第4話


 田中が昨晩ほど深く眠ったのは久々であり、随分と気持ちの良い寝覚めになった。失職や遭難を忘れて、明日の不安は何も感じずに眠りにつけたのだ。柔らかい敷布団に暖かい掛け布団。慣れない寝具に違和感を感じる間も無かった。田中は何かを思い出していた。この温もり、どこかで感じた事がある。母親だ。母体の中に居た赤子の頃の記憶なんて失われているはずだ、それでも感じずには居られないデジャヴ。出来るのであればもう一度母の元へ帰りたい。田中はそう思って、再び目を閉じようとした。

「二度寝すんな」

 林桜は荒々しく引き戸を開いた。

「アンタ、昨日の私の説明聞いてたの?」

「ああ、聞いていた」

「聞いてた上で二度寝するのね」


 田中は、この寺院にしばらく寝泊まりさせてもらえるようになった。しかし幾つか条件があった。

「もう一度ハッキリ言わせてもわうわ、ここは宿代タダのホテルじゃないの。アンタは修行扱いでここにいる、だからやってもら事がるの。一つ、この寺院の掃除」

 敷地や建物の中で、銃撃戦や爆発でも繰り広げられたかのような箇所があった。基本的にはそこを掃除、というより最早修理あるいは整備をする必要があった。

「二つ、農作業か狩猟を手伝う」

 ここでの生活は自給自足だ。獣を捕らえるか魚を釣るか農作業をするか、いずれかで食べ物を確保しなければならない。いくら魔術でも生命を生み出すのは不可能らしく、畑を耕す魔術はあっても無から野菜は作り出せない。

「三つ、魔術の修行をする」

 月聖寺院はこの国の魔術を管理している。魔術の才能ある者がどこかで誕生すれば、悪用や暴走を防ぐためにここまで連れてきて学ばせたり、世界中に散らばる魔力や呪力、霊力的な力を持った道具を集めたり。あとは、いつ起こるか分からない、そもそも大前提としてそれ自体が起こるかも分からない『いつの日か訪れる戦い』のために準備をする。だからこそ、ここに住まう者は皆魔術の修行をしなければならない。


「わかってるよ、ここではそっちのルールに従うから」

 田中は布団から出て、気持ちよさそうに伸びをした。

「…とは言いつつ未だに信じ難いけどな、本当に魔術が実在するなんて」

「あら、まだ信じないつもり? また体験でもする?」

 林桜が挑発的な口ぶりをすると、田中は激しく首を横に振った。昨晩魔術の実在を説明をして更に実演もして見せたというのに、「さすがに嘘だろ」「何かタネがある」「最新の映像技術だ」と難癖をつけ続けた。その結果、自分自身を空中に浮かび上がらせられて延々と横方向に落下させられて地球を一周し、戻ってくるなり体を縮められてどこからともなく現れた猫に追いかけ回され、逃げた先の建物は何故か映画館になっておりそこでは自分の恥ずかしい学生時代の記憶が映画化されていて。信じると首を縦に振るまで強制的に魔術を体験させられ続けた。

「アレは二度とごめんだ」

 思い出しただけでも半泣きになっていた。

「だったらさっさと支度して。人を待たせてるんだから。じゃあ、あとは任せたよ狗山」

 田中が完全に起床したのを確認し、林桜は部屋を出て行った。

「え、お前がもっと色々説明してくれるんじゃないのか?」

 廊下から彼女の声が聞こえた。「アンタに付きっきりになれるほど暇じゃないの。分からない事があったらそこにいる狗山に聞いて」


 そこには二足歩行の犬のような生き物がいた。

「あ、えっと、イヌヤマっておたくの名前?」

「…ああそうだ、狗山とは私の事だ」

 彼はがっしりした図体に似合わない、少年のような声をしていた。



 それから月聖寺院での生活が始まった。

 狗山の説明はいつも丁寧だった。数日前に質問したはずの内容をもう一度質問しても快く答えてくれたし、時折現れる専門用語にもすぐに補足を入れていた。


「いいかい、魔術というのは実際の物体に相互作用を自分自身のアストラル因子によって引き起こすもので」

「えっと、アストラル因子というのは…」

「それは魔術的な力場を発生させるためのエネルギーで、精神夢幻変換を体内で行えば」

「精神夢幻変換?」

「精神夢幻変換というのは、そもそもアストラル因子が空気中に漂っているものではないからこそ、体内の幻素と夢素を元に」

「ゲンソトムソ」

「幻素と夢素というのは、人体のドリームファクターの記憶陰性因子とイマジナリーファクターの想像陽性因子が魔霊的性質か呪妖的性質を持った幻素中性子と夢素中性子に合成された際に」


