第17話 プロローグ1 ~女神誕生~

 少女がいた。裕福な家に生まれ何一つ不自由ない暮らしをしてきた少女だ。長く豊かな金色の髪に、透き通るような白い肌。大きな青い瞳に、くっきりとした高い鼻。美しい容姿に加え、他者を思いやる慈愛の精神に富んだ優しい心の持ち主だった。

 少女には姉がいた。その姉もまた身も心も美しい淑女だった。優しい両親と美しい姉に囲まれ、少女は幸せな日々を送っていた。だが、その幸せは長くは続かなかった。

 ある日、少女の住む国で戦争が始まった。敵国の勢いは凄まじく、少女の住む国はジリジリと追い込まれていった。戦況が進むにつれて一家の暮らしは徐々に苦しくなっていったが、少女は祖国の勝利を信じて疑わなかった。そしてある日、少女の住む国は戦争に敗けた。

 戦争に敗れれば全てを失う。それまでに築いてきた地位も名誉も財産も。そして家族さえも。

「いやぁ! お父さん! お母さん!」

 少女がいくら泣き叫んでも、男たちは手を止めてはくれない。必死になって手を伸ばすが、両親はうつむくばかりでその手を掴んではくれない。姉妹は両親と引き離され、馬車へと押し込まれた。馬車の中は姉妹と同じ若い女性で埋め尽くされていた。うつむく者、涙を流す者、虚ろな目をする者。その様子は様々だが、皆一様に暗い顔をしている。祖国の敗戦によって身分を剝奪された彼女たちは、奴隷として各地に売られるのだ。

 初めの内、少女は恐怖と絶望の余り泣きじゃくっていたが、泣き疲れたのかいつの間にか眠ってしまった。もう二度とは帰らない幸せな日々を夢に見ながら。


「何度言ったら分かるんだい! 本当にグズだねぇお前は!」

 恰幅のいい女がボロボロの少女を怒鳴りつける。少女は小さな体をさらに縮こまらせて必死に謝る。

「も、申し訳ありません御主人様!」

「まったく……お前たちを買うのにどれだけ金を積んだと思ってんだい! 銀貨三十枚だよ!? それなのにお前と来たら物覚えは悪い、動きはとろい、気は利かない……」

 女は嘆くように少女に罵声を浴びせる。

「少しはお前の姉さんを見習ったらどうだい!」

「もうここはいいから、お前は空いた部屋の掃除でもしてきなっ!」

 女の怒声に押し出され、少女は逃げるようにその場を後にした。

 奴隷としての生活が始まり、早くも三年の月日が過ぎようとしていた。少女は宿屋の女主人に買われ、辛い毎日を送っていた。

 日が昇るよりも早く起きて働く。掃除、洗濯、炊事、巻き割り……。休む暇など無い。夜遅くまで働かされ、その日の仕事が終われば粗末なベッドで泥のように眠る。数時間経てばもう次の日がやってくる。泣きながら目覚め、また仕事に出かける。女主人には毎日のように罵倒され、宿の客からは汚物でも見るかのような視線を浴びせられる。最低限の衣食住と給金は与えられてはいたが、惨め極まりないものだった。

「うぅ……うっ……」

 目に涙を浮かべながら少女は部屋の床を磨く。置かれた環境がどれだけ厳しかろうと穏やかだろうと、人はいずれその環境に慣れる。だが、苦労を知らずに生まれ育ってきた彼女にとって、今の生活はあまりにも過酷だった。唯一の救いは――

「またいじめられたの? 大丈夫?」

 不意にかけられた優しい言葉に少女は顔を上げる。開け放たれたドアの前に心配そうな顔をした姉が立っていた。

「お姉ちゃんっ!」

 少女は床を磨いていたボロ切れを放り出し、姉の胸へ飛び込んだ。

 今の少女にとって唯一の心の支えは、一緒に買われた姉の存在だった。宿の女主人は労働力として二人を買った。姉妹を揃って買ったのは一緒にいられるようにとのせめてもの慈悲か、それとも単なる気まぐれか。

 理由はどうあれ、少女は大好きな姉と一緒にいることができた。もしも姉がいなければ苦しさに耐えかねて自ら命を絶っていただろう。

「お姉ちゃん、もう嫌だよっ! どうしてこんなことしなくちゃいけないの? もうお家に帰りたい! お父さんとお母さんに会いたいよぉ!」

 三年の間で少女の背は伸び、その身体は最早子供とは呼べない程に成長していた。だが、精神の方は三年前と何一つ変わっておらず、ただ毎日を嘆き悲しみ、だらしなく姉に甘えることしかできずにいた。

「泣くのはおよし。もう少しの辛抱だから。もう少しすればここから出られるからね」

 姉は泣きじゃくる妹の頭を優しく撫でた。姉の優しい言葉に少女は落ち着きを取り戻したが、それが気休めに過ぎないことは少女にも分かっていた。ここから逃げることなどできない。これから先もずっと、一生ここで死ぬまで働かされる。少女はそう思っていた。ところがある日、苦しみの日々は突如として終わりを迎える。よく晴れた朝のことだった。


 眩しい日差しが降り注ぐ中を足取り軽く少女は歩く。歩きながら少女は雲一つない空を見上げた。

 空ってこんなに青かったかな?

