9回裏 ✖
Bottom of 9th inning ―×(エピローグ)―
女子プロ野球選手として最初のシーズンを終えた鍛冶屋茉穂への取材の帰り道。
新大阪から乗車した東海道新幹線の中の車内で、立花は大学の入学祝として祖父母から贈られたノートパソコンを開き、早くも次回掲載予定の記事を書き始める。
「楓山珠音の高校野球生活、彼女が旋風を巻き起こした”その後”を切り取って紹介する」
この年の春、楓山珠音は世間で知らぬ者などいない存在となった。
鎌倉大学附属高校硬式野球部は初出場ながら大健闘を見せ、3回戦で惜しくも敗れたもののその足跡をくっきりと残した。
間違いなく立役者である珠音は先発2試合を含む3試合の登板で14イニングを投げ失点は僅かに1。
全国的には無名校の旗印として強豪校からの金星奪取に大きく貢献するなど、その活躍は連日の話題となった。
「世間にその名を轟かせた後、彼女は休むことなく野球に打ち込み続け、正しく話題の中心に立ち続けた」
立花がそう記したように、楓山珠音は走り続けた。
選抜高等学校野球大会から帰郷して疲労も癒しきらないまま、珠音を中心とした野球部女子班は全国高等学校女子硬式野球選抜大会に出場した。
大会史上かつてないほどの取材陣が訪れた大会で、珠音は引き続きチームのエースとしてマウンドに立ち続けた。
流石に結成1年と少しという地力の弱さから決勝で敗れ惜しくも準優勝となったが、男子とほぼ同じ練習をこなして積み上げた基本に忠実なプレイスタイルは、女子の大会でもその真価を発揮したと言える。
「決して名門とは言えない鎌倉大学附属高校の硬式野球部は、プレイ環境に恵まれない高校女子野球選手の受け皿として、図らずも最良の存在となった」
決められた入学定員数の中で多くの部員を獲得することは難しいが、男子は若干増、女子は珠音の影響もあってか多くの新入部員を迎え、硬式野球部は過去一番の活気を得て新たな年度を迎える。
4月末から5月にかけての春季地区大会では惜しくもベスト4に終わり春季関東大会への切符は得られなかったものの、ここでも背番号1を付けた一際小さな身体はマウンドに立ち続け、大きな存在感を示し続けた。
「甲子園大会への切符を賭けた夏の県大会は、高校硬式野球に新たな時代をもたらした彼女にとって、正しく集大成と言って過言では無い」
全国屈指の参加校を誇る神奈川県大会は、甲子園への切符を勝ち取るために最大8度の勝利を掴み取らなければならない。
鎌倉大学附属高校は惜しくも7度目の挑戦で涙を呑む結果となったが、珠音はその全てに登板した。
厳しい日差しが照り付ける中、土浦浩平と積み重ねた熟練の技術をフルに発揮し、2度の完投を含むチームトップの51イニングをマウンド上に立ち奮闘した姿は、人々の瞳にしっかりと焼き付いたことだろう。
「共にグラウンドを駆け抜けたチームメイトが引退しても、彼女の歩みは止まらなかった」
立花が書き記すように、珠音の高校野球生活は続いている。
夏大会終了と同時に引退していった男子同級生を見送りつつ、連戦となった全国高等学校女子硬式野球選手権大会でも珠音は燃え尽きることなくマウンドに登り、絶対的エースとして君臨する。
彼女のためにと創設され、彼女とともに走り続けた硬式野球部女子班は、創部2周年を迎える前に優勝の頂きへとたどり着いた。
「彼女にとってほんの細やかな勲章かもしれないが、その手に掴んだ真紅の優勝旗は、直向きな努力に対して野球の神様から贈られた、ご褒美なのかもしれない」
立花が文章作成に集中する間に、新大阪から乗車した東海道新幹線”ひかり”は小田原駅に滑り込もうとしていた。
間も無く到着のアナウンスが流れると、立花は車内に設置された電源コンセントからコードを抜き取り、ノートパソコンを片付けようとする。
「......あ」
画面を閉じる動作を思い留まると、続く文章を一文だけ書き加える。
「"珠音いろ”の風に背中を押され、彼女は今も走り続けている」
満足そうな表情を見せると同時にスピーカーからは小田原駅に到着のアナウンスが流れ、車内は降車の準備で僅かに賑わう。
立花はパソコンを鞄にしまうと、荷物をまとめてデッキへと駆けて行った。
立花が記事に記載した通り、珠音は立ち止まることなく走り続けていた。
