2回裏 立ちはだかる壁
Bottom of 2nd inning ―立ちはだかる壁―
高校硬式野球界が秋季大会で熱を帯びる中、一足先にその輪から離れた鎌大附属の面々は、来たる私設大会への参加に向けて再始動していた。
「湘南杯?」
練習終了後、集合した部員たちに鬼頭が告げた大会名は、一同の首を傾げさせた。
「あぁ、相模湾沿岸地区の高校硬式野球部による小規模大会の開催案が数年前から出ていて、いよいよ形になった訳だ。鎌大附属にも誘いがあって悩んでいたんだが、参加登録をしておいたんだ」
鬼頭が説明した大会より、むしろ部員たちは別の点に意識が向いているようだった。
「鎌倉って、湘南か?」
「湘南って、江ノ島より西だよな」
「鎌倉は鎌倉だろ」
神奈川県民の特色として、県外出身者への自己紹介では自らの出身地を県名ではなく、通称名や市町村名で伝えることが多いと言われている。
川崎市では在住地の通称名、横浜市は地区に限らず”横浜”と全国的に有名な呼称で、県南部の相模湾沿岸地域はまとめて”湘南”と通称されるが、鎌大附属の位置する鎌倉市は県の示す行政区域では厳密には”湘南”に含まれず、単に”鎌倉”とだけ呼称されている。
認知度の低い県名よりも土着の名称を好む傾向が県民性として挙げられることもあり、その傾向が部内でも見られただけである。
「いや、この際はどうでもいいだろ」
茨城県出身で、大学進学以降に神奈川県へ定住した鬼頭にとっては少々縁遠い話題なようで、部員たちの主張にやや呆れたような表情を見せていた
「期間は10月下旬から11月中、土日祝日に集中開催される予定だ。西地区と東地区に別れたトーナメント方式で、両地区の優勝校が決勝戦を戦う予定になっている」
「うちは当然の如く東地区でしょうけど、どこが東西の境目になるんですか?」
「相模川の東西と思ってくれればいい。基本は茅ヶ崎より東と、平塚から西」
その後も、鬼頭から大会の概要が伝えられていく。
計32校の参加が決まったこと、当初より過密日程が予想されたこと、オフシーズンに差し掛かることの3点を利用に、選手のケガ防止の観点から投手には80球の球数制限を設け、ダブルヘッダーの連続登板は禁止、試合は7イニング制を採用し、ベンチ入りメンバーは最大25名までとされた。
7イニングで試合が終了せず延長戦に突入した場合、タイブレーク制でノーアウト、ランナー1、2塁から開始し、決着がつくまで実施。
決勝戦のみ9イニング制で開催され、延長戦は同一ルール。3位決定戦は行われず、同率3位として表彰される。
「概要は私からグループにアップしておきますね~。プリントの写真、後でスマホに撮らせて下さい」
「助かる」
夏菜がメモを途中で諦め、鬼頭もその提案に乗る。
便利ツールは活用してこそ価値がある。
「なるべく全員にチャンスを与えるつもりだ。地区大会の時のレギュラーは白紙だと思ってくれていい。背番号は学年とポジション別に割り振るが、全員が横並びのつもりでいてくれ。これから、背番号を配布する」
鬼頭の指示を受け、夏菜が背番号の入った段ボールを持ってくる。
現在の鎌大附属野球部員は総勢25名で、今大会では”全員”のベンチ入りが可能である。
背番号は鬼頭の言う通りにポジションを考慮した学年順で配布されたが、チームメイトはそれでも盛り上がりを見せ、ライバルの選手間で互いの健闘を誓い合う。
「......大会ね」
その様子を、珠音はやや冷めた視線で見守っていた。
先日、吹奏楽部部長の水田舞莉から投げかけられた言葉は、珠音の心を収まることなくかき乱し続けていた。
自分でもハッキリとしなかった気持ちを他人の指摘で鮮明にされて以降、自身では整理がつかないままになっている。
かと言って、誰かに相談するのも”お年頃”だけに難しく、ただ延々と出口の見えない迷路を闇雲に進んでいるかのようだった。
「珠音、呼ばれているぞ」
「......ふぇっ!?」
浩平から不意に肩を叩かれ、珠音は素っ頓狂な声を上げる。
意識を自分の内側へ向けていたこともあり、虚を突かれた形となった。
「楓山、いらないのか?」
「え、えぇ!?」
鬼頭が眉間に皺を寄せ、『18』の背番号をひらひらとさせている。
「私、出られるんですか?」
「前に言っただろう。連盟規定外の私設大会だったら、お前だって出場可能だ。ついでに言うと、大会運営にはちゃんと確認をとってある。まさか、忘れていたのか?」
