3回表 鈍色の想い

Top of 3rd ininng ―鈍色の想い―


 準決勝のあった週末が明けた月曜日。

 高校生の情報網も案外と馬鹿にはできないものだと、浩平は溜め息をつく。

 クラスで一番の元気印で、サボりや体調不良とは無縁そうな珠音が学校を欠席したことに驚愕したクラスメイトたちは、その日数が2日、3日と伸びるにつれ、何やら尋常ならざる出来事が発生しているのではないかと詮索するようになる。

 市内の同じ中学校から進学した同級生に至っては、3カ年皆勤賞の珠音のこれまでの活発さから未知の病原菌に蝕まれているのではと噂に尾ヒレを付ける始末である。

 やがて情報通を自負する学生が当事者や当日その場に居合わせた面々から情報をかき集めた結果、準決勝における事の顛末が学校中に知れ渡る結果となった。

 珠音と別クラスの浩平も当事者の1人として噂好きの格好の標的となり、暫し好奇の的に晒される羽目になった。

「全く、好き勝手に言ってくれるな」

 大庭も同様に餌食にされたようで、部活開始前から文句を並べている。

「人の噂も75日っていうから、もう暫くは続くんじゃないかな。それで、当の本人は?」

 二神が呆れたような表情を見せている。

 他の部員も学年を問わず同じ様子で、皆一様に憮然とした表情を見せていた。

「ダメね。既読は付くんだけど、返信は返してくれないわ」

 スマートフォンを操作しながら、夏菜が溜め息をつく。

「こっちもダメだ。家に行ってみたけど、珠音のお母さんも手を焼いているらしい」

「浩平一家でダメか......こりゃ、重傷だな」

 家族ぐるみの付き合いですら現在の珠音に取り付く島もないとなれば打つ手がない。

 二神はそう言いたげな様子で、肩を大袈裟に竦めて見せる。

「先生は今日もまた教職員会議だってさ。この話題、だいぶ問題になっているみたい。学校として、正式に抗議するとかなんとか」

 夏菜はキャプテンの野中と2人で仕入れた情報を整理しつつ、この日の練習の準備を進める。

 鬼頭は通常の業務をこなしながら、情報の整理と対策の立案、更には取材依頼への対応に追われ、週明けから練習に顔を出せないでいた。

「とにかく、何とか出来ることをしてあげないと。みんなもシャキッとしないでしょ」

「......だよなぁ」

 夏菜の言葉を受けて、3人はグラウンドに集まった野球部の面々を見る。

 どこか覇気が無く、練習にも身が入っていないように見える。

 大会終了後の”燃え尽き感”という可能性も否めないが、どちらかと言えば突然晒された理不尽の前に自分たちが何も出来なかった無力感の方が正しいように思える。

 雰囲気作りの中心人物を欠いて、士気の低さが際立つチームに、キャプテンの野中も頭を抱えていた。

「でも、どうすればいいんだろうね」

「分からんな」

 浩平が頭を掻きむしった所で、野中から集合の合図が出される。

 雑念を振り払うように首を大きく横に振ると、鈍色の空の下、気が乗らないままにこの日も練習が開始された。



 薄暗い部屋の中、珠音は”自分がこんなに弱いものか”と自嘲気味に笑う余裕は取り戻しつつあった。

「あー、木曜日かぁ......」

 小学校と中学校では、熱があったとしても出席し意地でもぎ取った皆勤賞だったが、高校では敢え無く手放すことになった。

「みんなに心配かけちゃってるよね」

 スマートフォンを見てみると、浩平や夏菜を始め、友人から多数の着信やメッセージが寄せられていた。

 純粋に体調を気遣う内容、出来事を知ってか励まそうとする内容、野次馬根性が見え隠れする面白がるような内容。

 しかし、今の珠音にはそのどれもが他人事のように感じられた。

「そういや、こんなにボールを触っていないのも久し振りだな」

 少年野球チームに参加して以来、打ち込み続けた野球漬けの生活。

 好奇の視線に晒されることには慣れていたが、悪意を持って強く否定されたのは初めてだった。

「”女子選手の出場は規約違反であり、グラウンド内への立ち入りも認められない”か」

 珠音は投げかけられた言葉を復唱し、大きく溜め息をつき瞳を閉じる。

 準決勝以来、ふとした表紙に瞼の裏に浮かぶ光景は、マウンドから見た景色ではなく、降板後に会議室で行われた出来事だった。



 苦虫を嚙み潰したような表情の主審から告げられた、降板の指示と理由。

 珠音はマウンドに立っていたつもりだったが、気付くと球場内の薄暗い通路に設置されたベンチに腰掛け、何もない地面をジッと見つめていた。

 どうやら、自分は無意識のうちにマウンドを降り、自らベンチを外れたようだ。

「楓山」

 目の前に立つ鬼頭は、入学以来見てきた表情の何れにも当てはまらない、怒りと、それを必死に噛み殺そうとする感情の入り混じった表情だった。

「......?」

 疑問符を表現するべく何かしらの言葉を発したつもりだったが、少なくとも自分の耳にその声は入ってこなかった。

