5回表 順風

Top of 5th inning ―順風―


 春休み期間が明け、真新しい制服に身を包んだ新入生を迎え入れる中、先輩たる在校生たちは嬉々として休暇期間中の武勇伝に話の花を咲かしている。

「ベスト8おめでとう、珠音!」

 元々目立つ存在ではあったが、立花の取材を受け新聞に掲載されて以降、校内で珠音を知らない者はもはや存在しない。

 地方紙とはいえ県下に900万人を超える人口を抱える大都市圏をカバーしており、紙面上を頻繁に賑やかす若き女性アスリートは、そこらの売れない芸人以上の知名度を誇っていた。

 今年初めてクラスメイトなったばかりで、まだ名前もちゃんと覚えていない同級生に取り囲まれるまでにも、昇降口で新入生からファンレターを貰ったばかりか、少し離れた場所からスマートフォンで写真を撮られる始末である。

「あはは、2回勝っただけだけどね」

 全国大会で”ベスト8”と言えば、確かに聞こえがいいかもしれない。

 しかし、その実態は参加36校と男子高校野球で言えば地方の県大会程度であり、主要都市の大会と比べると規模は遥かに劣る、それが現実である。

 色目気立つ周囲に苦笑しつつ、出席番号の座席で隣になったまつりに助けを求める視線を送るが、悉く無視されてしまった。

「(薄情者め...)」

 心の中で恨み節を重ねていると、元気印の夏菜が割り込んでくる。

「ほーら、うちのエースが困っているじゃないの。どいたどいた」

「お、出た”代打の切り札”!」

「いやいや、”必殺仕事人”でしょ!」

 2年続けてクラスメイトになった夏菜が新聞に掲載された”異名”に照れつつ、有名ドラマのBGMを口ずさむ取り巻きを追い払う。

 2回戦で琴音の代打として登場した夏菜は決勝のタイムリーヒットを放つと、立花はその姿を”代打の切り札””必殺仕事人”として記事にしていた。

「まったく、あんたも横で珠音が困ってるんだから、ちょっとは助け舟くらい出してあげなさいよ」

「(いいぞ、もっと言ってやれ!)」

 珠音は心中で煽るが、まつりは真っ向から反論する。

「いいじゃない、みんな私には話しかけてこないんだし」

 まつりは整った容姿とそのストイックさから、他を寄せ付けないような雰囲気を醸し出している。

 野球部に加入してからはいくらか緩和されたものの、周囲からの評価はそうそう変わるものではない。

 そうなると、その対極のような珠音の元に人が集まるのは当然とも言える。

「まつりって、高校に入ってから友達いたの?」

「余計なお世話」

 まつりは読んでいた小説から視線を夏菜に向け、睨みつける。

 クラスでも部活でも2人はよく言い争いをしているが、珠音を始めとした部員たちにはとても仲が良いように見えている。

 鎌大附属の二年生は全部で8クラスあり、内5クラスが文系コース、2クラスが理系コース、残りの1クラスが特進コースとして設置されている。

 進級に当たってのクラス替えでは浩平と大庭は別クラスに振り分けられ、男子部員では高岡だけが同じクラスになっている。

 他の野球部員も大半は文系コースのクラスに入っていたが、二神と琴音の2人だけは理系コースでクラスメイトになっていた。

 同級生には残念ながら特進コース在籍者はいないものの、3年生ではキャプテンの野中と舞莉が在籍している。

「今日から仮入部期間だよね。もう私たちが入学して1年も経つんだ」

「そうだね。いやー、同じマネージャー希望だと思っていた同級生が選手でビックリしたのを今でも覚えているよ」

 窓の外を見ながら、珠音はあっという間に過ぎ去った1年間を思い返す。

これまでの人生の中で、間違いなく密度の最も濃い時間だった。 

「新入部員、どれくらい来てくれるかなぁ」

「珠音の効果で、たくさん来るかもよ」

「私はパンダか!」

「夏菜がベンチ外になるくらい入ってくれるといいわね」

「何おぅ!」

 珠音の横で、再び夏菜とまつりが賑やかな言い争いを始める。

 教室前方の扉が開かれると後方の窓からふわりと春風が舞い込み、珠音の背中をそっと後押しした。



 放課後、グラウンドに集まった18名の新入生は緊張の面持ちで、先輩たちの準備を見守っていた。

「まつり、あれって」

「希望じゃん」

 少し遅れてグラウンドに入った珠音とまつりが、見覚えのある背中に声を掛ける。