「い、いぇ......」
正直なところ全くもって覚えていなかったのだが、それを素直に言うのは憚られた。
「忘れてたと思いますよ」
「う、五月蠅い!」
大庭に茶化され、グラウンドに珠音の大声が響く。
「何だ、元気じゃないか」
鬼頭が皺をほどき、改めて背番号を差し出す。
グラウンドに響き渡っていた珠音の声はここしばらく鳴りを潜めており、あまりの変貌ぶりは職員室でも心配の声が上がる程だった。
「あ、ありがとうございます」
珠音は背番号『18』を受け取ると、その場から動かず俯いてしまう。
「......どうした?」
鬼頭が恐る恐る珠音の表情を覗き込むと、珠音は手を震わせ目を赤く腫らせていた。
「い、いえ」
珠音は盛大に鼻水をすすり、大きく深呼吸する。
「分かっていたつもりだったんですが、背番号を貰える権利すらなくて、試合に出られないのがこんなに辛いものだなんて、想像していた以上でした」
先程まで盛り上がっていたチームメイトたちが、珠音の言葉をジッと静かに聞いている。
「背番号を貰えることが、こんなに嬉しいのは初めてです。この大会、頑張ります!」
珠音の心に刺さった棘が抜け落ちた瞬間だろうか、久し振りの笑顔を見せる。
「さぁ行こう、エース!」
キャプテンの野中が声を上げて手を叩き、周囲がそれに便乗する。
プロでの所謂エースナンバーと夏季休暇中の実質的なエースが掛け合わさっている。
「負けねぇぞ」
地区大会で主戦投手を務めた2年生の益田や同学年の高岡が歩み寄る。
「バッテリーを組めるな」
浩平が左手を握り、珠音へ差し出す。
「頼むぜ”女房”」
2人の間で幾度も交わされたグータッチ。
不意に懐かしさを覚えた浩平がよくよく思い返すと、これが高校に入ってから初めて交わされた儀式だった。
迎えた”湘南杯”初戦は、運よく秋晴れに恵まれた。
東地区は八部球場と俣野公園球場に、西地区は小田原球場と平塚球場に4校ずつが集まり、朝からトリプルヘッダーで2回戦まで終了する運びになっている。
鎌大附属は八部球場の2試合目が初戦となり、勝利を収めると続けての試合となる。
スケジュール上、勝ち進めば翌週も同一球場での地区準々決勝、準決勝のトリプルヘッダーが予定されている。
「珠音、応援に来たよ!」
「来てくれてありがとう!」
投球練習の最中、同じクラスで吹奏楽部所属の桐生琴音から声を掛けられる。
高校に入って初めて出会った2人だったが、名前の語呂が近く、且つ出席番号順となった座席順で前後になったこともあり、すぐに打ち解け親しい間柄になっている。
「背番号、本当に貰えたんだね。今日は出れるの?」
「嘘を言っても仕方ないじゃない。スタメンで先発だよ!」
部活が休日ということもあり、友人を引き連れてスタンドへ駆け付けてくれていた。
今回の大会では演奏応援は決勝戦のみ認められているため、吹奏楽部としての活動はそもそも予定されていない。
それでも、試合会場が比較的交通の便のいい場所ということもあり、チームメイトの友人も多く駆け付けてくれていた。
「やぁ、今回は試合で投げられるんだね」
「...どうも」
その中には、吹奏楽部部長にして珠音の心中を搔き乱した張本人である水田舞莉も含まれていた。
「どうしてここへ?」
「自分の学校の応援に来ちゃいけないのかい?まぁ、私を邪険に扱うのは無理もないか」
舞莉は飄々とした様子を見せると、デジタルカメラのレンズを珠音に向ける。
「えっ」
「うん、いい瞳だ。この前とはまるで別人とも感じられるよ」
舞莉は写真を満足そうな表情で確認する。
「いや、急に写真撮らないで下さいよ。しょ、肖像権の侵害!」
「使い慣れない言葉を使うものじゃないさ。今回は、君たちの取材だよ”しゅ・ざ・い”。私は吹奏楽部と新聞部を兼部していてね。うちの吹奏楽部は緩いし、アンコンだってだいぶ先だし、たまには新聞部員としても貢献しないと。ついでに言うと、写真部も兼部しているんだ」
「......あんこ?」
舞莉の言う”アンコン”は毎年3月に開催されるアンサンブルコンテストを示しているのだが、業界違いの珠音には理解できなかった。
「それに、君は人の視線に慣れておいた方がいいよ。君は目立つ存在だし、少なからず好奇の視線を集めることになるだろうからね」
「は、はぁ.....」
口から思わず零れそうになった”そんなものには慣れている”という言葉を何とか飲み込み、珠音の返答は曖昧なものとなる。
