2回表 背番号『 』
Top of 2nd inning ―背番号『 』―
真新しい制服に身を包んで意気揚々と歩く背中は、つい先日まで中学生だった頃とまるで変わった様子はない。
「今日から高校生、新しい自分!」
ブレザー制服を除けば容姿からは所謂”高校デビュー”を感じさせていないのだが、大人への階段を着実に上った高揚感からか、珠音から溢れ出すオーラは新生活に心を躍らせている様子を感じさせた。
「とりあえず、鬼頭先生には挨拶しないとな」
「そうだね」
学校の校門から続く桜並木には新芽が出始めており、散らずに残った花びらの桃色と萌黄色の合わさったアーケードは、新しい環境に足を踏み入れた新入生を大歓迎しているようだった。
「別のクラスだったね」
「まぁ、部活で嫌でも顔を合わせるんだし、関係ないだろ」
学校に到着し、掲示板に張り出されていたクラスを確認した後、2人は教室に向かう前に職員室へと立ち寄った。
「よぉ、久しぶりだな。こっちだ」
入学式前で礼装に身を包んだ鬼頭が2人に気付き、手招きする。
「無事に合格出来てよかったな、おめでとう。名簿を確認する時にも、わざわざ確認したぞ。どちらかでも名前が欠けていたら、どうしようかと思った」
『ありがとうございます』
自然と揃った声に、鬼頭は苦笑する。
2人の息の合いようは、多少のブランクなど意に介さないようだ。
「桜井先生には年の為に伝えておいたが、まさか道具は持って来ていないだろうな?」
「流石に......」
珠音は苦笑いを見せ、浩平に視線を送る。
「こいつは持って来ようとしていましたがね」
「バレないかなぁと」
新入生の部活動への参加は、仮入部期間に入らないと認められていない。
珠音は桜井から伝え聞いていたものの、こっそり参加しても気付かれないだろうと道具を持って来ようとしていた。
「いや、バレるだろ」
しかし、男子部員の中に紅一点で動き回る小柄で華奢な姿は、本人が思っている以上に目立ってしまう。
浩平の説得を受けた珠音は泣く泣く道具を家に置き、登校していた。
「賢明な判断だ。俺が教頭先生に怒られてしまう」
鬼頭が大袈裟にお道化て見せる。
「入学式後のオリエンテーションでちゃんと説明を受けるだろうが、明日からは練習に参加できる。だから、今日は大人しく帰るんだぞ」
仮入部期間は入学式の翌日から2週間と決まっている。
入る部活動を決めていない新入生にとっては輝かしい高校生活を如何に過ごすかを決めなくてはならない悩ましい期間であるが、既に決まっている2人には関係がない。
「明日の放課後から、さっそく参加させてもらいます」
「よろしくお願いします」
「待っているよ」
鬼頭は2人を教室へ向かうよう指示すると、自分の机に向かいなおす。
「あら、鬼頭先生。いいことでもあったんですか?」
横に座る同僚の女性教師が鬼頭の表情を伺う。
「あぁ、いえ......」
そんなに表情が緩んでいただろうかと、鬼頭は苦笑いを見せる。
「面白い生徒が入ってきたものですからね。この1年がまた楽しみになったんですよ」
「あら、それは素敵ですね」
教師という仕事はそれなりにストレスも多い。
それでも続けられているのは、毎年のように繰り返される新しい出会いと別れ、そして教え教えられる経験を積み重ねられるからだと、鬼頭は感じていた。
入学式翌日の仮入部以降、周囲から多くの驚きと共に迎えられた珠音の高校野球生活は、中学校で過ごした日々よりも時間が早く過ぎ去っていくようにも感じられる。
制服も衣替えの期間を迎えると生徒たちは思い思いの気崩し方を披露し、生徒指導の教員は頭を抱え始めていた。
「えっ、お前の兄さんプロ野球選手なの!?」
「あれ、言ってなかったっけ」
同級生で野球部に入部したのは、珠音と浩平を含めて選手14人とマネージャー1人。
中でも、市内の中学校出身で対戦経験もある二神勇翔(ふたがみはやと)と大庭洋輔(おおばようすけ)の2人とは、すぐに打ち解けた。
「マックで言ってたじゃん。ねぇ、二神」