「......あ、まつり先輩!」

 まつりのシニアチームの後輩で願書提出の際に知り合った糸口希望が、新入生の中でも小柄な身体を飛び跳ねさせながら駆け寄る。

「無事に入学できたみたいで良かった」

「はい、そのまま本入部するつもりです。これからよろしくお願いします、楓山先輩!」

 希望の声が聞こえたからか、集まった新入部員の視線が珠音に集まる。

 紙面を賑やかすプチ”有名人”に声を掛けてみたい衝動を必死に抑えているような、好奇心に満ち溢れた視線だ。

「やー、盛況だねぇ」

 新入生に好奇心を植え付けた元凶たる立花が、舞莉を引き連れてカメラを片手にグラウンドへ入ってくる。

「立花さん、大学は大丈夫なんですか?」

「まだガイダンス期間だから、講義は始まってないのよ。だから、大丈夫。それに、講義があったとしてもこっちの方が数段面白いから、来ちゃうかもね!」

 立花は悪戯を思いついた子供のような表情を見せ、グラウンドでネタを探す。

「女子は5人か。地方紙の情報伝達力で1月に発表した割には、集まった方かな」

 中学以前に野球未経験者で、高校から競技転向する人は極めて少ない。

 他の部活動を見学してからという新入生もいるだろうが、ここに集まった面々が即ち今年度の新入部員と言っても間違いではない。

「先輩方が来る前にみんなで少し話をしてみましたけど、女子はみんな経験者みたいです。新聞記事を見て、慌てて志望校を変えたみたいですよ」

「へぇ、やっぱメディアの力って凄いね」

 希望の言葉に、珠音が関心の声を上げる。

 新聞やスマートフォンでニュースを見る方ではないが、改めてその力を思い知らされる気分だった。

「情報っていうのは、君が思っている以上に物事を動かす力があるのさ。如何に世論を味方に付けるか、タイミングを活かせるかだ」

「その通り。それだけに、男子の躍進は最高のタイミングだったね。応援する君たちの姿も、世間では大変好意的な印象を与えたようだ」

 舞莉に続き、立花が嬉しそうに取材ノートを開く。

 初戦の大物食いに始まった鎌大附属硬式野球の男子班の勢いは、創部以来最高の成績をもたらした。

「決して華々しい内容ではなかったけど、素晴らしい堅実さと集中力だったよ。野球について私は素人だけでも、それでも伝わってきたんだ。やっている人から見たら、より際立って見えたんじゃないかな」

 男子班の県大会最終成績は女子班と同じく”ベスト8”だが、大きく違う点は女子全国大会の参加が36校なのに対し、県大会参加校は196校。

 部活動の成績を伝える垂れ幕は男女で並んでいるが、その価値は大きく異なる。

 手堅い守備と1点をもぎ取る攻撃、その中で際立つ浩平とスタンドで応援に華を咲かせる女子班の存在に、各メディアは面白いように食いついた。

「さっき鬼頭先生を見かけたけど、なんかゲッソリしてたな」

 自分の準備を整えた浩平が、会話に加わってくる。

 顧問の鬼頭はメディアの対応も任されているらしく、通常業務とイレギュラー業務に振り回されているようだった。

 最近ではヘアマニキュアの手入れも行き届かなくなったのか、白髪が目立つようになってきている。

「おや、今や”プロ注目”の土浦選手じゃないですか」

 大会打率5割を超える新2年生の強打者には、2球団のスカウトから名刺を手渡されていた。

「何だよ」

「何でも」

 その片方の球団が珠音の兄―将晴―の所属する静岡サンオーシャンズで、兄の活躍を願う妹の立場としては少々複雑な心境だった。

「全員集合、アップ始めるぞ。とりあえず、新入部員は後ろに付いてきてくれ」

 キャプテンの野中を先頭に男女の区別なく隊列が組まれる。

 傍から見て頭の位置が凸凹で掛け声で2部合唱している様子も、4ヶ月が経過した現在では周囲からも違和感無く受け入れられている。

 花びらが散り若芽の萌える桜を、潮の匂いが仄かに香る春風が揺らす。

 総勢51名の部員を要するまでに至った鎌大附属硬式野球部は、過去一番の盛り上がりを見せていた。



 新しい仲間を加えてから1ヶ月が経過し、野球部はチームの底上げを着実に進めていた。

 あらゆる対応で鬼頭が指導に当たれない日が増える中、先輩から後輩への指導システムが浸透したことと県大会で上位に食い込んだ経験が、上級生を一回り大きくしたよう珠音には感じられた。

