1回裏 始まり

Bottom of 1st inning ―始まり―


 部活動を新チームへ引き継ぎ、やや小柄で細身な上級生たちの声がグラウンドに木霊する様子にも慣れ始めた頃には、カレンダーは8月へと暦を進めていた。

「お待ち遠さま」

「おっす」

 珠音は浩平と最寄り駅で落ち合うと、鎌大附属の最寄り駅で待つ顧問の桜井と合流すべく、電車に乗り込む。

「やっぱり制服の方がしっくりくる。夏期講習も制服で行こうかな」

「分かる。どちらかと言えば、私服の方が落ち着かない気もする」

 受験勉強の本格化に伴い2人は学習塾の夏期講習を受講していたが、特に制服を着る意味もないので私服で通っている。

 中学に入学し共に野球部へ所属して以降、ほぼ毎日、曜日など関係なしに制服を着て登校・対面していたこともあり、互いの私服姿はむしろ違和感さえあった。

 慣れ親しんだ感触と互いの姿に、心地良ささえ感じている。

「そういや、持って来たの?」

「まぁ、一応な」

 高校野球の練習に、中学生の参加は原則禁止されている。

 今日もあくまで”見学”だけなのでユニフォームは持って来ていないが、何となく愛用のグローブだけは持参している。

「軟式用だけど、まぁ問題ないだろう」

「使うとも限らないしね」

 トンネルを潜り抜けると、15両の長編成が街中の小さな駅に滑り込む。

 この国に初めて誕生した武家政権の本拠地はかつての輝きこそ失っているものの、観光都市としての価値を確固たるものとしていた。

 観光客でごった返す改札口で何とか桜井との合流を果たし、3人は若宮大路を海の方向へ進む。

「久しぶりだなぁ」

「小学校の校外学習で、ちょいちょいこの辺りを散策したよね」

「えっ、いいなぁ!」

 生徒2人が少し前の話を懐かしんでいると、桜井が目をキラキラさせて羨ましがる。

「観光地出身って、それだけでもブランド感が漂っていていいよね。しかも、鎌倉なら海も目の前にあるし」

「あぁ、先生は出身が埼玉って言っていましたね」

「そうそう、海無し県としては、海に面しているだけで羨ましいよ。潮干狩りとかやりたいなぁ」

「授業でやったな」

「あぁ、大潮の日にやったね。洋平がタコ捕まえた時はビックリしたな」

「タコっ!?」

 干潮時を狙った潮干狩り体験の時、友人がタコを捕まえて驚いたことがある。その後、自宅で捌いて美味しく頂いたそうな。

「あと、海と言えば”砂工作”か」

「やったなぁ」

「えっ、何それ!?」

 年に1度、市内の全小学校が文字通り砂を活用した造形コンテストを開いており、珠音と浩平のクラスは市長賞を受賞した経験がある。

 最近では波浪による浸食で砂浜が減少しており、会場の確保が喫緊の課題となっている。

「砂を固めるための水場作りとか、砂の運搬とか......思い返していたら、久し振りにやりたくなっちゃったな」

「洋平のクラスが作ったタコが脚9本になっていて、皆に笑われていたよな」

「あったあった~」

「ちょ、ちょっ、地元トークに混ぜて!」

 3人がそんな会話をしている内に、一行は目的地に到着した。

 正門は伝統的な意匠で広い敷地には大学と高校が隣り合っているが、どちらも夏季休暇に入っており学生の数は少ない。

「ちょっと待ってろよ」

 学校の正門前には守衛所が設置されており、桜井は身分証を見せ挨拶すると、2人を手招きする。

「いま、職員の方を呼んでもらったから、ここで少し待たせてもらおう」

 2人は頷き、待つこと数分。

 校舎へ続く一本道を、壮年の女性が小走り(といっても、普通に歩いているのと変わらないくらいの速度)で近付いてくる。

「はぁ、お暑い中お待たせして申し訳ございません」

 女性は息を切らし、頭を下げて挨拶をする。

「私、事務を担当する原井と申します。梶原中学校の桜井先生ですね」

「はい。本日はお忙しい中、ご対応いただきありがとうございます。」

 早速学内へと足を踏み入れる。グラウンドは小さいものの野球部専用のものが用意されており、既に20人弱の部員が汗を流していた。

「......あれ、グラウンドには行かないんですか?」