そこに、マネージャーとして入部した田中夏菜(たなかなつな)が加わり、5人で行動を共にするようになっていた。
彼女自身は運動が得意という訳ではなく、高校の男子運動部の女子マネージャーというステータスに憧れての入部だったこともあり、同じような考えでてっきりマネージャーとして入部したと勘違いしていた珠音の存在に同級生の中で最も驚愕した人物でもある。
最も、市外出身者こそ驚いていたものの、既に在籍していた上級生や市内出身者にとって珠音はお馴染みの存在であり、今更だが驚く対象ではなくなっていたが。
「あぁ、そういえば大庭はその時にトイレに行ってたな」
この日の練習帰りもいつも通り、5人は駅までの帰路を一緒に歩いていた。
「俺、タイミング悪っ!」
大庭は大袈裟なリアクションを見せ、周りがツッコミを入れて笑う。
授業内容も練習内容も格段にレベルアップしてクタクタな毎日も、珠音は楽しく過ごしていた。
「え、てことは、サンオーシャンズの楓山が兄さんなのか?」
「そうだよ、よく分かったね」
「まぁ、珍しい苗字だからね。鎌倉出身で最近プロ野球選手になった人がいるのは話題になっていたし、名前を聞いた時に”もしかして”って思ったな」
興奮気味な大庭に対し、二神は冷静にコメントする。
「楓、兄さんに頼んで松元選手のサイン貰えないかな?俺、ファンなんだよ!」
大庭がちゃっかりスター選手のサインをねだる様子を、二神が呆れた様子で見守る。
なお、珠音はチームメイトからは下の名前ではなく、苗字を短縮して呼ばれている。
浩平もそれに合わせようとした時期もあったが、呼び慣れた呼称を変えるには違和感が余りにも強く、これまで通りの呼び方に落ち着いている。
そのせいか、これまで”老夫婦”と呼ばれてきた2人の関係は、新しいチームでも特別感がより際立ってしまったのだが、本人たちはそのことを特に気にする様子はない。
「いいよねー、珍しい苗字って。それだけでアイデンティティだよね。田中な私は、それだけで存在が薄れちゃうよ。絶対に珍しい苗字の人と結婚してやる!」
「全国の田中さんに謝りなよ」
「というか、苗字で選ぶのかよ」
「指標の一つだね、3文字以上の苗字がいい」
「じゃあ、沖縄に行くといいさ」
発想が自由人な夏菜に、浩平が苦笑を見せる。
「今度の練習試合、出番あるかなぁ」
珠音がぼんやりと空を見上げると、梅雨入りを間近に迎えつつある明るい空には星が瞬き始めていた。
「いやー、まだ無理じゃないかな」
「夏の大会まであまり時間もないし、うちらの出番は新チームになってからでしょ」
「だよねー」
硬式野球を続けるための体力と筋力作り。入部以降、珠音たち新入生は反復して基礎トレーニングをこなしている。
軟式野球と比べ、プレイの1つ1つにより多くの筋力と体力を必要とする硬式野球で怪我無く充実した練習を行うためには、徹底した基礎作りが重要である。
珠音は事前の約束通りに特別扱いを受けることなく、周りの男子部員と全く同じメニューに励んでいる。
「試合したいなぁ」
入部後に改めて感じる、男子部員と比較した自身のパワー不足と回復力の乏しさ。
同じメニューだからこそ自分が取り残されていく様が露わとなり、少しずつだが着実に成長を見せる浩平との差も、珠音から見れば加速度的に広がっているように見えてしまう。
「我慢我慢、うちらの時代はこれからだよ」
「......そうだね」
長年親しんだ浩平の声が紡ぐ悠長な意見。
まだそんな時期では無いはずなのに、充実した日々を送る珠音の瞳には僅かながら、早くも焦燥の色が見え始めていた。
肌に纏わりつく湿気が、夏の到来をまざまざと感じさせる。
部活へ向かう通学路を歩きながら、頭上からじりじりと照り付ける日差しを恨めしく思う珠音の肌は、例年通り程よく香ばしいパンのような狐色にこんがりと焼けつつあった。
「んー、ようやく試合で投げられる。身体を思いっきり動かしたくて仕方が無かったから、楽しみで仕方がないよ」
「いやいや、スポーツ大会であれだけの活躍をしておきながら、それはないだろ。他の部の女子が泣くぞ」
