6回裏 信じた道、信じる道

Bottom of 6th inning ―信じた道、信じる道―


 高鳴る鼓動は不安からくるものか、それとも自ら捨て去ろうとしている高揚感によるものか。

 普段は西に広がる海に沈む太陽は、南の海上から大地に光を降り注いでいる。

「本当に女の子もたくさんいるんですね」

「あら、冗談だと思っていたの?」

「いえ、そんなことは...」

 立花は同乗者の言葉に苦笑しつつ、以前よりかはいくらか慣れた手つきでレンタカーを駐車場に停める。

 東京湾をフェリーで渡り、見慣れない街並みを眺めてようやく到着した運動公園には、ユニフォーム姿の一団が既に到着していた。

「さ、到着したわよ。長旅お疲れ様」

「ありがとうございました」

 茉穂は助手席側の扉を開き、初めて訪れた土地を両足で踏みしめる。

「茉穂さん、こっちこっち!」

 車から降り立った姿を見て、人垣から賑やかな声の主が飛び出し手を大きく振っている。

 彼女の姿は1週間会わないだけで変わるハズなど無いのに、白い練習用ユニフォームに身を包んだ様子は向日葵も思わず顔を振り向けてしまう程の輝きを放って見える。

「凄いな」

 自然に漏れ出た言葉は、同性としての嫉妬だろうか。

「あれ、どうしたんですか?」

 茉穂の自嘲気味な苦笑に珠音は首を傾げる。

「いいえ、何でもないわ」

「珠音、球場開いたから入るぞ!」

「戻ってこ~い」

 浩平の声に珠音が振り返ると、既にチームメンバーは荷物を運び入れ始めていた。

「わー、ごめんごめん!」

 バタバタと駆けていく珠音は、ふと何かを思い出したように立ち止まると、振り返って満面の笑みを見せる。

「茉穂さん、また後で。今日は存分に楽しみましょうね!」

まるで羽根が生えたかのように軽やかな足取りの背中が、仲間を追って球場の中に消えていく。

「さぁ、私たちも行きましょう。鬼頭先生ももういらっしゃっているから、案内するわ」

「よろしくお願いします」

 茉穂は後部座席から野球用具を満載した鞄を取り出し、肩にかける。

 自宅を出る時にはずっしり重く感じられていたそれは、球場を前にして心なしか軽く感じられた。



 青空の下、遮るもののないグラウンドの一角で、鬼頭を中心に円陣が組まれる。

「前に伝えていた通り、今日の練習にはゲストが1人参加する。それじゃあ、自己紹介を」

「はい」

 鬼頭の後ろから黒を基調とした練習着姿の少女が顔を出すと、女子選手には慣れているハズの男子部員が色めき立つ。

 親しみやすさのある外見の快活少女”には”慣れているものの、行く先々で人々の視線を集めそうな美少女には耐性がなかった。

「鍛冶屋茉穂です。今日は参加させていただき、ありがとうございます。普段はクラブチームに所属していて、ポジションは外野、センターとレフトを守ることが多いです。よろしくお願いいたします」

 拍手で迎えられた茉穂が珠音と同程度の背丈を折り曲げ、ペコリと頭を下げる。

「茉穂さん、どうしたの?」

「あぁ、いや」

 少々呆気にとられたような様子の茉穂に、珠音が不思議そうな表情を見せる。

「クラブチームで人数がそれなりにいる中で練習するのは慣れてきたけど、同年代の人がこれだけ集まって野球をやるのは久し振りだから、ちょっと緊張しちゃって。地元じゃ人数も少なくて、いつも同じメンバーだったし」

 茉穂自身、人見知りはそれ程しない方だと思っていたが、いざ環境が変わればそうでもないのかもしれない。

「すぐに緊張している暇はなくなるぞ。怪我をしないよう、気を引き締めてな」

「は、はい!」

 鬼頭の言葉を、茉穂はすぐ実感することとなった。



 普段から男子の中でプレーしていた茉穂は多少なりともブランクがあるとはいえ、それなりに付いて行けるものと思っていた。

 実際に練習が開始されると長年の“貯金”で遅れを取ることこそなかったが、練習内容とその密度が相当ハードに感じられた。

「普段からこんなメニューをこなしているんだ。女子にはなかなかきついんじゃない?」

「まぁ、最初は付いて行くのがやっとでしたよ」

 練習の合間に茉穂はポツリと言葉を漏らすと、すぐ横にいた希望を皮切りに近くにいた女性陣へと苦笑いが波紋のように広がっていく。

「やっぱそうだよね。前の部活、もっと緩かったし」

「私らは元から運動部だったからよかったけど、夏菜はとにかく運動音痴だし、琴音なんてね。運動部の意地にかけて2人には負けられなかったけど......まぁ、2人ともよく生きのびたよね」