全国優勝を果たしたのも束の間、プロ選手を中心に招集された女子ワールドカップ日本代表に最年少選手として選出されると、本大会では先発投手の後を受けるリリーフエースとしてほぼ毎試合に登板し、プロ選手と比べても遜色ない実力を発揮して優勝に貢献する。
男子と同じ環境でプレイし続けた実績が偶然の産物で無いことを、周囲へ改めて証明してみせた。
また、女子班が全国優勝を果たしたことから、プロアマ合同の女子野球ジャパンカップへの出場が既に決まっており、新チーム移行後も女子班の希望者は受験勉強の傍ら、練習に参加し続けた。
無論、珠音もその中に含まれるが、彼女には別の理由も含まれていた。
「合格おめでとう!」
満面の笑みを浮かべて賛辞を送ったのは、シーズンオフで部室を訪問していた鍛冶屋茉穂である。
瞬足巧打の”スイッチヒッター”として1年目のシーズンから打率3割を達成し、翌シーズンの契約も決定していた彼女は、この日に何が発表されるかを”先輩”として知っていた。
「ありがとう、茉穂さん」
「まぁ、これで珠音が不合格だったら試験自体がおかしいと考えるべきだね」
もちろん、茉穂が言う”合格・不合格”は大学の入学試験を指し示すものではなく、女子プロ野球リーグの翌シーズンに向けた入団テスト―トライアウト―である。
珠音は宣言通り、自身の次の舞台として女子プロ野球リーグを選び、無事その関門を突破した連絡がちょうど届いた所だった。
「珠音のおかげで女子野球にも注目が集まったおかげで、来シーズンから2チーム増えて6チーム制になるし、来シーズンは女子プロ野球にとっての転機だよ」
珠音の存在がメディアに現れるようになってから、およそ1年半。
徐々に社会から認知されるようになった女子プロ野球リーグはトップリーグからの支援も受け、悲願であったリーグ拡張を成し遂げていた。
1チームの人数は現行の25名から20名へと減じる一方、チームの増加により20名の新たな受け皿が生まれることとなる。
「チームメイトになるか、ライバルになるかは分からないけど、頑張って盛り上げて行こうね!」
自分のことのように喜ぶ茉穂に、珠音は照れくさそうな表情を見せる。
「うん、環境は違うけど、”私だって”負けてられないもの」
珠音は”私だって”をやや強調した後、”本来この時期に部活動に参加していないはず”の人物を見やる。
「いつかまた、同じ舞台に立ってみせる」
視線の先には、練習の準備を進める浩平の姿があった。
珠音の合格発表から遡ること3日。
トップリーグのドラフト会議が開催され、土浦浩平は”高校球児”から”プロ野球選手”になる権利を得た。
珠音の兄―将晴―も所属する静岡サンオーシャンズからドラフト6位指名。
“球界のジャンヌ・ダルク”の相方程度でしか話題に上がらず、シニア出身でもない。
硬式野球の経験が3年程度ということも相まってメディアからは所謂”隠し玉”と表現されたが、浩平の成長スピードは誰が見ても期待を寄せてしまう程であり、成績も十分に残している。
「最下位指名だろうが、関係ありません。みんな、スタートラインは変わらない。プロ野球選手として活躍できるよう、精一杯努力します」
駆け付けた報道陣はまばらだったが、浩平の芯の詰まった言葉は記者の耳にハッキリと届いたことだろう。
「土浦浩平は”珠音いろ”に最も染まった存在であり、語源となった楓山珠音本人を除いて、唯一”そのもの”と言える存在である。彼の今後の足跡に、大いに期待したい」
立花が地元紙に寄稿した記事は、この文章で締めくくられた。
立花は目の前でワイワイと盛り上がる少年少女を、ファインダー越しに捉える。
“珠音いろ”の2人が大きく翼を広げた姿をカメラに収め、立花は満足そうに微笑んだ。
春に芽吹いた若葉が夏の日差しを一身に受けて幹に栄養を与え、たわわに実った果実が種をその身に宿し、世代は次へと繋がっていく。
新チームとなった野球部はAチームが湘南杯を、女子班がジャパンカップを戦い抜き、カレンダーは最後の月を示していた。
ジャパンカップ出場のため練習を継続していた女子部員を含め、全ての3年生が正式に引退し、各々受験勉強に勤しむ毎日を送っている。
「何だかんだで早かった。そうは思わんかね、爺さんや」
「いや、謎の演技力を学芸会で見せつける女子みたいな声を出しているんだよ」