「俺はこれから、大会運営本部に行って抗議してくる。事前の申し合わせで、お前の出場は問題なしと判断されていたんだから、当然だ」

「......でも」

 事実として、自分は”規約に反する存在”としてマウンドを降ろされた。

 珠音は口から漏れ出しそうになる言葉をぐっと堪え、耳に入れないようにする。

「お前はどうする。ここにいるか?」

 運営本部に行けば、より詳細な原因が分かるかもしれない。

 一番の当事者たる自分が訳も分からないままではいけないだろうと、珠音の混乱が続く脳は判断した。

 言葉を発することが何故だか躊躇われ、珠音はその場に残らないという否定の意味を込め、首を小さく横に振る。

「分かった、じゃあ行こうか」

 今度は肯定の意味を込めて首を立てに振ると、立ち上がるために脚に力を入れる。

 両脚に若干の震えを感じ、自分が現実をまた突き付けられることに恐怖を覚えていることを自覚した。

「大丈夫か?」

「......たぶん?」

 ゆっくりと歩を進めると、すぐに大会運営本部の設置されている会議室の扉の前に到着した。

「行くぞ」

「......はい」

 鬼頭は丁寧かつやや乱暴に扉をノックし、承諾の声も聞かずに扉を開く。

「......おや、試合中にも関わらず監督が采配をほったらかしにするとは、どうかしているのではないかな。こんな監督の指導を受けるとは、選手たちも可哀想なことだ」

 声の主にして珠音が降板する元凶となった存在は、周囲の大会運営スタッフから距離を置かれた状態で窓越しに試合を観戦しつつ、嘲笑うかのような声を上げる。

「どうかしているのはあなたの方ではありませんか。私がここに来たのは、私の大事な”教え子”の名誉を守るためです」

「それは大事なことだ。して、何の用だね」

 まるで他人事のような口調の壮年男性は窓際の椅子から立ち上がると、鬼頭と対面するように歩み寄る。

 運営責任者は眉間に皺を寄せつつ自分の席を譲り、机上の書類をまとめて出しっぱなしの筆記用具をペン立てに戻す。

「その娘も連れて来たのか」

「訳も分からず降板させられた当人です。理由を直接伺う権利はあると思いますが」

「なる程、筋は通っているか。分かった、まずは自己紹介だな。お互いの”立場”というものを確認しようではないか」

 壮年の男はパイプ椅子の感触に不満気な表情を見せると、懐から名刺を取り出し一応は丁寧に挨拶の言葉を送る。

「私は増渕和男。高校野球連盟で理事を務めている」

 鬼頭は名刺を受け取り、より厳しい表情を見せる。

「鎌倉大学附属高校の野球部顧問、鬼頭勝雄です。持ち合わせがなく、申し訳ありません」

 鬼頭の礼節をわきまえた礼を、増渕は手で制する。

「ここは仲良く握手を交わす状況ではないだろう。改めて伺うが、監督が無責任にも試合中の選手をほったらかしにし、ベンチを離れてまで私に何用なのかね」

「単刀直入に申し上げましょう。我が校は本大会への参加に当たって運営本部に直接の問い合わせを行い、ここにいる彼女のような女性選手の選手登録について許諾を頂いております」

「そのようだね」

 増渕は鋭い眼光を向けると、大会運営責任者がビクリと身体を震わせ、視線を明後日の方向へと逸らす。

「また、この大会の運営は連盟とは切り離され独立したものと伺っております。あなたが相応の立場の人物であれ、連盟主催の公式戦でなく、私設大会の運営規約を強引に変更させる権利はないと思われますが」

「もっともな意見だ」

 鬼頭の筋の通った指摘に、増渕は感心したような表情を見せる。

「では、私の見解を述べよう。まず、私設大会とはいえ連盟の規約には従っていただくべきだと考えている。先ほど運営規約を見たが、大会参加規約に”女性選手の参加を認める文言”は記載されていない。また、連盟本部への事前照会もないなど運営面にも問題が挙げられ、緊急事態への対応に疑問が残ると言ってもいいだろう。これ以上の参加継続は彼女を含めた選手たち全員にとって危険だと判断し、彼女の降板を指示した次第だ」

 増渕の語る理論に間違いはなく、彼はそのまま毅然とした態度で言葉を続ける。

「また、選手たちのパフォーマンスにも影響が出ているようにも見受けられる。先日の県大会で優秀な成績を収めた湘南義塾高校の各選手が、”実力に劣る”彼女の投球の前では中途半端なものになっている。女性選手との接触やもしもの事態が発生した時のことへ意識を取られているとしか思えない」

「実力の劣る......」

 珠音のか細い声は、増渕の言葉にかき消される。

「ただでさえオフシーズン手前で、本来は試合を行わなくなる時期に集中力の欠いたプレーをしてしまっては、将来有望な若者たちの未来を潰す可能性さえ考えられる。ただでさえ競技人口が減っている中で、優秀な人材を守ることは重要な使命だ。よって、連盟幹部としてそのような状況をとても見逃すことはできません。私の判断は、間違っているかね」

