6回表 夏風吹く出会い

Top of 6th inning ―夏風吹く出会い―


 ジリジリと照り付ける太陽光。

 ジットリと肌に纏わりつくように、べた付く潮風。

「ただ立っているだけなのに、暑いね」

「ほんと、海にでも飛び込む?」

「べた付くからやだな。飛び込むんだったらプールがいい。水着持って来てないけど、汗でビショビショだからもはや変わらないんじゃないかな」

 珠音はブラウスの胸元をパタパタとして、身体に溜まった熱を少しでも逃がそうとする。

 産声を上げて以来この街で16年間過ごしてこそいるものの、遮るものの無い夏の暑さに身体が慣れる気配は無い。

「同感ね」

 普段は厳しい練習でも表情をあまり変えないまつりだが、うだるような暑さの前にはアイスクリームのように溶けだしそうになっている。

「立花さん、遅いね」

「行楽シーズンだから仕方ないよ。車なんでしょ」

 背後のグラウンドから聞こえてくる声は、1ヵ月前と比べ少々物足りなさを感じさせる。

「何か、私たちサボってるみたい。こうやって少し離れて見ると、先輩たちが引退しちゃったんだなって、実感しちゃうね」

 7月上旬から各地で繰り広げられた都道府県大会は既に終了し、各地の代表校が集まる甲子園大会も決勝戦を残すのみとなっている。

 鎌大附属硬式野球部が臨んだ夏の大会は、男子はキャプテン野中を中心に健闘を見せ春大会と同じく”ベスト8”、女子班は経験者の入部も相まって”ベスト4”と、それぞれ着実な成果を結果として残した。

 3年生は大会を最後に引退し、チームは新キャプテンに任命された二神を中心に秋大会に向け練習に励んでるが、この日の練習に珠音とまつりは参加していない。

「もうちょっとで着くってさ」

 夏期講習で登校していた舞莉が、立花から送られてきたメッセージを確認する。

 どうやら、予想通り渋滞に巻き込まれてしまったらしい。

「フェリーの時間に間に合うかなぁ」

「何が合ってもいいように余裕を持った集合時間にしているし、反対方向ならある程度流れているだろうから、大丈夫でしょ」

 この日、珠音とまつりは立花の依頼を受け、浦賀水道の対岸へ渡る予定になっている。

「どんな人なんだろうね」

「そればっかり言ってる」

 目的はただ一つ。

 夏大会で盛り上がる中、立花が投じた一本の記事により一躍時の人となった少女―鍛冶屋茉穂―との対談である。

 “女子大生記者”立花により世間へ投げ掛けられた、正規で野球部に所属していない所謂”助っ人”選手の接触プレーにより重傷を負った事故。

 インターネットニュースを通じて瞬く間に拡散された情報は寄稿した当の本人の予想を遥かに上回るスピードで拡散され、世間に物議を醸す結果となっていた。

 人口減少地域では女子生徒も活動を続ける上で重要な戦力であることは、例年でも球夏到来の都度、美談として紹介されている。

 珠音の登場以降、女子選手の存在は立花の記事を通じて度々話題に上がるようになっていたが、これ程世間に拡散されるまでには至ってこなかった。

 今回の現役の女子選手がいながらも出場ができず、競技経験の無い男子生徒を加えたチームの存在が改めてピックアップされ、その選手が重傷を負ったという事実は世間にそれなりの衝撃を与える結果となった。

 同一記者の投稿記事へのリンクから、珠音を始めとする有望な女子選手の存在も公となり、当初こそ学校側へ向けられた批判も、次第に現状の諸問題を放置し続けている運営サイドの責任を追及する声に変わっていった。

「100年に及ぶ長きに渡る伝統は、守るべきである」

「未経験者の参加を避けるべく、出場規定については更なる制限をかけるべきだ」

「接触を恐れ、男子選手がプレーに集中できなくなる」

「女子選手は男子選手と比べて体力面、体格面で大きく劣り、実力もなおのことである。同じステージで戦える存在ではない」

「女子野球の組織も大会もある。そちらに出ればいい」

 火消しに走る運営サイド何らかのコメントを発表すれば、即座に撤回や釈明を繰り返す始末である。

 そんな最中、今夏の甲子園大会でも練習補助員として女子部員が”神聖な”グラウンドに足を踏み入れ、大会運営から退場を命じられる事態が発生すると、メディアも流行りとばかりにこぞって取り上げて特集を組むなど、世間で注目を集め続けていた。

