7回裏 挑戦権
Bottom of 7th inning ―挑戦権―
10月に入ると厳しい残暑もさすがに鳴りを潜め、気温も学校の制服が順次冬服へと移行することを見計らったかのように下がっていった。
「やぁ、”勝利の女神”改め”球界のジャンヌ・ダルク”さん。原稿は頭に入っているか?」
「やめい。全く、どうしてこう変な異名を付けるかなぁ」
気温の下がり具合と反比例するかのように、珠音の周囲は熱気を帯びてきている。
もちろん、男子班が学校史上初の関東大会出場を決めただけでなく、女子班が東日本大会のブロック予選を突破したことも要因の一つだろう。
男子班は準決勝で敗れたものの、キャプテンの二神を中心に強豪校を相手にも臆することのない堅実な試合運びを見せ、開催県3位の出場権の座を勝ち取っていた。
一方の女子班は珠音とまつりが投打に圧巻のプレーを見せつけ、2人を中心として本大会への出場権を手に入れた。
「舞莉先輩から貰った音声データ、ここまでの効果になるだなんて」
珠音の周囲に溜まった熱気を更に増した真の要因は、舞莉が鬼頭に了解を得て意図的に流出させた音声データにおける高野連理事の発言が問題視されたことで始まる、一連の報道だった。
私設大会での女子選手の強制退場の事実が報道され、さらには当該の女子選手が巷で噂の”勝利の女神”と呼ばれた女子高生であることや、その後に公式戦出場の権利を勝ち取るために女子班を創設して日々奮闘している姿に全国から共感が集まり、世論を味方につけた起因する部分が大きいだろう。
大会中ということもあり、現地における各個の取材は断り続けていたが、次第に大きくなる声に何も対応しない訳にもいかず、遂に学校の体育館に会見場を設営して報道陣の前に立ち、会見を行うまでに発展した。
「まぁ、何も反応が無いよりかは大きく取り上げられた方がいいじゃないか。”ジャンヌ・ダルク”としては不服か?」
浩平の言にうんざりとした表情の珠音は珍しく制服を着崩すことなく着用し、控え室として当てられた体育館の放送室の椅子に座って原稿に目を通している。
あるゴシップ記事で掲載された”球界のジャンヌ・ダルク”の呼称は、いつしか”勝利の女神”に変わる形容詞として珠音を表現する言葉になっていた。
「”ジャンヌ・ダルク”って、最終的には異端の存在として処刑されんじゃん。高校野球界における異端児として囃し立てるだけ囃し立てて、ほとぼりが冷めたら掌返されて火炙りにされそうで怖い」
「大丈夫だ、後世で正しく評価されている。それに、裏切るような味方はお前の周りにはいないよ」
ぶつくさ文句を言う珠音に、浩平は苦笑するしかなかった。
「水田先輩も言っていたけど、主要なメディアに注目されるのは俺たちにとって好都合だろ。我慢だよ、我慢」
「そうは言うけどねぇ......」
珠音は机にゴンと音を立てて突っ伏し、大きく溜め息をつく。
「まさか、大会そっちのけで行く先々に現れるとは思わないじゃない。知名度の低い女子の大会がついででも注目されるのはありがたいけど」
学校に記者が押し寄せることはある程度予想していたが、まさか遠征先にまで先回りしているとは思いもよらなかった。
近頃、疲労感が見え隠れしているのはハードスケジュールが原因か、将又付きまとうように縋る報道陣への対処が原因か。
「あぁ......覚えられない.......」
原稿の内容を何度も読み返しながら、時折呻き声を上げる。
珠音は立花と舞莉の補助を受けながら自身の主張を文章化し、その都度鬼頭や国語教師で陸上部顧問の谷本に添削してもらいながら原稿を作成することとなったが、中々思うような文章を作成できずに直前まで時間をかけてしまった。
学校も臨時の措置として午後を休校とし、部活動も各個で個人練習となった。
「......まぁ、文句を言ってもられないよね。私の我が儘が、私の蒔いた種が原因なんだし、やりたい事をやるためには動くしかないんだから」