「…」

「…うん、私もここまで説明が難しいとは自分でも思わなかった」



 ここで修行する身の者は皆日課を終えると、各々自室で自由に過ごしている。狗山は毎晩書庫に篭っており、そして管理人でもある。更に自身の寝床も、その部屋に確保していた。彼はある本を読んでいた。『アレイストの半生』、著者は題名にも書かれているアレイストという人物。彼は後世のために自らの魔術体得までの過程を書き記していた。

「どう、彼の修行は順調なの?」

 林桜が書物を抱えて入ってきた。「これ返すね」書庫の入り口に設置されている、返却本回収用と張り紙された箱にそれらを入れた。

「いや、正直なところかなり難航しているよ。この本に何か手がかりがあればと思ったけど、役に立ちそうもない」


 魔術の才がある者にとって、魔術とは教わるものでは無かった。バッタが跳ね方を誰にも教わらないように、カニが挟み方を誰にも教わらないように、スッポンが噛み方を教わらないように、人間だって二足での歩き方を教わらない。魔術も同じだ。そもそもこの寺院の目的も、魔術の扱い方を教える事が目的であり、決して使えるようにする事ではない。


「そもそも田中からはやる気を感じられないな。やはりまだ心の奥底では魔術を信じきれていない気がするのだよ」

「あれだけのことをやったのに?」

「いや、魔術の存在そのものというより魔術を扱える自分自身を想像出来ていない、そんな印象だ」



 翌朝田中は、自室で待たされていた。部屋の真ん中に椅子と机を置いておくように、とだけ指示をされて。まるで学生と生徒の面談のようだった。

「やあ、待たせたね。今日は特別授業だ」

 狗山と林桜が部屋に入ってきた。

「特別授業? って、なんだよ」

 二人は教科書らしきものも何も手に持っていなかった。林桜が部屋に入ってきて机に腰掛けると、狗山はその少し後で見守るように立っていた。

「アンタは、なし崩し的にここに住み始めた。遭難していたところを私が助けて、その流れでここでの生活を始めた」

「ああ、感謝してるよ。残酷にも一旦見捨てられたけどな」

 林桜が「あ?」と吐き捨てると、「いえ、なんでもないです」と反射的に口に出した。

「私たちはその中で、とても大事なことを確認し忘れていた」

「とても大事な事?」

「頭領からはアンタを鍛えておけと指示が出ていたけど…、アンタ自身は魔術を使いたいと思ってる?」

「使う気なんて無いと言ったらどうなるんだ」

 「ここに来た時の記憶を全て消して家に送り返す」冷たくそう告げられて、田中は息を詰まらせた。なので、しばらく自分の中で答えを探した。


「俺は、今までの人生で失敗した事とか間違えた事があまりにも沢山ある。それが自分を成長させるなんて聞くけど、俺には後悔しか無いんだ。だからそういうのを、魔術を使って過去をやり直したい。もしそういう魔術があるなら使えるようになりたいんだ。だから俺は今ここに居座る最初からと決めていたんだ」


 桜林はと狗山は顔を見合わせた。

「時間逆行、時戻り」

「つまりは時の魔術、最高位の魔術ね。アンタにもやり直したい事なんてあるんだ」

 「うるせ」田中は恥ずかしがる思春期の青年のように目を逸らした。

「俺だって生きてりゃ後悔の一つや二つある」

 「なのにそんな性格に仕上がった、と」桜林は半笑いだった。狗山は態度を改めさせようとしたのだが、

「悪くない理由ね。それにかなり難しい魔術だけど目標は高い方がいいわ」

 思春期の弟を持つ姉のようだった。


 優しく笑うと、手で何かを描いた。田中の座っていた椅子の下に、所謂魔法陣が現れ、田中はどこかに落ちていった。一瞬叫び声のようなものも聞こえたのが、気のせいだろう。陣の内側には大空が広がっており、既にここからはただの点にまで縮んでしまった誰かが見える。

