、その台詞禁止!」

 珠音は”珠音いろ”の言葉を聞いて頬を赤くし、恥ずかしそうな表情を見せると、足早にブルペンへと駆けて行った。

 自分の名前が付けられた応援歌に高揚する部分は当然あるが、題名を連呼されることには慣れそうにもない。

「やれやれ」

 浩平は肩をすくめ、その後を追う。

 限られた時間に、多少のもどかしさがあるのは否めない。

 それでも、僅かな時間が後悔の無く有意義なものになるよう、チームの司令塔は思考を巡らせた。



 迎えた決戦の日。

 グラウンドは天候にも恵まれて爽やかな青空に包まれ、優しい日差しが外野の芝生を青々と輝かせる。

「それにしても、二神ってジャンケン強いよね」

 既に両チームのスターティングメンバーは発表されており、鎌大附属ナインはやや不本意ながら、集まった観客からは若干の溜め息で迎え入れられた。

 一塁側ベンチに陣取り、試合開始に備えて各々準備を進める中、溜め息の原因であるベンチスタートの珠音が退屈しのぎに、近くにいた二神に声を掛ける。

「そうか?」

「キャプテンになってから、大事な試合で一度も負けてないんじゃない?」

 高校野球では、試合の先攻後攻は審判員の立ち合いの下、両チームキャプテンによるジャンケンで決定される。

 先日の1回戦に続いて二神は幸先よく連勝を収め、鎌大附属は後攻を選択した。

「そういえばそうかも――あ、いや、一回だけ負けたわ」

「いつだっけ?」

 浩平もその輪に加わる。

「関東大会の準決勝」

「あー、負けたときか」

 珠音の呑気な声に、二神は思わず苦笑する。

「試合前に負けたとか言わないでくれよ」

「ジャンケンで勝ったんだから今日もうちが勝てるでしょ。自分たちに良いジンクスだったら、しっかり踏みしめないとね」

「確かに、ジャンケンではもう勝っているわけだし、何とかなるべ」

「楓の言う通りだ。うちが勝てるだろ」

珠音の一言は、強豪校との対戦を控えたメンバーの張り詰めた雰囲気を適度に弛緩させ、ナインの表情に明るさが戻る。

「さぁ、試合開始だ。みんな整列して待機してろ」

『はい!』

 鬼頭の指示で一列に整列したナインが、主審の合図でホームベース付近まで駆け、センターラインを挟んで筑前商業と相対する。

 遠目で見る限りでも、対戦校と選手の体格差は歴然としている。

「ホント、頼もしい奴だ」

「え?」

 鬼頭の独白に、記録員としてベンチ入りした夏菜が思わず視線を向ける。

 視線の先には、大柄な選手が並ぶ相手チームに対して一際目立つ小柄な背中があった。

「ホントですね」

 物理的に小さな背中から溢れる頼もしさは、間違いなくチームメイトへ大きな勇気を与えていた。



 強豪筑前商業の打線は、初回から鎌大附属ナインに牙を向いた。

「いやー、凄い打球だった。グローブ持っていかれるかと思ったわ」

 1回表を終了した守備陣がベンチに戻ると、大庭が手に残る感触を何度も確かめるかのよう、グローブのポケットを右手の拳でポンポンと叩く。

「す、すみません」

「なーに、気にするな。よく1点で切り抜けたよ」

 先発投手を務めた新2年生の佐藤の申し訳なさそうな表情に、鬼頭は健闘を称える言葉を掛ける。

 佐藤のサイドスローから投じられた2回戦の初球は、試合開始を告げるサイレンをかき消すような甲高い金属音を伴って弾き返されたものの、運良く進路上に差し出された大庭のグローブへスッポリと収まった。

「”捕った”というより、”入った”だったな」

「アウト1つには変わりないさ」

 佐藤のキンキンに冷えた肝が暖め直される前に次打者に二塁打を許し、三番打者を一塁手の長峰が好守を見せて抑えるも、四番打者でプロ注目の堤に低めのストレートを左中間の真ん中へ運ばれ、易々と先制点を献上してしまった。

 五番打者は何とか抑え1回表を終了させたが、運と好守に助けられたことは否めない。

「いつも通り、一巡目は何とか凌いでくれ。高岡は準備を」

 珠音を欠く秋の関東大会までの鎌大附属は、もぎ取った1点を守り切る戦術で勝ち上がっていた。

 投手陣は鉄壁を誇る守備網でどんな打球でも絡み取るべく、投球を低めに集める制球力を鍛えるだけでなく、”エース不在”を補うため特徴の異なる複数投手の継投により試合を完了することが大半だった。

 基本は速球派の高岡と軟投派の二神にピギーバック(”肩車”を意味し、先発投手をもう一人の”先発投手”が補うように登板する)方式で試合の殆どを担い、仮に不足分や疲労を考慮した場合には新2年生でサイドハンドの佐藤(今大会では背番号11)と同じく2年生左腕の小川(同背番号18)で補う戦術を鬼頭が立案し、選手たちも成果としてよく応えていた。

「向こうだって先発は”二番手”だし、今日は土浦を2番に置いている。チャンスは間違いなく来る、気を引き締めていけ」

 円陣を組んだナインに、鬼頭が檄を飛ばす。

 この日の筑前商業はエースの古賀を温存し、先発は背番号10の田中を登板させている。

 それに加え、鬼頭は部内一の強打者である土浦を2番に配置し、一つでも多く打席に立たせ勝機を見い出そうとしていた。

 巧打者の二神を警戒すべき”強打者”と相手校に誤認(本人には失礼極まりないが)させられるからこそ成り立つ戦術であり、浩平の代わりに4番へ配置された二神が一回戦で見せたバックスクリーンへ放り込む予想外の本塁打無くしては成立しないオーダーだった。

「さぁ、行こう!」

『おぅ!』

 鬼頭の檄に、部員たちが応える。

 試合はまだ始まったばかりだ。



 どこをどう見ても試合の流れは明らかに筑前商業へ傾き、試合はあっという間に中盤に差し掛かっていた。

 最も”あっという間”に過ぎていくのは鎌大附属の攻撃であり、食らいついて四球をもぎ取った浩平の打席を除いて全く見せ場を作れないでいた。

 正直なところ、筑前商業の記録した得点が1点に留まっていることは奇跡としか言いようが無く、鎌大附属の真骨頂とも言える積み重ねた練習で培った鉄壁の守備に、スタンドに集まった観客からは拍手が送られる。