「紫陽花杯って、何ですか?」

 ミーティングで鬼頭から突如発表された名称に部員一同が首を傾げ、珠音がその思いを代表するように疑問を口にする。

「前に話しただろう。市内の硬式野球部がある6校で集まってちょっとした大会を開きましょうって話だ。名前も決まったし、時節も近付いたからな。概要を説明する」

 目の下の隈と白髪に疲労感を感じさせながら、鬼頭が大会概要を説明する。

「3チームずつ2ブロックで代表校を決めて決勝戦。チームとしては全部で3試合だな。5月末の土日で予選、6月最初の土曜日に決勝戦だ。春大会の戦績から考えて順当にいけば、うちとは別ブロックになった鎌倉海浜高校が当たることになるだろう」

 鬼頭はあくまで勝ち上がる体で話を進める。

「ベンチ入りは25名。他の5校の監督とは話をつけてあるから、今回ウチはAチームを編成して臨むぞ。これからメンバー発表する。聞き漏らさないようにな」

 男女混合のAチームと言いつつ、春大会のレギュラーメンバーから順に呼ばれていく。

 大きな違いは、先日の練習で捻挫した3年生遊撃手の佐竹に代わって、二神が『6』の背番号を貰ったくらいか。

「背番号10、楓山」

「はい!」

 ベンチメンバーで最初に名前を呼ばれた珠音が、元気のよい返事をする。

 春大会を経てエースの益田は大きく成長を見せ、珠音が『1』を奪い取るには残念ながら至らなかったが、練習へストイックに取り組む姿勢と持ち合わせた実力から、ベンチ入りに異論を唱える者はいなかった。

「背番号16、伊志嶺」

「は、はい!」

 3年生遊撃手の佐竹は捻挫の治療を優先させベンチ入りを見送ったこともあり、投手も兼任する二神には遊撃手としてのバックアップが必要になる。

 まつりは平静さを装っていたものの、醸し出す空気からは明らかに歓喜の様子が感じられた。

 鬼頭は25名全員に背番号を配り切ると、咳払いをしてから部員に向き直す。

「今回はこの25人で挑む。勝つために最善と思ったメンバーを選んだつもりだ。みんな知っての通り、うちは全国的に見ても稀有な男女混合チームだ。学年も性別も関係なく、誰にだってチャンスはある。選ばれなかったメンバーは次回こそ選ばれるよう励んでほしいし、選ばれたメンバーは易々とそのポジションを奪われないようにして欲しい」