浩平が呆れたような苦笑を珠音に向ける。
珠音は入学以来、男子と同じ練習メニューをこなしてきた成果を女子しかいない体育の授業でしか発揮できない日々を過ごしており、本人としては消化不良感を募らせていたのだろう。
試合に出場できない鬱憤晴らしか、授業のバレーボールや学期末の水泳大会ではそれぞれの競技を本職とする女子生徒たちの追随を許さない活躍で蹴散らしてしまった。
その後は女子運動部による珠音の引き抜き作戦や助っ人依頼が頻発したのだが、更に輪をかけて金銭問題にまで発展した、ファンクラブが設立されたなどの真意の定かでない噂が広まっていると、ゴシップハンターを自称する夏菜が面白おかしく語っていた。
「まぁ、そうだろうけどね。私はやっぱり、野球やってなんぼだから」
1学期を終業し、夏の大会をおおよそ例年通りの結果(三回戦敗退)で終了した野球部の体制が新チームへ移行したことで、入学以来基礎トレーニングに励んでいた新入生もようやく活躍の機会を得つつあった。
夏の大会までチームを支えた六車に代わり、新キャプテンの野中を中心とした新チームは、秋の大会に向けて学年関係なしのレギュラー争いに突入していた。
高校入学前までと違って公式戦に出場できない珠音としては、そこに加われない寂しさを覚えることもあったが、今この瞬間は試合に出場できる喜びがそれに勝っていた。
「私が公式戦に出られないことを、みんなに残念がらせてやろう」
「その表現だと、本番でうちがボロ負けしそうだからやめてくれ。残念がるのは監督やチームだけで、相手にはホッとさせないと」
「確かーに」
笑顔を見せて瞳を輝かせる珠音の姿は、正しく水を得た魚と言えよう。
「大丈夫そうだな」
浩平としては時折沈んだ様子を垣間見せていた珠音を心配もしていたのだが、今の姿が続く限りは安心である。
長年バッテリーを組んだ”女房役”としては、”旦那”のコンディションを把握することはお手の物である。
「何が?」
「何でもないよ」
校門をくぐると、同じく新体制へと移行した運動部の声や吹奏楽部の合奏が、蝉の声に負けじと聞こえてくる。
「そういや、レギュラーいけそう?」
「獲ってみせるよ」
「おや、頼もしい」
浩平の力強い返事に、珠音は満足そうな表情を見せる。
その表情の影に、羨望と嫉妬の色がぐちゃぐちゃに滲み混ざる様子を、”女房役”は見逃さなかった。
夏季休暇中の成績は、珠音の宣言通りにチームメイトを心から残念がらせた。
奪三振こそ少ないものの、丁寧にコースをつくピッチングで凡打の山を築き、成績だけならチームのエースピッチャーと言っても過言ではなかった。
最も、相手打者が女投手に対して侮った様子を見せたことや、加えて遅い球に対してムキにバットを振ったのも容易に打ち取れた要因だと、浩平は分析している。
「さて、どうやったらお前を女とバレずに公式戦へ出場させられるだろうか」
事前に予定されていたイニングを見事なピッチングで抑え込んだ珠音に対し、鬼頭は大袈裟な溜め息をつく。
「どうしたんですか、急に。幸せ逃げますよ」
「大丈夫だ。この通り、既に結婚している」
鬼頭は結婚指輪を見せつけ、小さく笑みを見せる。
「改めて、お前のピッチング内容が素晴らしかったということだ。褒めているんだよ」
「あざっす」
帽子をとって汗を拭う仕草には、まだまだあどけなさが残っている。
「髪を坊主にして、胸は晒か何かでグルグル巻きにして押し潰しましょうか」
珠音はセミロングに伸ばした髪を払うと、ユニフォーム越しでも分かる膨らみを強調し、悪戯な表情は小悪魔ささえ感じさせる。
日頃のハードトレーニングで鍛えられるべき部位が引き締まっている分、女性としての成長により目立ち始めた部位とのコントラストがより際立つようにも思える。
「お尻は難しいかもしれないけど、遠巻きに見れば性別なんて分からないんじゃないですかね」
「いや、それは無理じゃないかなぁ」
夏菜が薄めたスポーツドリンクを珠音に手渡す。
「まずは身長」
「背の小さな男子だっているでしょ」
