8回表 希望の花

Top of 8th inning ―希望の花―


 冬ならではの乾燥した空気に呼気が混ざり、含まれる水分が白く凝縮した後に霧散する。

 年が明けた後も続く厳しい寒さを、遮る物なく吹き付ける海風がさらに増幅させる。

「はーるよ来い、はーやく来い」

 グラウンドコートを脱ぎ、寒さを物ともせずに走る珠音は時折何かを口ずさみながら、ひたすら基礎トレーニングに励んでいた。

 特例により公式戦への選手登録が可能となったものの、根本となる大会自体が無いのでは、折角勝ち取った特例も何の意味もなさない。

「試合がしたい」

 珠音は試合に飢えていた。

 女子硬式野球の東日本大会では上位にこそ食い込んだものの、結成1年に満たないチームの地力の弱さが出たことも相まって、決勝トーナメントに進む条件だった上位2チームには入ることはできなかった。

「試合がしたい試合がしたい」

 制度施行時期の都合でスタンドからの応援に徹するしかなかった関東大会は、キャプテンの二神と浩平を中心とした堅実な戦いで下馬評を覆し、強豪犇めくトーナメントでベスト4という過去最高の成績を収め、選抜高等学校野球大会の出場をほぼ手中に収めている。

「試合がしたい試合がしたい試合がしたい」

 チームとしてほぼ連戦となった湘南杯は制度施行前ながら、前年の反省を活かした大会運営側の配慮も相まって選手登録が可能となった珠音が”エースナンバー”を背負い、近隣地区のライバル校を蹴散らして見事優勝を果たした。

 それでも、珠音は試合に飢えている。

 対戦相手への物足りなさか、それとも眼前で強大なライバル校に勝負を挑むチームメイトを羨む気持ちか。

 どちらにせよ、春を待たねば珠音の欲する舞台は訪れない。

 暖かな季節を待ちわびる姿は、新たな生命の息吹を感じさせる草花や賑やかなさえずりを生む小動物というより、腹ペコな穴熊のようだった。



 1月も下旬に差し掛かる頃、野球部内では敢えて話題にこそ出さないものの、少しずつではあるが試合とは別種の緊張感が部内に張りつつあった。

 無論、今でも時折顔を出す3年生の大学受験が迫っていることや、琴音のアンサンブルコンテストを週末に控えていることは直接の原因ではない。

「今日だよな」

「あぁ」

 いつもと変わらない放課後、部員は普段通りグラウンドに集まるが、どこか上の空で部員間の会話も少ない。

 この日は選抜高等学校野球大会の出場校を決定する選考委員会の会合日であり、その結果は決定次第通知される。

 大庭の確認はこのことを指し示していたが、分かり切った質問に二神は短く答えるだけのやや冷たく、傍から見ればやや素っ気ない対応に見えた。

「集合」

 空気が変わったのは、スーツ姿の校長がグラウンドに姿を現して鬼頭を呼び出した瞬間だった。

 シートノックの最中でグラウンドに散っていた部員も各々のポジションでざわつき始め、鬼頭から集合の合図を受けると、感情の爆発を抑え込むことに必死の状態になった。

「......お前らなぁ」

 想像の通りだけに部員の期待を裏切ることはないが、ここまであからさまな様子は少々呆れざるを得ない。

「お前らの想像の通りだ。先ほど、高校野球連盟の選考委員会より連絡があり、校長先生が対応して下さった」

 鬼頭の周囲に半円を描くように集合し、その言葉を逃さず聞こうとうずうずとした様子の部員たちの姿は、まるで主人からの餌やりを待つチワワのようにも見える。身体は大きく大人になったが、中身はまだまだ子供だ。

 鬼頭は溜め息をつくと、まるで子犬へご褒美をあげるような優しい口調で言葉を続ける。


「3月の選抜高等学校野球大会に、我々鎌倉大学附属高校硬式野球部の出場が決定した」

 

 鬼頭が伝えきる前からやや食い気味に、部員たちは歓声を上げる。

 二神は小さなガッツポーズで、大庭は大きく両腕を突き上げて、その他も十人十色の方法で喜びを表現する。

「やったな、珠音」

「うん」

 浩平は横に立つ珠音は始めこそ大はしゃぎしていたものの、何かに気付いたような仕草の後からどこか浮かない表情を見せていた。

「どうした?」

「あぁ、うん。ごめん」

「調子でも悪いのか?」

「いや、別に......。これに関しては私が何かをした成果じゃないから、どんな顔すればいいのか分からなくて」

 チームメイトの視線が珠音に集まる。

 珠音がチームのムードメーカーであるのは間違いがなく、元気印に勢いがないとチーム全体でどうにも調子が狂ってしまう。

「笑えばいいと思うよ」

 夏菜がキョトンとした表情で珠音をジッと見つめている。

「一緒に喜ぼうよ」

「でも、私は試合に出られなかったわけだし。これは男子が頑張った結果で、私がメンバー入りを目指すのも何だか悪いなって思う時もあって」

「何もしてない訳じゃないよ、いっぱい応援したじゃん!」

 琴音が人垣をかき分け、珠音の前に立つ。

「そうだよ。それに野球はチームスポーツだし、グラウンドの選手もスタンドの応援団も変わらない。私は野球部としても吹奏楽部としてもスタンドに行くけど、何もしていないなんて思わないよ」