 言葉尻では疑問形を呈しているものの、返答を許さない眼光が鬼頭を貫く。

「我が校の部員たちが、実力に劣ると言いましたね。湘南義塾の選手たちにも、実力の劣る相手に対して侮っていると。フェアプレー精神に基づく彼らの努力とパフォーマンスを否定するなど、彼らを護るべき存在の発言として看過できません。それに、あなたの言うように競技人口が減る中、”優秀な人材”を選手起用したいと思うのは間違っていますか?」

「ほう、それは確かにそうだな、謝罪しよう。だが、女性選手を先発させて生まれた隙を突こうとした君こそ、フェアプレー精神に欠けているのではないかな?」

 鬼頭からの批判をかわす様に、増渕は高圧的な嘲笑を見せる。

「それに......」

 増渕が視線を試合会場に移すと、塁上はランナーで埋まり、マウンド上では高岡が苦しそうな表情を見せている。

「投手が変わってからの湘南義塾ナインのプレーは、正に本領発揮といった所だな。それに引き換え、君の導くべき部員たちはアップアップだ。本来、動揺を抑えるべき指揮官がこんな所にいるだなんて、なんて可哀想なことだろうか」

 まるで舞台役者のように台詞じみ、且つ刃のように鋭い声は、同じ空間に居合わせた面々に鳥肌を立たせた。

「くっ」

 不義理を覆い隠すように正論をかざされ、鬼頭は発言に窮してしまう。

「......私の努力は、認められないんですか」

 しばし室内に沈黙が流れた後、最初に口を開いたのは珠音だった。

「高校に入る前、他の競技に転向するか悩みました。大会に出られないのなら、いっそのことって。入ってからも、分かっていたとしても、悔しくって。何で男子じゃないんだろって考えることが多くなりました」

「私個人としては認めよう。君の努力は称賛されるべきものだ」

 増渕は先程までとは打って変わり、孫をあやすような声を出す。

「だが君1人、ただ個人の我が儘を守る訳には、認める訳にはいかない。私たちは野球へ懸命に取り組む選手たち全員と、100年続く高校野球の伝統を大切に守らなければならない。分かるだろう」

「......分かりません」

「なら、分かるようになりなさい。子供は大人の言うことを聞くものだ。勝負事とはいえ、高校野球はスポーツを通じた高等教育の一環だ。義務教育を修了しているのだから、規則を遵守し分別ある行動をとれる大人にならないと――」

「分かりません!分かりたくありません!」

 珠音がまるで聞き分けの無い駄々っ子のように否定の言葉を重ねると、増渕の顔がみるみる紅潮していくのが分かる。

「子供じゃないんだ」

 怒声を出さないよう必死にこらえながらも、温和な雰囲気を出していた増渕の口調が再び厳しいものに戻る。

「私は子供です。まだ子供です。私の我が儘は、そこまで認められないものなんですか?」

「伝統を守るためだ」

「伝統が何だって言うんですか。伝統は守ろうとしないと守れないことなんですか?変わろうとしても変わらなかった、変えようとしても変えられなかったことこそ、本当に大事な部分として伝統と呼ばれるようになるんじゃないんですか!?」

 珠音の言葉に、鬼頭は強く頷く。彼女の意見は正しい。

 積み重ねられた時代ごとの変化に晒されても結果的に残ったものであり、伝統とは長く続く文化の根幹である。

 積極的に守られてきた訳ではなく、結果的に守られていたものだ。

「小娘が、分かったようなことを言うな!」

 増渕が突然発した怒声に、珠音は怯む。

「子供は大人の言うことを聞いていればいい、規則という籠の中でしか自由のない鳥だ。君は只でさえ規則を破る、言わば犯罪者、その予備群と言ってもいい。規則を作る大人に口答えする権利はない。規則の無い完全な自由を求めるなど、もっての外だ」

「犯罪者...!?」

 増渕から発せられた予想外の言葉に珠音は愕然とし、周囲の面々も只々開いた口がふさがらないといった様子だった。

「やりたい事を、私はしてはいけないんですか」

「そうだ」

 珠音の弱々しい言葉を半ば遮るよう食い気味な返答の前に、一同は黙るしかなかった。

「たかが一選手の我が儘や夢を叶えるために、伝統を守るための規則を変更することはできない」

 増渕が追い打ちをかけるよう言葉を発した直後、球場に快音が響き渡る。

 珠音がグラウンドへ弱々しい視線を向けると、代わってマウンドに上がった高岡が項垂れ、本塁へ生還した3人が殊勲打を放った打者走者を迎え入れていた。

「逆転満塁ホームランか、上出来だ」

 増渕は本塁付近で喜ぶ選手たちの様子を見て微笑を浮かべると、時間を確認する。

「さて、私は用事がある。これでも忙しい立場なものでね。そろそろお暇させていただくとしようか」

 増渕がゆっくりとした足取りで会議室を出ようとし、扉のノブに手を掛けたところで、2人に振り返る。

「そうだ、”鬼頭先生は”いい加減ベンチに戻ったらどうかね?まだ、試合は続いている。野球は9回2アウトからだろう。...あぁ、この大会は7イニング制だから、7回2アウトからかな」