「時代錯誤である」

 多少の擁護コメントこそ見られるものの、大方の論調はこの一言に集約される。コメントが発表される度に燃え盛る炎に油を注ぐこととなり、火勢はもはや消火困難とも思えた。

 舞莉が二神に投げかけた言葉の通り、珠音たちにとっての心強い追風は猛烈な台風の如き勢いで吹き荒んでいる。

 当事者としては歓迎したいところではあったが、甲子園大会の終了とともにまるで台風一過のように事態終息後キレイさっぱり鎮静化してしまい、再度の問題提起に時間を要する結果とならないものか、かえって不安を抱えることとなった。

「ご、ごめんね。暑い中で待たせちゃって」

 校門前で急制動をかけ止まった車から、世間に爆弾ニュースを放り込んだ張本人にして、野球部にとってはもはや部員レベルの親しみすら感じさせる程の馴染みとなった立花が息を切らして駆け寄ってくる。

「2人をよろしくお願いします」

 立花の姿を認めると、グラウンドから鬼頭が顔を出す。

「もちろんです。安全運転で行きますね!」

「2人とも頑張ってね~」

 意味深な笑みを見せる舞莉に訝しさを覚えるが、いつものことだ。

「あ、はい。頑張ります!」

「行ってきます」

 夏の日差しに照らされてキラリと光る初心者マーク。

 吹き出すのは暑さによる汗か、それとも冷や汗か。

 後部座席の扉を開いた瞬間に漏れ聞こえた、某有名レースゲームのBGM。

「ささ、2人とも乗った乗った。女3人、ドライブを楽しみましょ!」

『(頑張れって、そういう意味か!?)』

 満面の笑みを見せる立花の表情を見て、珠音とまつりは乗り込む前からこの日の旅路を後悔した。



 高鳴る鼓動は新しい出会いへの高揚感か、はたまた先輩の運転する車に同乗し続けた不安からか。

 フェリーで波風に揺られた後、再び車に乗り込んだ一行は待ち合わせ場所として指定された場所を目指す。

 車窓は真新しさこそないものの、見慣れぬ景色は眺めるだけで楽しさを覚える。

「......ここね」

 車に設置されたナビの案内とスマートフォンに表示させた地点を交互に見やり、場所を確認して小さく頷く。

「民宿かじや?」

「鍛冶屋さんのご実家は主に水仙とみかんを育てている農家さんなんだけど、定食屋兼カフェを併設した民宿も営んでいるの。親戚から譲られたお宅を改装したロッジも経営していて、鍛冶屋さんも手の空いた時は手伝っているそうよ」

