第119話 プロローグ5 ~異世界転生~

「何回同じこと言わせりゃ気が済むんだよ! マジでいい加減にしろよ、お前!」 

 俺は微動だにせずに、じっと叱責に耐え忍ぶ。

「はぁー……もういいわ。これ以上何言っても時間の無駄だ。……たく、午後から外回りだってのに、おかげで気分最悪だわ!」

 そう言うと男はどかどかと不機嫌な足音を足音を立てて部屋を出ていった。

「いやー、課長今日も荒れてましたねぇ」

 俺が席に戻ると、後輩の斎藤が声をかけてきた。

「別にいつものことだろ。慣れっこだよ、これぐらい」

「さすがっすね。ところで俺も午後から課長と外回りなんすけど、ちょっと別件で立て込んでて……。悪いんすけど、見積書作るの手伝ってもらえません?」

「俺もやることあるんだけどな……まぁ、いいぜ」

「あざっす! 午後イチで必要なんで、午前中マストでオナシャス!」

 調子のいいくだけた口調に苦笑しながら、俺は斎藤の依頼を快く引き受けた。


 午後5時38分。終業時間まであと22分。俺は逸る気持ちを抑えながら、男子トイレの個室でスマホを弄っていた。

「はぁー……しっかしほんと使えねぇわ、あいつ!」

 その時、怒気を孕んだ声が聞こえてきた。

「あいつ?」

「ほら、あの無能だよ」

「あぁ、あれね。で、あの人がどうかしたのか?」

 声の主は後輩の斎藤と鈴木だった。俺はじっと息を潜めて、二人の話に耳をそばだてる。

「午前中あいつに見積書作らせたんだけどさぁ……その見積書、数字が間違ってたんだよ! あり得ないでしょ、マジで! おかげで課長に説教食らうし最悪だよ。ったく、何年この仕事やってんだっつーの! 課長が怒鳴りたくなる気持ちも分かるわ」

「営業なのに全然外回り行かないよな、あの人」

「コミュ障だから、どうせどっからも相手にされてないんだろ。営業もだめ! 事務もだめ! じゃあ何ならできるんだよ、あいつ?」

「そのくせ帰るのだけは誰よりも早いよな」

「ほんとそれな。役立たずのくせに、よく毎日定時で帰れるよな。あんなに早く帰って何をすることがあるんかね?」

「彼女とデートでもしてるんじゃね?」

「ないない! 彼女どころか友達もいねーわ、あんな奴!」

 そう言って斎藤と鈴木は、ぎゃははと馬鹿丸出しの笑い声を上げた。ひとしきり笑った後、再び斎藤の声がした。

「あの無能、今日は何時に帰るか賭けようぜ。俺は6時」

「俺も6時」

「同じ時間かよ。これじゃ賭けにならねーじゃんかよ」

「そりゃそうだろ。あの人が残業なんかするわけないんだから」

「一日中暇そうにしてんだから、ちったぁ周りの仕事手伝うとかすりゃいいのにな、あの無能」

「あの人に手伝わせたら、ミスだらけで余計に残業時間増えるって」

「ぎゃはは! 確かに!」

 不愉快な馬鹿笑いを残して、斎藤と鈴木は去っていった。具体的な名前は出なかったが、奴らが誰の悪口を言っているのかはすぐに分かった。

 怒り、屈辱、惨めな気持ち……。様々な負の感情に一気に襲われた俺は、二人がいなくなった後もしばらくその場から動けずにいた。


 午前2時。俺は職場のクソ共から与えられたストレスを発散するために、近所の公園を訪れていた。

 "一仕事"終えた俺は、公園のベンチに腰掛ける。深夜の公園に人の気配はなく、世界中に一人だけ取り残されたような感覚に陥る。

「……しっかし、何なんだろうなあいつらは」

 俺はぽつりとつぶやく。

「仕事を手伝ってもらったんだから、礼を言うのが筋だろうがよ! それを言うに事欠いて陰口叩くって、どういう神経してんだッ! ナメやがってクソッ!クソッ!」

「お兄さん、ちょっといいかな?」

 俺が怒りをぶちまけていると、不意に声をかけられた。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは紺色の制服に帽子を被った二人組の男だった。

「ずいぶん荒れてるみたいだけど、こんな夜遅くにこんなところで何してるの? 見たところ仕事帰りってわけじゃなさそうだよねぇ?」

 二人組の片方の中年の男は、穏やかな口調で俺に話しかけてきた。だが、その目は笑っておらず、俺を疑っているように感じられる。もう一人の若い男の方はさらにあからさまで、完全に犯罪者を見るような目付きで俺を睨みつけている。

「……いや、普通に散歩です」

「ふーん、こんな夜遅くに?」

「ちょっと小腹が空いたんでコンビニに行こうと思っただけです」

 ドクンドクンドクン……

 心臓が異様なまでに大きく波打つ音を聞きながら、俺は必死に平静を装った。

「最近、この付近で野良猫の不審死が相次いでてねぇ。散歩中の飼い犬が突然苦しみ出して死んじゃったっていう通報も何件か受けてるんだけど……お兄さん、何か知らない?」

 ドクン!!!

