プロローグ0(前編) ~変身~

 気が付くと私はそこにいた。見慣れぬ景色に夢でも見ているのかと暫しの間ぼんやりと目覚めるのを待ってみたが、一向に目が覚める気配がないので止めた。夢でないとするならば、これが臨死体験というものだろうか? 一説によると臨死体験は死の間際に脳が作り出す幻で、生前に見聞きした死のイメージが強く反映されるらしい。

 そういえば以前、こんなことがあった。研究のためにある部族の村に泊まった時の話だ。その村の人々はとても親切だった。遠い異国からきた見ず知らずの私を快くもてなしてくれた。私が火を囲んで村の人々と食事を共にしていると、一人の青年が声をかけてきた。

「なぁ、あんた。あんたは死んだことがあるかい?」

 不可思議な質問に首を振ると、青年は言った。

「そうだろうな。俺はあるぜ」

 胸を張ってそう豪語する青年に私は尋ねる。

「しかし君は今、生きてるじゃないか。」

 そう言うと、青年は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。

「あれは俺がまだガキの頃だった。木に登って遊んでいた俺は、手が滑って木から落っこちちまった。気が付くと俺は、ハゲタカの爪にがっちりと掴まれていた。しかし俺は必死に抵抗して、見事そいつを追っ払った。それで俺は生きてるのさ」

 青年が語ったのはあまりにも突飛な話だった。詳しく聞くと、その地域ではハゲタカが死者の魂を冥府へ導くと信じられていた。

 文化によって死後の世界に対するイメージは異なるものだ。仏教圏では三途の川や花畑を連想するのに対し、キリスト教圏では真っ暗なトンネルの中で眩い光に包まれるというのが一般的らしい。おそらく死に瀕した青年の脳は、その伝承からハゲタカのイメージを作り出したのだろう。しかしそうなると……

「うーむ……」

 私は小さく唸ると、きょろきょろと辺りを見渡した。辺りには果てしなく荒野が広がるばかりで、三途の川らしきものはどこにも見当たらない。これが私の抱いている死のイメージなのだろうか? いや、そもそもこれは本当に臨死体験なのか? 脳が作り出した幻にしては、やけに思考が明瞭だ。その証拠に、名前も年齢も生年月日もはっきりと覚えている。だとするとこれは、臨死体験というよりも明晰夢に近いのか……?

 そこで私は何が起こったのか、記憶を手繰り寄せることにした。

 確かあれは午後九時半を少し過ぎたぐらいだ。いつも通り寝支度をしていると、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。

(こんな時間に一体、誰だ?)

 訝しく思っていると、ふと昼間訪れた警官の話を思い出した。何でも最近この近所で動物の不審死が多発しているらしく、近隣の家々を聞き込みをして回っているらしい。生憎私には心当たりがなかったのでそう伝えると警官は、戸締りには十分に気を付けるようにとだけ言って帰っていった。

「もしや……強盗か?」

 私はぼそりとつぶやく。昼間聞いた動物の不審死と関係があるかは分からないが、まともな訪問者ならばこんな夜中にやって来ることはないだろう。一人暮らしの高齢者を狙う強盗犯かもしれない。

 そうこうしていると、二回目の呼び鈴がなった。留守かどうかを確かめているのだろうか? そうだった場合、居留守を使うのは逆効果だ。誰もいないと思われて侵入でもされたら、それこそ事件だ。私は念のため愛用している山歩き用のストックを握り締め、玄関へと向かった。

 身を屈めそろそろと移動し、留守ではないことを示すために玄関の明かりをつける。そのまま数分間息を潜めてじっとしてみたが、誰かが乗り込んでくる様子も明かりに驚いて逃げていく気配もない。だが、呼び鈴が二度鳴ったのは確かな事実だ。まさか幻聴というわけでもあるまい。その時だった。

「たす……けて……くだ……さい」

 外から消え入りそうな助けを呼ぶ声がした。声から察するに若い女性のようだ。まさか例の不審者に襲われたのか? しかし油断させて扉を開けさせる手口という線も捨てきれない。私は警戒しながら鍵を開けると、ゆっくりと引き戸をスライドさせた。戸を開けてすぐ、足元で黒い何かが蠢くのが見えた。それが真っ黒な衣服に身を包んだ人間であるということを理解するには、少しばかり時間を要した。