 先発投手を務めた佐藤は、打者一巡目を結果として4安打を浴びながらも初回の1失点に留め、2回表は走者を2名残したものの2番手としてマウンドに上がった高岡が見事な火消しを見せた。

 高岡は3回のマウンドにも続いて上がり、安打と四球で2人の走者を出すものの後続を何とか抑えていた。

「うわ、エッグっ」

 迎えた4回表。

 筑前商業の先頭バッターー七番打者で二塁手の松山―が、思わず珠音が啞然とする程の強烈な打球を左中間へと運ばれ、鎌大附属の投手陣はこの日早くも4度目となる得点圏走者を背負うこととなった。

「高岡!落ち着いて!」

 続く八番打者に四球を許したところで、珠音が檄を飛ばす。

 鬼頭のゲームプランでは珠音の出番は終盤であり、ブルペンでは別の投手が準備をしている。

「さぁ、1個貰ったよ!切り替えて行こう!」

 九番打者は犠打を堅実に決め、走者は二、三塁。

 浩平と高岡のバッテリーは守備のしやすさを選択して併殺打を狙える満塁策を採り、二番打者との勝負を選択した。

「あっ」

 しかし、展開はバッテリーの思惑通りには進まなかった。初球が甘く入り、強烈な打球が三遊間を抜ける。

 怪我の功名か、打球の強さが幸いし二塁走者の本塁突入は避けられたが、バッテリーは尚満塁の走者を背負うこととなった。

「......よし」

 鬼頭が肺に溜めた息を吐き出し、ベンチからグラウンドへ足を踏み出す。

「行くぞ!」

「はい!」

 ブルペンに声を掛けた後、鬼頭は主審に交代を告げる。

 投球練習をしていた小柄な選手がマウンドに駆けて行くと、球場はこの日一番の盛り上がりとなった。

「鎌倉大学附属高校、選手の交代を申し上げます」

 マウンドに上がった背中を、球場アナウンスが後押しする。

「ピッチャー、高岡くんに変わりまして、伊志嶺”さん”」

 マウンドに上がった背番号16に、再びの歓声が送られる。

 満塁のピンチで中軸の三番打者を迎える場面でマウンドに上がったまつりはいつもと変わらずクールな表情こそ見せていたが、醸し出す雰囲気に緊張感はなく、むしろ祭りを楽しむ子どものようだった。



 スポーツの試合を振り返るに当たり、ターニングポイントのことを”流れを変えた瞬間”と表現することが多い。

 野球においては、完全な劣勢にも拘らず打者が投球に食らいついてもぎ取った四球であったり、何でもない打球に記録された失策だったり、その直後に満員のスタンドへ本塁打を放り込んだ時であったり。

 その例示の中に、この場面における伊志嶺まつりの登板も恐らく加えられることとなるだろう。

 攻めあぐねていた鎌大附属守備陣に対して一気呵成の攻めを見せている筑前商業打線にのみ向けられた視線は、突如としてマウンド上に現れた”球界のジャンヌ・ダルク”こと楓山珠音と共に、史上初めて甲子園の土を踏んだ女子選手”伊志嶺まつり”に注目した。

 降板した高岡は部内で2番目に大きな体格をしていたこともあり、15cm程小さい身長で明らかに華奢なまつりの体躯は、非常に弱々しくも見える。

 投球練習で軽快に投じられる直球の球速は高岡と比べて30km/hも遅く、時折混ざるスライダーの変化はキレに乏しい。

 それでも、ピンチを救うべく現れた女子選手は何かを起こしてくれそうな期待感を感じさせ、観客の声援全てがまつりに注がれる。

「プレイ!」

 投球練習の規定数を終え、三番打者の葛城が主審に一礼して打席に入る。

 四番打者の堤ほどではないが、彼もまた県下では名の知れた好打者であり、将来を有望視される存在である。

 彼の持ち合わせた才能と積み重ね努力は、誰もが疑いようのない。

 だからこそ、だったのかもしれない。

「あっ」

 バットとボールが”当たってしまった”瞬間、葛城は悔しさのあまり声を我慢することができなかった。

 まつりの投じた初球は、投球練習では一度も見せなかったチェンジアップ。

 前の投手と比べて短いリーチから投げ出されたボールは球速が遥かに遅い上、男子より大きく劣る筋力量のか細い腕を思い切り振った投球は、なかなかベース板の上まで辿り着かない。

 さらには直球と同じ腕の振りで遅い球を投げる変化球―チェンジアップ―が投じられれば、ようやくの好機で打ち気に逸った葛城は日々の研鑽の成果が仇となり、タイミングを外された力なく捕球しやすい打球が、無防備な姿をまつりの真正面へと晒してしまう。

「ホーム!」

 浩平の指示を受け、遊撃が本職のまつりは軽快なフィールディングで捕球し本塁へ送球。

「一つ!」

 続いて浩平は落ち着いて一塁へ送球し、1-2-3の併殺打が完成する。

「よっしゃ!」

 まつりが柄にもなくガッツポーズを見せると、球場から割れんばかりの歓声が送られ、一塁側ベンチは戻ってきた守備陣と共にお祭り騒ぎとなった。

「いやー、浩平の作戦通りになったね!」

「ホントホント、ここまで上手くいくと気持ちがいい」

 珍しく興奮した様子のまつりに、珠音が抱きつく。

 普段なら払いのけられる所だが、まつりもそんな事が気にならないくらい上機嫌なのだろう。

 まつりの登板を鬼頭に提案したのは浩平だった。

 部内で唯一140km/h中盤の球速をコンスタントに投じることができる高岡は、制球に難点がある。

 まつりは女子の大会では珠音と交代でマウンドに上がることも度々あり、高岡がもしもピンチの場面を作り出した場合、浩平は体格差、球速差だけでなく、まつりの制球力とチャンジアップの精度の高さが有効活用できると考えていた。