入学以来ほぼ毎日のように往来した通学路を、長年連れ添った熟年コンビが並んで歩く。
「いや、2人で帰る機会も多くなってきたし、ちょっとアクセントを加えてみようかと」
野球部の全体練習が休みの日。
後輩たちが早々に帰宅する中、進路の決まっている2人はこの日も、太陽が間も無く姿を隠そうとする時間まで更なる高みを目指し自主練習を続けていた。
「アクセントの必要あるか?」
「いいじゃん別に、もうすぐそんな機会も無くなる訳だし」
年が明ければ卒業式を迎える少し前より、一方はプロ野球選手、もう一方は”女子”プロ野球選手となる。
職業こそ両者変わらず”プロ野球選手”という肩書になるだろうが、珠音を表す言葉につく接頭語2文字分の差は大きい。
「......あ、コンビニ寄ろうよ。お腹すいた」
「おぅ」
季節は間も無く冬本番を迎えようとしており、陽も沈み始めれば吐く息も白く色付く。
2人は店内を物色する間に太陽は水平線の向こうへ消え、珠音が胡麻あんまん、浩平が肉まんを片手に店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「隙あり!」
無防備に晒された肉まんの白い肌を、珠音の歯が食い破る。
「おい、自分の分あるだろ!」
「育ち盛りだから仕方がない。それに、セブンの肉まんが美味しいのが悪い」
「なら、あんまんじゃなくて肉まん買えよ」
「だって、甘いもの食べたかったんだもん。私の身体は胡麻あんまんを求めていたんだから、仕方がない」
「2個買え」
「2個は多いけど、1個じゃ少ないんだもん。ケチケチしなさんな、契約金がっぽり貰って、給料だってたくさん貰えるくせに」
「退職金代わりだ。部に備品として少しは還元するけど、他は全部貯金する」
「夢がないなぁ」
他愛のないやり取りも、もうじきできなくなる。
年が明ければ受験生は自由登校となり、浩平は静岡の球団寮に入って新人合同自主トレーニングに参加する。
珠音も所属球団が正式に決定し、キャンプインの少し前からチームメイトとシェアハウスする予定だ。
「新しい生活がもう直ぐ始まるね」
いつもの日々は、あと1ヶ月経たずに終了する。
珠音は立ち止まり、星が瞬き始めた夜空を見上げる。
「あぁ、そうだな」
「待っててよ、絶対に追いついて見せるから。......この際、追い越しちゃおうかな。私、英語得意だし」
凪の刻、これまで珠音の背を押していた海風が止み、陸から海への陸風が吹き始め、浩平の背中を押す。
「待つだなんて、こっちからお断りだね」
浩平は溜め息をつき、穏やかな風を物ともせずに前へと進む。
「俺は止まっていられないんだ。勝負の世界で、生き残らなきゃいけない」
「......だよね」
珠音は溜め息をつくと、浩平の横を駆け抜け、前に出る。
「浩平」
「ん?」
珠音は浩平へ振り返ると、不敵な笑みを見せて仁王立ちしていた。
「じゃあ、いっそのこと追い抜いてみせる」
風が徐々に強まり、珠音のスカートと若干伸びた髪が靡く。
「精々頑張ってよね。私が辿り着いた時に浩平がいないんじゃ、話にならないから」
浩平は苦笑し、自らの力の源である少女の顔を見る。
自信に満ち溢れた表情に、何故だか人の心を納得させてしまう声色。
人を惹き付け、人に勇気を与えられる存在。
「あぁ、約束しよう。俺は走り続ける。ウサギみたいに怠けて昼寝するような真似はしない、全力で駆け抜けてやる」
「約束するよ。私を応援してくれた人たち、支えてくれる人たちのためにも、真っ直ぐ前を見て走り続ける。絶対に辿り着いて見せる」
珠音の力強い言葉は、浩平の心を昂らせた。
彼女は約束を破らない。
長年連れ添った経験から、根拠などなくともそう確信することができる。
「”プロ野球”の舞台で、またバッテリーを組もう」
浩平の差し出した右手に、珠音が応じる。
「約束だ」
「必ず」
短く言葉と共に固い握手を交わすと、2人は再び風を受けながら歩み始める。
彼女らの歩む道は起伏に富み、辛く険しい茨道。
自らの”いろ”を確立出来なければ、すぐに蹴落とされる厳しい世界。
2人を包み、背中を押す風は”珠音いろ”。
強く凛々しい後押しを受け、雛鳥たちは学び舎から巣立っていった。
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