「ほれ、珠音」
「あぁ、ごめん!」
浩平に釘を刺され、慌てて投球練習に戻る。
「おや、これ以上邪魔してしまうと、君のパートナーからも取材NGを喰らってしまいそうだね。取材対象は君だけじゃないし、失礼されてもらうよ」
舞莉は返事を聞かずにその場からそそくさと離れ、珠音の視界には見えなくなる。
「誰?」
投球練習を終えると、浩平が駆け寄ってくる。
「吹奏楽部部長の水田先輩」
「へー、知り合いなんだ」
浩平の”知り合い”という言葉に、珠音は首を傾げる。
「知り合いではないかな。一方的に知られている感じ?」
「何だそりゃ」
浩平の反応は、至極当然だと思われる。
まだ2回しか会話していないのに、一方的に人の内面を見透かされたり、やけに親し気に話しかけられたり。
いまいち、水田舞莉という人間を珠音は理解できないでいた。
「今度、琴音に聞いてみるか」
「何か言ったか?」
「いや、ごめん、なんでもない」
珠音の独白に対し、浩平が敏感な反応を見せる。
これから試合が始まるというのに、先発投手が集中力を保てていないのは、女房役として頂けない。
浩平が珠音の右肩を軽く叩くと、珠音の表情が変わる。
「集中していくぞ」
「もちろん。私にとっては数少ないチャンスだし、無駄にはしたくない」
珠音はグローブを外して脇に抱えると、両頬を自分の手で叩き気合を入れ直す。
「あぁ、楽しんでいこう」
「うん」
試合開始まで10分を切る。
珠音から雑念が消え、心は試合に挑む高揚感で満たされた。
大会初日の鎌大附属野球部は、秋の県大会とは別チームではないかと疑われる程の圧倒的な力を見せつけた。
初戦の先発を託された珠音は公式戦に出場できなかったこれまでの鬱憤を晴らすかのような快投を見せ、対戦校の打線に2塁ベースを踏ませることなく5イニングで10三振を奪い、2番手を任された二神も見事バトンを受け、完封リレーを完成させた。
「120km/h出てたんじゃない?」
「確かに、練習以上だった気がするよ」
国内女子野球では、トップ選手であっても130km/hに達することはなく、平均球速となれば110km/h程度に留まる。
試合中にスピードガンで球速を測定していた訳ではないが、珠音の球速は普段からコンスタントに110km/h台後半を記録している。
浩平の感覚では120km/h台後半を記録する二神よりも少し遅い程度で、珠音の見立ては間違いではない。
惜しくも球数制限の前に絶好調の投球を見せていた珠音は降板せざるを得なかったのだが、珠音の興奮は降板後のベンチでも続いていた。
ダブルヘッダー2試合目も1試合目の勝利の勢いをそのままに、右翼手として連続出場した浩平と、地区大会では捕手としての出番を奪われた2年生捕手の高橋が揃って活躍。投げては地区大会で背番号『1』をつけた益田が高岡との継投で相手打線を寄せ付けず、見事2回戦突破を果たした。
敢えて口には出さないが、珠音のベンチ入りの効果だと誰もが実感していた。
規定の前にベンチ入りの権利すら与えられなかった秋季地区大会と比べ、明らかにチームの雰囲気がいい。
部に加入してから間もなく7か月が経過しようとしていたが、珠音の存在は正しくチームの中心と言っても過言では無い。
「来週の準々決勝は益田、二神の継投で行くぞ。無事に勝ったら、準決勝は楓山と高岡の2人だ」
「確か、順当に行けば準決勝では......」
「あぁ、湘南義塾に当たるはずだ」
湘南義塾高校は県内でも野球の強豪校として知られている。
秋季県大会でもベスト4入りを果たしており、今大会でも2回戦で同じく強豪校と目される鎌倉海浜高校を県大会の勢いそのままに下し、もはや優勝候補の競合相手はいないとまで言われている。
「今のお前らだったら、次の準々決勝は確実に勝ち抜けるはずだ。楓山なら、周囲から大番狂わせと言われる程の成果を残せるかもしれん」
鬼頭の判断に全員が納得する。
2年生の益田の実力なら準々決勝の対戦校で、中堅と目される藤沢中央高校と対等な試合ができる。
対して、湘南義塾のような強豪校に対する実力不足を覆せる程の意外性はない。
珠音なら相手の虚を突き、拮抗した試合展開を生じ得る可能性が十分考えられる。
鬼頭の采配が珠音の持つ意外性に賭けたのものだと、チームメイトは皆理解していた。
「絶対、決勝に進んでやる」