 結果として浩平の作戦通りに事が運び、鎌大附属は筑前商業の絶好のチャンスを僅か1球で封じることに成功した。

「よくやった、流れはこっちに来ているぞ!」

 円陣の中心で、鬼頭も興奮気味に指示を送る。

 この回は2番に据えられた浩平から始まる好打順である。

「何としてもこの回、1点でも取り返すぞ。いいな!」

『はい!』

 球場は攻守が入れ替わろうとしているのに、まだざわつきが収まらないでいる。

 試合の流れは、鎌大附属へとそっと傾き始めた。



 流れとは恐ろしいものだと、打席に入った浩平は感じていた。

 背番号10を背負った”二番手”とはいえ、前の回まで圧巻の投球を見せていた田中の制球が突如として定まらなくなる。

「(ストライクを取りに来て、甘くなった所を叩こう)」

 四球をもぎ取った第一打席と同様、3ボール2ストライクまで食らいつき、ファールで粘った8球目。

 制球ミスでド真ん中に投じられた変化球を振りぬくと、打球は引っ張りを警戒して左中間寄りに守備位置を移動していた中堅手の逆をつき、右中間を転々と転がっていく。

「三つ三つ!」

 三塁コーチャーがグルグルと腕を回すのを確認し、浩平は二塁ベースを蹴る。打球を処理した右翼手は返球を中継に戻すのがやっとで、浩平は悠々と三塁を陥れた。

 鎌大附属がこの日初めて灯した”H”のランプは、浩平の三塁打となった。

「続け、大庭!」

 三塁ベース上から投げられた言葉を受け、続く大庭が意気揚々と打席に入る。

 筑前商業の内野陣は前進守備を選択し、ヒットゾーンは広く開けられている。

「(よし、ここで打てば”美味しい”ぞ!)」

 スクイズを警戒したバッテリーは初球にウエストボールを選択するが、大庭は見向きもしない。

 インコースに甘く入った二球目を大庭が迷いなく振りぬくと、打球は一二塁間を抜ける。打球が抜けたのを確認してからスタートを切った浩平がホームベースを踏み、正しく反撃の狼煙となるタイムリーヒットとなった。

「よっしゃ、見たか!」

 大庭が味方ベンチを鼓舞するように雄叫びを上げると同時に、筑前商業ベンチに動く。

 監督が主審に歩み寄り声を掛け、選手の交代が告げられた。

「筑前商業高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャーの田中くんに変わりまして、土生くんが入り、レフト。レフトの古賀くんが、ピッチャー」

