プロローグ7 ~師の教え~

 ある男がいた。腰は曲がり、頭は禿げ上がり、口元に蓄えた長い髭は色あせてしまったかのように真っ白だ。

 今ではすっかり老いさらばえてしまったこの老人だが、昔は多くの門下生を抱える名のある武術家だったらしい。何でもたった一人で百人を相手にしたとか、暴れ狂う熊を一撃のもとに葬り去ったとか、その力で数々の戦場で名を馳せたとか、色々と伝説めいた噂もあるようだ。

 村の人間は面白がって口々に噂を広め、まことしやかに噂は流れた。だが、老人が名のある武術家だったなどと本気で信じる者は誰もいなかった。退屈な日々の慰みとして、面白がって話していただけに過ぎない。このしょぼくれた老人にそんな華々しい過去があるはずがない。内心では皆そう思っていたが、誰も口には出さなかった。その実情を知ってか知らでか、当の老人はその噂について肯定も否定もしなかった。

 そんなある日、一人の少女が老人のもとを訪れた。年の頃は十四、五ぐらいの小柄な少女だ。少女は老人の顔を見るなり、「武術を教えて欲しい」と頼み込んだ。

 突然の申し出に困惑しつつ、老人は少女の様子を観察した。小柄で決して恵まれているとは言えない体格。おそらくは今まで誰かと戦った経験もないのだろう。ましてや女だ。いくら鍛えたところで、一角ひとかどの者にはなれまい。

 そう判断した老人は少女の頼みを断り、家に帰るように伝えた。だが、少女はもうどこにも帰るところなどないと答えた。不思議に思った老人がどういう意味かと尋ねると、少女は経緯いきさつを語り始めた。

 曰く、故郷の村が襲われ、命からがら一人逃げてきたのだそうだ。老人が「一体、誰に襲われたのか」と尋ねると、少女は「魔王」とだけ答えた。その言葉に老人は、このところ魔王を名乗る軍勢が各地を荒らし回っているという話を耳にしたのを思い出した。

 さらに老人が武術を教わりたい理由を聞くと、少女は家族の仇を討ちたいからだと話した。強くなり力を付けて、自分から全てを奪った魔王に復讐を果たしたい。強くなるすべを求めて彷徨っている時に、名のある武術家だったという老人の話を耳にし、藁にも縋る思いでここまでやって来たのだという。

 老人はもう一度、少女を見た。少女の顔は故郷と家族を失った悲しみと疲労とで暗く沈んでいたが、その目は鈍く光っていた。必ず復讐を果たすという強い決意が見て取れた。

 しかしいくら決意が強かろうと、それだけでどうにかなるものではない。そのことを老人はよく理解していた。いくら武術を学んだところで、たった一人の小娘に何ができるというのか? 仇を討ちたいのなら、自分で戦うよりも国王にでも直訴して軍を動かしてもらう方がよっぽど現実的だろう。尤も国王がそんな話に耳を貸すとは思えないが。才能のない者に教えを授けたところで時間の無駄だ。

 老人は困り果てた。少女の話が事実だとすれば、この少女は戦災孤児ということになる。それ自体は珍しくも何ともないが、遠路はるばる自分を頼ってやって来た孤児を追い返したなどという噂が広まるのは自らの沽券に関わる。そう考えた老人は、少女の弟子入りを渋々ながら許可したのだった。


 次の日から早速修行が始まった。しかし現時点で教えられることは何もない。武術のがないからだ。そこで老人は基礎から始めることにした。

 まず老人は少女に走り込みを命じた。走り込みによって全ての基本である基礎体力を養うことにしたのだ。次に砂を詰めた革袋に拳を打ち込むように指示した。体の動かし方と拳を作るための鍛錬だ。

 老人の教えはその二つだけだった。修業は地味で単調で、そして過酷だった。ただひたすらに走り込み、それが終わると砂袋に拳を打ち込むだけの毎日。老人は「すぐに音を上げるだろう」と高を括っていた。だが、そんな老人の予想に反して少女は愚痴一つこぼすことなく黙々と教えに従った。

 そして一年後、少女は見違えるように成長した。初めはものの数分で息を切らしていたが、今では何時間も走れるようになり、華奢だった体はすっかり逞しくなった。打ち込みで鍛えた拳にはができ、厚く硬くなっていた。