「ホント、死ぬかと思った。今度から私の事は”傷だらけの天使”って呼んで」

「どこに天使がいるのよ」

 佐野の揶揄うような言葉に、夏菜が苦笑する。

「まぁでも、私たちが発起人で皆を巻き込んだんだからね。食らいつかない訳にもいかないよ」

「そうだね。最近は吹奏楽部に顔を出さないといけないから皆には申し訳ないんだけど、私も出来る限り最後まで、ここでも頑張りたい」

 女子班結成の経緯は、茉穂も立花から伝え聞いている。

 野球を辞めようとした珠音のために2人が立ち上がり仲間を集め、珠音の再起を促した存在。

「す、吹奏楽部!?」

 まさかその内の1人が運動部にすら所属していなかったとは思わず、茉穂は思わず素っ頓狂な声を上げる。

「琴音はしかも、その部長なんですよ」

「別に、大したことじゃ」

「......ここにいていいの?」

「うちの吹奏楽部、緩いんで...」

 茉穂が所属した野球部にも古い馴染みの女子選手がいたが、あくまで数合わせ程度の存在である。

 同性で同じ競技に高い志で取り組む人に出会ったのは初めてで、茉穂は間違いなく高揚感を覚えていた。

「それに、あの姿を見たら、”私たちも頑張らないと”とか”負けられないな”って思わずにはいられないよね」

「そうだよね」

 女子選手が次々頷き、男子の中では一際線が細く、小柄な選手に視線を送る。

 少し前かがみになった珠音は険しい表情を見せており、汗は遠目に見ても分かる程に溢れ出し、グラウンドへと滴り落ちていた。

 男子選手は珠音に気を使っている様子は見受けられず、あくまで対等な一選手としてお互いを認識しているように思える。

「珠音は凄いよ、ホント。私たちは男子の練習から量をさすがに少し落としているけど、珠音は全く同じメニューをこなしている。まつりも同じメニューをこなしているけど、やっぱり珠音は段違いに凄いよね」