無論、珠音も自分に寄せられた期待を正確に理解しており、自分が大事な試合で先発のマウンドを任された事実をひしひしと感じている。
更に言うと、彼女にとっては試合前の高揚感をもたらす要因はそれだけではない。
公式戦に出ることができない今、県大会決勝で使用される横浜スタジアムや、全国大会で使用される明治神宮球場や甲子園球場のマウンドに立つ夢は”現実的に”叶いそうもない。
決勝戦の舞台となるのは、プロ野球の公式戦で使用されることもある平塚球場。
届かぬ夢を現実として捉えている珠音にとって、夢舞台のマウンドに立つ自らの姿を想像するだけで、武者震いが止まらなくなった。
迎えた準々決勝当日も秋晴れにこそ恵まれたものの、前週と打って変わりカレンダーが11月を迎えていたことを思い出させるには十分な寒さだった。
最も、試合を控える興奮からか、選手たちは寒がる素振りを見せていない。
「舞台は整えたから、頼むぞ」
藤沢中央高校との準々決勝は2年生エースの益田が意地の投球を見せて接戦を制し、もはや事実上のエースと言える珠音は、順当に勝ち上がった湘南義塾との準決勝のマウンドに立つ機会を得た。
「ありがとうございます、先輩!」
クールダウンする益田の横で、珠音が準決勝に向け肩を暖める。
「ラスト!」
ブルペンで投じた最後の一球がミットに収まると、珠音と浩平はボールで緩い弧を幾度も描きながら小走りで近付く。
「それにしても、あいつら露骨だよな」
浩平が渋い顔をして語る露骨さとは、相手チームから珠音に送られる視線を示している。
第1試合を戦った湘南義塾は第2試合をスタンドで観戦後、グラウンドに姿を現して以来、事あるごとにチラチラと様子を伺ってきている。
動物園で珍獣を見つけた時のような好奇心か、はたまた学年で1番とは言わないまでも可愛らしさと親しみやすさを兼ね備えた整った容姿に色めき立っているのか。
「まぁ、そんなもんじゃない?」
珠音は特に表情を変える様子もなく、興味がないようにも見える。
最も、中学入学以来、周囲から向けられる視線と何ら変わる物ではなく、慣れてしまっているだけなのかもしれない。
「そうだな。それより、今日もいい調子じゃないか」
「身体が軽い軽い。スピードガン、測ってくれないかなぁ」
「その事なんだけど、今日は少しスピード控えめで、コントロール重視な」
「えっ、何で。多分120kmくらいは今日も出ていると思うんだけど」
「それだよ、それ」
珠音は理解できないといった様子で、首を傾げる。
「湘南義塾は県大会で強豪校と渡り合ってきた訳。準々決勝の相手ピッチャーのストレートもそこそこ速かったけど、打線は難なく打ち返しているように見えた」
「ほう」
珠音はそこで、第1試合をスタンドで観戦していた時に浩平が真剣な目付きでひたすらメモを取っていたことを思い返す。
「なる程、あの時のメモは考えをまとめていたのね」
「何だ、見ていたのか。相手がベストメンバーを組んでくるとは思わないけど、バッターは共通して速い球に目が慣れていると考えていいだろうから、珠音が全力で投げるストレートはコントロールが若干甘いし、相手から見れば打ち頃かもしれない」
“打ち頃”の言葉に珠音は不満気な表情を見せた後、大きな溜め息を出す。
「まぁ、そんなもんだよね」
息を吐き出した後、表情は納得したような雰囲気に変わっていた。
「それで、打ち頃の速球を投げるくらいなら見慣れない遅い球で勝負しようって訳ね」
「そういうこと。見る限りスイングスピードも速いし、遅い球の方がアジャストするのが難しいと思う。速球と使い分けするから、サイン増やすよ」
「分かったよ、相棒」
珠音と浩平はグローブとミットでタッチを交わす。
後は試合開始を待つのみとなった。
両チームのベンチ入りメンバーがホームベースを挟んで相対し、挨拶の後に後攻の鎌大附属がグラウンドに散らばっていく。
整列の際に際立ったのは、湘南義塾の選手の身体の大きさと、ひと際華奢な珠音の体躯。
「写真を撮っておけばよかった。見せてあげたいな」
「え?」
1塁側ベンチに陣取った鎌大附属の頭上スタンドには、この日も数人の学生が応援に駆け付けている。
新聞記者気取りの舞莉がカメラを構えながら漏らした呟きに、ストールで身体をグルグル巻きにして寒さ対策をしている琴音が反応する。
「エースちゃんが女子とバレずに試合に出られないものかと思ってね」
「あぁ、普通じゃルールで出られないんですよね。この大会は特別に出られるって」