 普段から大きな声を出すことの少ない琴音の強い言葉に、珠音が驚いたような表情を見せる。

「それに楓山がいなかったら、俺たちが選抜に行くなんて絶対になかった。楓山がいつも引っ張ってくれたからこそ、選抜に行けるチャンスをものにできたんだ」

 二神の言葉に、全員が頷く。

 部員が男女合わせて40人に満たない程度の野球部で、関東の強豪校との激戦を勝ち抜くのは相当の努力が必要である。

「二神の言う通りだ。それに珠音が迷ってどうするんだよ。お前が進む道を信じて、みんなここまで頑張って来られたんだから」

 常に先頭に立ち続け、前へと走り続け努力を積み重ねる珠音の姿がチームの支えになったことは、誰にも疑う余地はない。

「珠音、忘れたのか?」

 浩平が半円の真ん中に移動し、珠音と相対する。

「このチームは男女学年経歴に関係なく、完全実力主義だろ。湘南杯ではお前がエースナンバーだったけど、次もお前が選ばれるかは分からない。誰だってメンバー入りを目指すチャンスはある。余計なことを考えるのはやめようぜ」

「分かった、ごめん。みんなもごめんね」

 珠音は素直に謝罪し、大きく深呼吸する。

「湘南杯の後、少し考えちゃったんだ。男子が頑張って掴んだ選抜への切符で、私が列車に乗っていいものかってね。でも、琴音の言う通り、野球はチームスポーツだもの。グラウンド上の選手も声援を送る応援団もワンチーム、選抜行きの列車にはみんなで乗らないとね。それに、私は余計なことを考えている暇はない。私だって、メンバー入りできるか分からないんだし――」

 珠音は何かを言いかけると、ハッと気が付いたような表情を見せ大きく息を吸う。

「私がエースナンバー背負って、甲子園のマウンドに立ってやる!」

 グラウンドに響く声は校舎で跳ね返り、海風に逆らって大洋へと乗り出していく。

「俺は甲子園球場でホームランを打って見せる!」

 浩平が珠音に続くように声を上げると、仲間が真似をして次々と思いの丈を叫ぶ。

「俺は楓山からエースナンバーを奪い返す!」

 関東大会と湘南杯でそれぞれエースナンバーを背負った珠音と高岡が、互いに挑戦状を叩きつけ合う。

「俺は自分の全部を出し切って、チームの勝利に貢献する!」

 二神は遊撃手、投手、左翼手としてユーティリティーな活躍を見せ、時折背番号の通りのポジションで試合に出場したいとぼやくこともあるが、キャプテンとしても選手としてもチームの勝利に貢献している。

「私が”6”を背負って見せる!あ、二神は1か7に回ってね」

 遊撃手の二神はまつりが出場する場合、投手として先発し左翼手に回ることも多い。

 二神もレギュラーポジションを争うライバルとして、まつりに主戦場を簡単に譲るつもりなどはない。

 気付けば同じポジションの者どうし、レギュラー争いの火ぶたはあちこちで切って落とされていた。

「青春ですなぁ、鬼頭先生。私はこの様子を見るだけでも、何だか若返ったような気分になりますよ」

「全くです。ただ、これから大変です。彼らを導きつつ”守らないと”いけない。これまで以上に、彼らは暴風に晒される訳ですから。これ程までに重要な役目を果たせるかと思うと、時折不安になります」

 校長は小さく頷き、部員たちを見やる。

「何とかなるでしょう。彼らも当然、何とかしようと精一杯走り続け、夢を叶えて来たのですから。私たちも精一杯の努力をするのみです。それが、子供たちを守る大人の役目なのですから」

「そうですね」

 鬼頭は短く答えると、部員たちに檄を飛ばす。

「さぁ、土浦の言う通り、うちは実力最優先だ。関東大会も湘南杯も関係なく、全員横一線でスタートだ。自分たちが挑戦者であることを忘れることなく、これからの練習に取り組んで欲しい」

『はい!』

 部員たちがグラウンドに散らばっていく。

 この瞬間を切り取れば、ここ最近のどこか地に足つかない雰囲気はすっかり消え失せ、自分の長所を如何なくアピールしてスタメンの座を勝ち取ろうと、狩人のような雰囲気を醸し出してさえいる。