 グラウンドから離れていく方向に案内され、珠音が思わず不安気な声を漏らす。

「ごめんなさいね。まずは応接室にお通しします。顧問の鬼頭を紹介させて頂きますね」

「ま、大人には順序というものがあるものだ。覚えておけよ」

 桜井が得意げな表情を見せ、大人をアピールしてくる。

「はぁ(子供か!)」

 珠音は口から出かかった悪態を何とか吞み込むと、グラウンドへ後ろ髪を引かれつつ付き従う。

「どうぞ。すぐに鬼頭が参りますので、お飲みになってお待ちください」

 応接室に通されると、別の職員がよく冷えた烏龍茶を用意してくれた。

 野球部を引退してから2週間程度だが、少し暑さに弱くなったのかもしれない。

 喉を通る冷たい味わいは全身に涼しさを届け、うだる気持ちを爽やかにする。

「お待たせいたしました」

 ノックの後、扉の影から現れた姿は、桜井よりも少々年長に見えた。

「ようこそ、鎌倉大学附属高校へ。野球部顧問兼監督の鬼頭です」

「梶原中学校野球部顧問の桜井です。本日はお忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます。こちらが貴学の硬式野球部を見学させていただきます、土浦浩平くんと楓山珠音さんです」

『よろしくお願いします』

 2人の声が自然と揃う。

 引退したとはいえ、長年染み付いた習慣はそうそう変わるものではない。

「お話は桜井先生から聞いています。本学へ進学希望で、かつ野球部への入部を検討して頂いているようで、こちらとしても嬉しい限りです」

「恐縮です。まぁ最も、キチンと入学試験をパスしてもらわない事には、この見学は何の意味も成しませんがね」

「ぜ、善処します」

 桜井がチクリと2人に釘を差す。

 最も、2人は学業でも入学試験を突破するには十分程度の成績を収めており、さしたる問題ではない。

「簡単に、本学の紹介をさせて頂きます」

 鬼頭は学校のパンフレットを2人に差し出す。

「本学は来年で、開学から75年を迎えます。元は私学の女子大学とその附属高校でしたが、20年前に公立化されるにあたって門戸を広げ、共学化されました。野球部は共学化の際に創部されましたので、学内の他の部活と比べると歴史は浅めです。今年の夏大会は3回戦敗退、県大会の過去最高はベスト32が1度ある程度なので、県下では中堅とも言えない程度でしょうか」

 学校数の多い神奈川県は、国内屈指の激戦区である。

 全国区の知名度を誇る有力校が複数あり、勝ち上がるには相当な努力を必要としている。

「事前に桜井先生からは伺っています。土浦くんはキャッチャーだそうだけど、いつからだい?あと、硬式経験はあるのかな?」

「キャッチャーは少年野球で始めた時からで、他は外野の経験があります。硬式経験はありません。強いて言うなら、キャッチボール程度ですね」

「なる程、うちもシニア経験者はあまりいないから、スタートは同じと見ていいよ」

 浩平との会話を終え、鬼頭の視線が珠音を捉える。

「楓山さん、君の話も聞いているよ」

「......はい」

 珠音は自分が緊張していることに気が付き、手汗をスカートで拭う。

「最初、話を伺った時は驚いたよ。全国でいないことはないだろうけど、硬式野球部に選手としての入部を希望してくる女子生徒はそうそういないもんだ。まさか、自分の受け持つ野球部に入部希望者が来るだなんて、夢にも思わなかったよ」

 鬼頭は笑みを見せ、珠音に語り掛ける。好意的な対応に、珠音の緊張が少し緩んだ様子を横にいる浩平は感じ取った。

「だが」

 しかし、逆説を現す接続詞が続いた瞬間、珠音はピクリと身体を振るわせる。

「君も知っての通り、高校硬式野球において女子選手は選手登録することはできない。練習試合や私設大会なら出場可能だが、大舞台へ繋がる公式戦への出場はできない。そんな君を選手登録の必要がない試合に出場させたら、公式戦に出場可能な男子部員の出番を減らすことになり、必要な経験を与えられずにチームの弱体化を招く可能性もある。チームの勝利を目指す上で、あまり効果的とはいえないかな」