「そ。まぁ、髪を丸坊主にして、胸を目立たないように押し潰したとしても、あれだけ身体が華奢じゃバレるな」
「確かに」
夏休みに珠音らが議論していた内容だが、整列時の後姿から察するに、あらゆる手立てを施したところでも隠し様がなさそうだった。
マウンドに1人立つ姿は、より小さく見える。
「プレイ!」
審判の試合開始を告げる掛け声が、冬の澄んだ空気に響き渡る。
「さぁ行こう!」
三塁手を務めるキャプテン野中の声を皮切りに、両軍ベンチから声が溢れ出る。
湘南義塾側はそこに加え、ベンチ入りが叶わなかった多くの部員がスタンドからも声援を送っており、鎌大附属は迫力という面で初手から圧倒的劣勢に立たされた。
「女が先発かよ」
湘南義塾の先頭打者が打席に入るや否や、浩平へ侮るような言葉を掛けてくる。
「それが何か?」
「別に、可愛がってやるよ」
「(舐められているな)」
浩平は打者を一通り観察した後、視線を珠音に送る。
「すごい、まるで私が大声援を受けているみたい」
珠音の強心臓は押し寄せる声援の圧に屈する様子を見せておらず、むしろ笑みを浮かべ余裕さえ感じさせた。
「何で笑っているんだか」
浩平が苦笑交じりにサインを出すと、珠音は小さく頷き投球動作に入る。
初球は打ち気を削ぐような緩いカーブ。
「ボール」
大きく弧を描くような球筋でミットに収まった初球で、カウントボードに緑色のランプを1つ灯す。
「おっそ」
「(独り言の多い奴だ)」
浩平は心の中で独り言ちると、2球目のサインを送る。
珠音は信頼の表情を浮かべて頷くと、先程とは打って変わって力強い速球を投げ込み、打者はピクリと反応を示しただけで見送る。
「ストライク」
手から離れミットに収まるタイミングと左手から全身に伝わる感覚から、球速は120km/hといったところか。
「(表情が変わったな)」
初球との球速差はおよそ40km/h。
脳裏へ速球を強く意識付けられたことが、打者の表情の変化から見て取れる。
3球目の指示は事前に打ち合わせたコントロール重視のストレート。
打ち気に逸った打者は自身のスイングスピードと僅かなタイミングの誤差も合わさり、バットの先端にようやく当てたものの打球は力なく投手の前に転がっていく。
「くっそ」
打者は悪態をつき一塁ベースへ向け駆け出す。
珠音は落ち着いてゴロを処理すると、カウントボードには赤いランプが1つ灯った。
「ナイスボール!」
「ナイスピッチ!」
内野陣から続けざまに声をかけられ、珠音は一つ一つに小さく頷いて応える。
アウトを告げられた1番打者は悔しそうな表情を浮かべながらベンチに戻り、チームメイトへ珠音の印象を語っているようだった。
「(意外と速いとか伝えてくれていないものかな。スピードガンは表示されないし、妙な認識を持ってくれるとありがたいんだが)」
2番打者への配球は外角を中心に見せ球として変化幅の大きいスライダー、遅い球、緩いカーブ。
運よく2ストライクと追い込めたこともあり、浩平は思い切って内角への速球で勝負に出ることにした。
珠音は浩平の要求を寸分たがわず理解し、大きく頷く。
「ストライクアウト!」
無言で交わされたバッテリーの会話の結果は、打者の中途半端な空振りの後、ミットにボールが収まった際の乾いた音と審判の三振を告げるコールとして結実する。
首を傾げベンチへ下がっていく2番打者と、これから打席に向かう3番打者が一言二言交わし、情報交換する。
「(さて、初球)」
浩平が出した遅めのストレートのサインに、珠音は”ニヤリ”と形容されそうな笑みを見せ頷く。
珠音の左腕から投じられた”打ち頃”の直球は、金属バットとの甲高い衝撃音をグラウンドに響かせる。
しかし、僅かに芯を外れたためか打球に勢いだけでなく角度もつかず、やや強めのライナーは無情にも一塁手を務める高橋のミットにすっぽりと収まる。
一塁塁審が”アウト”を宣告すると、守備陣は持ち場を離れ、攻撃側は首を傾げ、やや項垂れた様子でベンチに戻り、カウントボードに灯った2つの赤いランプが消える。
「ナイスピッチ!」
チームメイトが若干興奮した様子で、強豪校の上位打線を三者凡退に抑えた珠音を迎え入れる。
流れは自分たちにある。
湘南義塾の出鼻を挫くことに成功した鎌大附属ナインは、根拠の無い自信で心を大いに奮わせた。