「そうそう、朝練はもちろん昼休みも時間を見つけて身体を動かしているし、休日も身体のケアを怠ってない。同い年だけど、尊敬しちゃう」

 茉穂はここまでの練習を通じ、鎌倉大学附属硬式野球部が春と夏の連続で上位に食い込んだだけのことはあると感じていた。

 密度もさることながら、選手の練習に対する意識の高さと一つ一つのプレーへの集中力は目を見張るものがある。

 珠音のキャッチボールの相手を務めたが、グローブをはめた右手に伝わるボールの力強さと質の高さには、眼を見張るものがあった。

 クラブチームのチームメイトは珠音より遥かに速いボールを投げるが、質だけ見れば珠音程ではないように思える。

「そんな姿を見ていると、私たちも自然と引っ張られちゃうんですよ」

 そして力を付けつつあるチームの中核たる存在こそ、楓山珠音という女子選手であることは、この日初めて練習に参加した茉穂の瞳にも明確に理解できた。



 楽しい時間は、あっという間に過ぎ去っていく。

 この日の練習メニューの最後として、夏季休暇中の厳しい練習の成果を確認するべく7イニング制の紅白戦が組まれていた。

「今日は夏休みの成果を試す場なんでしょ?私が出場するのは申し訳ないんだけど......」

「まー、気にしないで下さい。茉穂さんが出場してくれないと、私とまつりが散々怒られた意味がなくなっちゃいますもん」

「あ、やっぱり怒られたんだ......」

 まつりと茉穂は紅組に振り分けられ、それぞれ1番遊撃手と2番中堅手としてスタメンを飾っていた。

 珠音と茉穂の2人が別チームとなったのは、2人の願いを汲んだ鬼頭の配慮によるものだ。

「私は2番手で投げることになっています。負けませんよ!」

 あれ程厳しい練習をこなした後だというのに、平時はケロッとしている。

 紅白戦の登板を控えているというのに一切手を抜くことをしない珠音に、茉穂は感心していた。



 紅白戦は、先攻の紅組が初回から先制点をもぎ取る滑り出しとなった。

 白組先発の高岡からまつりがレフト前へのテキサスヒットを放ち、左打席には茉穂。

 サインはエンドラン。

 初球からまつりがスタートを切って駆け出し、白組二塁手の希望が2塁ベースのカバーへ向かう。

「(速いけど、打てないことはない!)」

 盗塁の巧いまつりを警戒したバッテリーが初球に速球を選択することを読み切ると、茉穂の打球は、ガラリと空いた一二塁間を鋭く破り、打球を右翼手が処理する間に一塁ランナーのまつりは悠々と三塁ベースへ到着した。

「初見なのに男子の速球に対応できるなんて、やっぱり茉穂さん、凄い選手だ。なんか、私もどんどんワクワクしてきちゃったよ!」

「大した適応力......珠音以外にも凄いのがいるもんだ。俺も負けてられん」

 紅組の3番はあっけなく内野フライで打ち取られ、打席には4番の二神。

 難しいコースを次々と見極め、6球目の甘い球を逃さず左翼手前へとライナーで運んでいく。

 対する白組も負けてはいない。

 紅組先発の二神から三番打者の大庭がしぶとく中堅手の前に落とすと、次打者は浩平。

 甲高い金属音が鳴り響くとともに打球は高々と舞い上がり、中堅手を務める茉穂の頭上を遥か上を通過してバックスクリーンに衝突する、逆転の2ランホームラン。

 それぞれがそれぞれの持ち味と練習成果を遺憾なく発揮し、試合は進んでいく。

「お願いします」

 左打席に茉穂が立ち、地面をならす。

 センター方向に真っすぐ見据えた先には前の打席とは異なり、自分と同じ背丈程の左投げ投手が立っている。

「勝負!」

「集中しろ!」

 先程、自分の頭上を通過していく打球を放った捕手―浩平―が、少々気の抜けた様子の珠音に呆れた様子を見せる。

「プレイ!」

 審判役を務める7月に引退したばかりの前キャプテン野中の合図で、試合が再開される。

「......!?」

 先程までにこやかな表情を浮かべていた珠音の瞳が、鋭く勝負師の色へと移り変わる。

 初球はボールの縫い目が空気を切り裂く音を鳴らしながら、綺麗な回転の直球がストライクゾーンに決まる。

「(速い)」

 ゆったりとした投球フォームから投げ放たれたボールは、先程の高岡という投手よりも球速で比べれば遥かに遅い。

 それでも、球威が落ちることなく進むボールは打者の手元で伸び、見た目以上の速度感を打者へと与える。

 2球目の変化が大きなスライダーを見逃してボール、3球目は手元で微妙に変化する所謂動く直球―ムーヴィングファスト―を打ち損じてファールとし、カウントは1ボール2ストライク。

 4球目のタイミングと視線を外すための遅いカーブを見極め、5球目は際どいコースの直球を何とかカットして逃げる。

 6球目は5球目と同じ軌道。

「(もらった!)」

 しかし、スイングの起動と同時にブレーキがかかったようにボールが下方へと沈み始め、茉穂はスイングを止めることができずにバットが虚しく空を切る。

 悔しさのあまりに思わず天を見上げた後、この回を完了してマウンドを降りる珠音と目が合うと、彼女は満面の笑みを見せていた。

「手の内を全部見せて、全力で抑えに来てくれた」

 中堅のポジションから、打席に入る珠音を眺める。

 マウンド上で見せていた程の雰囲気はないが、二神の投げ込むボールに喰らいつき、着実にタイミングを合わせに行っている。

 投手としてだけではなく、打者としても十分な能力を持っているようだ。

「センター!」

「っ!」

 鈍い金属音の直後、やや差し込まれた打球が中堅手から見て左中間寄り、視界で言えば右斜め前方に飛ぶ。

「オーライ!」

 左翼手が自分の後ろへ回り込む動きを感じ取ると、思い切って打球の落下点に向け身体全体を飛び込ませる。

「(間に合え!)」

 鼻腔に土と草の香りを感じつつ、差し出した右手のグローブの先に感じる重さを恐る恐る目で確認する。

「アウト!」

「んぁーーー!」

 二塁塁審を買って出た舞莉が捕球を確認すると、打者走者の珠音は一塁を回ったところで悔しそうな表情を浮かべ、地団太を踏む。

「ナイスプレー!」

 一通り悔しさを晴らしたのか、珠音は大きく溜め息を吐き出すと、相手チームの茉穂に対して惜しむことなく拍手を送った。

 