 結果だけ見れば、先発の田中は被安打2で失点1。

 しかし、ここが試合の分水嶺と見た敵将は迷わずエースの投入を決め、試合の流れを取り戻すための判断を下す。

 まつりの登場時程ではないが、プロ注目左腕の登場にグラウンドは大いに沸いた。

 投球練習が終了し、打席に四番打者の二神が入る。

「(映像でも十分凄かったが、生で見ると改めて速いのが分かるな)」

 初球のストレートは、バックスクリーンに映し出された限り151km/h。

 ノビの良い直球はキャッチャーミットに収まる瞬間まで減速する気配を見せず、二神のバットは虚しく空を切った。

「長峰、頼むぞ!」

 続く5番の長峰も、1回戦で見せ場が無かったことを取り返そうと必死に喰らいつくが、虚しく三振。

 6番の山川は何とかバットに当てるが、三遊間に転がった打球は好守で県下に名の知れた遊撃手の桂に阻まれ、3アウト。

 鎌大附属に傾きつつあった試合の流れは、筑前商業のエース古賀の登場で強引に引き戻された。



 1球でピンチを切り抜けた”刺客”のまつりとポジションを交換し、二神が5回表のマウンドに上がる。

「えー。私、一球だけ!?」

「奇襲攻撃だからな。伊志嶺に長いイニングを投げさせることは想定していない」

 まつりは珍しく冗談めかしつつ不服そうな声を出すが、鬼頭の考えは当然の如く理解できている。

 投手経験の浅いまつりが強豪校の打線を長く抑え込めるほど、強豪校がひしめくセンバツは甘くはない。

「この回、何としても無失点で抑えろよ。ここで点を取られたら、一気に持っていかれるからな」

「分かってます」

 二神もこの回の失点の重みは重々承知している。

 気を引き締めて対峙する打線は四番打者の堤から始まり、五番打者の古賀と続く。

 当人の意気込みとは裏腹にその二人を単打で出塁させるも、続く六番打者の強烈な打球が遊撃手のまつりを襲う。

「オーライ!」

 二遊間の打球にまつりが飛びつき捕球し、素早く二塁手の小林へトス。

 小林が二塁ベースを踏み一塁へ転送して6-4-3の併殺打が完成すると、球場は2イニング続けて好プレーを見せたまつりに、球場は割れんばかりの賛辞を送る。

「ツーアウト!」

 まつりは右手の握り拳から人差し指と小指を突き出し、チームを鼓舞する。

 背中を押された二神は続く七番打者を”この日初めての奪三振”で打ち取り、5回表を無失点で切り抜ける。

 対する鎌大附属打線はエース古賀の前に沈黙。

 4回の攻防で沸き立った球場は落ち着きを取り戻し、試合の前半が終了した。



 試合展開の落ち着きは、グラウンド整備明けの6回も続いた。

 筑前商業打線は二神の投球を難なく芯に捉えるも悉く守備陣の真正面を突き、6回表は安打による出塁を1人許したのみで乗り切った。

 対する鎌大附属打線は古賀の前に全くいい所を見せることができず、三振2つを献上してあっけなく三者凡退に打ち取られてしまう。

 スタンドからの声援が溜め息に代わり、攻守が交代しようという時、一塁側アルプススタンドを中心に球場に詰めかけた観客が大いに盛り上がる。

「鎌倉大学附属高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャーの二神くんが、レフト」

 選手交代のアナウンスに背中を押され、小さな身体がベンチから飛び出す。

「レフトの南くんに代わりまして、ピッチャー楓山さん。一番ピッチャー楓山さん。背番号1。四番レフト二神くん。以上に代わります」

 アナウンスを受け、球場を訪れた3万人の観客が沸き立つ。

「凄い歓声だな。流石は人気者」

 正しく、今春で最も注目を集めるといっても過言では無い。

 配球の確認も兼ねてマウンドに駆け寄った浩平が、大きな歓声に思わず独りごちる。

「どういたしまして。私、パンダですから」

「なんだ、やけに無愛想だな」

「せっかくだし、サービスで投げキッスでもして見せればいいのかしら」

「それだけ饒舌なら、心配いらないな」

 珠音は大袈裟に溜め息して見せると、確認を終えてキャッチャーボックスに戻る浩平の背中をジッと見送る。 

 自身の一挙手一投足に過剰な反応が集まるのは今に始まったことではないが、何度経験しても面白いものでも慣れるものでもない。

 もう一度、今度は小さく溜め息を吐き出すと、珠音はゆったりとしたフォームで投球練習を開始した。



 投手のピッチングスタイルを分類すると、一般的に2つの型へ分けられる。

 一方は威力のある速球にキレの鋭い変化球を操り、打者からアウトをもぎ取る本格派投手。細分化すると剛速球で力押しする速球派投手やパワーピッチャーと呼ばれる選手もここに含まれる。

 もう一方はストレートを軸に多彩な変化球と正確無比なコントロールで翻弄し、打者を打ち取る技巧派投手。特に変化球を主体とした投球術を駆使する。所謂”変則”と呼称される投球フォームで打者を幻惑させるような投手は軟投派と呼ばれることもある。

 両者とも如何にして打者をアウトにするか、バッテリーが投手の特性を活かす上で行きついた投球術と言える。

「ナイスピッチ」

「おう!」

 7回表、登板早々に相手打線の3番打者から始まる好打順を抑え込んだ直後の大歓声を全身に受けつつ、ベンチ前でバッテリーはタッチを交わす。

 浩平はスコアボードに記された「0」の文字、そして相手チームの安打数が変わっていないことを確認してから、脳内で思案を巡らせる。

 先発投手を務めた佐藤は変則的なフォームから見慣れない軌道の投球で打者を翻弄しようとする軟投派投手。

 二番手の高岡は威力のある速球を軸に相手をねじ伏せる速球派投手。

 四番手の二神は多種の変化球を器用に操る技巧派投手。

 3人ともそれぞれ異なるピッチングスタイルだが、その何れもが相手打者に捉えられ、堅実な守備で何とか2点に抑えたに過ぎない。

「やっぱ、お前は凄いよ」

 ベンチで水分補給する珠音に、浩平はポツリと漏らす。

 珠音の7回表の投球を振り返ると、佐藤と違って素直な投球フォームから高岡よりも約30km/h遅い球速で、二神よりもキレで劣る変化球を駆使し、筑前商業をこの試合初めて3者凡退で抑えてしまった。

「何、急にどうしたの?」

「いや、何でも」

 一般的に言えば、珠音のスタイルは技巧派投手であることに間違いない。

 しかし、それでも浩平は別の考えに至っていた。

 珠音の投球スタイルは、本格派投手のように打者からアウトもぎ取る訳でも、技巧派投手のように技術を駆使して打者をアウトに陥れる訳でもない。

 積み重ねた基礎技術を盤石な土台とし、洗練された最高品質の投球を前に、打者は図らずともアウトを”献上”してしまう。

 本人が最初からその頂きを目指したわけではないだろうが、男子と比較して筋力や体力等の身体能力で劣る中、同じ環境で戦うにあたり自然に身に着いた極めて希な投球術。

 正しく、”野球人”としての楓山珠音ならではのスタイルだろう。

「さぁ、行こうか!1点差ならチャンスはまだある!」

 相手エース古賀の前に、四番打者の二神から始まる7回裏もあっさり攻撃が終了してしまうと、間髪入れずに鬼頭の鼓舞を受けたナインがグラウンドへ散っていく。

「次の回も頼むぞ!」

「任された!」

 珠音も登板直後の不機嫌さはどこかへ置き忘れたように意気揚々とマウンドに登り、打者と対峙する。

 長年バッテリーを組んできたからこそ、浩平は珠音の中で確立された投球術の弱点を見抜いている。

「......あぁっ!」

 相手打線は6番打者から始まる8回表の守備。

 やや速めの球足の打球が、甲子園球場で特徴的な土の内野グラウンドならではのイレギュラーバウンドを見せ、三塁手の大庭が弾いてしまう。

「ドンマイドンマイ。内野ゲッツーな!」

 本人のコンディションも含め、最高の環境でこそ真価を発揮する投球術は、アクシデントで崩れやすい。

 次打者にレフト前へ落ちるテキサスヒットを許し、8番打者はキッチリと犠打を決め、一死2、3塁と得点圏に走者を許してしまう。

「9番、土生くんに代わりまして、バッター和田くん」

 左打者の土生に代わり、右打席に代打の和田が入る。

「タイム」

 浩平がタイムをとり、内野陣がマウンドに集まる。

「この回、1点でも取られたらウチはピンチだ。逆に言えば、相手はダメ押しの大チャンス。しかも、わざわざ三塁ランナーを見づらくするよう右打者に代えてきた。強攻してくるかもしれないけど、スクイズの警戒も怠らないようにしないと」

「分かってる。三塁ランナーが走ったら、どんなサインだったとしてもストレートに切り替えるから、浩平は大きく外して。そこ目掛けて投げるから」

「元はと言えば俺のミスから始まったんだ。俺が大声で合図出すからな!」

 確認事項を終え、内野陣が再び自分のポジションに戻り、前進守備をとる。

「内野ホームバック!」

 三塁ランナーの本塁封殺を狙った守備体系はヒットゾーンが広がってしまうものの、得点を防げる可能性も上昇する。

 どちらにせよ外野まで打球が飛べば2点失う状況ならば、無失点で凌げる可能性を少しでも上げる方が得策だ。

 初球は打者走者とも動きはなく、警戒が裏目に出て判定はボール。

「(強攻か?)」

「(分からない)」

 浩平の出したサインは低めのスライダー。

 首を縦に振った珠音が肩越しにランナーを確認し、投球動作に入った瞬間だった。

「走った!」

 球場の歓声をかき分け、ピンチの元凶となった大庭の声が珠音の右耳に飛び込んでくる。

 珠音は咄嗟に握りを変え、外角高めにミットを構えた浩平目掛けて思い切り投げ込むと、バッターは食らいつくようにボール目掛けて飛び込むも虚しく、弱々しい打球が真上に上がってしまう。