 増渕はそう言い残し嘲笑すると、気まずそうな表情を見せる秘書兼運転手役を引き連れて会議室を後にした。

 運営本部は重い空気に包まれる。

鬼頭が無言で部屋を出るまで、室内には秒針がリズムを正確に刻む音が支配した。

「......ごめんなさい」

 鬼頭に従わず部屋に残りパイプ椅子に腰かける珠音の前に、中年の女性職員が紙コップに入れたお茶を差し出す。

 しかし、珠音はコップに口を付けることはなく、ましてや窓越しに見えるグラウンドの様子を伺うことすらなかった。



 珠音が再び瞼を開くと、時計は既に夕食時を指し示していた。

「短い夢だったなぁ」

 垣間見た夢は現実の荒波に打ち消され、時には眠ることさえ億劫に感じてしまう。

 折角なら楽しい夢でも見たい所だが、青春真っ盛りの心は刺さった棘をより深く差し込もうと反芻し打ち込み続けてしまう。

「ごはんよ」

 扉が開かれ、真っ暗な部屋に廊下の光が珠音の顔に当たり、顔を思わずしかめる。

「うん」

 珠音は小さく答えると、ベッドから起き上がり母親の元へと向かう。

「明日は学校行く。ごめん、ありがとう」

「分かったわ、無理しないでね」

 元気が取り柄の1人娘が見せる弱り切った背中に、母親は心配そうな視線を向ける。

「親って、難しいわね」

 それでも前に進もうと一歩を踏み出した姿に、思わず安堵の溜め息が漏れ出した。



 金曜日の朝。

 前日のバライティー番組や翌日以降の休日予定で話題に華が咲く中、1週間ぶりの登校を果たした珠音の姿を、クラスメイトは大きなざわめきで迎えた。

「おはよう。体調は大丈夫なの?」

「うん、だいぶよくなった。返信しなくてごめんね」

 先日の席替えでも隣同士となり、入学以来席が離れないまま冬を迎えた琴音も、同じく驚きを持って彼女を迎え入れる。

「......どうしたの?」

 琴音の挙動不審な様子を訝しむように、珠音が半目になる。

「いや、何でもない......イメチェン?」

 普段はセミロングに伸ばした髪をシュシュでまとめ上げポニーテールを形作り、鞄は野球用具が満載されたエナメルバックを右肩に駆けた様子は、醸し出すオーラを含めてまさに”活発”の2文字を体現していると言っても過言ではない。

 しかし、この日の珠音はトレードマークの尻尾を降ろし、使用回数が明らかに少なく新品同然の通学鞄を引っ提げており、どこか大人びたような雰囲気さえ感じさせる。

「そんなところ」

 どこか素っ気ない態度に琴音が窮していると、始業を知らせるチャイムと同時に担任教師が姿を見せる。

 思わぬ助け舟の存在に琴音は内心安堵するも、脇目で見る珠音の虚ろ気な瞳に胸がチクリと痛んだ。



 休み時間の度に噂を聞きつけた同級生の野球部員たちが珠音の元を訪れるが、珠音はそれらを避けるように、あるいは近付けないような状況を作り出し続けるうちに、冬の太陽は相模湾に向かって高度を下げ、放課後を迎えた。

「どういうことだ」

 教員室を訪れた珠音は鬼頭の元に向かうと、挨拶に続けた行動は退部届の提出だった。

「これまで、私の我が儘を聞いてくれて、ありがとうございました」

「大人は子供の我が儘を聞き、時に叱り時に受け入れるものだ。今回の件は学校として正式に抗議する方針が決まっている。あまり気に病むな、俺たちがお前を守る」

 鬼頭は退部届を突き返そうとするが、珠音は受け取ろうとする様子はない。

「でも、偉い人たちは私の我が儘は受け入れない。やりたい事をやるのもダメで大人になれと言われた。続けていれば練習試合には出られても、大きな大会はともかく小さな大会にも出られない」

 小さく呟くような声は段々と大きくなり、失われた感情が徐々に込められていく。

「自分は耐えられると思っていましたが、秋の大会をアルプスから見た時に気付いたんです。背番号を貰えて公式戦に出られる皆が羨ましくて、自分ではどうしようもない理由で出られない事がどうしようもなく悔しいんです」