大きく溜め息をついた珠音の瞳は、文句を言っていた時から変わらず真っ直ぐ前だけを見据えており、決して鬱屈さは感じられない。
壁に掛けられた時計は間も無く、会見開始予定時刻の14時を示そうとしている。
「楓山、時間だ」
鬼頭が放送室の扉を開き、主役を迎えに来る。
普段はカジュアルな服装を好む鬼頭も、この日ばかりはしっかりとしたスーツ姿だ。
「......はい」
階段を降り、舞台下手側で校長や理事長など、学校関係者と合流する。
「珠音、頑張れよ」
「おうよ」
浩平の檄に拳を突き出して応えると、珠音は校長に従い舞台脇から会見場へと向かう。
ここはグラウンドではなく、着ているのもユニフォームではなく制服だ。
それでも、浩平は珠音の背中に、まるでマウンドに向かう時のような頼もしさを感じた。
鬼頭の言葉が会見の開始を告げる。
珠音は言葉を半ば聞き流しながら、珠音は自身に向けられる無数の視線に動じないよう小さく深呼吸をする。
「(マウンドに立つ緊張感と、人前に立つ緊張感は違うな)」
緊張する程の大観衆の前で登板したことはないが、マウンド上ではキャッチャーと対戦打者にだけ意識を集中させればいい。
だが、無数の視線(少なくとも、集まった人の倍数はある)を遮るものの無い真正面から受けることに緊張するなと言うのは難しい。
「(なるほど、ジャガイモとか人参だと思えばいいとはよく言ったものだ)」
珠音がそんなことを考えている内に校長の挨拶が終わり、会見は珠音の出番を迎えようとしていた。
「それでは、本校2年硬式野球部所属の楓山珠音さん、お願いいたします」
鬼頭に促され、珠音が席を立ちマイクを手に取る。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。また、この様な場を設けていただきました学校関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます」
珠音は覚えた文言を、まるで普段からの口調だと言わんばかりの自然な様子で口にする。
事態の説明については既に校長が済ませており、自身に向けられる質問だけに集中すればいい。
珠音は自分にそう言い聞かせ、一つ一つの質問へ丁寧な対応を見せる。
「男子の中でプレーすることに、何か不都合なことはないのですか?」
「そうですね、プレー自体は小学生の頃から男子に囲まれていたので慣れっこです。ただ、着替えだけは面倒ですね。男子は外でパンイチになれますが、女子の場合はそういう訳にもいきませんので」
適度に笑いを取るのも、立花の描いた作戦だ。
報道陣や視聴者に親しみやすさを与え、味方に引き込む手立てである。
「むしろ、女子の大会に初めて参加した時は違和感がありました。今でこそ、私たちの野球部には女子班がありますが、そもそも野球をやる女の子は少ないですし、これまで自分以外の女子選手に会ったことはありませんでした」
随所に自身の主張も織り込むことで、伝える努力も怠らない。
「楓山さんが仰る通り、女子選手は絶対数が少ないですね。全国大会も開かれておりますが、直近の大会での参加校は36校です。なかなか増えない要因を、楓山さんはどの様にお考えですか?」
「そうですね......」
珠音は少し悩むような素振りを見せ、再び顔を上げる。
「やはり、野球は男子のスポーツというイメージが強すぎることが一つだと思います。野球の女子日本代表は世界大会で常に優秀な成績を収めていますが、ご存知の方も少ないと思います。また、女子はソフトボールという先入観が強く、野球を続けたいと思う女子選手の受け皿が少ないことが挙げられます」
「楓山さんは、女子野球部のある学校への入学は検討されなかったのですか?」
「考えなかった訳ではありませんが、そもそも女子野球部のある学校は少ないので、自宅から通える範囲になければ活動すること自体が難しくなります。県内でも2校しかありませんでしたので」
予想された質問には、具体的な事実を提示しつつ応える。