初回は両軍0点で終了。2回表は走者を1人出したものの、”優勝候補”湘南義塾の打線は阿吽の呼吸を感じさせるバッテリーの前に快音を響かせられないでいた。
湘南義塾の7番打者を打ち取りベンチに戻ると、浩平は慌ただしく防具を外し、打席の準備に取り掛かる。
浩平は1年生ながら秋季地区大会と同様に打線の中軸を任され、この日も5番打者を任されている。
「浩平の作戦通りだね」
「一巡目はこれで抑えられそうだな」
浩平の読み通り湘南義塾の打者は悉くタイミングを外され、力無い打球を飛ばし続けていた。
単に遅い球にアジャストできないだけでなく、珠音の思い切り腕の振る姿からは想像できない程に球が”来ていない”ことも合わさり、スイングを早く始動してしまうためだと浩平は考えていた。
「まぁ、強豪校ならではの錯覚か」
「ん、どうしたの?」
「いや、何でもない」
珠音が喉を潤し、浩平が自分のバットを手に取ると、鬼頭を中心とした円陣に加わる。
「まだ2回だが、格下と侮っていた相手から流れを掴めずにいることに焦りが生じてくるはずだ。何せ、この大会は7イニングしかないからな」
普段と比べて少ないイニング数の試合では、流れを掴めば一気に勝負が決まる可能性も否めない。
鬼頭はこの大会のルールを存分に活かすべく、チームへ指示を伝達する。
「あのピッチャーは制球に難があるらしい。粘って見極めればお前たちでもチャンスは十分だし、先制した方に流れが一気に傾く可能性だってある。隙をしっかり突いて、まず着実に1点を取りに行こう」
鬼頭の指示を受けて円陣が解かれると、次打者の浩平はヘルメットを被りネクストバッターズサークルへ向かう。
「確かに、コントロールは悪そうだったな」
鬼頭の指示を思い返しながら、前の回の投球内容を思い返す。球の力強さは感じられたが、カウントを自ら悪くする傾向が見られる。
今も4番の野中がフルカウントまで粘り、厳しいボールも必死に喰らいついてファールで逃れていた。
「ボールフォア」
ついに相手投手が根負けし四球をもぎ取るのを確認すると、浩平は3度素振りをしてから打席に向かう。
「さぁ行こう浩平!」
ベンチから大庭の賑やかな声援が聞こえてくる。
相手チームと比べると遥かに少ない声援でも、背中を押す力は変わらない。
「お願いします」
主審へ小さくお辞儀し、バッターボックスに入る。
「点を取らなきゃ勝てないからな」
「ん?」
「いえ、独り言です」
浩平は足元を整えると、バットを正面へやや倒し気味に大きく構える。
特に相手を威嚇する意図がある訳ではないが、先日測定してみた際に180cmに達していた大きな体躯は、細身とはいえ威圧感を与えるには十分である。
4番を務める野中がやや小柄なことも相まって、相手投手も警戒心を強め表情が引き締まったようにも見える。
そして、過剰な警戒はかえって隙を生む。
鬼頭の狙いは見事に的中し、浩平に投じられた初球はベルト付近、所謂ストライクゾーンのド真ん中へ吸い込まれるように進む。
投手が”しまった”とでも叫びそうな表情を見せ、ボールがミットに収まろうとする直前、それを遮るように現れた浩平愛用の黒色バットが甲高い金属音を響かせると、ボールは強引に進行方向を変えられ左翼へ大きな弧を描く。
「行け、行け!」
「入れ!」
一塁側ベンチではメンバー全員が総立ちとなり、珠音は身を乗り出して浩平の放った打球の行方を追う。
自身の声援が物理的な後押しになるとは思わないが、それでも身を乗り出さずにはいられない。
飛球を追う左翼手の行く手を、両翼が91mと小さな球場のフェンスが遮る。
左翼手は思い切り腕を伸ばし垂直方向へ跳躍するが、滞空時間の長い飛球はその頭上を悠々と越えると、フェンスからさらに奥に設置されたフェンスに衝突し、鈍い音を立てた。
直後に沸いた少数の歓声と、それに勝る大きさ溜め息がグラウンド上の空気を奮わせ、試合は早くも番狂わせを期待し始めた。
流れ。
勝負事において目に見えない潮流をその手にした場合、どのような悪手も損害は軽微となり、相手の有効打はその尽くに不運が付き纏う。
カルト染みた結果の繰り返しは所謂"魔物"と称されるに到り、選手たちは物語をより華やぐための生贄となる。
「くそっ!」
湘南義塾の5番打者がグラウンドへ快音を響かせるものの、打球はその進行方向へ偶然に差し出された珠音のグローブにすっぽりと収まり、球審からは"アウト"か宣告される。