 徐々にヒートアップしていく様子に、教員室の至る所から珠音に視線が集まる。

「楓山......」

 教員、事務職員、偶然その場に居合わせてしまった学生。冷静さを徐々に欠いていく珠音の姿を、皆が心配そうに見つめていた。

「それで数少ないチャンスまで奪われて。私、やっぱり.......耐えられません!」

 珠音の声は教員室の壁を貫き、廊下にまで響き渡る。

 大声を出したことで我に返った珠音は床に置いていた鞄を手に取ると、唇を噛み締めて教員室から飛び出そうとする。

「た、珠音!?」

「待って!」

 扉の影から心配そうに見つめていた夏菜と琴音にぶつかりそうになるのを間一髪かわすと、珠音は小さく”ごめん”と呟き、走り去っていった。

 直後に響く衝撃音。

「監督......」

 夏菜が振り返ると、鬼頭が俯いたまま自分の机に拳を叩きつけ、ベテラン教師が慰めるように肩に手を添えていた。

「何とかしないと」

「......そうだね」

 夏菜と琴音は互いに視線を交わし頷き合う。

 クラスは別だが体育の授業は合同で、その時に珠音を介して出会った2人の瞳に大切な友人を救うための決意の火が灯る。

「さて、暗夜航路を進む君に、灯台の光があることを教えて進ぜようかな」

 2人から少し離れた場所。

 灯火を遠目で眺める舞莉は口元を小さく緩めると、まるで対象の目的地を知っているかのように、珠音の後をゆっくり歩いて追いかけた。



 教員室を後にした珠音はそのまま家に帰ることはせず、校舎の屋上からグラウンドを静かに眺めていた。

 眼下では野球部が練習を始めていたが、どこか覇気がないようにも見える。

 練習開始前には夏菜の周りに選手たちが集まっていたこともあり、先程の痴態が皆に知られてしまったかもしれないと思うと、冷静さを欠いた自身の行動が今更ながら恥ずかしくなってくる。

「やぁ」

 不意に後ろから声を掛けられ、珠音の両肩がビクリと跳ね上がる。

「......ここ、立入禁止ですよ」

「先に入っている君が言うのかね」

 振り返らずとも、珠音は声の主を特定できた。

「何の用ですか、水田先輩」

「君に名前を呼んでもらえるとは、光栄だね」

 言葉を交わす機会はこれで3度目だが、過去2度の邂逅は珠音の中に強烈な印象を残しており、忘れようにも忘れられない。

「何、私も球場に居合わせた一人だからね。君のことを心配していたのさ」

 まるで心配していないかのような口調の言葉に珠音は溜め息をつき、振り返りその表情を拝む。

 夕陽に照らされた舞莉の瞳は、真っすぐと自分を貫くように見つめていた。

「逆光だね。また君の瞳を拝もうと思ってきたのに、よく見えない。こりゃ残念だ」

 飄々と語る舞莉を睨むが珠音の表情は暗い影の中に沈み、舞莉からははっきりとは見えない。

「でもね、逆光の方が対象をより美しく写すこともできるものだ。普段は周囲の輝きにかき消された深層部の輝き、質感というものが現れるからね。邪魔なものを除外するおかげで、対象の持つ本質的な美しさが見えてくる」

「詳しいんですね」

「前に言ったでしょ、私は写真部も兼部しているんだって」

 舞莉の得意げな表情は、沈み行く夕陽の光を受けてより輝いているようにも見える。

「マウンドに立つ君の瞳は、逆光で陰る中でも一際目立ちそうな程に輝いていたようにみえたけど、今の君を見ている限り、どうやらまた失くしてしまったようだね。秋の大会、アルプスで見かけた時の君のようだ」

 舞莉は両手でカメラを形作り、その中心に珠音を捉える。

 暗い人影の奥では、太陽が水平線に沈もうとしていた。

「あそこには行かなくていいのかい?」

 珠音は振り返り、眼下のグラウンドを見る。

 黄昏時を迎えてボールを視認しにくくなった今、チームメイトたちはバットを手に取り、キャプテンの野中の掛け声に合わせて素振りをしている。

 暫くジッと見つめた後、珠音は視線を横に逸らした。

「彼らは君のことを待っていると思うよ。君の大事な友達も、先生たちも、君のことを心配しているし、行動を起こそうとしている。一部では動き始めてもいるようだしね」

 先程の様子だと、夏菜が琴音と連携して何かを始めようとしている。

 普段は表立って動くことをしないタイプの琴音がどんな行動を起こすのか、次期吹奏楽部部長として期待を寄せる後輩の行く末を楽しみにしている節はある。

「君は、動かないのかい?」

 舞莉は珠音の身体を舐め回すように、隅々まで観察する。

 話しかけた時に両肩がビクリと跳ねた時以来、これまで微動だにしなかった身体が、僅かに反応したようにも見える。

「動いてどうにかなるものなら、動きます。でも、どうにもならないでしょ」

「どうしてそう思うんだい、動いてもいないのに」

「......あなたに何が分かるんですか」

 正論を前に、珠音が口ごもる。

自分は不平を鳴らしているだけで、何も行動を起こしていない。

「分かるものだよ。私は吹奏楽部だ。音楽は空気を震わせて人の思いを伝え、届け、聞き取るものだ。君の奏でる音は大きさこそ立派だけど中身は空虚で、芯がない。私は写真部だ。写真は流れ行く時間軸から風景を切り取り、対象物がその瞬間に見せる外観と内面を永遠に残すものだ。君は外観こそ強い自分を演じているが、内面にその強さを支えるだけの力を備えていない。私は新聞部だ。情報を集めて分析し、限られたデータからでも全ての真実を見通せてしまうことだってある。君は動いてもどうにもならないと言ったが、私の集めた情報によると、上手いこといけば全てを覆せるかもしれない」