「楓山さんは公式戦への出場を目指しておりますが――」
「いえ、野球部の仲間たちと甲子園に行ってプレーするのが、今の目標です」
時には質問を遮るよう、珠音は自身の思いを食い気味に語って強調する。
「失礼いたしました。楓山さんは甲子園への目標を叶えたら、次はどこへ向かう目標を立てるのですか」
「当然、トップリーグでの活躍を目指します。1人の野球選手として、高みを目指すのは当然です。そして、女子だって努力すれば通用するということを認めてもらえるような選手になりたいと思っています。どんなに頑張っても将来に希望や夢を持てなければ、続ける意欲を持ち続けることは難しいと思います。野球を頑張る女子選手を元気づけるような選手になりたい――いえ、なります」
珠音の真摯な瞳が記者を捉える。
真っ直ぐな想いを乗せた言葉は、間違いなく聴衆の心に届いている。
「単に、あなたの我が儘や自己中心的な考えという意見もありますが」
悪意の込められた質問に鬼頭が思わず反論しそうになるが、珠音がそれを制し、自らの口で返答する。
「確かに、始まりは私の我が儘です。自分のやりたい事をやるための場を整える、自己中心的な考えと言われても仕方がないかもしれません」
珠音は深呼吸をして、続く言葉を紡ぐ。
「でも、その願いはたくさんの仲間が支えてくれたおかげで、一人の我が儘からみんなの夢と目標に変わりました。私は私を応援してくれるみんなのためにも、みんなで掲げた夢を叶えるためにも、男子の大会へ出場する権利を頂きたいのです。みんなと、甲子園を目指したいのです」
「だが、甲子園大会は100年を超える伝統を持ちます。問題はあるかもしれませんが、その伝統があるからこそ、大会に価値があるのではありませんか?」
この記者あくまでも、現状変更を是としない立場を持っているようだ。または、厳しい質問をしてボロを出し、失言を狙っているのか。
「ご意見は連盟理事からも頂きました。そして、私の答えも変わりません。伝統は積み重ねられた長い歴史の中で変わらず守られてきたもので、長く続く文化の根幹だと思います」
「そうですね。では猶更、その伝統を崩すことは――」
「それでも、伝統は積極的に守られてきた訳ではなく、結果的に守られていたものだと思います。積極的に守られるべきことはルールであって、伝統ではありません。そして、ルールは時代に合わせて絶えず最適なものに置き換えられます。少なくとも、私はこれまで受けてきた授業でそう習いました」
珠音の主張に、記者は返す言葉を見つけることができず、そのまま席に座る。
その様子を確認すると、珠音は誰かに指示を受けた訳でもなく自席から立ち上がり、追い打ちとばかりに自らの意見を発信する。
「私は難しい願いを叶えようというのではありません。アスリートがより高いレベルを目指して努力するのは、どのスポーツでも同じです。現に、男女混合の競技もあれば、男子の大会へ女子選手の参加が認められている競技もあります。私は、私のような思いを持った選手が、挑戦できる場を設けて欲しい、権利を与えて欲しいと訴えているだけです。場と権利があったところで、そもそも私の実力が達していなければ、機会を得ることはできません。子供の我が儘と仰るのは結構ですが、そんな思いを持っている人がいて、それを支えてくれる人がいる事実を、皆様にご理解いただければと思います」
珠音が頭を深々と下げると、まばらではあるが自然に拍手が沸き起こる。
上から覗き見る浩平には、立花が控えめではあるが真っ先に手を叩き始めたのが、しっかりと確認できた。
「それでは、本日の会見は終了させて頂きたいと――」
続く質問がなく、会見を終了するアナウンスを鬼頭が発する。
珠音は校長に伴われて会見場を後にすると、浩平がそのまま待機していた控え室に戻ってきた。
「我らが”勝利の女神”様、お疲れ様です。ジャンヌ・ダルクのように”革命の旗手”たる素晴らしい演説だったぞ」
実のところ終盤の応対は事前に用意していた言葉ではなく、珠音自身がその場で考え伝えた言葉、所謂”アドリブ”である。