「いいですね、鬼頭先生」

「はい、これだから教員という仕事が辞められません」

 この一瞬で、部員たちはまた成長した。

「さぁ、ノックを再開するぞ」

 鬼頭は満足気な表情を見せると、ノックバットを手に再び気を引き締め直した。



 冬の夜は長い。

 太陽は水平線の向こう側へ早々に隠れ、通学路の灯が美しく輝き始める。

「それじゃあ」

 珠音たちと別れた琴音はまつりと一緒に電車へ乗り込み、帰路につく。

 一時は疎遠になっていた2人も、同じ部活動で時間を共有するようになってからはかつての仲を取り戻していた。

「ふあぁ...」

「お疲れだね」

 衆目の中、琴音の理性が堪えきれず出てしまった欠伸に、まつりはクスリと笑みを浮かべる。

 中学校以来の同級生だが、2人が並んで帰路につく姿など1年前の時点では想像が付かなかっただろう。

「ちょっと睡眠不足気味かなぁ」

「吹奏楽部の部長もやりながら、よく続けていると思うよ」

 野球部と吹奏楽部の二足の草鞋を履きながら、琴音は何とか学業の成績も維持している。

「夏菜と私が言い出しっぺだし、自分で言ったことには最後まで責任持ちたいから」

 琴音は正面の窓ガラスに映る自分の姿をぼんやり眺めると、表情を引き締める。

「珠音を見ているとね、私なりでいいから少しでも近付きたいって思うの」

「分かる。選手としてだけでなく、人としても負けたくない」

 大船駅で電車を降りエスカレーターを登った先で、琴音とまつりの前に見知った姿がひょっこり顔を出す。

「あれ、舞莉先輩?」

「ん、やぁ、久し振りだね」

 吹奏楽部を引退して自らが部長職に就いて以来、琴音は舞莉のことを”部長”と呼ばずに野球部内での呼び方に変えている。

 2人は駅構内のカフェで寛いでいる舞莉に誘われると、都合よく空いていた隣席に腰を落ち着ける。

「選抜が決まったんだってね、おめでとう」

「ありがとうございます。先輩はどうしてここに?」

「予備校帰りさ。真っすぐ帰るのもいいけど、たまには羽も伸ばしたいからね」

 舞莉が伸びする様子に、まつりが苦笑する。

 もう間も無く勝負の2月。何でもそつなくこなすように見える舞莉でも、やはり受験勉強は億劫なようだ。

「受験生、大変ですね」

「来年は君たちも体感するさ。進学希望だろ?」

「あくまで来年...ってことで、今は考えないようにしています」

 3人は苦笑し、しばし雑談を続ける。これといった話題がある訳ではないが、他愛のないことに笑い合える時間は何よりも貴重だ。

「そういえば、琴音の曲作りは進んでいるの?」

「ふえぇっ!?」

 舞莉の突然の話題振りに、琴音は赤面する。

「え、琴音って曲作りできるの?」

「あー...ごめん、野球部には言ってなかったんだね」

 琴音のアタフタする様子を見て、舞莉は珍しく”見誤った”といった表情を見せる。

「いや、そんな、できるってレベルじゃ......」

「なーに言っているの。前に私が頼んだ曲だって形にしてくれたじゃない。すごく助かったよ」

「あれは舞莉先輩が”中学の先輩に貰った”って言っていた楽譜を元にしましたし、要所要所の微調整は先輩がやっていたじゃないですかぁ」

 琴音は涙目で身を乗り出し、衆目を気にして小声で舞莉に詰め寄る。

「曲として成立させてくれた事実には変わらないよ。現に、依頼した私としては一人ではとてもできなかったし、結果として大満足な出来栄えだったよ」

「音楽のことをよく分からない身としては、それでも十分凄いと思うけど」

 まつりが苦笑しながら琴音を席に戻し、話題を元に戻す。

「琴音、何か作曲しているの?」

「う、うぅ......」

 まつりが視線を移すと、もじもじする琴音の姿を舞莉が恍惚とした表情で見つめている。

「(この人はどうやら、珠音と同類らしい。......あ、だからあんなにも気が合うのか)」

 まつりはそう感じた途端に寒気を感じ、目の前の柚茶に口を付ける。

「......オリジナルの応援歌とチャンステーマを作ってみたいなと思ってね」

 か細い声で、琴音はポツリぽつりと思いを零れさせる。

「私、中学から吹奏楽部だったけど、別に音楽が大好きな訳じゃなかった。有名人が言う”音楽の力”って言われても正直よく分からなかった。部長なのも、ただ真面目に練習していただけだし、スタンドからの応援だって実際のところあまり意味は無いんじゃないかなって思ってた」

 琴音は自分に自信のあるタイプではない。

 それは自負しているところだし、付き合いの長いまつりもそう感じている。

「去年の春大会に選手として出て、スタンドからの声援を受けて、初めて応援の力を実感したの。何だか、応援してくれるみんなの力も自分のエネルギーに変わるんだなって。自分でグラウンドに立って、初めて気が付くことができた」

「(あぁ、だから珠音に喰いついたんだ)」

 まつりは先日のグラウンドにおける顛末を思い出し、納得したような表情を見せる。

 いつもは前に出ることの少ない琴音が、時折立ち止まりそうになる珠音を再び前進させる鍵になっている。

「もしもオリジナルの応援曲があったら、グラウンドに立つ選手にたくさんの勇気をあげられる気がする。グラウンドの選手もベンチメンバーも、もちろんアルプススタンドの応援団も、一つになれる気がしたんだ」