 鬼頭は溜め息をつき、手元の烏龍茶に口をつけつつ、珠音の様子を見る。

 敢えて発言に悪意を込めたこともあり、珠音の握りしめた拳がそれとなく震えているようにも見えたが、視線は真っすぐ鬼頭を捉えていた。

「(真っすぐでいい瞳だ)」

 鬼頭は烏龍茶のグラスを置き、言葉を続ける。

「さらには、フィジカル面の心配がある。もう体感しているだろうが、君たちの年代から男女の体格差は大きく開いてしまう。ただでさえ、試合中の接触プレイでは男子選手でも大怪我の危険性があるんだ。指導者の立場としては危険を冒すようなことはしたくないと思っても、おかしな話では無いことは理解できるね」

「あ、あのっ!」

 浩平が言葉を挟もうとするのを制し、珠音は立ち上がる。

「......分かっているつもりです」

 大きく深呼吸し、言葉を絞り出す。ここまでストレートに正論を振りかざしてくるとは思わなかったが、これから先もずっと晒され続ける評価に耐えない訳にはいかない。

「君が理解していないとは思っていないよ」

 鬼頭は珠音の瞳に染まる熱意が失われていないことに満足し、小さく笑みを見せる。

 そもそも、鬼頭に断るつもりなど毛頭ない。

「それでも、私は野球を続けたいと思っています。私は私の”やりたい”を大事にしたいと思っています」

 珠音は大きく息を吸い、言葉の続きを紡ぐ。

「これまで他の競技を薦められたりもしましたが、私は野球がしたいんです。他の競技も面白そうですけど、自分がプレイする姿がいまいちピンと来なくて、私はやっぱり野球がやりたいんだって分かったんです。先生や他のチームメイトに迷惑をかけてしまうかもしれません。それは重々承知の上で、お願いします!」