「でしょ。私、野球を辞めることになったら、女優でも目指そうかな」
「芸人の方がお似合だと思うぞ」
「何を!?」
浩平が珠音を労うように右肩へ手を添えると、小刻みな震えが伝わってくる。
浩平が驚いたような表情を見せると、珠音は自嘲気味な苦笑を見せる。
「......怖かった、緊張した。内臓を全部吐き出すかと思った。マウンド上の方がよっぽど落ち着くよ」
浩平に視線を向ける珠音の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいる。
どんなに強い意志を持っていたとしても、人生経験の不足しているたかだか17歳の少女であることには変わりない。
「女優も芸人も、やっぱり珠音には似合わないな。珠音は野球選手が一番似合っている」
「......ありがと」
長時間、虚勢を保つ精神力があるだけ、十分逞しい。
「お疲れ様」
今の珠音を労うのに、長く難しい言葉は必要ない。
「おう」
珠音は浩平が差し出した握り拳に自身の拳を合わせると、疲労のあまり机へうつ伏せになり、スヤスヤと寝息を立て始めた。
張り詰めた雰囲気の会議室では、当事者となった増渕が落ち着きのない様子でニュース画面を見ている。
「まったく、ごねれば何とかなるとでも思っているのか。これだから女は嫌いなんだ」
声色からも冷静さが欠けている様子が明らかに伝わってきており、理事長は深く溜め息をつく。
「既にプロ野球連盟、女子野球連盟からも明確な支持の動きが出ている。静岡サンオーシャンズに至っては、世論に理解を求めるよう選手会が公式の見解を発表する始末だ」
「プロはプロ、アマはアマです」
増渕はそう言うが、世論から孤立しては今後の運営に問題が生じかねない
「各アマチュア連盟の中でも、非公式だが支持の動きが出ている。有力校の野球部長からも、制度改革を求める声が再燃しているな」
実のところ、水面下では夏の”助っ人問題”をきっかけとして制度改革を求める声が上がっていたが、時期尚早として却下した経緯もある。
近年、“少子化”により単独チームを編成できなくなりつつある人口減少地域を抱える支部からも、改革を訴える声が上奏されてきており、意志決定を行う理事会としては何らかのアクションを取らずにはいられない所まできていた。
予想外の再燃により、中央理事会として対処を間違えれば多方面への影響が考えられ、その方法は慎重を期す必要がある。
「プロ野球界と女子リーグの間でも、技術交流会の開催や交流試合の開催など、将来に向けた試みの企画の話も聞く。劇薬ではあるが、我々が変化するとしたら今しかないのではないか」
「理事長、何を言っているのですか」
増渕が立ち上がり、理事長へと詰め寄る。
「たかが小娘一人の意見で100年の伝統を覆すなど、世間の笑い者です」
「ほぅ」
理事長は書類の束から調査報告書を取り出し、増渕の前に突き出す。
「私が何も知らないとでも言うのかね」
「何のことですか」
「お孫さんが可愛いのは私もだ。だが、有力校への口利きから優先起用するよう学校側へ圧力をかけた事実について、複数の証言が得られている。これこそ、100年の伝統を軽視した世間の笑い者かと思いますが?」
「なっ......」
増渕は驚愕の表情を見せ、報告書に目を通す。
根回しや口封じの事実と、多額の寄付金の額が記載され、事細かく証言内容まで含まれている。
「お孫さんは相応な実力をお持ちだ。次週のドラフト会議では複数のプロ球団から競合指名を受けることも必至で、そのような手を用いずとも自力で立場を勝ち取ることができただろうに」
理事長はやれやれと首を横に振り、項垂れる増渕の姿を一瞥して視界から外す。
「伝統は積極的に守られてきたものではなく、結果的に守られていたもの。積極的に守られるべきことはルールであって伝統ではない。全く、これだから教育に関わる仕事というのは面白いんだ。こんな老いぼれになっても、改めて教えらえることが多い」