 舞莉はペンタイプのボイスレコーダーと小型のスピーカーを接続し、珠音が思い出したくもない大会本部での会話を再生する。

「中々不義理な内容だからね、使いようによっては切り札になるはずだよ。タイミングが重要だね。他にも少し調べ事をしてみたんだ」

 舞莉はポーチからSDカードを取り出す。

「湘南義塾の3番打者はプロからも注目されているらしい。あの試合にも、スカウトが観戦に訪れていたようだ。ここで重要なのは、あの3番打者が増渕理事の孫らしいということさ。彼の知らない所でそれなりに手を回しているようでね。金、立場、そこから顕在化する忖度。お孫さん自身は相応な実力を備えているようだから、プロ入りについては運次第だと思うのだけれども、いただけない”事実”もそれなりにある」

「......あ」

 思い返すと、高岡から逆転満塁ホームランを放ったのはあの3番打者を珠音は抑え込んでいた。

 孫がプロスカウトの前で”女子選手”に手玉に取られるなど言語道断であり、事実として決勝打を放つ活躍を見て、増渕は笑みを見せていた。

「このデータを君には渡さない、鬼頭先生に後で渡すよ。君が動くか動かないか、データを使うか使わないか、それらは君の自由だ」

 小型のスピーカーから音声が止まり、舞莉はその場を立ち去ろうとする。

「一つ、聞いてもいいですか」

 舞莉のペースで進んでいた会話に、初めて珠音から話題が振られる。

「どうして、そんなに私のことを気にしてくれるんですか。まだそんなに会ってもいないし、話したことも少ないのに」

 景色が薄暗く移り行く黄昏時。

 先程まで飄々と光り輝いていた舞莉の表情も、どこか暗く見える。

「私が目を掛けている後輩の大事な友達だから...では、説明にならないね」

 舞莉は視線を移し、まだ夕陽に若干染められている山々の稜線を見つめる。

「君を見ていると、私の大切な友人が思い起こされるんだ。年齢もその子と同い年だし、君と同じように......いや、君よりも遥かに務めて明るく振舞い、君よりも遥かに深い鈍色の瞳をしている。どうにかしてやりたいんだが、私はその子に何もできないでいる。だから、重ね合わせてしまった君にまでそうなって欲しくない。これなら、説明になるかな?」

 屋上には伝統が設置されておらず、互いの表情はよく見えない。

 それでも、先程までとは声質が弱くなっているように、珠音には聞こえた。

「目的は他にもあってね、君は私のその大切な友人の、かけがえのない相手の友人でもあるんだ。大事な友人に、間接的でも悲しい思いをさせたくないってだけさ」

 舞莉は制服のスカートを翻し、通用口の扉を開く。

「私は君の選択を応援するよ。頑張れ、エースちゃん」

 舞莉はそう言い残すと、通用口の扉が静かに閉じられ、姿が見えなくなる。

 グラウンドからはチームメイトがクールダウンの柔軟をする声が響き、一日が終わろうとしている。

「動く、ね」

 珠音はぼんやりと空を見上げると、朔日のこの日は早くから星が瞬き始めていた。

 悠遠からもたらされた生命の光が冬の澄んだ空気を貫き、珠音の瞳に飛び込んでくる。

「動くか」

 珠音が大きく吐き出した白い息が、冷たく乾いた空気に冷やされ白く色付く。

 直後、珠音はチームメイトの掛け声に負けじと大声を出すと、おもむろにポケットから愛用のシュシュを取り出し、降ろしていた髪をまとめ上げる。

 吐き出された白い息、大きな声、黒い影、そして輝きを灯した瞳。

 黎明の時代を支えた蒸気機関車の始動を思い起こさせる姿は、己が道を見据える”貴婦人”のように、凛とした雰囲気を醸し出していた。



 舞莉が上機嫌で教員室の扉を開く。

 目当ての鬼頭の机の場所を聞き出すが、当の本人は浩平や二神、夏菜といった野球部員が囲んでおり、何やら真剣に話し込んで言うようだった。

「あれ、部長?」

 その中で1人、野球部員ではない琴音が舞莉の存在に気が付き、声を掛ける。

「あれ、琴音じゃん。今日は全体練習無いし、とっくに帰っていると思っていたよ」

「自主練してました。あと、やっぱり珠音が心配で」

「真面目だね。琴音のそういうとこ、大好きだよ」

「ふぇっ!?」

 舞莉が赤面する琴音の顎を指で手繰り寄せ真顔で囁く動作はやけに様になっており、集まった面々から思わぬ注目を集めてしまった。

「何してんだ、水田」

「なんだ、野中くんもいたのか」

 浩平の影から、溜め息をつきながらキャプテンの野中が顔を出す。

 クラスメイトで同じく大所帯の部活動を束ねる者どうし、何かと話す機会も多いようだ。

「鬼頭先生に用事があったんだけど、取り込み中みたいだね」

「俺に......?」

 鬼頭は舞莉のクラスの授業を受け持っておらず、大した接点も無い。

 若干戸惑いの表情を見せる鬼頭を他所に、浩平が変わって説明をする。

「うちの楓山が先日の試合以来、久々に登校したんですが、部活に顔を出さないまま帰ってしまいまして。どうやら、教員室でもひと悶着あったようですし、俺たちで力になれることがないか、先生に相談しようと思いまして」

