1−1 燃える男
──そんな過去を思い出していたのかいないのか。
スイーツをあっさり食べ終え、命がけの逃避行の最中というにはあまりにも穏やかな表情で本を読み、数時間に及ぶそれの合間に窓の外を見ていたシャーロットが、ポツリとつぶやく。
「……この列車はあまり揺れないな」
「それがこの魔導列車の売りの一つだからな」
魔導列車アクレシア。
カリステリア家が発明し、そして専門で運営する、魔術のみで駆動する車両の事だ。
現実世界の鉄道は、当然ながら深夜には動いていない。運行や移動能力は物理の法則に縛られ、切符や他人の目、燃料に音という障害もある。それらの縛りは、裏世界で生きる魔術使いたちにとってはかなり都合が悪い。
そういった不都合を解消すべく、カリステリア家が開発し、運行し始めたのがこの魔導列車だ。
出入りの時に他人と会わないようになっている。いかなる魔術によってか線路の敷設を必要としていないので、そもそも駅が存在しない。事前の予約をして、指定された発着場所に行けば乗り込むことができ、任意の場所で降りることができる。
色々後ろ暗い事情が多い魔術師たちにとってはとてもありがたいサービスなのである。
魔導列車はサービスが利いていて、数多あるサービスうちの一つに列車の振動の遮断があるのだ。
列車の旅の雰囲気を楽しみたい人のために、その部屋限定で振動や音を伝わらせることもできるから、その辺りはお好みなのだが。
「どうせなら揺らすか? 雰囲気は出るぞ」
「いい。……お腹がゆるくなる」
「ウソだろ……」
振動で腸が刺激されて崩れるのだ。車も馬車もてんでダメ。
主のあまりの虚弱具合に、アーサーはため息すら出ない。
時刻は夕暮れ時。針葉樹に遮られて途切れ途切れに橙の陽が顔を照らす。
……二人の目指す場所は理想郷、ということになっている。だが、その具体的な地名や目的地があるわけではない。
ただ、シャーロットを幽閉していたトゥール家の奴らが事あるごとに口にしていたのが理想郷という単語なのだ。
トゥール家は呪魔術を専門にしている貴族というだけで、目立ったところはない。ただ、そんなただの貴族家に、特異な能力を持つ少女が産まれてしまった。
金呪の魔眼。
持ち主に理外の記憶能力を与え、蓄えた叡智を元に世界を書き換える最上級の魔眼だ。そんなものを左目に持つ少女が落ち目の貴族家に生まれてしまったのだ。
トゥール家の当主は即座に緘口令を敷き、残っていた幹部級の間のみで情報共有をした上で即座に方針を固めた。この赤子をなんとしてでも最上の魔術師として育て上げ、家の再興を目指すために。
──その日からシャーロットの幽閉は始まった。
余人を寄せ付けない塔の最上階で、来る日も来る日も魔術書を見せられる。トゥール家が呪術系である以上やはり呪術に関する本が多く、歳が二桁になるころには古今東西の呪術を全て暗唱できるほどになっていた。
体が成長し、魔眼がようやく本格的に馴染み、詰めこまれた知識によって脱出を目論んでは失敗し、怒りと利権に濡れた当主によって黒槍で壁に縫い留められた頃。シャーロットにとって、彼らがしきりに呟く「理想郷」という言葉だけが希望になっていた。
魔術以外に関しては乏しい知識の中で、唯一縋れるものがその一言。可能性も場所の見当もつかない、その言葉だけが少女にとっての頼みの綱だった。
……そういう込み入った事情を話さずに、しかも他の魔術師と顔を合わせずに乗れる魔導列車は、移動手段に最適なのだ。トゥール家から逃亡中でいつ追手が現れるとも知れない二人にとっては、特に。
そんな緊迫した事情をさておくように、二人はとてもリラックスしている。
時刻は19時40分。ドヴォルザークの『森の静けさ』が流れる部屋の中で、シャーロットは読書を、アーサーは一人で指南書を読みながらチェスをしていた。
そんな二人の部屋に、数時間ぶりに控えめなノックの音が響く。
すぐにアーサーが立ち上がり、扉の方へ向かう。
「アルベールです。いま宜しいでしょうか?」
「ああ、どうぞ」
この魔導列車は、変な摩擦を避けるために乗客同士の接触を可能な限り避けている。二人の使っている個室の場合は、乗ってから降りるまで一度も他の乗客と顔を合わせる瞬間がない。