 珠音が吸いきった息を吐き出しきるのと同時に勢いよく頭を下げると、浩平も立ち上がってそれに続く。

「いいバッテリーだ」

「少年野球時代からの名コンビだそうで、馴染みのチームメイトからは”老夫婦”なんて言われているんですよ」

 桜井が軽快な笑い声を上げる。

「いいだろう、入学試験を無事に合格して我が校に入学した暁には、君をあくまでも”選手”として受け入れよう。これは約束だ」

「ありがとうございます!」

 珠音の表情に、ようやく明るさが戻る。

「当然、男子部員と同じように扱うからね。ハードルは高いよ」

「もちろんです。それに、ハードルが高ければ高いほど、飛び越えがいがあります」

 あっけらかんと話す珠音の姿に、鬼頭は素直に魅力を感じていた。

「さぁ、気を取り直してグラウンドへ行こうか。鍵をかけるから、この部屋に荷物を置いたままにしていいよ」

「あ、あの...」

 部屋を出ようとする鬼頭を呼び止めると、珠音と浩平は恐る恐る鞄からグローブを取り出す。

「持って行ってもいいですか......?」

「まぁ、キャッチボールくらいならいいか。練習に参加した訳ではないからな。といっても、バレたら怒られるかもしれないから、絶対に内緒だぞ」

『ありがとうございます!』

 チームメイトから”老夫婦”と呼ばれているだけのことはある。

 ピッタリ揃った返答に、鬼頭は思わず苦笑した。



 鬼頭がグラウンドに足を踏み入れるのを確認すると、部員たちが練習の手を止め揃った挨拶をする。

 挨拶の仕方は違えど、どこの学校も文化は同じなようだ。

「集合!」

 キャプテンの合図で部員が鬼頭の元に集まってくる。

「事前に伝えた通り、今日は見学者が来ている。いい所を見せようと張り切るのはいいが、無茶をしないように」

『はいっ!』

 集まった面々の中には珠音の見知った顔もいる。小さな市で同じ競技に取り組む者どうし、世間は狭い。

 再開された練習を間近に見ながら、その動きに感服する。

「やっぱり、力強い......」

 練習内容は変わらないのに、動きの速さと力強さは中学野球とは段違いである。

 身長はそこまで変わらないのに、身体は2周り程大きく見える。

「自信なくしたか?」

「......ちょっとね」

 自分がこれから挑もうとしている世界。

 珠音はその一端に触れ、聳え立つ障害の大きさを改めて思い知らされる。

 これでまだ中堅校と言えるかどうかの高校である。強豪校を相手に、自分はどこまで渡り合えるのだろうか。

「でも、楽しみ」

 少々の小細工は、パワーで粉砕されてしまう。

 如何に障害を乗り越えるか、想像するだけで珠音の顔から自然と笑みがこぼれる。

 自ら”ハードルは高い方が乗り越えがいがある”と発するだけのことはある。

「......何?」

 そんな珠音の表情を観察していた浩平は、逞しさを感じていた。

 同性ですら圧倒される光景に、珠音は笑みを見せる。

「すげぇな、お前」

 口から出た言葉に、噓偽りは寸分足りとも混ざっていない。

「今更気が付いたの?」

 あっけらかんとした珠音の姿に、浩平は称賛を込めた溜め息を送った。

「2人とも、ちょっといいか?」

 鬼頭に声をかけられ、応える前に硬球が投げ渡される。

「硬球を扱った経験はないんだったな?」

「はい、基本的には。キャッチボールで少しだけってところです」

 中空でゴム製の軟式球と比べ、硬式球はコルクとゴムを芯として糸を巻き付け、表面に革を縫い付けた構造をしている。

 近年改良が進められたものの、軽い軟式球は空気抵抗を受けるため失速しやすく、球速や打球の飛距離が出しづらい傾向がある。

「スライダー曲がるかなぁ」

「投げる気満々じゃねぇか」