 一呼吸ついた所で長々と語っていたことに気付き、琴音はまた赤面して俯いてしまう。

「琴音...」

 恥ずかしがる友人から視線を移すと、舞莉の表情が見ていられない程に崩れていた。

「(うわぁ、この人興奮した顔しているよ。絶対に珠音と同族だ)」

 眼前の舞莉に呆れつつ、まつりは琴音の様子を見る。

「秋頃から少しずつ作っているんだけど、中々進まなくてね。何とか、選抜には間に合わせたいんだけど」

「(珠音に引っ張られてチームは大きく成長した。チームとしても個人としても。私だって負けてられないな)」

 まつりは一つ息を吐き出し、冷めてしまった柚茶を飲み干す。

「私でよければ......いや、琴音がよければだけど、みんなで作らない?」

「え?」

 まつりの提案に、琴音が驚いたような表情を見せる。

「みんなで作れば、思いももっともっと強くなるよ。どうかな?」

 当初は少し恥ずかしそうな表情を見せていた琴音だったが、表情が徐々に移り変わり、舞莉がコーヒーを飲み干す頃には決心がついたようだ。

「そうだね、恥ずかしい部分もあるけれど、みんなの意見も聞いてみたいな。まつりも手伝ってくれる?」

「もちろん!」

 琴音は満面の笑みを見せると、すっかり冷めてしまったホットチョコレートを飲み干し、上機嫌に鼻歌を奏で始める。

「いいフレーズだね」

 舞莉の表情を見る限り、どうやら思い描いている応援歌のワンフレーズのようだ。

「さて、若人の前進を見届けられたことだし、私は帰ろうかね。息抜きに付き合ってくれてありがと」

 舞莉は立ち上がり、自分のお盆を返却口へと持っていく。

「こちらこそ、ありがとうございました。曲ができたら、是非先輩も吹いてください」

「受験、頑張ってくださいね!」

 舞莉は振り返ることなくひらひらと右手を振ると、そのまま店を出ていった。

「やっぱり不思議な人だな」

「そうだね。困ったことがあっても、舞莉先輩ならまるで答えを知っているような感じも

する。おかげで前に進むことも多いし」

「へぇ...」

 ガラス戸越しに見せた背中は、帰宅ラッシュの波の中に消えていく。

 見失うと同時に、まつりの中でふと疑問が沸いた。

「もしかして、琴音を前に進ませるために待ってた?でも、何で?」

「そんなまさか。それに、舞莉先輩は受験生だよ。そんな暇ないよ」

 まつりが思わず口にした疑問を、琴音は笑い飛ばす。

「......そりゃそうか」

「そうだよ。さ、私たちも帰ろう」

 まつりは琴音の言葉に頷き、席を立つ。

「ま、変わった先輩ってだけでいいか」

「何か言った?」

「ううん、別に」

 2人は返却口に食器を返すと、間も無く発車の東海道線に乗り込もうと走り出す。

「私は単なる愉快な変わり者でいい。君たちにとってはね」

 その様子を横須賀線ホームから眺める舞莉は満足そうな表情を浮かべると、帰宅客でごった返す車内へ消えていった。



 鎌大附属硬式野球部が選抜高等学校野球大会の出場権を獲得して以降、詰めかけるメディアと舞い込む取材依頼の数は格段に増え、対応する広報担当はまさに”てんやわんや”といった様子であり、事務所内を忙しなく右往左往している。

 もちろん、全ての問い合わせが善意によるものとは限らない。

 明らかな”嫌がらせ”の数は格段を超えた勢いで増加し、入学試験の対応に追われる教職員全ての負担をこれでもかと増加させていた。

 それでも、生徒たちを不安にさせないために悟られないよう努める姿は、正しく”教職員の鏡”とでも表現すべきだろうか。

「本日は大変お忙しい中、私どもへ貴重なお時間を頂きありがとうございます」

 それでも、取材対応の事前フィルター機能が疎かになったと後々になって後悔する事案も、必然的に発生するものである。

「いえ...」

 制服姿の珠音とスーツ姿の鬼頭が対談したのは、”作り慣れた” 温和な表情と笑顔を浮かべる中年の女性だった。

 握手を求められた珠音がぎこちない笑みで応えると、アシスタントと思しき同行者が”ベストショット”を狙って執拗にシャッターを切り続ける。

「楓山珠音さん、あなたの活躍は実に素晴らしいものです。あなたのニュースが報じられるたび、私たちも勇気づけられる思いでいっぱいです」

「ありがとうございます」

 中年女性は名刺を差し出すと、ひと呼吸挟むことなく饒舌に自己紹介を始める。

「西園寺公子と申します。女性の地位向上、男女平等の社会確立を目指す人権団体の代表を務めております」

「は、はぁ...」

 これまでもメディアやスポーツ雑誌のインタビューを受けることはあったが、やや偏りのある主義主張を訴える団体からのアポイントを受けることはなかった。

 対面した瞬間から毛色の違いに戸惑っていた珠音がチラリと鬼頭の表情を見やると、申し訳なさと苦渋の入り混じった渋い表情を浮かべている。

 鬼頭としても、広報担当の”ミスジャッジ”にほとほと呆れているようだ。

「長く不平等な伝統が積み重ねられてきた中、こうして歴史の転換するタイミングに立ち会えたこと、本当に光栄に思います」

「不平等...?」

「高校硬式野球において女性選手が出場権利を与えられていなかったこと、甲子園大会における女性部員のグラウンド立ち入りの禁止の件です」

「...あぁ」

 珠音の脳内でようやく、野球部が一丸となって勝ち取った”特例措置”と人権団体代表殿の主張が繋ぎ合わさる。

「(なる程、この人は自分たちの主張に私たちという化粧を施そうとしているんだ)」

 珠音は小さく気付かれない程度の溜め息を漏らし、自分なりに当たり障りのない回答を考える。

 真剣な対応をするだけの労力はもったいないが、下手な捉えられ方をされても困る。

 短い時間では満足な打ち合わせをできた訳ではないが、その中で導き出した鬼頭との共通認識だった。

「まぁ、仕方がなかった部分もあったんじゃないかなと思います」

 珠音の何の気ない言葉に、西園寺に塗りたくられたの”いい人”という化粧の一部がポロリと剝がれ、口元が小さく歪む。

「男女の体格や体力の差を埋めるのはなかなか難しいということは、プレイする自分が一番実感しています。この前の大会ではレギュラーポジションを貰えましたが、次もそうなれるかは分かりません。日々、精進です」

「あらあら、楓山さんは大人なのね。謙遜しちゃって」

 西園寺はまるで孫をあやすように、優しい声色を作り出す。

「いいえ、事実です。ウカウカしていたら、仲間たちと勝ち取った”特例”というチャンスを活かせませんので。私のことを応援してくれた人や、今はメンバー入りを目指すライバルたちのためにも頑張らないと」

「あら、それは大変。あなたのことを応援する”私たちのため”にも、是非とも頑張ってもらいたいもの」

 アクセントの付け方から、早くも下心を隠し切れていない西園寺に対し、鬼頭が咳払いで牽制する。

「練習時間を奪っても悪いから、単刀直入に伺います。楓山さんは、これまであなたの価値を認めてこなかった規則について、どう考えているのかしら」

 西園寺の表情から笑みを消し、”本業”の顔に戻る。

「行き過ぎた規則であったかもしれませんが、怪我の可能性を考えればこれまでのルールも理解できないことはありません。私が連盟へお願いしたのは、あくまで女子選手にも挑戦する権利を与えて欲しいということだけです」

「それだけでいいの?」

「それ以上のこと、何かありますか?」

 西園寺は暫し考える素振りを見せる。

「例えば、各校の出場選手登録に一定数の女子選手枠を設けるとか、別枠で追加するとか」

「男子と肩を並べる実力を持つ女子選手がいれば、自ずと枠内に入れるでしょう。別枠を無理に作れば、そこに”入れられてしまった”選手は肩身の狭い思いをすると思いますし、そもそもベンチ入りできてもグラウンドには立てません」