そのため、個室には専用の使用人が付いているのだ。一人の使用人が大体三部屋から五部屋担当して諸々のサービスを行うようになっている。
二人の部屋を担当しているのが、今ノックしてきたアルベールという青年だ。
二十代を少し過ぎたくらいの見た目で、綺麗な金髪翠眼が目を惹く。叩き込まれたのだろう丁寧な所作と、態度の堅実さを感じさせない柔和な表情が印象的だ。
だが、何よりの特徴はハーフエルフらしく僅かに尖りのある耳だろう。整えられた髪に大半が隠れているが、俯いたりしたときに微かに主張するのだ。
そんな彼が、何の用事で訪れたのかというと。
「そろそろ夕食の時間ですので参りました。アレルギーなどはなく、お任せでよろしかったですね?」
そういうことである。
廊下の途中に置かれたカートには二人分の料理が準備されており、話のために小さく開いていた扉の隙間から良い匂いを届けてきた。思わず視線が引き寄せられたのを見て僅かにアルベールが微笑む。
少しだけ恥ずかしさを感じつつ頷き、扉を大きく開けて迎え入れた。
「お願いします。お手伝いしましょうか?」
「いえいえ、お客様ですので。座っていてくださいませ」
慣れた様子でカートを引き込み準備をしていく。
窓際の小さな机はアーサーとシャーロットが使っていたということで、そこには触れようとせず別の大きい机を使うようだ。
元々かかっていたクロスをたたんで新しいものと取り換える。小さな燭台を二つ立てて、黄色、橙、そして緋色が混ざり合ったような、不思議な色のキャンドルをセットして火を灯した。
ナイフとフォーク、フィンガーボウルといった基本的なものも並べていく。
フィンガーボウルには椿の花がいくつか浮かんでいて、見た目にも楽しめるようになっていた。摘まめないほどに細かく刻まれて水中を漂っているレモンの皮との対比も美しい。
アルベールが小さな声で告げる。
「お嬢様の目がとても美しかったので」
「……準備するのも大変だったでしょうに」
確かにシャーロットの右目は、彼岸花のような濃い紅色だ。艶のある長い黒髪や黒いドレスも目を惹くだろうが、その中で瞳に注目するとは。
当然だが椿は、今いるイギリスに限らずヨーロッパでは街中に簡単にあるようなものではない。植物園か一部の好きな人が庭に植えているのみで、あとは香水の原料になっているくらい。
そんな中で状態の良い椿の花を用意するのは大変だったに違いない。惜しいのは、我が主はそういう機微に意識をさっぱり向けないというところだけ。
アルベールと話しているのが気になったのか、読書をやめたシャーロットがこちらを見ている。それに気がついたアーサーがその手を取り、ゆっくりと引いて席まで導く。完璧な所作で座らせると、その対面にアーサーが座り、それに合わせて料理が並べられていく。
カリステリア家が心血を注いで育てたシェフたちの腕は一級品で、見た目や香りだけでも楽しめると噂されている。その噂に間違いはなかったようで、前菜ですら美しさにあふれていた。アルベールが作業をしている最中だが、思わず匂いを楽しんでしまい、僅かに気持ちが昂っているのを感じる。
アーサーのグラスにシャンパン、シャーロットのグラスに葡萄の香る炭酸が注がれていく。
そこまでしてもらったところで、アーサーの目配せに反応したアルベールがワゴンの側で動きを止める。前菜までは魔導列車の従業員としてアルベールがやることになっているのだが、その後の事はアーサーが進めるから大丈夫だと伝えてあった。
なにより逃避行中の二人なのだ。可能な限り乗客同士の接触は避けられているとはいえ、できる限り余人の目に留まりたくないのが本音だった。
「では、あとは私がやりますので」
「なにか困ったことがあれば遠慮なくお声がけください。食べ終わったら外にあるワゴンに戻していただけますと幸いです」
一礼し、アルベールは部屋を退出していった。
残ったのは、綺麗なディナーと静寂だけ。アーサーが改めて席に座り、シャーロットと控えめな乾杯を済ませる。目の前の少女が一口、グラスを傾けて。
「