 

 7イニング制の紅白戦は後攻の白組が1点リードの状態で、7回表を迎えた。

 ネクストバッターズサークルから最終打席に向けて気持ちを整えつつ、前の打者のまつりに対して全力投球を見せる珠音の投球を観察する。

「珠音は、私に全力で向かってくれている」

 このまま紅組が無失点で終われば白組の勝利で終わるタイミングで、茉穂の第4打席が訪れようとしていた。

『我が儘でもいいと思うんです。自分の我が儘に責任を持つための努力をできる内は』

 1週間前、珠音との別れ際に言われた言葉が、茉穂の中でグルグルと回っていた。

「珠音はたくさんの仲間を巻き込んだ自分の我が儘を通すために、常に先頭に立って自分を追い込み続けている。自分を信じて」

 まつりの打球は三遊間に飛び、三塁手の大庭が的確に処理してこの回は2アウト。

「私も折角だし、我が儘になろうかな」

 茉穂は一塁側から真っすぐに左打席に入ろうとした足を止め、捕手の浩平と主審の野中の後ろを通って右打席へと回る。

 その様子を見守る紅白両チームから、ざわめきが起こる。

「え、茉穂さんスイッチヒッターなの!?」

「俺の専売特許!」

 珠音が驚きの表情を見せ、三塁手の大庭が地団駄を踏む。

 以前に立花から見せてもらった茉穂の打撃フォームは全て左打席に立ったもので、キャッチボールの際も左投げ。

 チーム編成上で左打者が貴重なこともあり、わざわざ右打席に入る必要性は薄いと言えるため、受け入れた側も彼女の事は当然の如く”左投左打”の選手だと思っていた。

「さぁ、いきましょう!」

 茉穂は驚く面々を面白がるように笑みを見せると、打席でバット構える。

「ま、考えても仕方がないか。私は左だろうが右だろうが、バッターを抑えるのが仕事だもんね」

 スイッチヒッターの茉穂がどうして前の打席で右打席に立たなかったのか興味津々な様子だったが、珠音は気持ちを眼前の獲物を打ち取ることだけに切り替え、狩人の如き表情を見せる。

 対する菜穂も普段の可愛らしい表情が消え、一瞬の間合いを逃さない武士のような雰囲気を醸し出す。

「(とりあえず、様子見でインコースにストレート)」

 浩平の意図を正確に理解した珠音はサインに頷くと、その通りのコースにボールが投げ込まれる。

 直後、球場に鳴り響く金属音。

「あー、惜しい」

 真芯で捉えた打球は、三塁線の僅かにファールグラウンドで跳ね、そのまま外野フェンス際まで転がっていく。

「わーお」

 惚けた様な声を上げる珠音だが、好敵手を捉える瞳の色は闘争心という名の薪をくべられ、火勢を増したように見える。

「(左打席は小技狙いのコンパクトなスイングだったが、右打席は長打狙いの力強いスイングか。だが、利き腕と反対の打席にしては、スイングに違和感がないな。左腕の”抜き方”も上手だ。むしろ、さっきの左打席の時の方が”後付け感”があって違和感を覚えるくらいだ)」

 浩平がスイングを分析し、次の配球を練る。

 利き腕と反対の打席ともなればどこか機械的な動作感が残りがちだが、茉穂が右打席で見せたスイングにはまるで違和感はなかった。

「(一先ず、外角で様子を見よう)」

 珠音と浩平のバッテリーが選択したのは、外角低めへ逃げるように沈むチェンジアップ。

 しかし、茉穂はバットをピクリとこそ反応させたものの、無理に追いかけて引っかけるようなことはしない。

「もしかして、元々右打ちですか?」

「さーて、どうでしょう」

 野球を始める場合、大抵の場合は利き腕に合わせた打席でのスイングを指導されるのが通常であり、左利きならば尚更である。

 一般的に年少者の野球において、打席から一塁ベースへの距離が近い左打者は有利であり、わざわざ左利きの選手に右打ちを指導することは悪手である。

 やがて本人の希望や足の速さなどを考慮して右打者が左打者へと転向する場合があるが、その反対のパターンは稀少で、元来左投右打だった選手は左打ちへ矯正されることが殆どである。