 立花は何度も切り返して車を駐車場に止め、”喫茶かじや”と銘打たれたカフェスペースの扉を開く。

「あ、いらっしゃいませ!」

 古めかしい内装には若干似つかない元気な声が、室内に響く。

「あれ、立花さん!?」

 ラフな服装にエプロンを着け、程よく日焼けした健康的な少女が、壁掛け時計を見て慌てた表情を見せる。

『(うわ、めっさ美少女!)』

 珠音とまつりは、揃って場違いにも思える可愛らしい雰囲気の少女へ、視線が釘付けになっていた。

 同年代の同性が思わず羨む少女は、はにかみながら立花と会話を交わす。

「ごめん、ちょっと早かったかな?」

「いえいえ、私も時間を確認していなかったので。すぐ準備を終わらせますね。あれ......ということは?」

 バタバタとカフェスペースの準備を進める中、珠音とまつりの姿を認めると、簡単にまとめた短いポニーテールをひょこひょこと揺らしながら飛び跳ねるように近付いてくる。

 学年でも人気ランキングで上位争い間違いないと目される健康的な美少女の顔が眼前に迫り、珠音の心臓は思わず鼓動を加速させてしまった。

「(か、かわいいっ!)」

「楓山珠音さんだよね。写真で見せてもらっていたから、すぐ分かったわ」

 珠音の手を握り”ブンブン”と振るその両碗には、細いながらも引き締まった筋肉の力強さを感じさせた。

「え、私のことを知っているんですか?」

「それはもう、楓山さんは有名人だからね。あなたは伊志嶺まつりさんだよね。実はシニアチームで対戦したことがあるんだけど、覚えてる?」

「え、野球やってるんですか!?」

「えぇっ......あぁ、そっか、まだ自己紹介がまだでしたね」

 珠音の手を開放し、茉穂は一つ咳払いをする。

「改めまして、鍛冶屋茉穂です。家の手伝いをしていたものだから、こんな格好でごめんなさい」

『(まさか、この美少女がご本人様だったとはっ!)』

「心の声が表情に現れてるよ」

 立花が呆れた表情を浮かべ、硬直する2人を小突く。

 我に返った2人は表情だけでも平静を取り繕い、菜穂に向き直す。

「楓山珠音です。初めまして」

「伊志嶺まつりです」

 差し出された手を握り、3人は改めて握手を交わす。

「なんか、照れますね」

「ちょっと慣れました」

「んー、もうちょっと自然な笑顔にして欲しいな」

 その様子を逃すまいとカメラのシャッターを切り続ける立花に苦笑しつつ、茉穂は3人を席に案内する。

「どうしましょう、制服に着替えますか?」

「やっぱり女子高生の対談だし、制服の方が華あって画になるわね。女子大生の私にはない、唯一無二の価値だもの。お手数だけど、いいかしら?」

「分かりました。お母さん、少しお願いしてもいい?」

 茉穂はパタパタとバックヤードに下がっていき、代わって茉穂の母親がメニューを持ってくる。

「飲み物はここから選んでね。自家製マーマレードを混ぜ込んだケーキをお出ししようと思うんだけど、いいかしら?」

「ありがとうございます、楽しみです!」

 手渡されたメニューからそれぞれ飲み物を選ぶと、茉穂の母親はすぐに用意してくれた。

「暑かったでしょ、この辺りは遮るものも少ないし」

「野球やっている身としては慣れっこです。鎌倉も海際で高い建物が少ないので、似たようなものですから」

 差し出されたケーキに舌鼓を打ちつつしばらく談笑していると、店の奥からバタバタと駆ける音が近付いてくる。

「お待たせしました!」

 珠音と同程度のセミロングに切りそろえられた髪を簡単に結わえた茉穂は、爽やかな緑色のスカーフが特徴のセーラー服に着替えていた。

『(制服がシンプルな分、素材の良さがっ...!)』

「2人とも、もうちょっと心の声を隠せるようになろうね」

 健康的な快活少女に見とれる2人へ、立花は呆れた溜め息を投げ掛ける。

「もう、せっかく撮ってもらうんだから、キチンとしなさい。3年生にもなって...」

「うへへ...」

 少し曲がったスカーフを母親に直され、茉穂は照れくさそうな表情を浮かべる。

「さて、役者が揃ったね」

 立花は茉穂を2人と対面の位置に座るよう伝えると、ボイスレコーダーを取り出し録音ボタンを押す。

「本日はお暑い中、また練習でお忙しい中、お時間を頂きありがとうございます。今をときめく女子高生野球選手の対談と題しまして、ざっくばらんにお話を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします」