 鬼頭の言葉に全員が応じ、この日の練習が終了する。

「......あれ、まつりは?」

 クールダウンする列に加わろうとした珠音が、まつりの姿が見えないことに気が付く。

「あそこ」

 横にいた浩平が指さしたのは、ベンチ付近からは死角になった場所だった。

 そこでまつりが蹲っているように見える。

「まつ――」

「珠音、空気読もうね。そっとしておこう」

 呼びかけようとする珠音を、夏菜が遮る。

 耳に意識を集中すると、小さくすするような声が聞こえてくる。

「よっぽど嬉しかったんだね」

「どこにも受け入れてもらえなかった所から、夢に一歩近付けたんだもの。無理もないね」

 2人はその場を離れ、グラウンドを後にする。

「私たちは間違ってないよ、珠音」

「ちゃんと前にも進めている。間違いないよ」

 前に進めるのは、前に進むための行動をした人間だけ。

 珠音の脳内に、女子班創設前のミーティングで鬼頭が言った言葉が反芻される。

 前進の成果が着実に現れていく様子を、珠音はその目で確認した。



 迎えた紫陽花杯当日。

 最寄り駅に集合した珠音たちは、大会運営で貸し切り分乗していた路線バスから降り、球場前で当日の動きを確認する。

 鎌大附属の出番はこの日の第2試合と第3試合で、ともに1塁側ベンチを使用する予定になっている。

「それにしても、益田先輩も何でこのタイミングで風邪ひくかねぇ。まぁ、私としては投げる機会が増えて嬉しいっちゃ嬉しいけど」

 バスの中で苦笑する珠音に、浩平が溜め息をつく。

「夏大会直前じゃなくてよかったよ」

 3年生エースの益田が大会直前に風邪を引いてしまい、当日の参加が難しくなってしまった。

 最後の大会直前だったら目も当てらない惨状に、チームメイトは復帰したら何を奢らせようか思案を巡らせていた。

「先発は初戦を二神、次戦は高岡でいく。楓山は両方の試合で途中からいくから、そのつもりでいてくれ」

 当初は益田の他に珠音、二神、高岡の2年生トリオで予選を回し、決勝戦は調子のいい選手で挑む予定になっていたが、当初の予定から計画を変更せざるをえなかった。

「ダブルヘッダーで連投は経験がないけど、たぶん大丈夫。身体も軽いし」

 珠音はブンブンと腕を回し、快調をアピールする。

「調子よさげじゃないか」

「男子相手の大会は秋以来だし、上手くいけば決勝でも投げられるからね。まぁ、まつり程じゃないけど、ワクワクしてるよ」

 擬音を付けるのであれば”ニシシ”という言葉が適した表情を見せる珠音が、チラリと背番号16を付けた背中を見やる。

 初戦の先発を遊撃手の二神が務めることもあり、スタメン出場が内定している。

「何よ」

 視線を感じて振り返ったまつりの表情を見る限り、平静さを装っているものの興奮を隠しきれていないのは明らかだった。

 真顔を維持しようと必死だが、口元は明らかに緩んでいる。

「そういえば、今日はまつりが一番に集合場所に来ていたと思ったら、バスの中では爆睡だったよね」

「ほほう、さてはまつりさん、楽しみすぎて昨日は寝られなかったのかな?遠足前の小学生じゃあるまいし」

 琴音に続いて夏菜がからかうと、まつりは顔を赤くして恥ずかしそうな表情を見せる。

「そ、そんな訳ないでしょ!」

 どうやら図星だったようだと、傍から見ていた浩平には感じられた。

「まつりって、可愛いよね」

「!?」

 珠音がポツリと素直な感想を述べると、まつりは頭から湯気を立ち上らせて黙り込んだ。

「勝ったな」

 試合前にしては緊張感が欠如しているようにも思えたが、浩平はみんながリラックスできていると考えるよう頭の中を切り替えた。



 迎えたこの日の第2試合にして鎌大附属の初戦は、手堅い野球を心掛けるチームにしては珍しく鎌大附属のコールド勝ちに終わった。

 単純に実力差が大きかったことも一因だが、二神に代わって遊撃手を務め1番に入ったまつりが外野への打球こそ放てなかったものの、持ち前の瞬足と選球眼を活かして全打席で出塁したばかりか盗塁も決める大暴れを見せ、流れを相手チームに渡さなかったことが大きい。