 3球目のストレートで空振りを奪い、続く4球目。

「(インコースに食い込むスライダーで決めよう)」

「OK」

 浩平のサインを受け取ると、珠音は了承を口ずさむ。

 大きく息を吐き出し投球動作に入ると、ゆったりとしたフォームから三日月のような大きく弧を描くような軌道で、ボールが投げ込まれる。

 茉穂はスイングを崩されこそしたものの食らいつき、打球はそのままバックネット下の壁面にぶつかった。

「いい球だなぁ」

 茉穂は楽しさからくる興奮を隠すことなく、かつ自覚もしていた。

 これ程までに心躍る瞬間は、これまで得られなかったように思える。

「よく当てたなぁ。さぁ、次!」

 対する珠音も興奮を抑えきれない様子で、浩平へ次のサインを早く出すよう促している。

「(一球、外角に外すか)」

 浩平が外角のボール球を指示すると、珠音は露骨に嫌そうな表情を見せて首を振る。

 浩平も思わずやれやれといった様子で首を振ると、外角のストライクゾーンのぎりぎりにキャッチャーミットを構え、ストレートを投げ込ませる。

「(あっ、バカ!)」

「(しまった!)」

「(もらった!)」

 ほぼ同じタイミングで三者三様の反応を見せた直後、コントロールミスで若干真ん中よりに入ってきたストレートを茉穂の力強いスイングが捉え、打球はまつりの頭上をライナーで越えていく。

「あちゃー」

「ショートは中継に入れ、セカンド!」

 茉穂が快足を飛ばし、悠々と二塁ベースに到達する。

「くそー、打たれたかー」

「あんな露骨な表情したら、バレるだろうが!」

 キャッチャーミットでポンと珠音の頭を叩き、浩平は深い溜息をつく。

「いて」

 珠音は悔しさを滲ませたが、同時に全力勝負を十分に楽しんだのか笑顔を見せていた。

「切り替えていくぞ。この回、無失点で終わらせるからな」

「当然!」

 珠音はフッと息を吐き出すと、表情を引き締め直す。

 結果的に紅組はこの回無失点に終わり、白組の勝利で紅白戦は終了した。



 練習後。

 用具を分担して持ち帰り、部員たちはそれぞれ家路に付く。

「あの、ホントにいいの?」

「大丈夫大丈夫。お母さんもいいって言っていたし」

 いつもは珠音と浩平の2人で乗るバスに、この日は茉穂も同乗している。

 当初、練習後はそのまま自宅に帰る予定だったが、フェリーが急な天候不良により運休となったことで帰れなくなってしまい、近くのホテルを予約しようとした立花を制して珠音が強引に話をまとめ、そのまま楓山家に泊まることになっていた。

 家に電話を掛けると、応対した母親は何故だか大喜びすると”浩平も家に呼んで一緒に夕飯を食べよう”と言うので、3人の目的地は同じである。

「いやー、それにしても綺麗に打ち返されちゃったな。もう、浩平のリードが甘いから」

「あれはお前が外角に外す指示を拒否した上に、コントロールをミスったのが原因だろうが!」

「わー、ごめんごめん」

 浩平はむすっとした表情を見せると、珠音は両手を合わせて謝罪のポーズを作る。

「それにしても、土浦くんは凄いなぁ。私が元々右打ちなのを見抜くだなんて」

「スイングが余りにも自然だったんで。珍しいですけど、左投げ右打ちの選手がいない訳じゃないですから」

「流石キャッチャーだね、よくバッターの細かな動作を観察してる」

 茉穂からの称賛の言葉に、浩平は少々照れたような様子を見せる。

「もともと左投げなのも、兄が左利きで家にあったグローブが左投げ用しか持っていなかったものだから、仕方がなかっただけなの。私自身は右利きだし、野球を始めてからずっと右打ちだったんだ」