「キャッチャー!」

 珠音が打球方向を指さし、浩平が難なく捕球する。

 すぐさま三塁への送球を意図するが、大庭が腕で大きく×を形作る。打球が高く上がったおかげで、ランナーはそれぞれ元いた塁への帰還を既に果たしていた。

「ツーアウト、ツーアウト!」

 浩平が守備陣を鼓舞し、プレイが再開される。

 打席には前の打席で安打を放っている一番打者の大木。

「ボールフォア!」

 投球が甘いコースに入らないよう意識をしすぎたか、ギリギリのコースを狙ったがために僅かに外れ、結果はフォアボール。

「ツーアウト満塁、内野近い所でフォースアウト。ここを切り抜けるぞ、締まって行こう!」

 握り拳から人差し指と小指を突き出して”2”を形作り、左打席に二番打者の吉原が入る。

「ボール!」

 初球はワンバウンドする緩く遅いカーブ。

 バックスクリーンの球速表示に示された球速は86km/hで、高岡がこの日記録した最高速より60km/hも遅い。

「(これで!)」

「(手を出してくれ!)」

 続く2球目の指示は、内角高めのストレート。

 バッテリーの願いを打者が受け取ったのか、114km/hと表示された指示通りの直球に吉原は思わず手を出してしまい、鈍い音と共に三塁線ギリギリのフェアグラウンドへ小飛球が放物線を描き始める。

「オーライ!」

 グラブが届くか五分五分といった落下点に、サードの大庭が猛然と突き進む。

 このまま強いスピンの効いた打球がグラウンドで跳ねればファールグラウンドへ自らを弾き出してしまい、ピンチを脱するチャンスを逃してしまう。

 やや乾いたグラウンドへ大庭は土煙を上げながら滑り込み、主審が駆け寄る。

「アウト!」

 大庭はグローブの中に収まった白球をアピールすると、主審は完全捕球を確認し、判定を下す。

「ナイスガッツ!」

 沸き立つスタンドの声援を背に、珠音が好プレーを見せた大庭を出迎える。

「俺のエラーから始まっているからな、俺が何とかしてみせないと。正しく、俺で始まり俺で終わったな」

「そもそも、始めないでくれてよかったんだがな」

 無駄に胸を張る大庭に、浩平が呆れた声を出す。

「ま、まぁ、いいじゃないか。ピンチの後にチャンスあり、だ。さぁ、気張って行こう!」

 完全に抑え込まれているエース古賀から得点するならば、試合が動きかけた直後しか考えられない。チームの思いは一致している。

 ムードメーカーの大庭の声出しで、ベンチは大いに沸き上がった。



 プロ注目左腕の壁は、食い下がる鎌大附属打線を蹴散らしにかかった。

 7番から始まる8回裏の攻撃で、鬼頭は先頭の髙橋と次打者の小林に代打としてそれぞれ大野、新妻を送るが、粘りを見せこそしたものの最終的には打ち取られてしまう。

 エース古賀の登板以降、鎌大附属打線は安打一本どころか、ただ一度の出塁すら許されていない。

「9番ショート、伊志嶺さん」

 2アウトと追い込まれた状況で、まつりはそのまま打席に向かう。

 彼女の守備力は代えがたい存在で、たとえ打ち取られたところで次は1番から始まる好打順となることを見越した采配だろう。

「(でも、今1番に入っているのは珠音。アウトになっても先頭からって思えば気楽だけど、私がここで出れば珠音が打ち取られたとしても、9回裏は土浦から始まる。最少失点差なら、私が出塁できれば遥かに得点の可能性は上がる)」