 中年の男の言葉を聞いた瞬間、俺の心臓の鼓動はさらに跳ね上がった。

「い、いやー、ちょっと分からないっすねぇ……」

 俺は疑われないように自然に返したつもりだったが、声は上擦り、顔からは冷や汗が滴り落ちてきた。

「……とりあえず名前と住所聞かせてもらえる? あと何か免許証とか身分を証明できるもの持ってる?」

 中年の男は何かを感じ取ったかのように、粛々と話を進める。俺は夜だというのに目の前が真っ白になった。

(……ヤバいヤバいヤバいヤバい)

 俺が着ているジャージのポケットの中には"証拠品"が入っている。それを見られたら、もう言い逃れはできない。

(このまま捕まったら人生終わりだ……。会社もクビになるだろう。このことを知られれば、またあいつらに馬鹿にされる……。嫌だ……! 嫌だ嫌だ嫌だっ!)

 気が付くと俺は、考えるよりも先に身体が動いていた。


「待てーッ!」

「はぁはぁはぁ……!」

 二人の警官が大声を上げながら、俺を追う。俺は何とか追跡を振り切ろうと懸命に走るが、長年の不摂生と運動不足がたたったのか、すぐに息は切れ、足元もおぼつかなくなってきた。それでも俺は必死に走る。

(この先の階段を下りれば、住宅街だ……! そこまで逃げれば……!)

 しかし焦りと息切れより足は盛大にもつれ、俺は階段を踏み外した。

「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」

 俺は猛烈な勢いで階段を転げ落ちていく。

「う……うぅ……」

 呻き声を上げながら、額に手を当てる。暗くてよく見えないが、手の平がじっとりと濡れた感触がした。きっと血が出ているに違いない。全身が痛み、麻痺したように体が動かない。

(し、死ぬのか……俺は……? こ、こんな……くだらないことで……)

 その時だった。

「大丈夫ですかぁー?」

 朦朧とする意識の中、間延びした高い声が聞こえた。

(だ……れだ……?)

 俺は声の主が何者なのかを確かめようとしたが、暗闇のせいで顔は分からなかった。分かったのは、若い女の声ということだけだ。

「あらら、すごい血……このままじゃ死んじゃいますねー。でも、大丈夫! 私にお任せくださーい♪ まずは怪我を治してー。見た目もよくないから、かっこよくしてー……そうだ! ついでにに協力してもらいましょう! 魔法を使えるようにしてー……ついでに言葉も……」

「あ……う……」

 そう言うと女は何事かぶつぶつとつぶやき始めた。俺は口を開こうとしたが、意識が混濁しているせいで呂律が回らない。その瞬間、俺の体は眩い光に包まれ、俺の意識はそこで途切れた。


「う……」

 目覚めると俺はそこにいた。気を失った時は夜だったはずなのに、辺りはすっかり明るくなっている。夜が明けるまで気を失っていたのか?

「そうだ、警察は……!?」

 俺は直前まで警察に追われていたことを思い出し、逃げるために飛び起きた。だが、飛び起きた瞬間、警察のことなど一瞬の内に頭の隅へと追いやられた。

「ここは……どこだ……!?」

 俺は半ばパニックになりながら辺りを見渡した。道路も階段も住宅街も、何一つ見当たらない。俺がいたのはまったく知らない荒野だった。

「な、何がどうなってるんだ……!?」

 その時、前方で耳をつんざくような凄まじい爆発音がしたかと思えば、彼方から何かが飛んできた。飛んできたそれは、カランと音を立てて俺の前に転がった。それは漫画やアニメでよく見る西洋の剣によく似ていた。

「こっちに生き残りがいたぞ!」

 俺が飛んできた剣のようなものを眺めていると、前方から声がした。顔を上げると、人影がこちらに近付いて来るのが見えた。だが、その風貌は異様だった。肌は青く、髪は紫色をしている。さらに目には白目がなく、眼球全体が真っ黒だ。まるで宇宙人のようなその目は、不気味の一言に尽きる。さらに青肌の男はぞろぞろと集まり、その数はあっという間に数十人近くになった。

(特殊メイク……映画の撮影か……?)

 俺がそう思ったのもつかの間、青肌の集団は俺に向かって一斉に向かって来た。その手には剣や槍など、武器らしきものを持っている。

「な、何だよおい! 俺をエキストラか何かと間違えてんのか!? やめろー! 俺は無関係だー!」

 集団の鬼気迫る表情に俺は必死に叫ぶが、青肌の集団は止まらない。

「死ねぇ!」

 その内の一人が俺に向かって剣を振り下ろした。こいつら、目がマジだ。

(な、何なんだよこいつら! 頭おかしいんじゃねぇのか……!? このままじゃ殺られる……!)

 命の危機を感じた俺は先程飛んできた剣のようなものを拾い上げると、無我夢中でそれを振り回した。

「うわあぁぁぁぁ! 来るなぁぁぁぁ!!」


「はぁ……はぁ……」

 しばらく狂ったようにそれを振り回していた俺は、疲れから動きを止める。恐る恐る目を開くと、青色の集団は一人残らず地面に突っ伏していた。

「うっ……オエェェェェ!!」

 その光景を見た俺は、地面に両手をついて勢いよく吐いた。ある者は腕が、ある者は首が、ある者は胴体がなくなっている。青肌の集団は真っ赤な血の池の中で、一人残らず死んでいた。

(俺が……俺がやったのか……? まさか!? 映画の小道具だろ、これ!? ……違う! これは何かの間違いだッ!!)

「お、おい、あんた!」

 俺が恐怖に竦んでいると、不意に声をかけられた。顔を上げると、そこにいたのは鎧姿の若い男だった。

「これはあんたがやったのか?」

「ち、違う! 俺じゃない! 俺は殺してなんか……!」

「何てことだ……! 俺たちが手も足も出なかった魔王軍をたった一人で壊滅させるとは……! あんた、まるで……勇者だ!」

 男は殺人を咎めるどころか、感嘆した様子で俺を「勇者」と呼んで讃えた。

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