「お前なあ……」
「主に、お前と、言うなっ」
机の下で小さなつま先が飛んできて脛に当たる。
どれだけお子様舌なんだ、とまでは言わないでおく。その代わりに、別の空いていたグラスに瓶ジュースを注ぎ、シャーロットの目の前に置いた。シャーロットが口直しでもするように勢いよく傾ける姿を見つつ、アーサーも食事に手を付ける。
目の前ではシャーロットが試行錯誤しつつナイフとフォークを動かしていた。その手はたどたどしく、見ている方が不安になる。思わず助けるために手を伸ばしかけて睨まれた。
……これでもだいぶできるようになったのだ。魔術以外を詰め込まれていないせいで、最初の頃は本当に酷かった。これでも貴族のお嬢様です、と言われたら首を傾げる人しかいないくらい程には酷い。これまでの3ヶ月の逃避行の間、アーサーが頑張って教え続けてなんとかここまで育ったのである。
今日出たものの食べ方を小まめに教えつつ、なんとか食事を終えた。
皿を片付けてワゴンに戻す。放置をしていてもアルベールがやってくれるだろうが、それでもやれることはやりたいというのがアーサーの心情だった。
本を持って窓際に戻っていく主の姿を視界の端に捉えつつ、廊下にワゴンを戻しに行く。
灯りが落とされ暗くなった廊下の中でも間接照明に照らされ彩りを失わない、靴で歩くのを躊躇うほど綺麗なタイル模様の絨毯に目を奪われつつワゴンを廊下の端の方に戻した、その瞬間。
「キャーッ⁉︎」
絹を引き裂く要な悲鳴と共に、近くの一室の扉、その隙間から炎が噴き出す。一瞬にして静かだった廊下が紅蓮に染まり、明るく照らされた。
即座に体が動く。万が一にもシャーロットに危害が及ばないようにしないといけない。
そう思い、部屋の中、窓辺の方を振り返ろうとして戦慄した。
「なにをしている、行くぞ」
「ちょ、お前っ」
シャーロットは俺とドアのすき間をあっさり潜り抜けて、無謀にも炎の方に向かっていた。慌てて後を追う。
確かに隙間から僅かに噴き出しているだけとはいえ、それでも一室からはみ出るほどの火力を前に恐れることなく近づいていくのはいかがなものか。
なんとかシャーロットの前に回り込んだところで扉の前にたどり着いてしまった。
好奇心旺盛なお嬢様の視線に促されるようにしてドアノブを掴んで回す。
「開くか?」
「……無理だな。魔術錠が掛けられている」
魔術錠。形式こそ多数あれど、魔術を扱う物たちの間ではかなり一般的なものだ。対応する術式か魔道具を提示できない限り、扉は壁のように頑として開くことは無い。
悲鳴や炎の燃え盛る音が聞こえたのだろう。いくつかの扉が開き、他の乗客が顔を出す。眼鏡をかけた紫髪の女性に、なぜか武装をしている背の低い戦士風の男、そして──。
「何が起きている⁉︎」
廊下の奥の扉からは老執事と軍服姿の女性が現れ、猛烈な勢いで走ってきた。
戦士と老執事に関しては見たことがない。だが、軍服の少女に関しては見たことがある。
魔導列車の開発家であるカリステリア家の当代頭首、リーティア・ヴァン・カリステリア。銀髪をポニーテールに結い上げしっかりと軍服のような制服を着こなした姿は、走っている最中でさえ目を惹かれる魅力があった。
走りながらリーティアが叫ぶ。
「ギュスターヴ!」
「分かっています!」
名前を呼ばれた老執事が左手に魔法陣を呼び出す。紫色のそれがゆっくりと回転し、止まったところでドアノブに合わせられた。
さっきまでは梃子で押しても開きそうになかった扉が、弾かれたように内側から勢いよく開かれる。恐らく中の炎の勢いだろう、もし下がっていなかったら全身を扉に打ち付けていたに違いない。
そして、その中には。
「ちが、違うんです……」
魔術の防壁を構えながら呆然と呟く貴族用学生服の少女。
その目の前に、燃え尽きようとしている青年執事の肉片と、僅かな制服の端切れだけが残っている。
……身の毛がよだつような、鼓動が速くなり血と肌が騒ぐような、不思議な感覚が体を襲う。
目を疑う、あまりにも凄惨な光景が待っていた。
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