 ひたむきな少女の努力を無碍にすることもできず、老人は次の段階に進むことにした。本格的に武術を教えることにしたのだ。しかし当初の見立て通り、少女には武術の才能はなかった。性別も体格も武術には不向きなのだから、そんなことは分かり切っていたことだ。それでも少女は挫けることなく、修行を続けた。

「何故、そこまで必死になるのか?」

 疑問に思った老人は、少女にそう尋ねた。少女は答えた。

「魔王軍の軍勢が迫る中……私は逃げたんです。たった一人、家族を見捨てて……」

「しかしそれは仕方のない話だろう? 死にたくないと願うのは人として当然の感情だ。ましてや何の力もない娘が、一人残ったところで何になる? 逃げなければお主も共に殺されていただろうて」

「……分かっています。私も何度も何度もそう言い聞かせて、自分を納得させようとしました。でも……だめなのです。私は自分が許せません。何もできずに一人で逃げ出した自分の弱さを許すことができません」

「……」

 黙り込む老人を尻目に、少女は続ける。

「きっと家族だって私を恨んでいることでしょう。私は家族を見殺しにしました。だからこそ、その報いを受けなければならない。罪を償わなければならない」

「そのための仇討ちか……」

「……はい」

「それで……それが終わったら、お主はどうするつもりだ?」

「……」

 老人の問いに、今度は少女が黙り込んだ。だが、老人には少女の考えが手に取るように分かった。

(嗚呼、全てが終わったらきっとこの娘は――)

 少女の悲壮な決意を悟った老人は、それ以上はもう何も言うことはできなかった。


 少女が老人に教えを乞うようになってから二年半、転機は突然訪れた。村に勇者一行を名乗る五人組が訪れたのだ。

 勇者を名乗った男は長い金髪に端正な顔立ち、涼し気な目元の優男といった感じだ。男の傍らには四人の仲間が控えている。一人は真っ白なローブに身を包んだ金色の髪の少女。一人は杖を手にした幅広の黒いとんがり帽子の少女。一人は青い肌に真っ黒な目をした異様な姿な女。一人は銀色の鎧に身を固めた腰に剣を差した短髪の女。勇者以外はいずれも女ばかりだ。

 彼らは魔王軍と戦うために各地を旅して回っていると話した。それを聞いた少女は目の色を変え、勇者に自分も連れて行ってくれるようにと頼み込んだ。家族の仇討ちを望む彼女にとって、魔王軍と戦う彼らとの出会いは願ってもない僥倖だった。勇者は少女の――特に顔をじっと眺めると、爽やかな笑顔を浮かべて言った。

「もちろんだとも。共にこの世界の平和のために戦おう」


 その夜、勇者一行をもてなすささやかな宴会が催され、彼らは村に一泊することとなった。翌朝に村を発つのだそうだ。晴れて勇者一行の仲間入りを認められた少女もまた、この村を出て行くのだ。

 老人は少女のことが気がかりだった。行き掛かり上弟子にしたとはいえ、教えを授けたことには変わりない。まだまだ教えるべきことは山ほどある。だが、これが少女の選んだ道だ。目的を果たそうとしている彼女を止める権利などありはしない。

 その晩、老人は少女を呼び出した。

「お主に教えるのも今日限りだ。長きに渡りよくぞ厳しい修行に耐えた。その根性は見上げたものだ」

 老人は少女を褒めた。老人が少女を褒めたのは、これが最初で最後だった。老人は続ける。

「だが、お主には才能がない。確かに出会った頃に比べれば格段に強くはなったが、魔王軍と戦えるかどうかは甚だ疑問だ。だから自分の力を過信するな。危なくなったらすぐに逃げろ。死んだら終わりだ。生き延びてこそ道は開ける。お主は家族を置いて逃げたことを悔やんでいるようだが、逃げたからこそ、このような機会に巡り合えたのだ。そしてもし全てが終わったら、もう一度この村に戻って来い。お主にはまだまだ教えることがある。途中で教えを止めるなど、師の名折れだ」

 ぶっきらぼうな物言いだったが、老人は弟子しょうじょの身を案じていた。その不器用な優しさは少女にも伝わったようだった。

 翌朝、少女は勇者一行と共に村を出て行った。魔王軍を倒し、家族の仇を討つために。だが、少女は知らなかった。魔王は既に勇者たちの手によって倒されていることを。

 勇者に騙される形で旅に出た少女はその後、ある男たちと出会う。その出会いが自身の運命を変えることも、「生き延びてこそ道は開ける」という師の教えが一人の村人の死を止めるきっかけになることも、この時の彼女は未だ知らない。

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