 珠音の端的な指摘に、西園寺は返答に窮する。

「(ほう、成長したな)」

 その様子を見て、鬼頭は感心した表情を見せる。

 これまで繰り返されたメディアとのやり取りを経て、珠音は精神的にも大きな成長を遂げていた。

 意見は実に的を得ており、助け船を出す必要など微塵も感じられない。

「それもそうね」

 話題をどう転じようか、作り慣れた厚化粧の裏で思考を巡らせる様子を暫し見守る。

 しばし逡巡した様子を見せた後、西園寺は意を決して”本題”を切り出した。

「楓山さんは将来、トップリーグを目指すとおっしゃっていたけれども、その発言の本気度はどの程度なの?」

「本気も本気、100%です」

 珠音が笑みを見せながら返した無邪気な回答に、西園寺はクスリとも笑わなかった。

「楓山さん、私たちはあなた以上にあなたの価値を分かっているつもりです。端的に言うと、高校を卒業したら”野球なんて辞めて”私たちの活動に加わって欲しいの」

 突然の誘いに、無邪気を作っていた珠音の表情が凍り付く。

「西園寺さん、生徒への勧誘行為はお控えください」

 鬼頭が2人の会話へ割って入り、睨み付ける。

「あなたは100年に及ぶ古臭い伝統を打破し、改革をもたらした。容姿も申し分ない、メディア好みの旗印と成り得るわ。”野球なんて”続けるより、あなたの価値をもっともっと高める舞台を私たちなら用意できます」

「西園寺さん!」

 鬼頭が声を荒らげるが、勧誘は止まる様子はない。

「あなたは現状で世間に蔓延る男女の格差を是正し、女性の価値を広める革命の騎手になるのよ。旧態依然の体質を改善しなくては、女性を真に解放することには繋がらないわ」

 自らを制する声に聞く耳など端から持ちあわせていないとでも言うように、ただひたすら熱弁を奮う西園寺と、その様子に心酔した様子を見せるアシスタントに向け、鬼頭は啞然とした表情を向ける。

「あなたは惰性で生きるそこら辺の女性とは違う。問題に対し能動的な行動から、長く続く男性優位の制度を改革した実績を、あなたはその若さにして達成できた。それこそ”ジャンヌ・ダルク”が大活躍したのも、あなたと同じ17歳じゃなかったかしら」

 自らに酔いしれる西園寺に対し、珠音は何も反応を示さない。

「あなたは凝り固まったこの国の社会に革命をもたらす人物。高校野球界の”ジャンヌ・ダルク”から政界の”ジャンヌ・ダルク”になるのよ。絶対に、その方がいいわ!あなたならできるわよ!」

 西園寺は珠音の両手に自身の掌を重ね、包み込むように自身の顔の前に寄せる。

「一緒に頑張りま――」

「お断りします」

 西園寺の言葉を遮るように放たれた珠音の言葉が、溢れ出る熱量のせいでいくらか上昇した室温を一気に冷やす。

「......え?」

 自身の演説に余程の自身があったのか、それとも”酔い”が回って正しい判断力を失っていたからか、西園寺とそのアシスタントは突き付けられた回答を”まるで理解できない”といった表情を見せる。

「り、理由を聞かせてもらえないかしら」

 放出先がないためか体内に熱量が蓄積し、西園寺の顔がみるみる紅潮していく。

「あなたは、私が大好きな野球に対して”なんて”って言葉を使いました、しかも2回も。自分の意見を突き通そうとするだけで相手の努力を蔑ろにするような人達を信用なんてできませんし、そもそも”そんな”ことに興味がありません」

 冷たく言い放つ珠音に、西園寺が喰らい下がる。

「あなたにはこの国を変える能力があるのよ!自分の手の届く範囲内だけで”我が儘”を言っていないで、大人の世界に目を向けて欲しいわ。あなたが立ち上がらなければ、また同じことが繰り返され、あなたに続く人々が憂き目に合うことは分かり切っています。想像力が欠如していると言わざるとは得ない、この学校の教育はどうなっているのかしら!?」

「学校は関係ありません。私の”我が儘”の結果が、仲間たちと勝ち取った成果です。仲間たちのためにも、私は私の手の届く範囲で勝ち取った”我が儘”を突き通したいと考えています。この考えは、私が野球を引退するその時まで変わりません。それに、私は私の周りにいる”大人の女性”が惰性で生きているようには思えません。みんな必死に、自分で考えて生きているように思えます。あなたの意見は、あなたが”他の女性より高みに位置していること”をアピールして、自分を気持ちよくしているだけのようにしか聞こえませんでした。信頼できない仲間とチームプレイはできないので、あなた達の仲間には加わりません。あなた達の仲間に加わらなくても、私は私の信じる道を進んで、後輩たち道標になりたいと思います。お話、改めてお断りさせていただきます」

 御しやすい、世間でチヤホヤされているだけの”ただの小娘”に自分の強い意見などなく、会見やインタビューでは周囲の大人が用意した原稿を読んでいるだけだとでも考えていたのだろう。

 事実として普段の取材対応でも珠音は生の意見を主張しており、文章の簡単な校正以外、大人は手を加えていない。

 珠音の意志が込められた回答に西園寺は”想定外”とでも言いたげな表情を見せ、目を泳がせながら言葉を返せないままただ時間だけが静かにすぎ、応接室には秒針の音だけが響く。