「どうして左打ちに?」

「中学生になってから入団した時のシニアチームのコーチの指導かな。女子だからって特別扱いしない、一人の選手として扱ってくれたいい人だったんだけど、やっぱり左投げ右打ちは勿体無いってね」

 茉穂は苦笑いを見せ、言葉を続ける。

「センスはあったみたいだし、それなりに脚力にも自信があったからね。男子の中で野球を続けるに当たって少しでも有利になるのならと言われて、私もその通りだと思ったから。あくまでもスイッチヒッターのつもりだったんだけど、対戦相手が右ピッチャーばかりで右打席に立つ機会が限られていったせいで、そのまま左打ちになっちゃった」

 茉穂は彼女なりに男子の中で生き残る術を模索していた。

 好球必打を信条としたスタイルでパワー負けのリスクをとるよりも、左打席で小技の光る選手になる道こそ、男子の中で自身の価値を高め確立させる道だと。

「それでも、どこか未練があったのかもね。クラブチームではそのまま左打者として入団したけど、部活では右打ちの練習も続けていたし」

 車窓から見慣れた近所の家屋が見え、降車ボタンを押す。

 暫く進むとバスは珠音の自宅最寄りのバス停に到着し、3人は珠音を先頭に縦並びで降車する。

「どうして、私との最初の勝負は左打席だったのに、次は右打席に立ったの?」

 珠音は外門を越えたところで振り返り、後ろを歩く茉穂に問い掛ける。

 秋分まで1ヶ月を切った今も、太陽が水平線の向こう側へ沈む時間は遅い。

長く続く薄暮の中、珠音の顔は外灯に、茉穂の顔は玄関灯に照らされ、お互いの表情を鮮明に見ることができる。

「......私も、我が儘になろうかなと思って」

「我が儘?」

 自分を表現する単語として正しいものを見つけ出し、微笑みを浮かべながらその言葉を口にする。

「そ、我が儘」

 茉穂は噛み締めるように再び言葉にすると、その意図を続ける。

「これまでの野球選手としての鍛冶屋茉穂は、選手として生き残るために監督やコーチの指示やアドバイスへ従順だった。もちろん、そのお陰でここまで来られたし、指導してくれた人たちにも感謝している。でも、さらにその先、さらに上を目指すなら素直に従うだけじゃなくて、我が儘を認めさせるくらいの努力をしないといけないと思ったの。珠音、あなたを見てね。あなたのお陰。そして珠音は、文字通りに全力で、全ての力を持って勝負を挑んでくれた。だから私も、私の全てで応えたいと思えたんだ」

 茉穂の瞳が、玄関灯の光を受けてキラキラと光っている。

「......そっか」

 珠音は目を閉じ、対戦した2打席を思い返す。

 1打席目は、これまでの努力と感謝の証。

 2打席目は、これからの決意と覚悟の証。

「私、トライアウトを受けるよ。そして、絶対に合格して見せる。そして、もっともっと上へ登って見せる。そして、登り切った先で珠音とまた勝負をしたい」

 茉穂が差し出した手を、珠音はしっかりと握り返す。

「また一緒に、野球をやろう」

「約束しましょう。でも、私だって止まりませんからね。茉穂さんのさらに上に行って、文句なしで完全に抑えきって見せます」

「なら、私はさらにその上―」

「じゃー、私はもっとその上に――」

 元来負けず嫌いの2人は互いに視線を交わし、その瞳に宿る想いで競い合う。

 同世代最高のライバル誕生の瞬間を、浩平は後ろから静かに見届けた。



 翌日。

 珠音の家まで迎えに来た立花の車に乗り、茉穂は一路久里浜港を目指す。

「珠音ちゃんはどうだった?」

 立花の問いに、後部座席に座る茉穂は笑顔を見せる。

「逞しい人だなって思いました。自分を認めてもらうための努力を惜しまない姿は、年下ですけど素直に尊敬できます」

「同感ね。年下だけど、彼女の姿を見ていると私自身、努力が足りないと思えるもの」

 茉穂は来た道を振り返り、前日の夕食後を思い出す。

 前日は珠音の両親と浩平の両親も交え、珠音の兄―将晴―が出場する静岡サンオーシャンズの試合をケーブルテレビ(試合は静岡県内でしか放映されないことも多く、両家では将晴の入団を期に加入している)で観戦しながら、賑やかな夕食を共にした。