『お願いしまーす』

 立花が頭を下げるのに合わせ、3人が絶妙な間合いとピタリと揃ったタイミングで頭を下げ、挨拶を交わす。

 長年、運動部で鍛えられ染み付いた習慣に3人からは不思議と笑みがこぼれ、少なからず存在した緊張感も適度に弛緩した。



 3人の和やかな雰囲気の対談は、立花が話題を提供しつつ和気あいあいと進んでいく。

「やっぱり、サンオーシャンズの楓山選手って、珠音のお兄さんなんだね。苗字が同じだからもしかしてと思っていたんだ」

「野球を知っている人にはよく言われるんだ。珍しい苗字だしね」

「今シーズン、優勝狙える位置にいるよね」

「そうそう、兄ちゃんも1軍にいるし、楽しみなんだ!」

 好きなアイドルの話でも、オシャレの話でも、駅前に新しくできたスイーツショップの話でもない。

 巷の一般的な”女子高生”とはかけ離れた内容ではあるが、互いに”好きなもの”について語り合っている。内容が同年代の中では珍しいだけで、おかしなことではない。

「まつりはどうして野球を始めたの?」

「お父さんの影響ですね。私は一人っ子だし、なかなか子供に恵まれなかったみたいだから、野球好きのお父さんとしては性別がどっちだったとしても、一緒にキャッチボールをしたかったみたいなの。珠音はお兄さんの影響で始めたんだよね?」

「そうそう。8歳も年上だし、物心ついた時には親と一緒に試合を見に行ったりしたからね。テレビも野球中継ばかり見ていて、休みの日は球場に連れて行ってもらうことも多かったし、自然と好きになってたかな」

「私も珠音と同じ感じかな」

「あ、茉穂さんもお兄さんいるんですね!」

「2つ上で、今は大学生。家を出て一人暮らししているの」

「野球は続けているの?」

「もう辞めちゃってるの。高校で引退した後は大学で和楽器サークルに入ったって、この前に話していたかな」

「和楽器!?」

「すごい転進だね!」

 途中で茉穂の母親から差し出された柑橘スイーツの効果も合わさって話に花が咲き、早くも互いを下の名前で呼び合うなど、1学年差など全く感じさせない親し気な雰囲気に包まれていた。

「そういえば、3人は卒業後の進路について考えているの?」

 撮れ高十分で満足気な立花が、新しい話題を提供する。

「進路か~」

 珠音は天井を見上げると、朗らかな表情を少し引き締める。

「私は高校を卒業しても、野球を続けるつもり。一度は諦めかけたけど、皆の後押しもあってこうやって続けることができたし、自分にとって掛け替えの無いものだって、改めて実感できたからね。少しでも高いレベルを目指したいと思っているの」

「それじゃあ、珠音はプロを目指すの?」

「そうだね。まずは女子プロ野球に挑戦したいな」

 プロ野球の組織は、約10年前の再編により以前とは大きく様相を変えている。

 トップリーグは2リーグ制を維持しつつ、球団数は12から16球団に増加している。

 従来では東京都に2球団が本拠地を構えている他、北海道、宮城県、埼玉県、千葉県、神奈川県、愛知県、大阪府、兵庫県、広島県、福岡県の各地に1球団ずつ存在していたが、再編にあたっては新幹線交通のネットワーク上に位置する新潟県、長野県、静岡県のほか、四国新幹線の開業を控えていた愛媛県に新たな球団が創設された。

 また、競技人口の減少傾向に歯止めをかけ、門戸を広げ人材育成の場を設けることを目的としており、珠音の兄が所属する静岡県の静岡サンオーシャンズ以外の3球団は、従来の2軍とは異なる制度が導入されている。

 新潟県を保護地域とする新潟アイビスと長野県を保護地域とする信州ターミガンズの傘下として計8球団が、愛媛県に本拠を構え四国全域を保護地域とする四国アイランドパイレーツの傘下には4球団が所属し、それぞれ北陸上信越リーグ、四国リーグと銘打ちルーキーリーグとして運営され、事実上の2軍としての機能を果たしている。

 最近では四国リーグへの加入を目指して岡山県と山口県に、北陸上信越リーグへの加入を目指して神奈川県、山梨県、茨城県、滋賀県に球団設置を目指した準備室が設置されるなど、リーグ拡張の流れは今もなお続いている。

 女子野球の世界でも国際大会では優秀な成績を収めつつも国内に受け皿がないことを問題視し、流れに乗ってトップリーグの再編から3年後には予てより創設が議論されていた女子プロ野球リーグも(あくまで独立リーグとしての扱いだが)設置され、現在では4球団に約90人が”女子プロ野球選手”として所属し、日々研鑽を積んでいる。