 まつりは打席に入り、大きく深呼吸して思考を整える。

「(さっきはどん詰まりのファーストフライで、完全に力負けした。悔しいけど、このレベルの投手が相手だと、男女差は大人と子供くらいの差といっても過言では無いわね)」

「ストライク!」

 古賀は攻め易しと見たか、150km/hを超える剛速球を真ん中に放り込んでくる。

 まつりはそれを見逃し、改めて息を吐き出す。

「(私が出塁すればピッチャーも動揺するだろうし、勝つ確率は確実に上がる。そして万が一、珠音も続いてくれれば、その確率はグンと上がるハズ)」

「ボール!」

 今度は力が入ったのかボールがやや上ずり、ストライクゾーンを外れる。小柄でストライクゾーンが狭いだけに、やや投げ辛さを感じているのかもしれない。

 電光掲示板に表示された球速は152km/hで、女子野球の大会で対戦した投手よりも40km/h近く速い。

「(ボールは低めに集まっているし、センター返しだと球威に負けて、たぶん二遊間に難なく取られる。下手に一二塁間を狙った所で、前の打席みたいに詰まらされるだけか)」

 思考が研ぎ澄まされ、相手の投球動作がゆっくりと動いて見える。

「(なら、一か八か)」

 まつりはいつもよりほんの気持ちだけ早く始動し、3球目として投じられたこの日最速の153km/hの直球を思い切り振りぬく。

「(この場合、私のヒットゾーンは三塁後方!)」

 詰まった打球への対応策としてやや前方にポジションを移動していた三塁手の頭上を超えた打球が、内野の土と外野の芝生の境目付近に捕球されることなく落着する。

「うわぁ、打てた!」

 大会史上初の女子選手による”安打”を記録し、一塁ベース上で満面の笑みを浮かべる姿に、お祭り騒ぎの一塁側アルプススタンドから大声援が送られる。

「くっそ!」

 この試合で始めての出塁を許した古賀は、よもや女子選手に安打を許すことなど考えもしていなかったのだろうか、マウンド上で明らかな動揺を見せている。

 捕手が見かねてタイムをとり、古賀を中心にマウンド上で輪ができていた。

「私の役目は果たせたね。いっけー、珠音!」

 自陣が歓喜に沸く中、次打者の珠音は打席に入る前にも関わらず悔しそうな表情を浮かべていた。

「私が先にヒットを打ってやろうと思っていたのに!」

「前の試合で2三振の奴が何を言っているんだ」

 バットを振り回す珠音に、浩平が呆れて溜め息をつく。

 暫くしてマウンドの輪が解かれると、珠音が滑り止めを付けて左打席に向かっていく。

「(ここで私が凡退しても、次は浩平から。でも、そんな消極的な姿勢じゃダメだよね)」

 珠音は打席から古賀を観察する。

 動揺は表向き収まっているようにも見えるが、所作に落ち着きの無さが垣間見える。

「(次のイニングに得点する可能性は、まつりが出塁してくれたおかげで確実に上がった。でも、次の回に得点をあげる確率よりも、私が出塁してこの回に得点できる確率の方が絶対に上だ!)」

 古賀の投球を見極め、打てそうな球を待っているうちにカウントは2ボール2ストライク。そこから3球ファールで粘り、向かえた8球目。

「(ここだ!)」

 投球の瞬間に”しまった!”とでも言いたげな表情を見せた古賀の投球が、高めのギリギリボールゾーンに真っすぐ放たれる。

 見逃せば恐らくボールと判定されるだろう投球を、珠音は小さな身体全体を使って振り抜く。バットのやや根元で弾き返された打球が三塁ベースの後方、やはり詰まった打球を警戒した三塁手の後方にポトリと落ちるテキサスヒットになった。

「おっしゃー!続け浩平!」

 一塁コーチャーとハイタッチを交わし、珠音が喜びを爆発させ、次打者に檄を送る。

「簡単に言ってくれるよ」

「2番キャッチャー、土浦くん」

 状況は2アウト一二塁。ここにきて、鬼頭の采配が的中する。

 女子選手二人の出塁により流れを引き寄せつつあるところで、打席には部内一番の強打者が打席に向かう。

 もちろん、相手バッテリーとしては敬遠策も十分に考えられるが、次打者もこの日タイムリーヒットを放っている大庭である。

 何より”格下”相手に敬遠策を採るよりも、目の前の打者を抑え込む方が試合の勝率は高くなるだろうし、そもそも強豪校バッテリーの矜持がそれを許さなかった。

 打席に入る浩平へ、一塁側アルプススタンドから自作応援曲の”珠音いろ”が送られる。

「(ここで打たなきゃ負けるし、そもそも珠音に何を言われることやら)」

 内角に食い込んできたボール球のスライダーを悠々と見逃し、外野の守備位置を確認して一度思案を巡らせてから、再び集中力を高める。

「(外野は前進守備で、伊志嶺の本塁突入を阻止しようとしている。同点に追いつくためにも、長打コースに運ばないといけない)」

 続く2球目は外角低めにスライダーが決まり、カウントは1ボール1ストライク。

「(スライダーを2球続けて、初球はインコースで球種の意識付け。2球目は引っかけてくれればいい程度で外角に同じ球種を見せて、コースの意識付けだろう。ならば、俺なら)」

 浩平は捕手目線での配球考察から、次の球種を読む。

 古賀の制球はこの打席では比較的安定しているように感じられ、相手捕手と浩平の配球が同じならば読み通りの場所に3球目が投じられるだろう。

「(きた!)」

 投じられたのは高めやや真ん中よりにズレた直球。

 応援曲にも記された”珠音いろ”に最も染まる女房役が振り抜いたバットは、150km/hを記録した直球を左中間方向へ鮮やかに弾き返す。

「回れ回れ!」

 大庭の賑やかな声がグラウンドに響き、まつりが全力疾走で三塁ベースを蹴る。同点は確実だ。

「カット二枚入れ!バックホーム!」

 相手捕手の有田が、中継に入る内野手に指示を送る。

 ようやく打球に追いついた中堅手が振り向くと、一塁走者の珠音が減速する素振りを見せずに三塁へ向かっており、三塁コーチャーは大きく腕を回していた。

 慌てて外野へ駆けて行った遊撃手へ送球し、遊撃手は2枚目のカットマンとして内外野の境目付近に立つ二塁手へ送球する。

「ホーム!」

 あくまで”女子選手”としては俊足の部類とも言える珠音だが、スプリンターではない。

 男子競技では並以下の脚力では、本塁突入のタイミングと二塁手からのバックホームを捕手が受け取るタイミングがほぼ同時だろう。

 判定は正しく五分五分といった所か。

「届け!」

 ホームの向こう側では、まつりが”滑り込む”よう指示を送っているのが確認できる。

 珠音は若干縺れそうになる下半身を奮い立たせ、投手にも関わらずホームベースを目掛けて文字通り”飛び込んで”いく。

 二塁手が正確な送球を受け取り、捕手が珠音を阻止すべくホームベースへ伸びた利き手にキャッチャーミットをはめた左腕を伸ばす。

 珠音により舞い上がった土煙の下、球審は捕手有田のキャッチャーミットの”下”に珠音の左手が位置していること、続けてその手がしっかりとホームベースを触れていることを確認し、生還が認められた。