理事長は内戦で事務局長を呼び出すと、鞄からクリアファイルを取り出して目を通す。
「私だ。データは確認してくれたかね。明日、緊急で臨時の理事会を開催する。ドラフト会議の翌日には声明を発表できるよう、調整して欲しい」
理事長は愛飲する缶コーヒーに口を付け、テレビ画面に映し出される少女に視線を送る。
「いい瞳だ」
真っ直ぐ前を見据えるよどみのない瞳は、見る者を惹き付ける。
理事長もその一人だ。
「ルールは時代に合わせないとな」
理事長はテレビを消すと、翌日の会議で如何に理事を言い包めるか、思案し始めた。
一躍時の人となった珠音は、行く先々で前にも増して多くのギャラリーに取り囲まれる始末となった。
「皆様、ごきげんよう」
「......熱でもあるのか?」
週末からの関東大会を控えた放課後、野球部内では前日のドラフト会議の結果が話題に上がっていたが、そこに現れた珠音は明らかに疲労困憊といった様子だった。
「仕方ないでしょ、暫くは聖人でなきゃいけないんだから。気を抜いたら火炙りの刑に処されちゃう」
ユニフォーム姿の珠音は鞄を置くと、鞄からスマートフォンを取り出しメッセージを頻りに確認する。
「お前、さては”ジャンヌ・ダルク”の異名を気に入り始めているな」
常に付きまとう視線に耐えなければいけないのも、公人としての役割である。
自分の蒔いた種だけに、自分の落ち度を見せるわけにはいかない。
「......どうしたんだ?」
周りから声を掛けても生返事ばかりの珠音の様子を心配して、浩平が横に座り画面を覗き込もうとする。
「今日ね――」
珠音が応えかけた所でスマートフォンの画面に見覚えのある名前が浮かび上がると、珠音は勢いよく立ち上がり、浩平は期せずして手痛い肘撃ちを受けてしまう。
「もしもし、茉穂さん!?どうだった!?」
電話の相手は鍛冶屋茉穂。
珠音や浩平の1学年上の外野手で、半月前に女子プロ野球の入団テストを受験していた。
「......ホントですか!?おめでとうございます!!」
珠音が先程までの疲労感を吹き飛ばすかのように飛び跳ねている。
「茉穂さん、合格したって!」
珠音がマイク部分を手で覆い、周囲に報告してくる。まるで自分のことのような喜びようだ。
珠音はビデオ通話に切り替えると、画面には目を真っ赤にした茉穂の姿が現れる。
「うわ、ビデオ通話!?なんかもー、何か恥ずかしいなぁ。嬉しすぎて泣いちゃったから、ブスな顔になってない?」
苦笑する茉穂に、部員たちが次々と賛辞を送る。
直接触れ合ったのは僅か1日の練習だけではあったが、自らの脚で一歩前進した先輩への敬意は皆等しく持っている。
「大丈夫、茉穂さん可愛いから!」
珠音の意見は最もで、画面に移る美少女は涙を流す姿もたいへん”画”になる存在だった。
ちなみに、珠音が高速で舌なめずりをするのを見て女子部員(特に琴音)が思わず身震いを見せたのだが、男子にはこの一瞬の仕草が何を指し示すのか、理解がまるで追い付かなかった。
「茉穂さんの努力が認められて、私も凄く嬉しいです」
「珠音のおかげだよ。あの時、珠音に出会わなかったら今の私は無いわけだし」
「へへ、そう言って貰えると嬉しいな」
「そういえば、関東大会に進めたんだって?遅くなったけど、おめでとうございます」
練習開始まで暫く通話を続けていると部室の扉が不意に開かれ、鬼頭が仁王立ちしていた。その後ろには立花の姿も見える。
「監督、どうしたんですか?」
二神が近付くと、鬼頭は手に持った書類を手渡す。
「......!これって!」
「あぁ、そうだ」
鬼頭はニヤリと笑みを見せ、珠音に歩み寄る。
「楓山、よく頑張ったな。制約はあるが、公式戦参加が認められたぞ!」
ワンテンポ遅れて珠音の顔に満開の花が咲き、続いて部員たちが歓喜に包まれる。
部員たちは珠音を引っ張り出して勢い良くグラウンドに飛び出すと、まるで優勝したかのように珠音の胴上げが始まった。
「うわー、ちょ、ちょ!?」