「いつかはトップリーグのマウンドに立ちたいな」

「おぉ、大きく出たね」

 まつりの指摘に、珠音は少々照れくさそうな表情を見せる。

「そりゃあ、夢は大きく出さないとね」

「......それもそうだ。そう言ってくれないと、我らがシンボルとしては物足りないか」

 まつりが苦笑する様子を立花は逃さず写真に収める。

 同時に、その対面で若干曇り気味の表情を茉穂が浮かべている様子も漏れなく確認した。

「まつりは?」

「私は進学して、男子に混じって大学野球にチャレンジするつもり」

 珠音は意外さと少々寂しさを合わせたような表情を見せる。

「てっきり、まつりもプロを目指すものだと思ってたよ」

「高いレベルを目指す方法はそれぞれだからね。私も一度は諦めたけど、こうやってまたプレーする楽しさを教えてもらったからね。続ける選択肢も、私なりのものを選びたいと思っているの」

「そっかー。私としては少し寂しいけど、目標は人それぞれだもんね」

「まぁ、他にも理由はあるけど......」

 まつりの照れくさそうな表情に、珠音はニヤリと悪戯な表情を見せる。

「何なに、思わせぶりな発言。何か別の目標があるの?」

「あぁ、しくった」

 もじもじとするまつりは珍しい。

 珠音は好奇心をくすぐられ、攻勢を強める。

「分かった分かった。言うから!」

 観念した様子のまつりが、渋々といった様子で口を開く。

「将来、先生になりたいの。学校の先生」

「......か、かわいい」

 耳を真っ赤に染めるまつりに、珠音は若干だが興奮した様子を見せる。

「わ、私の話はもういいでしょ!」

 まつりが視線を振り払うように首を振ると、視線が茉穂に集まる。

「茉穂さんは、プロ野球選手を目指すって聞きました。クラブチームに所属していて、日本代表の候補選手にもなっているって」

 しかし、珠音とまつりの視線が捉えたのは、茉穂の沈んだ表情。

 立花はその様子を、辛そうに見つめている。

「......茉穂さん?」

 珠音のケラケラとさせていた表情も、真摯なものへと瞬時に変わる。

「2人はすごいな」

 弱々しく発せられる茉穂の声。

「私ね、野球は高校で辞めようかなって思っているの。秋にある女子プロ野球のトライアウトも受けないつもりなんだ」

「えっ」

 和やかかつ賑やかな雰囲気に包まれていたカフェスペース。

 茉穂の静かな告白は急激な静けさをもたらし、珠音にはまるで時が止まったようにすら感じられた。



 古めかしい壁掛け時計の振り子が一定のリズムを刻み、コップの内部では溶けた氷が”カラン”と心地の良い音を立てる。

 一つ一つの音が普段よりも大きく聞き取れるほどの静寂を打ち破ったのは、その状況を作り出した張本人だった。

「ごめんなさい、楽し気な雰囲気を壊してしまって」

「あぁ、いや......」

 心から申し訳なさそうな表情を見せる茉穂に、珠音とまつりはどんな声をかけるべきか分からないでいた。

 困り果てて立花に視線を送るが、彼女もどこか申し訳なさそうな表情を見せている。

「立花さん......」

 まつりの責めるような雰囲気を察知してか、立花は明後日の方向を向く。

「(この状況、来る前から知っていたな)」

 更に険しい視線を送ると、立花はビクリと肩を震わせる。

どうやら、図星のようだ。

「その、もしも茉穂さんがよければ、理由を聞かせてもらってもいいですか?」

「......それもそうよね」

 珠音が恐る恐る口にした言葉に茉穂は優しく微笑み、やがて口を開く。

「夏大会のことは知っているのよね?大怪我をした選手が野球部に所属していない助っ人で、私の幼馴染だってことも」

「......はい」

「なら、話は早いわね。野球に対して、怖さを感じるようになってしまったの」

「野球をやることに対して、ですか?」

「いいえ、野球に対して私が”我が儘”になることに対してかしら」

「我が儘?」

 珠音が首を傾げまつりに助けを求めるも、彼女もその真意を測りきれないでいるようだった。

「洋ちゃ......あぁ、怪我をした幼馴染ね。彼に助っ人をお願いしたのは私なの」

 茉穂は力無い笑みを見せる。まるで、自嘲するかのように。

「私や私たちが、単独チームで大会にしたいという身勝手な我が儘を通すために、元々スポーツが得意ではない人まで巻き込んだ挙句の果てに大怪我をさせてしまうだなんて、取り返しのつかないことをしてしまったわ」