 この三年間、下を向いて生きてきた少女は、空の色をすっかり忘れていた。久しぶりに見る大空は涙が出そうな程に青く青く澄んでいた。姉はその隣でそんな妹の様子に優しい眼差しを向ける。

 久しぶりの自由をひとしきり満喫しそれに満足すると、少女の頭に一つの大きな疑問が生じた。その素朴かつ根本的な疑問を隣を歩く姉にぶつける。

「どうして私たちはあそこから出てこれたの?」

 少女の疑問は至極当然なものだった。あの宿屋という名の檻の中で生涯を奴隷として過ごすのだと、半ば覚悟を決めていたところを突然解放されたのだから。差し当たり思い当たる理由も見当たらない。

 不憫に思った女主人が慈悲を与えてくれた? まさか! そんなこと絶対にありえない!

 少女は頭をぶんぶんと横に振り、思い付いた仮説を即座に否定する。そんな少女に、姉は優しく語りかける。

「私たちみたいに奴隷として売られた人は、主人が望む額を支払うことで自分を買い戻すことができるの。だから私は最初にあの人に約束させたの。『銀貨百枚を払ったら私たち二人を自由にする』って」

「ひ、百枚……?」

 その言葉に少女は驚愕した。女主人は自分たちを銀貨三十枚で買ったと言っていた。百枚と言えばその三倍以上だ。約束というのは口だけで、実際は守る気など更々なかったのだろう。だからそんな到底不可能な馬鹿げた額を提示したのだ。それだけであの女主人の底意地の悪さがうかがい知れる。

「それで昨晩ようやく目標の百枚に到達したから、朝一番に叩きつけてそのまま出てきたってわけ」

 毎日をただ泣いて過ごしていた私と違ってお姉ちゃんはそんなことをしてたなんて……

 少女は姉の機転と逞しさを改めて見直した。と、同時に新たな疑問が一つ。

「お姉ちゃんはどうやって銀貨を百枚も手に入れたの?」

 奴隷としての給金の低さは、少女もよく知っていた。たとえ百年かかったとしても、銀貨百枚など貯められるはずがない。

「宿屋には色々な"仕事"があるの。それを頑張ったおかげね」

「そんな仕事があるなら私もお手伝いすれば良かった。そうすればお姉ちゃんの力になれたのに。ねぇ、お姉ちゃん、その仕事って……」

「それより早くお家に帰りましょ? お父さんもお母さんもきっと待ってるわ」

「うんっ!」

 姉の言葉に少女は勢いよく駆け出した。

「……あなたは知らなくていいことよ」

 囁くようにつぶやいた最後の台詞は、少女の耳に届かずに風に消えた。


 喉が渇いた。お腹も空いた。辺りはすっかり暗くなり、少女は疲弊しきっていた。

 朝から歩き通しの上、この三年の奴隷生活で体力はすっかり落ち込んでいた。

 今どこにいるんだろう。あとどれくらい歩けばお家に着くのだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、暗闇の中にぽっかりと明かりが浮かんでいるのが見えた。

 明かりの正体は焚き火だった。夜の闇を照らすように男が一人、火をくべている。

 二人の足音に気付いた男は顔を上げると同時に、脇に置いてあった剣に手をかけた。頭には兜をかぶり、体には鎧を身に着けている。どこかの国の兵士だと一目で分かった。兵士の姿を見て敗戦の辛い記憶が蘇った少女は、思わず姉の背後に身を隠す。

「何だお前らは?」

 兵士は剣に手をかけたまま、尊大な態度で尋ねる。

「私たちは旅の者です。訳あって旅をしているのですが、もしよろしければ水と食料を分けていただけないでしょうか?」

「旅の者ねぇ……で、いくら出す?」

「生憎、持ち合わせがありません」

「話にならんな! 無償で貴重な水と食い物を分け与える程、俺は慈悲深くはねぇんだ。他を当たんな」

 兵士は姉の頼みをけんもほろろに突き返す。

「持ち合わせはありませんので、で払わせてください」

「他のもの?」

「私にあってあなたにないものです。そしておそらく、今あなたが欲しているもの」

 姉はスカートの裾を僅かにめくり、自らの足を見せながら兵士に言った。

「……なるほど。いいだろう」

 兵士は言葉の意味を理解し、下卑た笑みを浮かべた。だが、少女には何のことかは分からなかった。


 姉の交渉によって飢えと渇きを満たすことができ、少女は満足して眠りについた。

 夜更け過ぎ。肌寒さを覚え、不意に目を覚ます。煌々と輝いていた焚き火は勢いを失い、小さく燻っている。ふと辺りを見渡すと、姉と兵士の姿が見当たらない。少女は一人取り残されていることに気が付いた。

「お姉ちゃん……」

 不安に駆られ姉を呼ぶが返事はない。

「……んっ……」

 遠くの方でかすかに声が聞こえる。少女はゆっくりと声のした方向に近付いていく。

 茂みを搔き分けていくと、暗闇の中に何かがいる。暗いせいでよく見えないが、何やら規則的な往復運動を繰り返している。それに伴いパンパンと何かをはたくような音も聞こえる。

(アレは何だろう……? 何をしてるんだろう……?)