その様子は学校周辺に張り込んでいたテレビカメラに一部始終を漏らすことなく収められ、夕方のニュースで速報として取り上げられた。
女子選手の公式戦出場は、あくまで”特例”として認められることとなった。
議論の時間も乏しく想定される問題を全てクリアしていない現状は紛れもない事実であり、あくまで将来的な制度化に向けた試験運用の一環という意味合いを込め、”特例”という表現が用いられた。
「本当は最初から本制度化したかったんだが、一定数ある反対派の意見も根強く無視できなくてな。大人が議論すると厄介事も多い。君たち高校生にとっては中途半端な状態に感じられるかもしれないが、前進であることには間違いないだろう」
通知の翌日、昼休み。
珠音は鬼頭に伴われて校長室に入り、連盟理事長との会合に参加していた。
「高校野球連盟主催大会への女性選手の参加には、下記書類の提出を求める。1.本人直筆の参加申込書、2.保護者の参加承諾書、3.所属校の参加同意書、4.有識者からの推薦状2通以上、5.医師の診断書。事務局への提出の後、連盟の事前審査を受け承認を得られた場合、女性選手の参加登録が認められる。尚、本特例措置の...しこう?」
「あってる」
「......施行は、〇〇年1月2日を開始日とする」
珠音は書類内容を確認すると、紙面を机の上に置く。
「何だか、いっぱい提出しなきゃいけないんですね」
「手続きというのはそういうものさ。大人になるにつれ、どんどんと増えていく。君にもいずれ分かるさ。特にこのルールは初めて制定されるものだから、特に面倒なことが多いんだ。ここからどんどん最適化・簡素化された時こそ、初めて君や君たちの主張が認められた瞬間だと思って欲しい」
理事長は苦笑を見せ、書類を改めて確認する。
「制度の適用初日が1月2日。適応される最初の大会は――」
「――春の選抜か」
鬼頭と珠音が校長室での会合に参加している頃、男子部員は自主的に空き教室に集まり、二神と土浦が中心となって関東大会前最後のミーティングを開いていた。
「女子部員を、珠音を、甲子園に連れて行こう」
浩平の言葉に、メンバー全員が一様に頷く。
「だけど、俺たちは県大会でギリギリ3位に滑り込んで、何とか関東大会に出場できたような学校だぞ。そんな簡単に下克上のチャンスあるか?」
「それがどうした」
大庭の弱気な発言に、浩平が喝を入れる。
「実績から見れば、俺たちから見て県大会の相手だってどこも格上みたいなものだ。今更だろ」
「確かし」
二神がスマートフォンを操作し、概要を映し出す。
「俺たちは絶対に、一般選考枠で出場しなければならない」
選抜高等学校野球大会への出場には一般選考枠と21世紀枠があり、一般選考枠は地方大会を勝ち抜いた先にある明治神宮大会の優勝校の所属地区の1校拡張分も含まれる。
関東大会において一般選考枠に入るための目安は最低でもベスト4とされ、強豪だらけのトーナメントを最低でも2回勝ち上がらなくてはならない。
「どういうことだ?」
二神の言葉に、浩平が疑問符を付ける。
「狙ってできることではないけど、21世紀枠で選出されたとなれば周囲の目が厳しいことになりそうだからな」
一般選考枠とは異なり、21世紀枠は各都道府県の高野連が推薦校1校を選出し、決められた地区代表推薦校から再度選出される。
選考理由として学業や地域活動など、純然たる野球の実力に介さない場合もあるため、選出理由に物議を醸すことがある。
「どう厳しくなるんだ」
「例えば、甲子園に出場したいがための売名行為だとか、炎上商法だとか......野球とは全く関係の無い批判を受ける可能性だってあるからな」
「でも、出られりゃよくね?」
大庭の呑気な意見に、二神が溜め息をつく。
「その批判の先頭に立たされるのが、楓だろ」
「......そうだな」
浩平が溜め息をつき、最近の珠音の様子を思い浮かべる。
「気丈に振舞ってはいるが、だいぶストレスを溜めているよな、あいつ」