「なるほど、で、これか」

 舞莉は机の上に置かれた”退部届”を認める。

どうやら、相当思い悩んでいたらしい。

「......まぁ、大丈夫だと思いますよ」

 舞莉は先ほど珠音に披露したペンタイプのボイスレコーダーとスピーカー、SDカードを差し出す。

「これは?」

「差し入れです」

 舞莉は珠音に聞かせた時と同様に記録データを再生する。

 音声として直接入ってくる情報に、学生たちは顔をしかめた。

「事件は現場で起きる物だそうですが、その現場が会議室だってこともあります。直前に近くを通りかかった時に不穏な空気を感じましたので、少々の小細工をしてみました」

「......先輩、吹奏楽部ですよね」

 浩平の言葉に代表されるように、一同の驚愕と少々の呆れが込められた表情に満足した様子を見せる。

「新聞部も兼部しているから、スクープには鼻が利くのさ」

「いやいや、高校生にできることじゃないですよ、部長!」

「不可能を可能にする女.....女子高校生探偵......んー、どちらもいい響きだ」

 舞莉は意味もなくその場で2回転すると、すっと真剣な表情に戻す。

「データをコピーしたら、返してくださいね。明日取りに来ますので、私は帰ります」

「あ、あぁ」

 伝えたいことを終わって満足気な舞莉は集まった面々をじっくり観察すると、教員室の扉を開いて一点を見つめ、振り返ることなくその場を後にした。

「......ねぇ、あの先輩っていつもあんな感じなの?何か、変わった人だね」

 暫く沈黙が流れた後、夏菜が小声で琴音に問い掛ける。

「うーん、掴み所のない不思議な人ではあるけど......」

 琴音が苦笑を見せる。どうやら、”変人”という認識で間違いはないらしい。

「それで先生、そのデータはどうするんですか。そのデータを公開すれば、俺たちはかなり有利になるかもしれないですよ」

 野中の指摘に、鬼頭は頭を指で掻く。

「まずは校長と教頭に報告して、対応を協議する。内容は共有してもいいが、まだあまり事を大きくしないでくれ」

「確かに重要なデータですけど、今使った所で効果は薄そうですね。タイミングが重要ということですか」

 二神が鬼頭の意図を汲み取り、周囲も納得の表情を見せる。

「そういうことだ。学校は野球部の味方だから、安心してくれ。味方は少しずつ増やしていこう」

「分かりました」

 野中が代表して了承を示した直後、教員室の扉が開かれる。

「......珠音?」

 現れた姿を確認して、浩平が驚きと安堵の表情を見せる。

 下ろしていた髪は再び結い上げられ、頭上ではポニーテールが身体の動きに合わせて忙しなく動き回っている。

「先生、さっきの、退部届、ありますか!」

 ここまで走ってきたのか、珠音は息を若干切らし顔を紅潮させている。

 鬼頭は机の上にある退部届を差し出すと、珠音は奪うと表現した方が適切な勢いで受け取り、そのままビリビリに破り捨てる。

「先生、さっきはすみませんでした!」

 珠音の声が教員室の隅々まで響き渡る。

 しかし、彼女の元に集まる視線は先ほどのように心配そうなものではなく、通常通りの賑やかさを取り戻した安心感に満ちていた。

「私、まだ野球を続けたいです!これからも、よろしくお願いします」

 珠音は上半身を90度倒し、床面と並行にする。

「先生、俺からもお願いします」

 浩平に続き、野球部の面々が次々と頭を下げていく。

「端から、俺はそんなもんを受け取った覚えはない。目立つからやめてくれ」

 鬼頭は苦笑を見せると、珠音に向き直す。

「楓山、辛いかもしれないが、今は我慢をしてくれ。何とかできる保証はないが、何とかできるよう俺なりに力を尽くすつもりだ。一緒に頑張ろう」

「はい!」

 珠音が満面の笑みを見せると、浩平は心から安堵の表情を見せる。

 昼休みに様子を窺いに行った時には別人のように見え、数年振りに数日会わなかった間の変化に、声を掛けるのも思わず躊躇われた。

「とりあえず、まずは練習を無断で欠席した罰だ。箒と塵取りを持って来て、そいつを片付けておけ」

 鬼頭は笑顔で床面に散らばった紙面を指さす。

「分かりました!」

 珠音が教員室をバタバタと動き回り、掃除用品を探し始める。

 長年の相棒が見せるいつも通りの姿に、浩平は日常が戻ってくることを確信した。



 1週間ぶりに2人で歩く帰り道。

 すっかり遅くなってしまい、ちょうどいい時間のバスがなかったことから、珠音と浩平は寒空の下を歩いて帰っていた。

 大した期間ではないはずだが、浩平には随分と久し振りのように思えた。

「何か、久し振りな気がする」

 珠音も同様なのか、ポツリと呟く。

「何がだ?」

「一緒に帰るの。部活が休みの日もあったし、中学の終盤は受験勉強ばっかりで学校に行っても野球に触れない日はあったけど、浩平と一緒に帰らなかったのって本当に久し振りだよね」