悔しさのあまりバットを地面へ叩きつけそうにのる衝動を抑え、打者は自陣へと引き下がった。
試合は4回表の二死まで進み、両軍は互いの先発投手を捉え切れないまま鎌大附属の2点リードで進行していた。
「何か、相手の空回り感が半端ないね」
「微妙に感覚がズレているんだろうな」
ベンチで夏菜がスコアシートを記入しながら呟いた言葉に、二神が反応する。
「ズレ?」
「楓くらいの小柄な投手は他校にもいるだろうけど、もう少し球速が出ているものだと思うんだ」
「確かに、練習試合で小柄な男子もいたわね」
「今日の楓は多少スピードを抑え目にして、コントロール重視の組み立てを浩平がしているけれども、見かけ上は思い切り腕を振っているようにしか見えない。しかも男女で圧倒的に筋力も違ってくる。相手も伊達に強豪校と言われているだけに、その錯覚でタイミングを外されてしまって、いい当たりも正面を突いてしまうんじゃないかな」
浩平の目論見を、二神がまるで事前に聞いていたかの如く完璧に言い当てる。
「そんなもんかなぁ」
「恐らくは、そうだろうな」
2人の会話を聞いていた鬼頭が、感心したような口調で近付いてくる。
「俺も期待していた部分ではあったが、土浦が見事に目論を果たしたリードをしてくれている」
「へー、浩平すごいじゃん」
メガホンを手にした大庭が、やや楽観的な表現を見せる。
「それに加えて、試合前に侮っていた楓山の投球を捉え切れていない分、あちらは焦りが出始めている。守りのミスさえせず、流れを向こうに渡すようなことさえしなければ、勝利を手繰り寄せられる可能性が高くなるはずだ」
鬼頭の予測は的中していた。
打てそうで捉えきれない珠音の投球の前に打線は沈黙を余儀なくされ、焦りのあまり早打ちの傾向を見せている。
正確なコントロールを武器としていることに加え、球速が遅く下手に対応できてしまう分、バットが空を切ることも、打球がファールグラウンドに飛ぶことも少ない。
したがって、珠音は球数を要することもなくアウトを稼ぐことができている。
「次の回は高橋に打席が回るから、出塁したら大庭は代走に出てくれ。そのままファーストの守備に入れるから、そのつもりで準備をしておいてくれ」
「分かりました。勇翔、相手頼む」
「はいよ」
二神が自分のグラブを手に取ると、2人はベンチを出て試合進行の邪魔にならない場所でキャッチボールを始める。
「このままいってくれれば…」
鬼頭が独白したところで、グラウンドにやや鈍い金属音が鳴る。
「ショート!」
「オーライ!」
グラウンドには浩平の声に続き、内野陣の指示出しの声、そして応えるように遊撃手を務める松原の声が響く。
フラフラと舞い上がった打球はその身を地面に着地させることなく、グラブのポケットへスッポリと収まり、湘南義塾の攻撃は敢え無く3人で終了した。
一方の鎌大附属打線も、投手力や守備力の地力に勝る湘南義塾の前に、浩平の2ランのみに抑え込まれていた。
「何だか、試合がサクサク進みますね」
「そうだね~、投手戦ってやつだ。所謂玄人好みの試合展開ってやつだね」
スタンドで観戦する舞莉と琴音が、水筒に入れてきた温かい紅茶で寒さを凌ぐ。
4回裏の鎌大附属の攻撃は、前打席で本塁打を放った浩平を警戒するあまりにバッテリーから四球を献上されたものの後続が倒れ、無得点で終了する。
「んー、寒いねぇ。ちょっとお花を摘みに行ってくるよ」
「あ、じゃあ荷物は見てますよ」
「サンキュ」
舞莉は琴音に荷物を任せ、スタンドを後にする。
「ん~と、トイレトイレっと......」
舞莉が階段を降りて便所を探していると、大会運営本部の会議室から口論の様子が漏れ聞こえてくる。
「ほほぅ、ジャーナリズムの血が騒ぐね」
好奇心の勝った舞莉は会議室の扉に聞き耳を立てると、壮年の男性が厳しい言葉を矢継ぎ早に繰り出し、中年男性が劣勢に立たされるも何とか反論する様子が伺える。
「おや......これは」
会話の内容を把握するに従い、悪戯心に満ちていた表情が徐々に曇っていく。
「このままでは、次年度以降の開催を認めるわけにはいかないな」
「なっ......」
「よろしいな」
同意を強制する言葉が発せられたあと、舞莉が聞き耳を立てていた扉に向かって足音が近付いてくる。
「やば」
「ど、どこへ」
扉の直前で足音が止まり、舞莉は胸を撫で下ろす。
「彼女は即刻、降板させる」
壮年男性の低く厳しい口調の後、扉が開け放たれる。
「お、お待ち下さい!」