「それに、世の中の女子と比べれば鍛えている分で身体はがっしりしているかもしれないけど、男子と比べたら何だかんだで華奢だよ」
「......そうかなぁ」
珠音が自分の身体を隅々まで確認するが、自分ではいくら観察してもよく分からない。
「田中の言う通り、遠くから見ても案外と誤魔化されないものだ。あと、野球をやる上で尻が大きいのは別に構わん」
「監督、セクハラです」
「きゃー、セクハラー」
正論で20年も年下の女子からセクハラ呼ばわりされるとは、教師も辛い仕事である。
「五月蠅い」
悪戯な笑みを見せる珠音に、鬼頭はまた溜め息をつく。
彼の悩みは、珠音の快投だけではない。
「(チームの状態は、俺が監督に就任してから一番と言っても過言ではない)」
彼女の活躍に触発されたか、新チーム結成後に試合へ出場させ始めた新入生も負けじと自分の強みをアピールし、2年生も後輩にポジションを簡単に譲る訳にはいかないため、先輩としての意地を見せている。
「毎日逆立ちして過ごせば、色々ひっくり返るかもよ」
「腕が脚になるだけで終わりそう」
「じゃあ、誰かとごっつんこ」
「”私たち入れ替わってる!?”ってか?」
珠音と夏菜の軽妙な掛け合いに思わず苦笑しつつ、鬼頭はいかに珠音なしのチームで勝利をもぎ取るか思い悩む。
練習試合を通して好調なチームだが、その要因は珠音を起点とした相乗効果によるものである。
「チームの底上げが必要か」
夏休み明けすぐの9月に秋季地区大会が開催され、運よく勝ち残れば10月に秋季県大会に駒を進めることができる。
しかし、それ以降は3月頃まで公式戦はない。
「今年も市大会はあるだろうが、場数は踏んだ方がいいだろうな」
小さな自治体だが複数の高校が存在することもあり、毎年リーグ戦形式で高校野球連盟の後援を受けていない小規模大会が開催されもしているが、それだけでは経験値として足りないだろう。
同様に高校野球連盟主催でないトーナメント形式の私設大会が開催されることもあり、職員室の鬼頭の机にはその内1つの参加登録用紙が置かれたままになっている。
『ナイバッチ!』
浩平の放った打球がレフトフェンスを越え、沸き立つベンチで現実に引き戻されると、鬼頭は首を大きく横に振る。
「いかんいかん、俺が目の前に集中しないでどうする」
「監督......?」
心の中でのみ発したつもりだったが、声に出てしまっていたらしい。
夏菜が訝しげな表情を浮かべる。
「すまん、独り言だ。気にしないでくれ」
鬼頭は参加登録用紙に向けられていた意識を目の前に戻し、浩平をベンチに迎え入れる。
今年のチームは一味違う。きっと、来年も。
勝負事の指揮官として昂る気持ちを心の内に抑え込みつつ冷静な大人を装うと、次の打者にサインを送る。
「戻ったら、参加申請を出しておくか」
「監督、どうしたんですか?」
「さっきからブツブツ言ってますけど、年ですか?」
アイシングをしている珠音が独白に反応する。その後ろでは、夏菜が先程よりも険しい視線を送っていた。
「......いや、気にするな」
鬼頭は学校に戻ったら、参加登録用紙を投函しようと心に決め、眼前の試合に集中する。
この用紙が定められていたはずの運命を外れ、新たな道を切り開くための通行手形となるなど、この時の鬼頭は考えすらしなかった。
夏の暑さは休暇明けも続き、テレビ出演する”有識者”が語る通りに秋は季節ごと無くなってしまったのではないかと、本気で勘違いしてしまいそうになる。
少雨が問題視された8月から天気は打って変わり、9月に入るとなかなか青空を望めない日々が続いていた。
遠い過去に”秋雨前線”と名付けられた列島を覆う雨雲の巨大帯が、自身の存在と”秋”の到来を誇示するかの如く、南方からの長旅を経た台風と互いに降水量を競い合っているかのようにも思えた。
野球部を始めとする秋季大会を控えた屋外競技の部活動もグラウンドでの練習ができない日々が続き、空模様に負けないどんより気分に浸っていた。
「今度の土曜日は晴れの予報みたい」
そんな中でも、珠音の声は晴れ模様。