「議論もこれ以上は必要ないでしょう。本日はお帰り下さい」

「いや、まだっ――」

「お帰り下さい」

 鬼頭が退去を促すと、西園寺とそのアシスタントも一度は抵抗の様子を見せたものの、ついに諦め、無言で頭を下げ部屋を出ていく。

「ジャンヌ・ダルクになり損ねたな。よく頑張った」

 足音が遠ざかるのを確認すると、鬼頭は大きな溜め息をつき、珠音の肩をポンと叩く。

「炎上はごめんですので。単純に納得がいかないことも多かったですし、そもそも興味がありませんでした」

「すまなかった。こういうの、学校側がキチンと事前に対処すべきだ。広報にはキツく言っておくよ」

「......お願いします。それじゃ、着替えて練習に行きますね」

 珠音は小さく溜め息をつき、応接室から出ようとドアノブに手を掛けたところで足が止まる。

「先生、能力ってなんでしょう。私にはさっきの人が言っていたような”能力”が自分にあるとは思えないんですが」

 純粋な疑問を込めた瞳が、鬼頭を捉える。

「そうだな、この場合、能力ってものは人からみた他人の個性だったり、他人から”こう思われたい”という願望のある自身の特性を示すんじゃないかな。自身の価値を確立するために人はそれぞれ個性を磨くし、成果として現れれば周囲から個人の”能力”として認められる」

「なんとなく、言っている意味は分かりました。他人に対してする身勝手な期待が含まれるのなら、当の本人がまるで考えていないような未来に熱を持つこともありますよね。過剰な期待を向けられた身としては、はた迷惑ではありますけど」

 珠音はウンザリといった表情を見せ、大袈裟に肩をすくめる。

「能力のある無しを判断するのに感情を持ち込むのは、人間だけだよ。良くも悪くも、な。それを言ったら、俺だってお前には特別な能力があると思っているぞ?」

「どんなです?参考までに聞いてみたいです」

「人に面白い何かを見せてくれる、そんな能力だ」

「......フフッ」

 鬼頭の言葉を受け、珠音は小さく笑みを浮かべる。

「なら、私は絶対に期待に応えないといけませんね。みんなの為にも」

 珠音は先程までの剣呑とした時間などとうに忘れたといった様子で、部屋を後にする。

 まだまだ太陽の出ている時間が短い中、選抜高等学校野球大会に向けた練習は1分1秒たりとも無駄にはしたくない。

「何かしてくれそうだと周囲に期待を持たせる能力。楓山が持っているとすれば、そんな能力だろうな」

 鬼頭は疲労の残る身体に気合を入れ直し、デスクに溜まった仕事を片付けるべく職員室へ向かう。

 自身が求められているのは、未来ある若人の進む道を正しく守ること。

 誇りある仕事へ踏み出した足は思いの外軽く、身体は小気味良ささえ覚えていた。



 選抜高等学校野球大会への残り時間が減る程、練習はより濃密なものとなっていった。

 オフシーズンで練習試合を組まない分の時間を全て基礎練習に割き、プレイ一つ一つの質を高めていく。

「より上位の大会に進むからと言って、うちのスタイルを変えることはない。色気を出したところで、隙を生じさせたら元も子もないからな」

 鬼頭はミーティングの場を設けると、開口一番に部員へ宣言した。

 打者は投球を見極めてボール球には決して手を出さず、投手は無駄なランナーを出さず、守備では堅実にアウトを取る。

 専属コーチがいるわけではなく、超高校級の選手が多数所属している訳でもない。

 常にロースコアで緊張感のある試合展開が続くが、チームが勝ち上がるために考えた成果が選抜への出場と言える。

 選手たちもそのことは重々理解し、練習を送る日々が続いていた。

「そういえば、茉穂さんはそろそろキャンプインなんだって」

「いよいよ本格始動か。関西となるとなかなか会えないな」

 茉穂は女子プロ野球リーグの京都に本拠内を置くチームへの入団が決まり、既に鋸南町を離れ、チームメイトとシェアハウスを始めたようだ。

「”慣れないことも多いし練習もハードだけど、毎日充実している”って。何とか予定を合わせて、試合も見に来てくれるって言ってた」

「プロに見てもらうからには、恥ずかしいプレイはできないな」

 用具を片付け終える頃には既に太陽は沈み、春の近付きを感じさせない肌寒さに思わず身を震わせる。

「うわー、すっかり遅くなっちゃったな」

 珠音と浩平は手早く着替えを済ませると、部室の鍵を返すべく職員室にいる鬼頭を訪ねた。

「はい、はい、失礼いたします」

 電話応対を終えた鬼頭は椅子にもたれ掛かり、どことなく疲れが見えていた。

「お疲れ、”また”か?」

「あぁ」

 鬼頭は2人の存在に気が付くことなく、谷本から差し出されたコーヒーを受け取る。

「生徒たちには謂れの無いことだ。好き勝手に言いたい奴には、言いたいだけ喋らせておけばいい」

「と言いつつ、律義に対応しているじゃないか」

「好きでやっている訳じゃない」

 鬼頭は苛立ちを理性で抑え込もうとするが、傍から見る限り隠しきれていない。

 影から見守る2人からも、その様子ははっきりと見て取れた。

「どれどれ」

 谷本が徐にリストを手に取り、内容を読み上げる

「"女子選手起用”でメディアの注目を受けただけ。メディアに媚を売ったクソ学校。話題性だけで選抜に出場した恥知らず。実力不足。おやおや、選考委員会に女子部員を売春させたに違いない。質の悪い、どれも情緒に欠けていて文学的じゃない」

 谷本は肩をすくめ、紙面を鬼頭に返す。

「称賛の意見も多い。事実、無言の支持が圧倒的多数なのも承知しているつもりだ。だが、悪意の込められた尖った意見はやはり目立つ。こういったしょうもない意見が増えるのも、それだけ大きな反響があったってことだ」