「だと思うぞ。今でこそ色々な”あだ名”でチヤホヤされているけど、それだけ批判にも晒されやすくなっているからな。何かったら、確実に炎上する」
「なる程、正しく”ジャンヌ・ダルク”だな」
万事上手く解決するためには自分たちが強敵に勝利を収め、誰にも文句を言わせない方法で出場権を勝ち取るのが一番だ。
「勝つぞ。そして、甲子園に行こう」
浩平の言葉に一同が頷く。
「そうだ、一つ共通認識を確認しておこう」
「何だ?」
「”女子班を甲子園に連れて行く”のはいい。だが、ベンチ入りを易々と譲る訳にはいかん。みんな、いいな?」
鎌倉大学附属高校硬式野球部は、学年経験性別を問わず完全実力主義が信条である。
その事実を確認した男子部員の闘志は、過去一番の勢いとなっていた。
関東大会初戦の舞台は、神奈川県の高校野球では聖地と名高い保土ヶ谷球場。
「そういえば、この球場とはなかなか縁が無かったよね」
思い返せば、夏の大会でも地元の八部球場や小田原球場の試合が多く、最後まで保土ヶ谷球場を使用した試合はなかった。
「今日の男子班、いつも以上に気合が入っていたね。私の気のせいじゃないよね?」
「気のせいじゃないと思うよ」
スタンドではベンチ入りが叶わなかった男子部員と女子班、さらには有志の応援団が加わって応援の準備を進めている。そんな中、珠音とまつりは分担してメガホンを配っていた。
「なんでだろ」
「なんでって、そりゃ――」
珠音の呑気な言葉にまつりが呆れたような溜め息をついて振り返ると、珠音の真摯な瞳は真っすぐマウンドを見つめていた。
「珠音がそんな瞳をしているからだよ」
珠音は唇を噛み締め、悔しさを露にする。
「早く、あそこに立ちたいな」
「私だって同じ気持ちだよ」
公式戦出場の特例を勝ち取ったものの、権利が認めらえるのは翌年の1月2日以降。即ち、目の前の大会については相変わらず権利がない状態のままである。
権利が間も無く認められるからこそ、まだ行使できないもどかしさが珠音の中にある。
「少しでも早く珠音を公式戦のマウンドに立たせたい。皆がそう思って言うから、いつも以上に気合を入れて今日を迎えているんだ。さっき、二神や土浦も言っていたじゃんか」
球場前、部員全員で組んだ円陣の中心で、浩平と二神は試合への決意を語った。
『女子班を絶対に甲子園へ連れて行く』
下馬評は当然のように、格上と評される対戦校の勝利だろう。
選抜高等学校野球大会における関東地区の一般選考枠は4.5で、初戦を落とすことは、それ即ち挑戦権を失うことに直結する。
甲子園に行くためには、泥臭くても勝利を掴み取らなければならない。
「信じよう、みんなを」
「うん、分かっている。だって――」
「――挑戦権は貰うものではなく、勝ち取るものだ」
試合前の円陣で、キャプテンの二神は全員の眼を見て思いを伝える。
「俺たちはこの1年間、前代未聞の挑戦をしてきたんだ。そして、まず最初の関門をついに突破することができた」
選手として、そして部分的には指導者として活動してきた1年間は、それぞれが野球に対する取り組み方を考えさせられる1年だった。
「中堅校とも言い切れない俺たちがここまで来られたのも、楓と女子班のおかげだ」
一同は揃って頷く。
1年前は県大会2回戦敗退だったチームが、今では上位争いに食い込めている。
「最初の挑戦権は楓が自分で勝ち取った。なら今度は、次の挑戦権は、俺たちの手で捥ぎ取ろうじゃないか!」
『おうっ!』
二神の視線を受け、浩平が円陣の中心に立つ。
新チーム結成以来、キャプテンの檄の後に浩平が声出し係を務めるのがすっかり恒例行事となっていた。
「みんな、今日は絶対に負けられない試合だ。負けられない試合であり、勝たなきゃならない試合だ。絶対勝つぞ!」
『おーーっ!』
円陣から放たれた猛々しき掛け声は”勝利の女神”の加護を手繰り寄せ、鎌倉大学附属高校硬式野球部の関東大会初戦を突破した。
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