部屋からスタスタと歩み出る壮年男性に続き、顔を青くした大会運営スタッフと見られる面々が続々と部屋から出て男性を追いかけると、部屋の中はもぬけの殻となっていた。
「......困るんだよね、こういう展開は。まだ刺激しないで欲しいのに」
舞莉は大きく溜め息をつく。
舞莉にとって“彼女”はまだ、特段親しい間柄でもない。
観察すべき対象ではあっても、監視すべき対象ではない。
庇護するべき対象でも、ましてや恩を売る様な相手でもない。
同じ学校の1学年下で、自分を慕う後輩部員の仲の良い友達程度の付き合いにしかすぎない。
「まぁでも、捨て置けないよね。私的にも」
舞莉は遠くへ思いを馳せると、扉から顔を室内に覗かせる。
「事件は現場で起こるものだけど、その現場が会議室ってこともあり得るか」
舞莉はペンタイプのボイスレコーダーを録音状態にしてペン立てに入れると、窓越しでマウンドに立つ珠音を見やる。
投球練習を終了し、5回表先頭の7番打者が打席に入っていた
「どんよりとしていた瞳が、見ていて心地良い色の輝きを取り戻したんだ。折角の鮮やかな色調の絵画を、態々鈍色に塗りつぶす愚挙に及ぶ必要はない。暫く辛いかもしれないけど、少しの間だから我慢してね」
舞莉が会議室の扉を閉めると同時に、私設内部とグラウンドを繋ぐ通路の扉が開かれる。
カウントは1ボール2ストライク。
球数は制限投球数までまだまだ余裕があり、超過した場合も打席終了までは投球が認められている。
突然の闖入者に主審が驚いてタイムを宣告する。駆け寄り事情を確認すると、困惑した表情で大会運営責任者と珠音の顔を交互に見やった。
「何だ?」
鬼頭も、湘南義塾の監督もベンチから出て、突然の状況を静観することしかできない。
珠音と浩平は困惑の表情を浮かべながら、肩を冷やさないようにキャッチボールを継続する。
数分の後、主審は大きく溜め息をつき、マウンドへとゆっくり歩み寄る。
「......えっ?」
苦渋の表情を見せる主審にいくつか言葉を投げかけられた後、無言でグラウンド外を指し示される。
降板、あるいは退場を示すジェスチャーを受けて珠音の表情が消え失せた様子は、女房役の浩平だけではなく、ベンチの鬼頭からも、スタンドに戻った舞莉からもハッキリと見て取れた。
慌てて鬼頭がベンチを飛び出し、釣られて内野陣もマウンドへ集まってくる。
鬼頭が主審に状況説明を求める中、珠音は話を聞くことなく、フラフラとした足取りでマウンドを降りベンチへと向かっていく。
「た、珠音!?」
夏菜がベンチを飛び出し駆け寄ろうとした途端、通用口から怒声が放たれる。
「女生徒のグラウンドへの立ち入り、並びに出場選手登録は認められない」
夏菜の足が止まり、声の主を探す。
まるで視線を合わせないかのように施設内へと消えていく大きな背中を、夏菜はハッキリと認識した。
今にも走って追いかけたい衝動を抑え、すぐ脇を通り過ぎた珠音に意識を向ける。
「どうしたの、何があったの?」
夏菜は俯く珠音の右肩に手を添え、その表情を覗き込もうとする。
「......もう、いいや」
力無い言葉の後、夏菜の手を優しく払う。
珠音はベンチの一番端に座り、石像のように一点を見つめてしばらく動かなくなった後、グローブを置いてベンチ裏へと下がっていった。
「高岡、悪いが投げてくれ。高橋、俺は運営に行ってくるから、野中と後を頼む」
「えっ!?」
高岡の驚愕した顔を確認することなく、鬼頭は鬼気迫る表情でベンチ裏へと走っていく。
グラウンドに重苦しい雰囲気が漂い、選手も、この球場に駆け付けた観客も、誰もがこの状況を消化できないまま、困惑の様子を見せる。
「落ち着いて行こう。状況はよく分からないが、少なくとも楓山のピッチングを”無駄”にする訳にはいかない」
野中がチームを鼓舞し、試合はエースと監督が不在のまま継続される。
鎌大附属の動揺は収まることがなく、緊急登板の高岡は制球が乱れ、これまで堅守を誇った内野陣にも綻びが生じ、ついには逆転を許してしまう。
「ゲーム」
試合終了を宣告する主審の声も、どこか力無くどもって聞こえる。
勝者は素直な喜びを感じることができないまま、敗者は何に敗北したのか理解できないまま、快進撃を見せた鎌大附属の湘南杯はベスト4に終わった。
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