「あぁ」

 鬼頭はコーヒーを飲み干し、溜め息をつく。

「その全てから、みんなを守らなきゃいけない。ドリップコーヒーだって、フィルターがあるから美味しく飲めるだろ」

「で、お前はコーヒーフィルター役って訳か。この前の一件が根底にあるんだろうが、素晴らしい責任感も気を張りすぎるといけないぞ。カフェインだって少量なら嗜好物だが、過剰量の摂取は身体に毒だろ」

「善処する。こんなの、あいつらには見せられんからな」

「そうだな。だが、残念ながら油断してしまったようだな。そこに2人程隠れているぞ」

 鬼頭が慌てたのか椅子から転げ落ち、その姿を認めると諦めたように溜め息をつく。

「......どうしてそこにいる」

「部室の鍵を返しに来ました」

 珠音が気まずそうな声で答えると、鬼頭は注意力の落ちていた自分を責めるように頭を抱える。

「どこから聞いていた」

「谷本先生からコーヒーを受け取ったところからです」

 口ごもる珠音を見てから浩平は正直に答え、鬼頭は深く息を吐き出す。

「殆ど全部じゃないか」

「すみません」

「責めている訳じゃない」

 谷本が近くの椅子を集め、2人を座るよう促す。

「あの――」

「まぁ、俺たちの選抜出場を手放しに称賛してくれる人ばかりではないってことだ」

 珠音が聞くよりも前に、鬼頭は自ら口を割る。

「目立つことをすれば、それだけ噛みついて来るようなやつも増えてくる。実を言うと、メディアでうちの学校が報道されるようになった去年からチラホラあったんだが、”特例”について発表された10月から急増してな。そんな状況で選抜出場の決定だ。1月の発表直後は学校の電話が鳴りやまなくて、職員総出で対応したもんだよ」

 苦笑する鬼頭に、珠音と浩平は言葉を失う。

 珠音が取材対応で練習を抜けることは度々あったが、自分たちの知らない所で日々騒動が起こっていたなど、考えても見なかった。

「あの、すみません」

 全ての原因は自分にある。

 当事者としての意識がある分、珠音の脳内は瞬間的に自責の言葉で埋め尽くされた。

「何故、謝るんだ?」

 鬼頭はジッと珠音の瞳を見つめ、思考を停止させる。

「あの、この前のこともありましたけど、私たちのことでそれだけ大変な思いをしていたなんて、考えてもいませんでした」

「それだけ大変なことをしたということだ。世の中に議論を呼ぶ題材を投じ、権利を勝ち取るべく戦い、成果として”大きな変化”を世にもたらした。その証拠が少数だが鋭利で人目に付く批判と、眼に見えないが無数且つ無言の称賛だ。誇る謂れはあっても、謝罪することではない」

 鬼頭の言葉に、珠音は小さく頷く。

「楓山、君は卒業後にプロを志望すると言っていたな。そして、将来は男子のプロリーグでの活躍を目指すと」

「はい」

「この先、君が行く先々には様々な壁が待ち受けるはずだ。自分の力量を上げることで乗り越えられるものだけでない。何の謂れもない誹謗や中傷にその身を晒すことだってある」

 珠音の表情が曇る様子を、浩平は静かに見守るしかない。

「だが、あらゆる障害を乗り越えてこそ、君の真の価値はみんなに認められる」

「全てに耐えて、私のやってきたことはようやく認められる。それまでただひたすらに我慢しろってことですか?」

 珠音の問いに、鬼頭は首を横に振る。

「何も全てに耐えて、我慢する必要はない」

「それじゃあ、私はどうすればいいんですか?」

「ここに来なさい。ここでなくても、信じられる仲間の所へ行きなさい。君には大切な仲間がたくさんいる。立ち止まりたい時、振り返りたい時は必ず来る。休憩場所やチェックポイントを作れている人は強い」