 投手視点で見れば、軟式から硬式へ転向する際に変化球の質が大きく変わってしまうこともある。

 とはいえ、投じられたボールが変化する原理は変わらない。

 2人は軽く肩慣らしをすると、制服姿のままブルペンへ鬼頭に連れられる。

「あぁ、ジャージに着替えるか?」

 鬼頭が今更になって、珠音の服装に失念していたことを思い出す。

 華の女子中学生に、制服姿で本気の投球動作をさせるのは如何なものか。

「いえ、大丈夫っす。下にスパッツ履いているんで」

 何を思ったか、珠音はスカートをたくし上げようとする。

「俺らを犯罪者にしないでくれ」

「お前は恥じらいを覚えろ」

 その場の男性陣から向けられた呆れの視線も、珠音は特に気にした素振りを見せない。

 中学生ながら”男社会”に順応しすぎているのも、如何なものだろうか。

「うっし、じゃあ、いっちょやってみますかぁ」

 肩慣らしのキャッチボールを終えると、珠音はぐるぐると左腕を振り回し、意気揚々と投球動作に入る。

「スパイク履いてないどころかスニーカーですらないんだし、無茶すんなよ」

 グローブをはめた右腕とボールが握られた左腕が振りかぶられ、ローファーを履いた右脚が高く上がる。

 チラリと見えたスパッツに目もくれず、浩平は細い左腕の先端に握られた白球にのみ意識を集中する。

「もっちのろん!!」

 力強く踏み出された右脚がマウンドへ体重を伝え、左腕から投じられた白球は一条の筋を描き、”古女房”の構えたミットに小気味よい音を立てて収まる。

「ナイスボール」

「んー、ちょっとズレたか」

 珠音が”ズレた”と言ったのは、踏み出した右脚が着地の際に僅かに滑ったことを差したのか、浩平の構えたミットが上方へ僅かに動いたことを示したのか。

 浩平から返球を受け取ると、珠音は汗を軽く拭い、再び構えられたミットをジッと見つめる。

「いくよ」

 珠音の声に、浩平はミットの内側を右手で叩いて応える。

 続いて投じられた白球は、浩平のミットを動かすことなく包み込まれる。

「いい感じ!」

 久し振りに思い切り身体を動かしたからか、珠音はいくらか興奮した様子を見せる。

「次、スライダー!」

「おっけ!」

 浩平に指定された球種を次々と投げ込む。

 本格的に硬球に触れることが初めてということもあり、幾度か違和感を覚えたよう表情を見せるが、その次にはすぐ修正した投球を披露する。

「すごいな」

 鬼頭は、自分が独り言を漏らしたことに気が付かなかった。

 男子選手であったとしても、なかなかできる仕業ではない。

「あまり投げ込みすぎないようにな。本格的に投げるのは初めてなんだから」

「分かってます」

「うっし、ラスト5!」

 浩平と示し合わせ、珠音は若干の名残惜しさも込めて投球を続ける。

「ラスト!」

 この投球を最後に、珠音はまたしばらく野球ができなくなる。

 思い残すことがないように投じた最後の一球は若干高めに上ずったが、この日一番の威力が込められた。

「もったいないな」

「私もそう思っています」

 終始、その様子を見守っていた鬼頭の独白に、桜井が反応する。

「私は、彼女に別の競技へ転向するよう勧めていました。それが、彼女のためになると」

 桜井は苦笑する。

「ですが、私は見当違いをしていたようです。子供たちの価値を大人が決めつけてはいけませんね」

「全くですね、私も改めて教えられた思いです」

 顧問を担当すると、場合によっては家族よりも長い時間を一緒に過ごすこともある。

「子ども達を指導する立場でありながら、反対に教えられることも多い。この教師という仕事、辞めたいと思うことも多いが、それと同じくらい面白くやりがいを感じられるあたり、私にとって天職なのかもしれません」