「あのピッチャー以外にも、すごい女選手がいたとは思わなかった」

 試合後に相手選手が呟いた言葉を、立花は聞き漏らさず取材ノートに残していた。

 既に珠音の存在は知れ渡っていたものの、まつりの存在はそこまで知られていない。当の本人は表情こそ崩していないものの、試合前以上に興奮気味な様子に見えた。

「私の出番、無かった!」

 一方の珠音は拗ねたような表情を見せ、ベンチに深々どっしりと座っている。

 一方的な展開で二神が完投したこともあり、2番手として登板予定だった珠音の出番は失われてしまっていた。

「次の試合ではあるから、我慢しろ」

 浩平が苦笑して、2戦目に備える。

 最も、彼自身も打棒が爆発した打者であり、珠音の登板機会を失わせた張本人でもある。

 珠音は”お前が言うな!”と言わんばかりの表情をした後、一つ溜め息を出す。

「まぁでも、これはうちが強くなった証拠か」

 以前も敗北こそしないレベルの相手ではあったが、チームとして圧勝できる程の実力は自分たちにはなかった。

「冬からの練習の成果さ。俺たちは、着実に前に進んでいるんだよ」

 成果は結果としても明確に現れつつある。

 浩平の言葉に対し、珠音は納得の表情を示した。



 限られた時間を有効に使うべく、間髪を置かずに二試合目の準備が整えられる。

「高岡は1巡を目途に行けるところまで行くぞ。楓山はその後と考えてくれ。二試合目、スタメンを伝えるぞ。みんな集合してくれ」

 既に先発予定の高岡はブルペンでの調整を終え、ベンチで汗を拭っている。

 前の試合で完投した二神はまだアイシング中で試合開始には間に合わないこともあり、二戦連続でまつりはスタメン出場することになり、意気揚々としている。

 試合は順調に進むが、先発の高岡は二巡目に入ると突如として苦しい投球内容になる。

 直球こそ速いものの球種は少なく、細かなコントロールが苦手な高岡は、あまり長いイニングを投げるのに向いてはいない。

 ランナーを二三塁上に置き、アウトカウントを一つとったところで、鬼頭は投手交代を主審に告げる。

「ピッチャー交代。背番号10の楓山」

 小走りにマウンドへ向かう小柄な身体に、球場に集まった観客の視線が集まる。

 全国区とはいかないまでも地域一帯に名前の知れ渡った”プチ有名人”の登場を、観客はまばらながら満開な拍手で迎え入れた。

 140km/h台を投げる速球派の高岡と比較すると、珠音の直球は物足りないようにも感じられる。

 それでも、スコアボードに表示された球速は120km/h台をコンスタントに叩き出し、珠音の言う通りの調子の良さを、浩平は”久しぶり”に肌で感じた。

「(そういえば、最近は練習でも珠音の球を受けることも殆どなかったな)」

 最近の投球練習でも、珠音は相変わらず舞莉を相手に投げ込むことが増えている。

 中学時代から磨き上げた直球とスライダーのコンビネーションで抑える投球術で先頭打者を三振に打ち取る。

 高校に入ってからも極め続けた同じスタイルに、浩平は無性に懐かしさを覚えた。

「セカンド!」

 次の左打者を内角に食い込むシンカーで詰まらせ、ボテボテの打球がグラウンドに転がり、二塁手が冷静に処理する。

 外角のスライダーで意識付けした後に内角球で詰まらせるスタイルは、この冬から取り組んだ練習の成果である。

「アウト!」

 一塁塁審の判定を受け、鎌大附属はこのイニングのピンチを切り抜ける。

「ナイスピッチ」

「サンキュ。あれ、何かこの感じ久しぶりだね」

 浩平とグローブを合わせた珠音は、まだまだ余裕の表情を見せている。

「楓山、このまま最終回までいくからな。土浦も配分を考えてやれよ」

「はい」

 あと6イニングは、珠音の独壇場になる。

 浩平の考えには、確信が込められていた。

 高校入学からこれまで磨き上げた技術に、力強さがプラスされている。

「負けられないな」

「ん、何か言った?」

「いや、何でも」

 相棒の前に進む逞しい姿に、浩平はまるで自分のことのように誇りを感じていた。



 エースの病欠を物ともせず、鎌大附属は決勝戦へと順当に駒を進めた。

 決勝の相手は、予想通り鎌倉海浜高校。

「結局、背番号のポジションで出場していないなぁ」

 二神が背番号6を溜め息交じりに見る。

 先発は珠音で、途中から二神がマウンドを引き継ぐ予定になっている。

「まぁ、そんなこともあるよ」

 先発予定の珠音が、苦笑交じりにスコアボードを見る。

 この日は打撃好調のまつりが遊撃手として先発し、二神は後の登板も考慮して負担を軽減するべく、左翼手として出場を予定している。

 前週の二試合目では結局代打だけの出場に留まってしまい、折角遊撃手のレギュラー背番号を貰ったのにも関わらず遊撃手としての出場を果たせなさそうでいた。

「その点は申し訳ないと思っているよ。是非とも、ボヤキの種を夏の大会で晴らしてくれ」

 鬼頭が苦笑して二神の肩を叩く。

 他に際立ったキャラクターを持つ選手が多いため隠れがちな存在だが、投手としても遊撃手としても二神の実力はこの数ヶ月で格段に向上している。

 元々身体能力の高さは際立っていたが、最近では身体の使い方を覚えたというより”思い出した”という表現が適しているように思える。