 珠音は小さく頷き、浩平を見る。

 信じられる仲間、辛い時も支えてくれた仲間は、すぐ傍にいる。

「そして、君は立ち止まってはいけない。君を支えてくれた人のためにも、これから君を支えてくれる人のためにも、そして君が支えたいと願う人たちのためにも」

「――分かりました」

 珠音は強く頷き、寄せられたコメントの書かれた用紙を手に取る。

「どうすれば正解なのかは分かりません。なので、私は私の精一杯のプレイで、この人たちを黙らせてみせます」

 珠音はそう言うと用紙を粉々に破り、足元が白い紙吹雪で埋まる。

「その意気だ」

 鬼頭は満足気な表情を見せ立ち上がり、箒と塵取りを持ってくる。

「さ、掃除したらさっさと帰れ。下校時間だ」

 掃除を済ませ鍵を鬼頭に返すと、2人は職員室を後にした。

「私たち、知らないところで先生にたくさん守ってもらっていたんだね」

 校門を出た所で、珠音がポツリと呟く。

「先生だけじゃない、学校の人たちにも、他の人にもたくさん支えてもらっているんだ」

「そうだね。私たちを支えてくれた人への恩返しという訳じゃないけど、みんなの思いに応えるためにも、優勝とは言わない、甲子園では私たちの野球をやろう」

 自分たちは多くの人に支えられ、日々を過ごしている。

 2人は瞬く星々に見守られ、決意を胸に帰宅した。



 寒さも徐々に和らぎ、行き交う人々の装いも冬から春へと移り変わり始める。

桜の蕾がもう間も無く花開こうとする時期は、別れと出会いの季節。

「先輩方、ご卒業おめでとうございます!」

 チームの変革期を支えた3年生の卒業式が粛々と執り行われ、式の後に卒業生はグラウンドに集合した。

 チームを代表して二神が送辞を送り、2年生から3年生へ花束と記念館が贈られ、その様子を保護者が見守っている。

「いいねぇ、青春の1ページだねぇ」

「いや、何で立花さんがいるんですか」

「それはそれ、これはこれ。というか、今更でしょ」

 当然のように話す立花はベストショットを切り取ろうとカメラのシャッターを切り続け、見守る珠音は思わず苦笑する。

「うちら、卒業旅行で大阪と京都に行くから、ちょっと足をのばして甲子園まで行くよ。お前らが嫌だと言っても見に行くから、抽選結果出たらすぐに教えてくれよ!」

 わざわざ日程を大会期間に設定するあたり、野球部の選抜出場は学校あげてのお祭り騒ぎとなっている。

「この間はデモテープありがと。いい感じじゃん。ちゃんと練習しているよ」

「ありがとうございます!」

 琴音は吹奏楽部の部長として応援曲の練習を指揮し、難航したオリジナル応援歌の作曲も何とか作り上げ、約束通り舞莉へ楽譜を送っていた。

 最近ではチアリーディング部との合同練習も開始するなど、多忙な毎日を送っている。

「さて、役者は揃ったな」

 前もってこの日に選抜に向けたメンバー発表を行う旨、部員と卒業生には伝えている。

 鬼頭はネクタイの首物を緩めると、ポケットから4つ折りにしたコピー用紙を取り出す。

「これから選抜のベンチ入りメンバーを発表する。番号順にいくぞ。名前を呼ばれたら、背番号を取りに来い」

『はい』

 先程まで賑わっていたグラウンドが一気に静まり、鬼頭の読み上げをじっと待つ。

 グラウンドにそよ風が舞い、鶯の鳴き声だけが聞こえてきた。

「1番、楓山珠音」

「はい!」

 名前を呼ばれても、珠音は浮かれる仕草を見せることは無い。

 大舞台を任される責任は重い。

「頼むぞ」

「はい」

 鬼頭から背番号を手渡されると、周囲から自然と拍手が沸き起こった。

「2番、土浦浩平」

「はい」

 公式戦では中学の夏大会以来、およそ2年半ぶりのバッテリーとなる。短いようにも思えるが、それ程濃密な高校野球生活を送っている証拠だ。

 新3年生を中心に次々と名前が呼ばれ、大庭は三塁手のレギュラーとして”5”を。キャプテンの二神は遊撃手のレギュラーとして”6”の数字を手にする。

「16番、伊志嶺まつり」

「――はいっ!」

 Aチームの当落線上と目されていたまつりは、安定した内野守備力を見込まれての選出になった。

「二神が投手兼任だから、当然スタメン出場もあり得る。心得ておいてくれ」

「分かりました」

 震える声を絞り出して応えると、まつりは珠音の横にそっと立つ。

「珠音、ありがとう。あの時声を掛けてくれたから、私も甲子園のグラウンドに立てる。連れて来てくれて、本当にありがとう」

「私もまつりが来てくれて嬉しかった。一緒に甲子園の舞台を楽しもう」

 2人は肩を抱き合い、互いの健闘を誓い合う。

「いい画ですね」

「あぁ、バッチリ撮ったよ」

 立花はデジタルカメラで背中側から撮った写真を舞莉に見せる。

「他のも見せてもらっていいですか」

「いいよ」

 舞莉はそのままカメラを受け取り、立花の撮影した写真をスクロールしていく。

「あれ?」

 目に留まった写真の端に花壇が写っており、舞莉はカメラの画面と実物を交互に確認すると、珠音の後ろに物音を立てずに近付く。

「珠音、見てごらん」

「うわっ、ビックリした。......あ、水仙が咲いてる」

 茉穂から贈られた球根から芽吹き、力強く空に向かって伸びた茎の先端に白い6枚の花被片と鮮やかな黄色の副花冠が太陽の光を受けて輝いている。

「知っているかい?欧米ではね、水仙は”希望”の象徴とされているんだ。厳しい寒さにジッと耐えて春の訪れと共に咲く姿が、人々にそう思わせるんだろうね」

「"希望”...知らなかったな」

「鍛冶屋さんからのメッセージなんじゃないかな。君は辛い時期をジッと耐え、ようやくこの春に花開く時が来た。これまで公式戦出場を願いながらも叶わなかった先人たちから見れば、君は”希望の花”といっても過言では無い」

 珠音は”1”をジッと見つめ、茉穂の姿と名も知らない先輩たちの思いを想像する。

「この背番号は私一人だけの物じゃない。チームのみんなの願いも、私を応援してくれる人の思いも込められている。そういうことですね」

 舞莉は優しく頷き、軽く背中を押す。

「さぁ、行ってきな」

「ほら、珠音。集合写真を撮るぞ」

 浩平に呼びかけられると珠音は慌てて輪に加わり、Aチーム副主将兼Gチーム主将としてレンズの中央に陣取る。

「それじゃ、みんな取るよー」

 カメラ係を買って出た立花が、出来の良い写真に満足気な表情を見せる。

「それじゃ、卒業生も入っちゃえ」

 ユニフォーム姿の現役生を支えるように、制服姿の3年生が後ろへ並ぶ。

 最前列に座る珠音の後ろに、これまで支えてくれたチームメイトが揃った。

「幸せ者だな、私」

「何か言ったか?」

 浩平の問いに珠音は微笑を見せて静かに首を横に振って応えると、ファインダーへ再び真っすぐな視線を送る。

「相変わらず、吸い込まれるようないい瞳ね。人はたくさん写っているのに、自然と目に留まっちゃうわね」

 立花がシャッターを切り、この瞬間が時間軸から永遠に取り残される。

 多くの仲間に支えられた珠音の瞳は、勝利を目指す強い意志に色濃く染まっていた。

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