珠音と浩平がクールダウンする様子を眺めながら、鬼頭は考えていた。

この2人が輝ける場所を、どうにかして作れないものかと。

「これは面白くなりそうだ」

 まだ無事に入学してくるかも分からない2人の姿は、鬼頭の目にハッキリと焼き付いた。

 そして同時に、これだけ息の合った2人が公式戦でバッテリーを組む姿を見られないことに、鬼頭は心から残念に思った。



 練習見学を終えて鬼頭ら野球部員に挨拶すると、桜井に連れられた珠音と浩平は少々物足りなさそうな表情を引っ提げて帰路につく。

「やっぱ重いなぁ。それに、上手く”曲がらない”」

「そりゃ、軟球と硬球じゃ全然違うしな」

「ここから調整しないとね」

「既に入部前提のようだが、その前に2人とも、ちゃんと合格してくれよ」

 久し振りに身体を動かし野球談議へ花を咲かせるティーン2人に、ややお疲れ気味の桜井が釘を差す。

『はーい』

 糠に釘とはこのことかと、国語教師の桜井は溜め息をつく。

 生返事の主たちは、先人の言葉に意識を向けることなく野球談議に花を咲かせている。

「やれやれ、だ」

 しかし、嫌な気分にはならない。

 話に満開の花を咲かせている2人の表情は、夏の日差しを受ける向日葵よりも燦々と輝いていた。



 珠音と浩平が後輩の練習を手伝いつつ受験に備えて夏期講習をこなしていると、例年よりもやや長く感じた夏休みはあっという間に過ぎ去っていた。

「結果どうだった?」

「まぁまぁ」

 夏前には各部活の話で盛り上がっていたクラスメイトたちも、夏休みが明けて1ヶ月が経つ頃には模試の結果に一喜一憂するようになっていた。

 無論、珠音と浩平も例に漏れることは無い。

「そう言う割には、表情にやにやしてんじゃん」

 珠音が浩平の模試結果を奪い取ると、鎌倉大学附属高校の合否判定を示す欄には「B」の文字が記されていた。

 この調子で継続すれば、高い確率で合格できるだろう。

「ほー、なかなかに順調そうではないかね!」

「そう言うお前はどうなんだ。俺の結果を見せたんだし、お前のも見せろよ」

 上から目線の物言いに若干不機嫌な声色で返し、浩平は珠音の成績表を奪い取る。

「......お前がそういう女だってこと、思い出したよ」

 合否判定に記された「A」の文字。

 少なくともスポーツ万能な彼女は、学業においても学年では上位に割り込んでいる。

 浩平もそれなりに上位を伺うポジションを維持しているとはいえ、これまで成績で珠音に勝ったことは一度もない。

 その都度、得意げな表情を見せる珠音から煮え湯を飲まされていた。

「あーそういやさ、明後日は暇だよね?」

「あ?」

 どうにかして鼻を明かしてやろうと思案に耽っていた浩平は、珠音の誘いに思わず不機嫌な返答をしてしまった。

「まぁ、確かに塾ないな」

 2人は同じ学習塾で同じ授業を履修しており、互いに放課後の予定は熟知している。

「兄ちゃんが週末にかけて帰ってくるんだけど、どうする?来る?」

「うぉ、マジか!行く行く!話聞いてみたい!」

 珠音は年の離れた兄がいる。

 前年秋にドラフト指名されたプロ野球球団に大学卒で入団して以来、ルーキーシーズンとなった今年からチームの本拠地がある静岡県に居を移していた。

 シーズンが終了し秋季練習が開始されるまでの余暇を実家で過ごす算段らしい。

「分かった、伝えておくよ」

 珠音と浩平へ野球を教えた張本人であり、入りたくても入れない憧れの世界に足を踏み入れることができた、一握りの存在である。

「楽しみにしているよ」

 浩平は平静を装っていたが、明らかに浮かれている。

 午後の授業へ全く身が入らない様子を、珠音は内心で大笑いしながら見ていた。



 珠音の兄が帰ってくる日、2人は学校が終わると、どこにも寄ることなく真っすぐ帰宅した。

「よっ、おかえり」

「兄ちゃんこそ、おかえり」

「将晴さん、久しぶりです」

 珠音の自宅の玄関で2人を出迎えたのは、前年秋に会った時よりも見るからに身体が大きくなった珠音の兄―楓山将晴―だった。

「浩平、身長いくつになったんだ。俺より大きいだろう」

「179cmっす」

「えっ」

 浩平の返答に、先に靴を脱いで玄関を上がっていた珠音が、愕然とした表情で振り返る。

「いやぁ、羨ましいなぁ。これでまだ高校入っていないんだから、180cmなんて軽くオーバーできるな」

「ていうか、また伸びたの!?」

「保健室で何となく測ってみたら、な」

「許さん、私は全然大きくならんのに。縮んでしまえ!」

 せめてもの抵抗のつもりか、珠音は浩平の身体にしがみつき、全ての体重をかける。

「いや、お前も成長していると思うぞ」