 何でも、昼過ぎに将晴から久し振りにスタメン出場を伝えるメッセージが届いたらしく、珠音と浩平の両親は(またも)フレックスタイムを活用して仕事を早々に切り上げ、共にテレビ観戦を楽しむべく早々に帰宅していたそうだ。

 球団初の優勝へ、下馬評を大きく覆す活躍を見せて快進撃を続けるチームへ、両家は遠方から精一杯の声援を送る。正捕手の休養日として少ないチャンスを手にした将晴の好リードも光り勝利を収めると、家の中はお祭り騒ぎとなった。

 土浦家の帰宅後は野球談議や互いの思い出語りに花を咲かせ、ついつい夜更かしをしてしまった。

 茉穂はクスリと笑みを見せ、前方へ視線を戻す。

「目標であり、ライバルでもある存在です」

 茉穂の言葉に、立花は満足気な笑みを浮かべる。

「そっか、2人を会わせて正解だったわね」

「はい、ありがとうございました」

 もう間も無く久里浜港。

 フェリーに揺られ家に着いたら、早速トライアウトに向けたトレーニングに取り組もう。

 2人で交わした約束を胸に。

「ただ......」

「ただ?」

 突如として言葉に込められた力強さが消え、隣から”もじもじ”とした雰囲気が漂ってくる。

 立花がバックミラー越しにその様子を確認すると、茉穂は何かを思い出して少々恥ずかしそうな表情を見せていた。

「......同じ布団で一緒に寝るのは、止めておこうと思います」

「え?」

 可愛らしい顔を伏せ、耳を真っ赤にする茉穂。

 そういえば、迎えに行った時にどこかボンヤリと、心ここにあらずといった様子にも見えた。

「(need to know、プライベートだものね)」

 立花は若干の興味をそそられたものの、それ以上の詮索を避けることにした。


 なお。

 

「凄く楽しかった、また勝負したいな!」

 余程前日が楽しかったのか、部活前の更衣室では珠音が未だに”興奮冷めやらぬ”といった様子を見せている。

「ま、女子硬式野球の世界は狭いからね。絶対に会えるさ」

 まつりはその様子に苦笑しつつ、着替えを続ける。

「私も負けられないな」

 茉穂とはポジションが異なるが、彼女としても同じ野手として負けられない存在である。

 まつりにとっても、茉穂との邂逅は大変有意義な経験になったようだ。

「それになぁ......」

「ん?」

 珠音の声色が突然変わり、まつりは余りの気味悪さに鳥肌が立つ感覚を覚える。

「茉穂さん凄くいい香りしたし、抱きついたら引き締まった身体も程よく柔らかくて。何より、とにかく可愛かったなぁ......また一緒に寝たいな」

『えっ』

 更衣室内の時間が瞬間的に凍り付く。

 数刻後に解凍されると、その場にいた女子部員の視線が発言者へと集まった。

「うへ、うへへへへ...」

 その先には、記憶を呼び起こして恍惚さを滲ませた表情と怪しい動きを見せる珠音の姿があった。

 集まった面々は珠音の見せる只ならぬ雰囲気から本能的に危険を察知し、無言で早々に着替えを済ませていく。

「ごめん、遅れた! 」

 直後、遅れて更衣室に入ってきた琴音が扉を開くと、いち早く着替えを済ませた女子部員たちは関を切ったかのように室外へと逃げ出し、その場には2人だけが取り残される。

「みんなどうしたの?」

 扉に向けた言葉に回答はなく、只ならぬ雰囲気のその他女子部員の行動に首を傾げる。

「前から思っていたんだけど、琴音って可愛いよね」

「へっ!?」

 琴音が振り返ると、そこには鼻息が荒く、ゆらゆらと左右に揺れながら近付く珠音の姿があった。

 琴音は正しく蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす。

「え、ちょっと?!」

 更衣室の扉が、まるで何かの意志に操られているかのように音も無く閉まる。

 琴音が登校したにもかかわらず”体調不良”による練習欠席の連絡が伝わって以降、珠音と更衣室のタイミングが被った女子部員の着替え時間が異様に早くなる傾向が見られるようになった。

 男子部員は疑問にこそ思ったものの、その真相を解き明かす日はついに訪れることはなく、全ては当事者(特に琴音)たちの墓場にまで持ち込まれることとなった。

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