 特に、咄嗟の瞬発力とパンチ力は格段に飛びぬけており、レギュラーの3年生のケガがなくても実質的にレギュラーを任せる価値はあると、鬼頭は感じていた。

「さて、小さな大会とはいえ、勝ちに拘るにはいい相手だ」

 春大会の戦績から見れば互角の戦いも、地力では強豪校の一角と目される相手の方が有利と言える。

「腕試しの相手として申し分はない。相手の胸を借りるつもりで、思い切りぶつかろう」

 鬼頭の言葉に応えたメンバーが一列に整列し、主審の合図に合わせて本塁付近で相手校に相対する。

 着実に前に進む教え子たちを、鬼頭は心から頼もしく感じていた。



 週明けの授業終わり。

 この日も教鞭をとった鬼頭は一日の徒労を深い溜め息として吐き出し、仕事の供としてこよなく愛するブラックコーヒーに口をつける。

「酷い顔だな」

 液面に映る自分の表情は、暗く疲れて見える。

 普段の業務をこなしながらも両肩にのしかかる部活動の諸事は、身体的にも精神的にも鬼頭に負荷をかけ続けていた。

 なかなか気が休まる機会がなく、ぐっすり眠れている気がしない日々が続いている。

「よっ、優勝おめでとう」

 谷本が地方紙と地域紙を手に持って、疲労の隠しきれていない同期を労う。

「春大会に続いての好成績、素晴らしいじゃないか」

「どーも」

 手渡された2つの紙面の片隅に、数日前まで開催されていた”紫陽花杯”の結果が記されている。

 鎌大附属は鎌倉海浜高校を接戦で打ち破り、小規模大会ながら優勝という輝かしい成果を収めていた。

「おや、嬉しそうじゃないな」

「そうでもないさ。また一歩、目標に近づいた生徒たちの成長は、指導者としてこの上ない程の喜びだが?」

「無表情で言う台詞かね」

 硬いままの表情を谷本に指摘され、観念したような溜め息を出す。

「足りないんだよ」

「足りない?」

「あぁ、足りない」

 鎌大附属硬式野球部は男女別チームとしても混合チームとしても、着実な成果を収めつつある。

「流れは少しずつ俺たちに向いている。それは確かだ」

 少々出来すぎな点は否めないが、メディアへの積極的な露出はインターネット上での議論という成果を生み、その場ではおおよそ好意的な意見を頂いている。

 生徒たちも、学内のボランティア部と協力して署名活動や地域の清掃活動に精を出しており、身近な理解も徐々にだが得られつつあると評価していいだろう。

「それでも、足りないんだよ」

 鬼頭の深い溜め息に、谷本は心配そうな視線を送る。

「野球部を大会に挑む船に例えれば。間違いなく潮流を捉えつつあると言っていい。だが、いくら帆を広げても風が吹かない。吹いていたとしても弱々しかったり、せっかく強い風だっとしても俺たちが捉えきれていないんだ。あいつらのための最後の一手を、俺は見つけられていないんだ」

「鬼頭......」

 谷本は鬼頭の肩を叩き、日々の苦慮を労う。

「まったく、そういう文学的な表現を数学教師にされてしまうと、国語教師としては立場がないじゃないか。理系なら理系らしく、文学より理論や数式を愛して欲しいものだな」

「別に、理系科目が得意だっただけだ。理系が文学を好むことに何の問題がある」

「それもそうだ」

 谷本が肩をすくめ、鬼頭の肩を軽く叩く。

「焦りは禁物だ。着実に流れが来ているのは、当事者でない俺たちだって把握している。学校にも好意的な意見”も”多く寄せられているからな。少し離れた場所から見ている立場から言わせてもらうが、野球部の取り組みは間違ってはいないさ」

「だからこそ――」

「だからこそ、だ。お前の言う推進力となるべき風を、お前のつまらん焦りが原因で見落とす可能性だってあるんだ。確実にチャンスは来るから、逃すんじゃないぞ」

 谷本はニヤリと笑みを浮かべると、鬼頭のマグカップへコーヒーミルクを入れ、スティックシュガーをこれでもかと入れる。

「お、おいっ!」

「お前の疲れた脳にはちょうどいいだろう。というか、刺激物で身体に鞭打って仕事をこなすのは、今のご時世じゃあまりいい趣味とは言えないな。世は働き方改革だ。ちゃっちゃと糖分を補給して、自慢の生徒たちの所に行け」

 谷本はひらひらと手を振り、自分の席へと戻っていく。

「まったく......」

 恐る恐るミルクコーヒーに口を付ける。

「甘っ!」

 尖った刺激はどこへやら。マイルドに変化した口当たりの後、いっぱいに広がった甘味に、鬼頭は思わずむせ返りそうになる。

「......いい息抜きにはなったか」

 液面に映る表情は、ミルクのおかげかいくらか明るくなったようにも見える。

 マグカップの中身を飲み干し、練習に参加しようと着替えるべく席を立つその足取りは、どこか軽やかに見えた。


* * *


「先生、大丈夫ですか?」

 海から程近く、遮るもののない太陽が、グラウンドを燦々と照らす。

 険しい表情で胸をさする鬼頭に、真意を図りかねた珠音がベンチに置いたタンクから水をコップに入れて差しだす。

「ありがとう。気にするな、ただの胸やけだ」

 気分はいいが、気持ちは悪い。

 後で苦情の一つも入れてやろうと、鬼頭は心に決めた。

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