「......セーフ!」

「よっしゃ!」

 主審の判定を受け、ユニフォームを泥だらけにした珠音が飛び上がり、飛び込む直前から判定の瞬間まで愕然とした表情を見せていたまつりと抱き合って、喜びを表現する。

 投手の生命線とも言える利き手を突き出した決死のプレーの甲斐もあり、鎌大附属は土壇場で試合をひっくり返すことに成功した。



 珠音はユニフォームの前面を真っ黒に汚したまま9回表のマウンドに上がり、マウンドに立ち寄った浩平と言葉を交わす。

「ホント、大丈夫なのか?」

「全然ヘッチャラ!」

 心配そうな表情の浩平に対し、土汚れを軽く払いながらコンディションは万全だとアピールする。

 珠音の本塁生還も束の間、三塁まで進塁していた浩平もホームに返そうと息巻いた三番打者の大庭はあっけなく凡退し、珠音に息つく暇を与えることができなかった。

 キャッチャーボックスに向かう背中を見送りつつ、誰にも気づかれないよう小さく息を吐き出す。

「ヘッチャラとは言ったけど、あれだけ走った直後だからね。少し呼吸を整えないと...」

 投球動作は全身の筋肉を連動させて行うものであり、全力疾走により一部が疲弊した状態だとパフォーマンスが落ちる可能性も十分に考えられる。

 男子と比べて一般的に肉体疲労の回復が遅いと言われる女子の身体で、尚且つ常に身体能力で勝る相手に勝負を挑まなくてはならない状態である。

 万全な状態を維持してようやく食らいついていける相手に、半端な状態で立ち向かうことは無謀と言われてもおかしくはない。

 この回の先頭打者がクリーンナップの一角を務める3番打者なら、猶更である。

「このマウンドは譲りたくない。私の手で、この試合に勝ってみせる」

 もう一度、短く息を吐き出すと、一球一球を大切に、身体の状態を確かめながら投球練習を行う。

「プレイ!」

 規定数を投げ終え、捕手から二塁ベースへの送球。続いて、内野のボール回しが終わり珠音の下へボールが返球されると、主審の合図で9回表が開始される。

「あと、アウト3つ」

 勝利を収めるまでに必要なアウトカウントを思い描き、珠音は浩平の構えたミットを目掛けて全力で投げ込む。

「(しまった!)」

 身体の疲労が残っていたか、甘めのコースに投じられた投球が甲高い金属音と共に弾き返され、弾丸のような打球が真っすぐ珠音の身体を目掛けて突き進む。

「うわっ!」

 咄嗟に進路上にグローブを差し出しつつ身体を翻して打球を交わす。

 珠音の倒れ込んだ姿に球場は一瞬静寂に包まれるが、直後大きな歓声に包まれる。

「あれ、どこいった!」

 珠音は地面に打ち付けた右腕を気にすることなく、打球の行く先を探す。

 しかし、自分の周囲を見渡し何処を探しても白球は見当たらない。

「アウト!」

「......へっ?」

 駆け寄ってきた主審が珠音のグローブの中を確認すると、そこには珠音の探し求める白球が収まっていた。

 完全捕球を確認しアウトが宣告されると、球場は大いに盛り上がる。

「捕ったのに気が付かなかったのかよ」

「いやー、かわすのに必死だったもので。1回みたいに、捕ったより入ったって感じかな」

「身体は大丈夫か?」

 浩平が呆れた様子で駆け寄り、打ち付けた身体を心配する。

 受け身をしっかりと取ることができていなかった身体の右側に黒い土汚れが付着しており、もろに衝撃を受けたに違いがない。

「取り敢えずは大丈夫かな」

「......分かった。少しでも違和感を感じたら、隠さず言うんだぞ」

「分かったよ”お母さん”」

 心配性な女房役を追い返し、珠音はグローブをはめた右腕を大きく回す。

顔を若干しかめたことに浩平は長年連れ添った女房役だけに、本当は気が付いているのかもしれない。

「(痛いだなんて言ったら、マウンドから降ろされちゃう)」

 チラリと一塁側ベンチを見ると、ベンチに残った控え投手の小川が肩を作り始めている。珠音の前に登板した二神もまだレフトのポジションにおり、軽くウォーミングアップをしているようにも見える。

 地面に着地した際、右肩に走った痛みは違和感として残っているが、珠音としてはどうしても最後までマウンドに立ち続けたかった。

「(私の我が儘に皆が付いて来てくれたから、私はここに立てている。皆に立たせてもらえたマウンドを、簡単に降りたくなんてない)」

 この一年、”珠音いろ”に染まってきたチームメイトから寄せられた信頼に応えたい。

 珠音の頭は、その思いで一杯だった。

 しかし、珠音の強い思いをよそに、続く4番の堤、5番の古賀の打球が内野の守備網を破っていく。

 アウトカウントは1つで、三塁に同点の走者、一塁に逆転の走者が立つ。

「内野ホームバック!バッター集中!」

 打席に6番打者を迎えるタイミングで浩平から守備陣へ送られた指示は、二塁併殺を考慮せず、1点を死守する前進守備。

「ストライク!」

 初球の緩いカーブは簡単に見逃され、無警戒の一塁走者はガラ空きの二塁ベースを悠々手中に収める。

 これで内野を抜ければ、逆転を許す状況が訪れる。

「打たせてたまるもんか」

 だからこそ、鎌大附属ナインは相手の作戦を”強攻策”と考えていた。

 呼吸を整えた珠音が投球動作を開始した瞬間、三塁を守る大庭が大声を出す。

「走った!」

 190cm近い巨体を持つ三塁ランナーの堤がスタートを切り、”左打者”の6番有田がバットをベース上へ水平に構える。

「(しまった!)」

「(浩平なら、捕ってくれる!)」

 相手打者を詰まらせるべくインコースに構えていた浩平の対応が遅れる中、珠音は誰もいない右打席に向け高めのボールを投じる。

 正面から見る限り、打者と捕手がボールに向かって同時に飛び込み、鈍い金属音と共に打球が三塁線上へ”舞い上がる”。

「オーライ!」

 倒れ込む浩平に代わり、投球直後より三塁側へ身体を動かし始めていた珠音が落下点に向け猛然と突き進む。

「届け!」

 小さな身体を大きく伸ばして突き出したグローブの先端に、ボールが引っかかる。

「やっ――」

 その光景を最後まで確認する前に、珠音の視界は衝撃と共に暗転した。



 勝敗を決する重要局面で大いに盛り上がりを見せていた球場が、予期せぬ事態に静まり返る。

 スクイズを試みた有田の打球は完璧なスタートを切った堤の走路上への小飛球となり、ノーバウンドでの捕球を試みた珠音も同じく走路上へその身を晒すこととなった。

 珠音が捕球可能と判断した堤は三塁ベースへの帰還を試み急停止をかけるが間に合わず、予期せぬ接触プレイが発生してしまう。

 既に主審による判定で珠音の完全捕球と三塁走者への咄嗟のタッチプレイによる併殺成立が認められており、アウトカウントは3。.