「そういえば、そうだな」

 言われてみればいつ以来だったのだろうかと、浩平は思い返す。

 珠音と同じく、浩平も中学校3年間は皆勤賞を貫いた。

 伊達に熟年夫婦と呼ばれただけのことはあり、特に珠音たちの学年主体の新チームに代替わりしてからは練習がない日も珠音は女子友達と帰らず、浩平らと時間を共にしていた。

 親よりも長い時間を一緒に過ごすチームメイト、その中でも珠音の存在は別格である。

 浩平はこの数日間で、改めてそのことを実感した。

「......それにしても、増渕って人だっけ?散々言ってくれたなぁ」

「実力に劣る投球、だって。失礼しちゃう、スポーツマンシップに則ってないよね!」

「俺なんてホームラン打っているんだけどなぁ」

 珠音が鼻息を荒立てる。

 相手打線を抑え込んだのも、自分の実力や努力の成果ではなく、相手が侮った結果と言われたことに心底腹を立てているようだった。

「まぁ、言っていることが正しい点もあるさ」

「あれ、私たちの”敵”を庇っちゃうんだ」

 珠音が唇を尖らせ、不機嫌を素直に表す。

「いや、そういう訳じゃないが。接触プレイについて意識するのは、無理ないさ」

 改めて横を歩く珠音の姿を見る。

 高校野球に打ち込む球児たちは、中学校時代に成長期で伸びに伸びた身長に加え、厳しい練習で鍛えぬいた肉体を持つ。

「別に、私としては多少触られるくらい、訳ないけどなぁ」

 珠音はやや短めのスカートの端を掴んだり、両碗で胸を軽く押し上げたりする。

 珠音は成長するに連れて無意識の内に身に付けつつあった”女性”としての魅力に自身で気が付いていないのは明白であり、ガードが甘くなりがちな印象は日頃から散見される。

「そういうことじゃない」

 自分の目線からは数段低い位置にある頭、少しずつ大人びていく華奢な体躯、力強さとはかけ離れた腕、スカートの下から露になる太もも。

 同世代の同性から見ればしっかりとした身体付きも、異性から見れば子どもとは言わないまでも弱々しく感じられる。

 さらに男女の身体の内部構造がさらに異なるとなれば、意識しないわけにはいかない。

「何、もしかして触りたいの......?」

 あまりにも真剣な様子で観察してしまったせいか、珠音からケダモノを見るような視線を向けられ、両腕を組み胸をガードするようなポーズをとる。

「男子ってちょっと触ったくらいで勃っちゃうの!?」

「はぁっ!?」

「だから私、公式戦に出られないの!?」

「勃たねぇよ(たぶん)!」

 このように馬鹿げた会話ができるようになったのは幸いだが、このままのテンションで話し続けると身が持たない。

 浩平は徒労感の詰まった溜め息を漏らすと、諫めるような口調で小さな身体の相棒に語らいかける。

「お前、俺の全力タックルを受けたらどうなると思う」

「吹っ飛ぶ」

「そういうことだ、本当は分かっているだろ?」

 珠音が小さく頷くのを確認してから、浩平は確認するように言葉を繋げる。

「一度試合となれば、打者は得点のため出塁するために必死だし、守備はアウトを取るために必死だ。相手が何であれガムシャラになる。そんな中で大の男とぶつかる様なことでもあれば、お前は単なる怪我じゃ済まないかもしれない」

 珠音も知らないわけではない。

 競技中に起こる選手どうしの衝突事故では、互いに大怪我を追ってしまうケースが多い。

 鍛えぬき鋼のような身体を持つ選手が、選手生命どころではなく日常生活すら満足に送れない事態になりかねない。

 事故の映像は度々テレビで振り返り中継されるため、世代を問わず誰もが知る大事故となることさえある。

「分かってる。少なくとも、そのつもりだよ」

 だからこそ、体格差が広がり身体能力差が生じやすくなる中学生からは体育の授業も男女別となることが多い。

 個人競技ならまだしも、衝突事故の発生率が高い競技となればなおさらである。

「それでも、私は皆と野球がしたい。これは我が儘かな?」

「我が儘だろうけど、いいんじゃないかな」

 気が付けば珠音の家の前で、2人の今日という一日がいよいよ終わろうとしている。

「どうして?」

 家の門を開き、玄関に向かって歩く珠音が振り返る。

 外灯の光を背に受けた逆光のキャンバスでも、エネルギーを再び満タンにした珠音の瞳はひときわ輝いているよう、浩平には見えた。

「うちらはまだ子どもだしな。やりたい事をやろうぜ」

「......そうだね」

 珠音にとって、これほど心強い言葉はなかった。

「いつもありがとうね」

「何だよ急に」

 珠音からストレートに感謝を伝えることなど滅多になく、浩平は照れくさくなって思わず視線を逸らす。

「別に、そんな気分になっただけだよ」

 玄関に続く階段を上りかけていた珠音が、再び浩平に歩み寄る。

「また明日。ちゃんと練習には行くから」

 真新しい通学鞄は再びお蔵入りとなるようだが、持ち主の姿を見ればそれも致し方なく、本望とも言えるだろう。

「あぁ、また明日」

 珠音が照れくさそうに差し出した拳に浩平が応える。

 室内へと消えていく背中を見送り、浩平は1人で残りの帰路を進む。

 拳に残る感触は、勝利の余韻とは異なる心地よさを感じさせた。

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