 少女は息を殺してしばらく"それ"を眺めていた。暗闇に目が慣れ、徐々にその正体が浮かび始める。どうやらそれは人間のようだった。

 はぁはぁという息遣いと、押し殺したような高いうめき声。その二種類の声からそれは二人の人間、それも男女であるということが分かる。さらに高いうめき声を上げているのは少女のよく知る人物だった。

(あの声は、お姉ちゃん……?)

 その時ようやく少女は、姉が兵士に組み敷かれているということを理解した。理由は分からないが、姉は先程出会った兵士の下で苦しそうなうめき声を上げている。少女は確信した。

(お姉ちゃんが襲われている……!)

 思えば今まで姉にはずいぶんと救われてきた。苦しい奴隷生活を生き延びられたのも、再び自由を手にすることができたのも、全ては姉のおかげだった。その姉が今、目の前で苦しめられている。

(今度は私がお姉ちゃんを救う番だ……!)

 少女は身を屈めてそろそろと兵士に近付く。ゆっくりと近付いていくと、足下に兵士の装備品が転がっていることに気が付いた。兜、鎧、衣服、そして……

 少女は剣を拾うと、音を立てないようにゆっくりと鞘から刃を引き抜いた。そして逆手で柄を握り締めると、全身の力を込めて無防備な兵士の背中に突き立てた。兵士は動きを止め、がっくりと頭を垂れる。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 姉の体を揺すって叫ぶが返事はない。気を失っているのだろうか? 詳しく確認したいが、暗すぎて何も分からない。

 そこで少女は手頃な木の枝を拾って焚き火まで戻ると、それに火を点けて即席の松明を作った。急いで姉の元へと駆け寄る。

 松明に照らされた姉は虚ろな目をして口から血を流していた。きっと兵士にやられたに違いない。

(お姉ちゃんをこんな目に遭わせるなんて許せない!) 

 少女は憤慨しながら姉に呼びかける。

「待ってて、お姉ちゃん! すぐに手当てを……」

 その刹那、少女は気付いた。手当てなどもう必要ないことを。松明の炎が揺らめきながら残酷な事実を照らし出す。

 足下には大きな血の池が広がっている。少女の渾身の一撃は兵士を貫通し、姉の身体をも貫いていた。

 姉は襲われていたのではなく、"仕事"をしていただけだった。銀貨を百枚蓄えたのと同じ方法で、兵士に水と食料の対価を支払っていたのだ。だが、無垢な少女には兵士と姉が何をしていたのかなど分かるはずもない。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 悲痛な声で姉の体にすがりつくが、当然返事はない。既に姉は事切れていた。

「……わ、私がお、お姉ちゃんを……」

 殺したころしたコロシタこロ死た

「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 少女は狂ったような叫び声を上げ、いずこともなく走り出した。「逃げ出した」と言ってもいい。

 大好きな姉を自らの手で殺害した。この事実に彼女が耐えられるはずもなく、現実から逃げたのだ。

 長い間走り続け疲れ切った少女は、大きな木の下にへたり込んでいた。

 私がお姉ちゃんを……

 違う!

 この人殺し

 殺してないっ!!

 殺してないなら何だって言うの?

 それは……解放したんだ!

 解放?

 これでもう……お姉ちゃんは二度と苦しまずに済む! 

 本気で言ってるの?

 うるさい! お姉ちゃんは救われたんだ! 

 そんなこと……

 うるさい! うるさい! 私はこの世界の罪と苦しみから、あの人の魂を救ったんだ! 

 あるわけ……な…… 

 そうだ! 私は魂と罪の救済をしたんだ!

 …………

 自問自答の末に、少女は自らの心を守るための身勝手な理論を生み出した。姉の死を責める心の声は、もう聞こえなくなっていた。


 朝日の眩しさに少女は目を覚ました。だが、何故こんなところで眠っていたのか思い出せない。それどころか今まで何をしてきたのか、自分が何者なのかすら覚えていなかった。しばらく考えていると、ある言葉が頭に浮かんだ。

「……魂と罪の救済」

 ポツリと口にしたその言葉は、何だか懐かしいような気さえした。

 救済……救い……女神……

 そうだ……私はこの世界の罪と苦しみから人を救うために天から遣わされた女神……

 私は……救いの女神だ……!


 その日、この世界に女神が誕生した。

 女神は自らの教えを伝え広めるために各地を回った。初めの内は白い目で見られる日々が続いたが、差別や貧困などの苦しみに喘ぐ人々は女神の言葉を信じ、信者は少しづつ増えていった。

 その後、女神は自らを勇者と名乗る男と出会い、その一行に加わるのだが、それはもう少し先の話だ。

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