 つまり、9回表は終了し、鎌大附属は最終スコア3対2での勝利を確定させている。

「た、珠音!?」

 慌てて駆け寄る浩平に続き、血相を欠いた鬼頭と筑前商業監督の西郷が、うつ伏せに倒れ込む珠音の様子を確認しに来る。

 特に体格差のある2人が衝突した様子は、さながらトラックと軽自動車による交通事故とでも表現できるだろうか。

 プロ野球にも選手同士の接触プレーにより、日常生活すら危うくなりかける程の大怪我を負った選手も過去には存在する。

 女子選手の出場を特例で認めた最初の大会で起こり得る最悪の事態が、こうして目の前で起ころうとしている。

「珠音、大丈夫か!?」

 珠音の無事を心配そうに見守るチームメイトの視線の中心で、女房役が珠音の肩を揺らそうとした瞬間だった。

「し、死ぬかと思ったーーっ!」

 緊迫した雰囲気をぶち壊すように、ユニフォームどころか顔面まで真っ黒に染め上げた珠音が勢いよく上体を起こし、あろうことか珠音の頭と浩平の顎が衝突する。

『――っ!』

 悶絶する2人を見て緊張が一気に解けたのか、心配して集まった面々にも笑みが戻る。

 続いて珠音が立ち上がり、球場に集まった観客からも無事が確認できると、スタンドからは割れんばかりの拍手が送られてきた。

 珠音の身体に異常がないことを確認すると、両チームがホームベースを挟んで整列して主審より”ゲームセット”が告げられると、両チームの選手が握手を交わす。

 先程まで顔面蒼白といった表情を見せていた堤に珠音が笑いかけた後、勝者はバックスクリーンに向かって整列し、校歌を斉唱する。

 駆け付けた一塁側アルプススタンドの応援団への挨拶を終えると、鎌大附属ナインは次戦のチームにベンチを開け渡すべく、慌ただしく撤収していく。

「何か、ホントに勝てたんだね」

 顔についた土を落とすのも忘れ、珠音は浩平とクールダウンのキャッチボールを行う。

「身体は本当に大丈夫か?」

「......正直、分からない。後から来るかも」

 アドレナリンの分泌で、痛みを感じにくくなっているだけかもしれない。

 少なくとも、受け身をとれた自信は全く無かった。

「試合には勝った。でも、私にはもう一戦残されている」

 珠音は最後に緩く1球を投じると、浩平と共にチームメイトを追う。

「勝負を決めよう」

「うん、頑張る」

 珠音はユニフォームに着いた土汚れをできる限り落とす。

 真っ黒なユニフォームは、本来の白地が確認できる程度には回復した。



 結論から言えば、珠音の言う”もう一戦”の勝敗は、珠音の圧勝に終わった。

 勝利を収めた鎌大附属ナインに駆け寄る報道陣に、監督の鬼頭とキャプテンの二神の他、この日の勝利の立役者とされた珠音、浩平、まつりの3人が対応する。

 土汚れの目立つユニフォームに身を包み、顔に砂埃が付いたままの少女は真剣に、時に屈託の無い笑顔でインタビューに応える姿は、多くの人に好感を与えた。

 中には珠音とまつりの取材記事に対し、”学校の売名行為””新聞社の人気取り””大した活躍もしていないのにチヤホヤされている”など謂れの無い批判をかき鳴らす輩もいない訳ではなかったが、圧倒的多数の称賛によりあっさりとかき消された。

 事実として、珠音は2試合を投げ計9イニングを無失点に抑えたばかりか、まつりと共に男子選手が打ちあぐねた筑前商業エースの古賀の投球に食らいつき、逆転の口火を切る安打を放っている。

 さらには攻守交代後の登板を控えているにも関わらず、一塁から激走を見せて逆転のホームを勝ち取り、危険を顧みずに小飛球に飛び込んで文字通り勝利をもぎ取った姿は、世間から称賛を得るに相応しいものだった。

「彼女は一野球選手として、常に高い意識を持って練習し、本番でもその成果を十二分に発揮した。勝利を掴み取るために全力で野球に取り組む姿勢には、我々教育に関わる者としても、教えられる思いです。私見ですが、彼女は続く者のなかなか現れない、正しく不世出の存在でしょう。先に立つ者は特異な存在を排除するのではなく、個性を受け入れ、認め、更なる発展へと導き、共に歩み、成果を喜び合うための努力を忘れてはならない。私は彼女と出会った経験から、そう強く、心に刻みました」

 有力新聞社のベテラン記者に珠音の印象について応えた鬼頭は、更にこう続けた。

「願わくば、彼女の事は”特例出場選手”とも”女子選手”とも呼ばないであげて欲しい。彼女を形容するために余計な言葉はいらないと考えています。ただ、”高校球児”とだけ、表現してあげて下さい」

 結果的に見れば、翌日以降の記事には”甲子園のアイドル”だの”白球小町”だの、各紙はこぞって珠音に好き勝手なあだ名をつけ始める始末で、新聞各社に鬼頭の思いは伝わらなかった。

「やれやれ、数学教師にこんな詩的な表現をされてしまっては、国語教師の立つ瀬がないじゃないか」

 新聞を開きながら、激励に訪れた谷本が缶コーヒーを嗜む鬼頭を揶揄う。

 鬼頭の言葉は完全に無視された訳ではなく、目立たない者のとある有力新聞社の社説に小さく掲載され、多くの賛同を集めた。

「結局、”球界のジャンヌ・ダルク”が一番人気だったけどね」

 最終的には一番最初についた渾名に落ち着き、珠音は”炎上したくない”と溜め息をついたが、それはまた別の話である。


 

 後年、立花の手により、珠音の活躍は一冊の書籍に纏められる。

「甲子園球場に”珠音いろ”の風が吹き、自らの手で勝利を掴み取ったあの日、”野球選手”楓山珠音が誕生した」

 冒頭この一文から始まる書籍の名は”珠音いろ”。

 プロ野球トップリーグに誕生した史上初の女子選手―楓山珠音―の大河ドラマは、まだ始まったばかりである。

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