「やれやれ、試合前に一度はグラウンドで練習がしたかったけど、贅沢は言えないか」
天気予報を確認する珠音の声を、肌を真っ黒に日焼けさせた浩平が背中越しに聞く。
室内練習では、投手と野手が別メニューになることも多い。
一足先に下半身強化のメニューを終わらせた珠音が、野手組のトスバッティングを手伝いに来ていた。
「連続でいくよ」
「おけー」
3球連続で早打ち、それを1セットとして連続で打ち返す。籠いっぱいの練習球は甲高い金属音と共にフード付きネットに吸い込まれ、すぐに無くなってしまった。
「予備日もフル活用だろうし、ハードスケジュールだな」
ボールをフードから取り出しながら、浩平がポツリと漏らす。
鎌倉大学附属高校硬式野球部は無事に地区大会を突破し、県大会へと駒を進めている。
長雨の影響で開幕が遅れていたが、秋雨前線がいよいよ南下したおかげでようやく開催の目途が立ち、試合を消化するべく予備日を活用した過密日程が予定されていた。
学業もこなしながらの日程では、身体をゆっくり休ませる時間を十分にとれそうにない。
「まぁ、試合ができるだけマシだよ。私はスタンドで吹部と一緒に応援しているから、楽しんでおいで。頑張れよ、正捕手」
「あぁ、もちろんだ」
浩平は1学年上の高橋とのレギュラー争いを制し、レギュラー捕手の証である背番号”2”を勝ち取っていた。
さらに、日頃から行動を共にすることの多い二神、大庭の2人だけでなく、マネージャーの夏菜も記録員としてベンチ入りを果たしている。
つまり、本来選手で夏休み期間中にエースピッチャー格として実力を如何なく発揮した珠音以外は、大会に”参加”できることが確定している。
「珠音、本当に良いの?」
夏菜としても、厳しい練習をこなしてきた珠音がベンチ入りできないことをいたたまれなくなり、記録員としてのベンチ入りを代わろうと言ったこともあった。
「気にしないで。夏菜だってマネージャーとして、みんなのサポートを頑張ってきたんだし、ベンチ入りの権利を譲ってもらう訳にはいかないよ」
「でも...」
珠音以外の唯一の女子部員として悩みの一つも相談に乗りたいところだったが、珠音の作り笑顔の前に夏菜は敢え無く退散した。
「私は選手だから。夏菜はみんなのサポートよろしくね」
珠音は夏菜の申し出を断り、あくまでベンチ入りできなかった選手として、スタンドからチームメイトを応援する道を選んだ。
珠音は高校野球の”選手”であることを優先させた形だが、自身は隠しているつもりでも、皆を羨む様子は傍から見ても明らかだった。
「無理すんなよ」
現状の部内で、珠音に踏み込んで接することができるのは浩平くらいである。
浩平の一言に周囲のメンバーの動きが一瞬止まり、雨音に上書きして唾を飲み込む音が聞こえてくる。
「何が?」
「何でも」
浩平の言葉に珠音はぶっきらぼうな返事を返すと、周囲に秋雨の空に負けじとどんよりとした空気が流れ、偶然通りかかった吹奏楽部が異様な雰囲気に怯えて思わず小走りで立ち去った。
しばし2人の間には、雨音をバックに練習球をバットが打ち返す金属音のみが流れていく。先ほどまで心地良い音を奏でていたバットも、どこか重く鈍い音を出す。
「ごめん、八つ当たりした。ありがとう」
最後の一球を浩平が弾き返すと、珠音は溜め息の後、重い口を開く。
「いや、こちらこそ悪かった。一緒に頑張ろうな」
長年の付き合いは伊達ではなく、珠音の”女房役”として相棒のガス抜き方法は心得ている。
「皆も、ありがとう。頑張ろうね」
2人が用具を片付けると、その場を後にする。
試合にも勝る緊張感が解けると、その場に居合わせたチームメイトたちは大きく溜め息を漏らし、その場に転がり込んだ。
「あぁ、死ぬかと思った」
「こんなんで死ぬかよ」
大庭の大袈裟な表現に、二神が呆れる。
「これ程とはな」
珠音の入部以来、もうすぐ半年が経とうとしている。
すっかりチームの中心となった珠音抜きで、どれだけの試合ができるだろうか。
一連の様子を脇から見ていた鬼頭は、1人の指導者として思わず頭を抱えたくなった。