「別に、怪我は茉穂さんのせいでは......」

「私のせいよ」

 茉穂の視線が真っすぐと珠音を捉える。

「私のせいなの」

 “否定は許さない”とでも言いたげな瞳は、潤い揺らいでいた。

「野球に対する我が儘の結果として取り返しのつかないことをしてしまった私は、野球をやるべきではない、そう思うの。それに、自分でもそろそろ潮時かもしれないと感じていたのもまた事実。シニアまでは何とか頑張れたけど、クラブチームで男女差はどうにも埋めようがなかったわ。甲子園もトップリーグも、今でも憧れている。けれども、私に手の届く舞台じゃない。受験の申し込みをしていた女子プロ野球のトライアウトも、取り下げようと思っている。我が儘で人を傷つけて、夢を追う勇気の無くなった私には、受験する権利はない」

 強い意志の込められた言葉は、場に更なる静寂をもたらす。

 厨房で佇む母も、この対談の発起人である立花も、それを打ち破る術を持ち合わせていない。

「でも」

 しかし、そこに珠音がいた。

 茉穂の正面には、珠音がいた。

 意を決した力強い瞳が、茉穂の揺らぐ瞳と交差する。

「茉穂さん、本当は野球がやりたいんですよね?」

 珠音の真っすぐな瞳は、茉穂の瞳の揺らめきを更に増大させる。

「私たちと野球の話をしている時、茉穂さんすごく楽しそうでした。権利がないとか、そんな難しいことを言わないで下さい。夢を追う勇気が無いのなら、私がグラウンドで分けてあげます!」

「......野球は好きだもの」

「なら、もっと素直になるべきですよ」

 珠音は椅子から身を乗り出し前のめりになり、対する茉穂は肩を落とし前屈みの姿勢をとる。

「素直に?」

「はい」

 珠音は強く頷き、力強い笑みを見せる。

「私、茉穂さんと対戦してみたいです」

「私が、珠音と?」

「はい!」

 溢れ出る好奇心が、場の雰囲気を暖める。

「確か、トライアウトってもうすぐでしたよね。本当に続ける意志がないのなら、茉穂さんはとっくの昔に受験の申し込みを取り下げていると思うんです。そうしていないってことは、茉穂さんは心のどこかでまだ野球をやりたい、続けたいと思っているんですよ!」

「でも...」

 カフェの室温を上げるような錯覚を覚えるほど、珠音から熱意が溢れ出る。

 真正面から受け取る茉穂も、その熱さに思わず目を背ける。

「来週の金曜日、うちの野球部は藤沢の八部球場を借りて実戦練習をやるんです。一日の最後に紅白戦を予定しているんですけど、よかったら茉穂さんも参加しませんか?」

「えっ」

 突飛な提案に、茉穂は素直に驚いた表情を見せる。

「うん、それいい。そうしましょうよ!」

 茉穂の否定を聞く前に、珠音は勝手に肯定を重ねていく。

「でも、私みたいな部外者が加わってもいいものかな。監督のOKももらってないでしょ?」

「今、OKきました」

 まつりの差し出したスマートフォンには、鬼頭から送られてきた”分かった、許可すると伝えて欲しい”の言葉が示されている。

 無言を貫いていたまつりが、”猛将”珠音の軍師として鬼頭に連絡したようだ。

「行ってきなさい」

 冷たい水をグラスに注ぎながら、茉穂の母は娘の頭を撫でる。

「家の仕事に精を出してくれるのは助かるけど、あなたはまだ我が儘をしていいのよ。親元にいる間も、独立したその後も、あなたがどんな努力を重ねても私たちの子どもであることに変わりはないの。大人のフリなんてしなくていいから、子どもらしく思いきり我が儘してきなさい」