 若干照れたような表情を見せる浩平を、将晴はにやけ顔で見守る。

「まぁ、上がれや。夕飯食っていくんだろ?」

「え?」

「春恵さんには事前に私から連絡しておいたわ」

 珠音と将晴の母、秋穗が奥から顔を出す。

 少年野球でチームメイトになってからはご近所で年齢も近いこともあり、珠音と浩平は家族ぐるみの付き合いとなっている。

「もうすぐ来ると思うし、遠慮しないで食べていって。久しぶりに大人数で食べることになりそうだからって、おばさん腕をふるっちゃったわ」

「ありがとうございます」

 浩平は珠音を”背負ったまま”靴を脱ぎ、玄関を上がる。

「珠音、そろそろ浩平くんから降りなさい」

「そうだ、服が伸びる」

「やーだー、浩平の伸長が縮まるまで降りない」

「コアラにでもなるつもり?なら、夕飯はいらないわね。ユーカリでいいかしら」

「......それは嫌だ」

 夕食の確保を優先した珠音が、渋々といった様子でユーカリの樹を降りる。

「あいつがいつも通り過ごしているようで、俺も安心したよ」

 物心がついた小学生になってからできた年の離れた妹への親心か、将晴が安堵の表情を見せる。

「で、だ」

 将晴が浩平の肩に手を回し、耳元で囁く。

「妹の成長ぶりは、どうだった?」

 別々に暮らす兄としては、成長期を迎えた妹の身体が気になるところらしい。

 運動部員としてそこそこ鍛えているとはいえ、珠音の身体は徐々に”女子”から”女性”へと移ろい始めている。

「柔らかかったっす。特に、一部分。前よりも大きくなっていた気がします」

「......そうか」

 これは親心か、はたまた下心か。

 将晴は浩平を開放すると、満足そうな表情とサムズアップを見せた。



 もはや平日とは思えない二家族の賑やかな夕食は、あっという間に過ぎ去っていった。

 意地でも宴会に加わりたかったのか、話を聞きつけた両家父親は共にフレックスタイムを利用して仕事を早々に切り上げ、今では愉快そうに酒を酌み交わしている。

「ルーキーから1軍の舞台を踏めて、スタメンにも抜擢されたんだ。このまま一気にレギュラーだな」

「おう、できるできる。将晴くん頑張れ!」

 酔っ払い2人は場所を変え、リビングでは早くも2次会を始めていた。

「だって、兄ちゃん」

 その様子に呆れた視線を送りながら、子供組は食卓で寛いでいる。

「まぁ、スタメンは消化試合だけどね。ライバルももちろん多い。正捕手の浜さんを今すぐ追い越すのは簡単じゃないけど、一歩一歩着実に成長していきたいな」

 将晴の所属する静岡サンオーシャンズは、10年前のプロ野球界再編の折に実施されたエクスパンションにより参入した、歴史の浅いチームである。

 元は沖縄県を保護地域としたチームとしての設立を目指していたものの、本拠地予定の球場設備や日程消化にあたる課題―梅雨前線や台風―をクリアしきれずに静岡県へ設立場所を移した経緯があり、チームも創設以来10年間でAクラス入りは1度のみと、非常に厳しい戦いを強いられている。

「やっぱ、みんな凄いの?」

「さすがはトップリーグといった所かな。うちも弱小チームとはいえ、選手はアマチュアリーグのトップ選手たちや、スカウトたちが見定めた原石たちだからね。昔よりチームが増えているけど、うかうかしていたら俺なんてすぐにクビにされちゃうよ」

「そういう兄ちゃんも、プロのスカウトに認められた”原石”の1人なんでしょうに」

 エクスパンションにより、それまでは12チームだった球団は16チームに拡大され、トップリーグのチームに所属できる人数も当然増えている。

 しかし、実力主義の世界が劇的に変わることはなく、平均在籍年数や引退時の平均年齢は相変わらずのままである。

「俺は大卒ドラ6。まさかドラ1で同じ大卒の捕手を獲るとはとはな」

「それだけ、ポスト浜田選手がチームとして重要なんでしょ。兄ちゃんだって、その一角を占めているんだから、期待のあらわれじゃない」

 静岡サンオーシャンズの正捕手浜田は、弱小球団を攻守で支えるチームの中心選手であり、その牙城は難攻不落と言っても過言ではない。

 中堅からベテランに差し掛かろうとしたスター選手の後釜育成は、チームにとって至上命題となっていた。

「まぁ、壁は高い方が燃えるがな。そうは思わんかね、若人よ」

 将晴の満足そうな表情を見て、浩平は改めて2人が兄妹だと感じる。

「そういや、浩平は進路どうするんだ」

「鎌大附属が第一希望です」

「鎌大かぁ......。まぁ、浩平ならすぐ試合に出られるようになりそうだな。シニアに入っていないとはいえ、その体格なら強豪校から誘いの一つもあったんじゃないか?」