待ちわびた大会初日は空気中の湿気も合わさり、9月も下旬を迎えようとしているとは思えない程の蒸し暑さだった。
家を出た珠音も、朝からあまりの暑さに早くも引き返したい思いで一杯である。
「(別に、私は試合に出られないんだし、行かなくても――)」
口から出かかった言葉を何とか飲み込み、額に浮かぶ汗を拭う。
「みんな頑張っているんだし、行かないわけにはいかないよね」
試合前の集合場所は学校。
そこからバス移動で、試合会場となる伊勢原球場へと向かう。
「やぁ、おはよう」
「何だ、そのわざとらしい挨拶は」
いつものようにバスで浩平と落ち合い、学校へと向かう。
2人が学校に到着すると、吹奏楽部が野球部の応援のために楽器を運び出し、慌ただしく準備を進めていた。
「全員着替えたら、バスに荷物を積み込んでくれ。1時間後には出発するからな」
鬼頭は一足先にユニフォーム姿に着替えており、部員に指示を送ると吹奏楽部の方へと歩いていく。
顧問と部長に挨拶をしているようで、先輩教師に対して鬼頭はらしくもなく頭を何度も下げていた。
「......ん?」
ふと、珠音は部長と思われる女生徒と視線が合う。
顧問2人が挨拶を交わす間もジッと珠音を見つめ、話に耳を傾ける様子など微塵もない。
「ほれ、急がないと遅れるぞ」
「うん」
浩平に諭され、珠音は着替えに急ぐ。
校舎内へ移動する間に振り返ることはなかったが、その背中に感じる視線が消えることはなかった。
暫く雲に隠れていた太陽が自らの存在を誇示するかのように、陽射しを青空から地表へと注ぐ。
「礼!」
対戦する両校の選手がホームベース付近に整列し、主審の掛け声に合わせて帽子を取り挨拶を交わす。
鎌倉大学附属高校は先攻をとり、整列を解くとベンチ前に集合し、円陣を組む。
珠音はユニフォームの背中に縫い付けられた背番号を眺めながら、自身がその輪に加われていないことを改めて実感していた。
「番号なし、か」
自身の背中を恨めしそうに見る。
背番号を与えられなかったのは、中学校に入学した最初の夏大会以来である。
「分かってはいたんだけどなぁ」
スタンドの最前列では、珠音と同じくベンチ入りが叶わなかった部員が応援の音頭をとり、打席に入った1番打者に檄を飛ばす。
しかし、応援団長を担う野球部員と珠音では、その立場は大きく異なる。
彼らはグラウンドに立つ権利を有し、その枠から努力も虚しく漏れてしまっただけであり、翌年以降にチャンスを残している。
対する珠音はそもそもの権利すらなく、チャンスが訪れることは永久に無い。
声援を送りつつ興奮とは別の感情が少しずつ溢れ、握り拳に力が入っていく。
「3番キャッチャー、土浦くん」
アナウンスに迎え入れられ、1年生ながらレギュラー捕手として打線の中軸をも担うようになった浩平が打席に入る。
強豪校には目もくれず、試合に出るための選択肢をとった彼の判断は、結果として目の前に現れている。
「あの子、震えてるな」
湧き上がる嫉妬の感情を認めず眼前に集中しようとする様子は吹奏楽部の部長にジッと見られ続けていたが、珠音はその視線に気が付くことはなかった。
接戦を制した鎌大附属は、勝利の興奮をそのままに学校へ帰着した。
打てば決勝打、守れば堅守と好リードを見せ、正しく勝利の立役者となった浩平は試合後にチームメイトから揉みくちゃにされたこともあり、バスの中では疲労も相まって珠音の隣で爆睡していた。
「明日は八部球場だ。連戦で疲労も溜まるだろうし、怪我のリスクも高まる。今日はなるべく早く寝て、明日に備えるように」
鬼頭も一先ず安堵した様子を見せていたが、次戦に向けて既に気を引き締めているようだった。
部員に明日の集合時間と諸注意を告げて用具の片付けと順次解散の指示を出すと、一足先に戻っていた吹奏楽部の顧問へ挨拶すべく、職員室へ戻っていった。
部員たちが用具を倉庫に片付け終わる頃には太陽も相模湾に沈もうとしており、1日が終わりに向けて静かに時間を進めていく。
「やぁ、お疲れ様」
試合に出場するメンバーに負担を駆けないよう、片付けを率先していた珠音が校舎に入ろうとしたところで、見慣れない女生徒に声を掛けられた。