「でも」

「いいじゃないか」

 店の奥から、この場にいない人物の声が聞こえてくる。

「洋ちゃん......」

 松葉杖をつきながら細身の同年代男子が顔を出し、見慣れない3人に軽く会釈をする。

 呼ばれた名前から、彼こそあの試合で怪我をした”助っ人”で間違いはないだろう。

「俺を気にしたって仕方がないだろ。俺がケガをしたのは俺の責任だし、お前が気にする必要なんてないさ」

「でも、洋ちゃんがケガをしたのは、私が助っ人をお願いしたからだし」

「お前が野球が大好きで、ずっと頑張っていたのは知ってる。だからこそ俺だって力になりたいと思ったから、助っ人を頼まれた時にOKしたんだ。俺のケガがキッカケでお前が野球をやめるだなんて、俺は認められないな」

 洋治は片足で歩み寄り、茉穂の右肩に手を置く。

「堂々としてろ。俺のこともこの町のことも気にしないで、やりたい野球をやってくれ」

 洋治の言葉を受け、茉穂は逡巡するような表情を見せる。

「......分かった」

 茉穂は小さく頷き、前屈みの姿勢を改める。

「トライアウトを受けるかはまだ決められないけど、練習には参加させて下さい。そこで私の気持ちを確かめます」

「その意気だ!」

 茉穂と珠音が立ち上がり、2人が自然と硬い握手を交わす。

「全力で勝負しましょう!」

「1年先輩を舐めないでね」

 握手を交わす手に入る力が、自然と強くなる。

 茉穂の沈んだ表情は西日に照らされ、野球を語らい合っていた時のように明るく輝いて見えた。



 帰りの車の中、珠音とまつりは一通りの文句を立花にぶつけると、溜め息をついて鬼頭にメッセージを送る。

 立花は運転に集中しており、あまり余裕がなさそうにも見える。

「先生、OKくれるかな」

「大丈夫でしょ」

 珠音はメッセージの”既読”を確認しつつ、返信がなかなか来ないことにヤキモキしていた。

「まさか、まつりがしれっと”監督とは別の鬼頭さん”から届いたメッセージを見せてただなんて、思いもよらなかったよ」

「いいサポートだったでしょ。メッセージの返信が早い友達で男でも通じる名前だったから、ちょうどいいかなと思ったの」

「いいサポートだったよ。そうだったとも。そうだけさぁ」

 実際のところ、珠音は鬼頭へ事前に許可を取った訳でもなく、ただ勢いだけで茉穂に練習参加を勧めていた。

 まさかその場で、かつ一瞬にして退路を断たれるとは思っても見なかったのだろう。

「だって、あんなに野球が大好きなのに、辞めるだなんて言い出すんだもん。私やまつりに野球部の”みんな”がいたように、私は茉穂さんにとっての”みんな”になりたいもん」

「......そうだね、そうやって私も野球に戻ることができたね」

 照れくさそうな表情を見せるまつりを、珠音が小突く。

 思えば、以前のまつりだったらこのような表情を見せなかっただろう。

「あ、先生からメッセージきた」

 2人がスマートフォンの画面を覗き込むと、そこには”分かった、許可する”と短い言葉が綴られていた。

「予想通りの言葉を送って来たね」

「面白みにかけるなぁ」

 ピロリンと軽快な音が鳴り、鬼頭から続きのメッセージが送られてくる。

「明日、”練習開始の1時間前に職員室まで2人で来るように”だって」

 暫くの間の後、2人は揃って深い溜め息をつく。

「面白くないなぁ」

「そうね」

 後から思えば立花がセッティングしたこの会談は、トップリーグに所属する史上2人目の女子プロ野球選手の誕生を促す世紀の瞬間となるのだが、当事者となった2人の後輩女子高生にとっては、翌日の説教がただただ憂鬱なだけの帰り道となった。

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