「大丈夫か、君!」

 私は倒れていた人物に声をかけた。事情を聞くとその少女は別に誰かに襲われたわけではなく、ただ単に空腹で行き倒れていたらしい。

「うーむ……」

 私は再び唸ると、腕組みをして天を仰いだ。そこまでは鮮明に覚えている。しかしどうしたことか、その後の記憶がどうにも曖昧だ。


『私は……ユ……ラ……です』


 少女は私に名を名乗ったはずだが、顔も名前も思い出せない。記憶にあるのは少女が身に着けていた黒いとんがり帽子のことだけだ。まるで「童話に登場する魔女のようだ」と感想を抱いたことはよく覚えている。どうやらあの少女に出会って以降の記憶が薄れているようだ。

 私は思い切り頬をつねってみた。皮膚を引っ張る圧力と痛みが右頬から脳へと伝わる。痛みがあるということは夢ではなさそうだ。それともこれも脳が見せている幻だろうか?

「ふっ……」

 頬をつねって夢かどうかを確かめる。物語などではよく見るが、現実に行うことはまずない。そんな行為を実際に取っているという事実がどうにも可笑しく、思わず苦笑した。

 その時、私は自らの服装に気が付いた。オリーブ色のチノパンにベージュのサファリシャツ、頭には焦げ茶色のフェドラハットをかぶっている。これはいつも私が現地調査フィールドワークを行う際の格好だ。若い頃に見た冒険映画に影響を受けてこのスタイルに落ち着いたのだ(尤もあちらは考古学者だが)。

 ふとズボンのポケットをまさぐると、記録用のペンと手帳に加えて愛用のルーペまで入っていた。いつの間に身支度を整えたのだろうか? 私は必死に思い返そうとしてみたが、やはり何も思い出すことはできなかった。まるで記憶がすっぽり抜けてしまったかのように。

(いずれにせよ、このまま思い悩んでいても仕方あるまい)

 これが夢なのか幻なのかその身で確かめるため、私は当所あてどもなく歩き始めた。


 それから私は荒野を歩き続けた。半日程歩いただろうか。陽はすっかり傾き、辺りは夕焼けに包まれ始めた。直に夜になるだろう。とその時、前方に家屋らしき建物が見えた。建物は居並ぶように複数建っている。どうやらそこは村落のようだった。

「これはありがたい」

 私は溜め息交じりにつぶやいた。村落ならば人が住んでいるはずだ。人が住んでいるならば、ここがどこなのかを聞くことができる。

 私は目に入った家屋の戸を叩いた。程なくしてそろそろと戸が開き、一人の男性が顔を出した。腰は曲がり、頭は禿げ上がり、口元に蓄えた長い髭は色あせてしまったかのように真っ白だ。私より少し……いや、かなり年上のように見受けられる。

「こんな日暮れの時間に申し訳ない。道に迷ってしまいまして、途方に暮れているのです。ここがどこなのか教えていただけないでしょうか?」

 私は敵意がないことを伝えるためになるべく丁寧な口調で、なおかつ困り果てた表情をしてみせた。老人は怪訝な顔でジロジロと私を眺めた後、ようやく口を開いた。

「……ゥハティアレヨウサィィンジ」

 聞き慣れない言語だ。この辺りの方言だろうか? 私はもう一度、話しかける。

「ここはどこですか?」

「イドンティケノゥゥハットティヨウアレサィインジ。アエスケソメオネエエルセ」

 そう言うと老人は取り付く島もなく、ばたんと戸を閉めた。私はその素っ気ない態度よりも、老人の言語が気になった。

(一体、どこの言葉なんだ? 日本語のようには思えないが……。標準語から大きく逸脱していると言えば津軽弁や鹿児島弁、そして沖縄語が有名だが、そのいずれでもなさそうだ)

 私は腕組みをして、思案しながら歩き出した。その時、私は見た。夕日に照らされて窓に反射した自分の姿を。

「なっ……!?」

 私は言葉を失った。窓に映る男はフェドラハットをかぶり、腕組みをしている。確かめるように両手を顔に当てると、窓の中の男も同じように両手を顔に当てた。映っているのは確かに私らしい。だが――

「この顔は……何だ!?」

 私は思わず叫んだ。窓に映ったその顔は、明らかに自分とは異なる別人だったからだ。


 一体、どうなっているんだ?

 信じられん……

 これは私なのか?

 おかしな夢としか思えない


 見慣れぬ風景に聞き慣れない言語。そして変わった自分の姿。立て続けに起きた不可思議な事態に考えが錯綜する中、私はいつか読んだ小説を思い出していた。

 主人公の男が何の前触れもなく巨大な毒虫に姿を変えるという、奇妙で不条理な話だ。確か――

「……変身」

 私は思い出したその小説の題名タイトルを、ぽつりとつぶやいた。

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