「......あ、吹奏楽部の」
薄闇の認識しづらい時間帯ということも合わさって、声の主が吹奏楽部部長と気付くのに少々の時間を要してしまった。
「そ、よく分かったね」
「い、いえ......今日は応援に来てくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして。勝ててよかったね!」
普段から話すような仲でない。むしろ、今日この瞬間に初めて言葉を交わす相手である。
標準以上の社交性を身に付けていると珠音は自負していたが、初対面の相手に最初から親しくできる程ではなかった。
警戒感を前面に出しすぎてしまったか、訝しげな表情を見た女生徒はその様子を面白がり、ケラケラと笑い声を上げる。
「ま、そりゃ名前も知らない相手と初めて話すんだから、そんな顔にもなるわな。ごめんねごめんね~」
女生徒は手を差し出し、握手を求める。
「2年生の水田舞莉(みずたまり)、ふざけた名前に思えるかもしれないけど、なかなか良いワードセンスだと思っている。人の印象に残りやすいし、私は気に入っているよ。こんなんだが、吹奏楽部の部長をやっていてね、何かと会う機会も多くなるかもしれない。以後、よろしこ!!」
どこか”狙ったかのような”名前を笑顔で語る舞莉に対し、珠音はぎこちない笑みを見せ右手を差し出す。
「楓山珠音です」
2人は握手を交わすと、しばし目を閉じていた舞莉が満足そうな表情を見せる。
「度々見かける君のことが気になっていてね、どこかで話をしてみたいと思っていたんだ。それが、今ってことだね」
「はぁ......」
会話のペースは完全に舞莉が握っている。
早く着替えて家路につきたい気持ちもあるが、わざわざ部を上げて応援に来てくれた吹奏楽部の部長を邪険に扱う訳にはいかない。
先輩を立てる訳ではないが、染み付いた運動部の上下関係を頭と身体が無視することはできなかった。
「どうして、私と話してみたかったんですか?」
珠音は会話のペースを握ろうと、自ら話題を振る。
「君は目立つからねー。部活の練習をしながら君のことを観察していたんだよ」
グラウンドにも校舎から漏れ聞こえてくる吹奏楽部の練習音。
珠音もその音色へ時折耳を傾け、練習に励んでいた。
「か、観察ですか......何でまた」
舞莉の”観察”という表現に、珠音は口角を引きつらせる。
自分を隅々まで調べ尽くされているような感じがして、舞莉のことをとても好意的には感じられなかった。
「確かに、変わっているとは思いますけど」
鎌大附属には、それなりの数の”女子運動部”も存在している。
体力、筋力、体格差の男女差が大きくなる中学校以降、運動部は組織ごと男女別になるか、別メニューで練習することが多い。
わざわざ男子に交じって厳しい練習に望む姿は、確かに目立つ存在だろう。
「いや、別に君は普通の人間だから、特段変わってはいないよ」
「はい?」
あっけらかんとした表情で語る舞莉に、珠音は怪訝な返答をする。”普通”と形容されることは、決して快いものではない。
もちろん、普通であり、そうあり続けることを願う人もいるのは確かだが。
「いやー、ずっと気になっていたんだよ。君は夏休みの間、野球部のエースと言われる程の存在だった。文化部の私ですら噂を耳にするレベルでね。それなのに、君は大会メンバーには選ばれていなかった」
「そういうルールですから」
「そうみたいだね。私も気になって調べてみたんだ。それで、合点がいったことがあってね。こうやって君に直接、質問してみたくなった訳」
珠音の淡々とした口調に対し、舞莉は明るい口調で言葉を並べていく。
「......何ですか?」
珠音の明らかに低く不機嫌な返答に臆することなく、舞莉は抑揚のない言葉を返す。
「君の瞳、最初から何もかも諦めたような色をしている」
「......え?」
舞莉の冷ややかな表情と冷徹な口調に虚を突かれ、珠音は呆気にとられてしまう。
「ど、どういう――」