「そうなの?」

 将晴の指摘に、珠音は浩平の表情を伺う。

「まぁ、無くは無いですけど」

「えー、もったいない」

 珠音は大袈裟に驚いた表情を見せる。

「前も言ったけど、浩平ならもっと強い学校でも通用するよ。公式戦に出られない私とバッテリーを組みたいからって、我慢とかしてない?」

「俺は試合に出たいの。それに、我慢なんてしていないよ。俺は俺のやりたいようにしているだけだし」

「ふーん」

 浩平は珠音の台詞を引用した返答に、言葉の主は生返事を返す。

 2人の会話を聞いて、将晴は満足そうな表情とちょっぴり残念そうな表情を見せていた。

「おーい、将晴。こっちに来て一緒に呑もうや」

「はいよー。妹よ、こうまで言ってくれているんだ。珠音、”旦那”として”女房”は大切にするんだぞ」

はーい

 宴会会場から指名を受けた将晴は、冷蔵庫からビールを取り出す。

「やれやれ、男心の分からん奴だ」

「なーにー?」

「何でもないさ」

 将晴はそう言い残すと、翌日の仕事などとうに忘れてしまった酔いどれ共の宴へと飲み込まれていった。

「どうした」

「何か、兄貴がもにゃもにゃ言ってた」

「何だそりゃ......ま、これからも一緒にできるよう頑張らないとな、嫁さんや」

「甲斐性無しは嫌われますぞよ、旦那さんや」

 へべれけな大人にならい、グラスに入った烏龍茶で2人は乾杯する。

「ほら、食べ終わったなら片付け手伝って」

「浩平も、それこっちに持って来て」

 成人男性組が何も手伝わずにアルコールを嗜む姿に呆れつつ、キッチンの主達はテキパキと片付けを進める。

『はーい』

 子供2人の息の合った生返事に、母2人は思わず苦笑する。

 この姿がいつまで見られるのかと、親心を秘めながら。



 中学生になってからというもの、時間の流れが早く感じるようになったと、浩平は常々感じていた。

 それだけ、野球部で過ごした時間が充実していた証拠であろう。

「よっ、相棒!」

 通学路の桜並木をぼんやりと歩いていると、後ろから明るい声が近付いてくる。

 いつもはやや着崩している制服も、卒業式の今日というこの日ばかりは真面目に着こなしているようだ。

「私のこの姿も今日で見納めだよ。明日以降に着たら、ただのコスプレになっちゃうからね。さぁ、特と見たまえ」

 珠音はくるりと1回転する。

 学年で1番とは言わないが、少なくとも上位に食い込むだけのポテンシャルを有する容姿は、男女から根強い人気がある。

「はいはい、見ましたよ~」

 浩平は適当な返事をすると、目線を逸らす。

 キラキラとした彼女の様子をマジマジと見ることに、浩平の精神は耐えられなかった。

「結局、野球部メンバーで鎌大に行くのはウチら2人と南だけだったね」

「みんなバラバラになったな。あいつは続けるって言っていたけど、他はどうかね」

 近隣の高校で野球部に入るならば練習試合で会うこともあるだろうか、高校進学を機に、別の競技へ転向する人も多い。

 これまで毎日のように過ごしてきたチームメイト、とりわけ別クラスのメンバーとは引退以降、徐々に接点が少なくなってきている。

 今日を最後に殆ど接する機会が無くなってしまうのかと思うと、少々の寂しさも感じられた。

「続ける続けないは人それぞれ、やり方だって人それぞれだ。うちらはうちらで頑張ろう」

 珠音が浩平を追い抜き際に、ハッキリとした口調で自分の意思を伝える。

「私は私の”やりたい”を大事にしたい。だから、鎌大で野球を続ける」

「俺は俺の”やりたい”を大事にしたい。だから、鎌大で野球を続ける」

 浩平は珠音に追いつき、肩を並べる。

「よろしくな、”旦那”さま」

 浩平が右手を握り、珠音へと差し出す。

 少年野球でチームメイトになって以来、続けられてきた幾度も交わしてきた儀式。

「”女房”よ、私に任せて下さいな。甲斐性無しになんかなるつもりはないよ。面白い高校生活も、一緒に頑張ろうね」

 珠音はいつものように返すと、自分の歩く道を真っすぐと見つめている。

 この時に自然に発した言葉は、もちろん意図されたものではない。

 これから2人が高校生活を通じて巻き起こす嵐の予感は、桜の花びらを散らす春風にしか伝わらない。

 珠音の言葉通りになったその時、これが全ての始まりを告げる合図だったのではなかと、後の浩平は振り返り述懐した。

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