「ギラギラとした強い意志を装った殻に引きこもって、内面では何をやっても無駄だと思っている。表情では懸命な姿を演じながら、心では意味なんてないって諦めている」
言葉の意味を訪ねようと珠音は口を開くも、舞莉が食い気味に発した言葉にかき消されてしまう。
「君が練習する姿を見ていて、君が見せる表情と瞳の色が嚙み合っていないことをずっと気になっていたんだ。君は何を考えているんだろう、ってね」
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
やや荒っぽく、とても”先輩”に向ける語気にも、舞莉は臆さない。
「私の大事な友達と同じように見えてね。似たような悩みを持っているのなら、何かしらのアドバイスや参考にならないかと思ったわけだ」
自分の置かれた現状を恨み、大会出場権を生来持つチームメイトを妬み、どうせ変わらないと全てを諦める。
珠音の脳内に浮かぶのは、反論ではなく自責の言葉。
自己嫌悪の余り、吐き気さえ覚える程である。
しかし、その心を昇華できる程、珠音の心は成熟していない。
「まぁ、特に何もないってことはただただ図星で、自分でも感情をどうしようもないってことだね」
舞莉の瞳は珠音を捉えて離さない。
どこか心の内で考えてしまっていた自分の感情を文字通り”観察され”、珠音は自身の心に針が刺さったかのようにチクチクと胸が痛み、釣り針にように返しが付いているのか、抜き取ろうとするとかえって痛みが増す。
今日初めて話す他人から自分自身でもハッキリとしていなかった心情を見透かされ、珠音の心は沿岸に台風が来た時の海面のように荒く波立っていた。
「なんだ珠音、まだ着替えていなかったのか。早く帰ろうぜ」
「あれー、部長。こんな所にいたんですか~」
ユニフォームから制服に着替えた浩平が、二神や大庭、夏菜と近付いてくる。
舞莉の下にも、吹奏楽部の後輩が駆け寄って来た。
「ごめーん、ちょっと野暮用でね~」
先程までの冷徹さはどこへやら、舞莉は元の明るい口調へと戻して振り返る。
「動かない限り変わらない、覚えておくといいよ。番号無しさん」
舞莉は向き直すことなく珠音へ冷たい口調で語り掛けると、駆け寄る後輩と合流して校舎内へと消えていく。
「どうした?」
暗がりで俯き加減に佇む珠音に、浩平が声を掛ける。
「ごめん、何でもない」
「......そう、か?」
何とか絞り出した声に、浩平らは心配そうな視線を送る。
「大丈夫。ちょっと時間かかるかもだし、みんな試合で今日は疲れているだろうから、先に帰ってて」
何者も寄せ付けないような雰囲気に、浩平らは立ち尽くす。
「さ、みんなも疲れていることだし、さっさと帰った帰った。明日も試合だしね。うちら2人は女どうし、ゆっくり語らいましょってね」
夏菜が珠音の肩に腕を回し、男性陣を手で追い払う。
「お、おぉぅ」
浩平らは追い払われるがままにその場を離れ、一足早く家路につく。
「ほんと、どうしたの?何かあった?」
「......大丈夫だよ」
心配そうに表情を覗き込むと、珠音は力の無い笑みを見せる。
「珠音......?」
その表情は、普段の珠音からは想像の付かないものだった。
「ほんと、大丈夫だから。夏菜も、ごめんね」
夏菜へ力無く声を掛け、珠音は弱々しく前へと脚を運ぶ。
普段のグラウンドを駆けまわる様子とは正反対の姿に、夏菜は掛けるべき言葉を見つけ出せなかった。
翌日の2回戦で敗北を喫した鎌倉大学附属高校硬式野球部。
先に進むためには落とすことのできない3回戦は、藤沢市の八部野球場で行われた。
「ゲーム」
舞莉との会話で珠音の心に突き刺さった針はもがけばもがく程に深く食い込み、未だ抜けないままでいる。
心に覆い被さる分厚い雲。
今にも雨が降り出しそうな暗い雲の下で、主審の試合終了を告げる声が球場に響く。
珠音の虚ろな気な瞳に、惜敗を表すスコアボードが映る。
鎌大附属の秋は、早々と終了した。
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