「随分と荒療治だな」

「口で言うのは簡単なのよ。結局追い込まれたらどうなるか、大事なのはそこ」



 空中で田中の体を次々と空気が通りすぎる。周りには何も無いのに耳元には轟音が鳴り響く。今のところ地面との距離がどれぐらい残されているのかは分からないが、一つ一つの景色が近づいて来ているのがよく分かる。今までの人生で時間に追われるピンチは何度も経験してきた。自分が死ぬのではないか、なんて恐怖もつい最近経験したばかりだ。それでも冷静さは保っていられなかった。


「……ぉぁ」


 自分で自分の声すら聞こえていない。声がきちんと出ているのかも分からない。しかし、桜林の声がどこかから聞こえた。

「このまま落ちていったら死ぬわよ」

 魔術で意識に話しかけているだけなのだが、田中には何故声が聞こえるのか気にしている余裕は無かった。

「ふざけんな! 待てよ! おい! なんで!」

 最早文章を作る余裕すら無い。

「貴方が助かる方法は一つしかない。魔術を使って乗り切るの。なんとかしなさい」

「イメージするんだ、この状況から助かる方法を! どんな形でもいい、強くイメージしてみろ!」


 狗山は懸命に田中へ助言をした。「鳥でも、虫でも、飛行機でも、漫画やアニメのキャラクターでもいい、飛んでる姿を強く想像しろ!」田中は「無理だ!」間髪入れずに返した。子供の頃はなんでも想像できたのに、大人になると中途半端に知識が身に付くにつれて、自分の知ってる範囲でしか行動できなくなる。既に飛んで助かるという方法は諦めてしまっていた。そこに頭の中をよぎったのは、あるデジャブだった。こんなふうに落下する瞬間を体験した記憶がある。スカイダイビングもバンジージャンプも経験は無いが、確かにある。ただの夢の中での話だが。誰しも経験がある、落ちる夢。田中は必死に思い出した、落ちる夢はどうやって助かるのかを。


 次の瞬間、元いた部屋の床に落下した。

「あら、これは珍しいわね」

「一番珍しいパターンだな」


 田中はうつ伏せたまま、起き上がれずにいた。腰が抜けていたのもあるのだが、少しおしっこを漏らしていたからだ。このまま二人が立ち去るのを待とうとしていた。


「…何か、臭わないか?」

「もしかして怖すぎてアンタちびった?」

 「仕方ないだろ!」と弁明したかったのだが、大きい声を出す元気も無かった。


 狗山曰く、ほとんどの人が羽を創るか空中に浮遊するか、そうして助かるらしい。その次に多いのがパラシュートを創る場合。偶にいるのが体を頑丈にして耐える場合。ごく稀にいるのが地面のほうを柔らかくしてしまう場合。そしてもっと稀なのが落とされる前に居た場所に瞬間移動する場合。今まで三〇〇人ほどに試してきたが、一番最後のものは田中以外でもう一人しか居ないらしい。田中はこの説明をされた時、「そもそもこんな恐ろしい事を三〇〇人にもやらせるな」と思った。



 魔術を一度使用出来た田中は、そこからは順調だった。

「今度は上から落ちてくるぞ、どうする!」

 狗山がわざとらしく警告した。上を見上げると大量の岩石や瓦礫が降り注ごうとしている。田中が両手の中で球体を生成すると、それを棒状に伸ばした。そして傘を開くように左手を引くと上空に結界壁が現れ、落下物は次々とそれに弾かれていった。田中は見せつけるように余裕の笑みを浮かべたのだが、狗山が視界から消えていた。

「派手な攻撃は陽動に使いやすい、憶えておけ」

 背後から光の槍が迫る。田中は結界壁の展開を解除すると、同じ槍を瞬時に作り、攻撃を受け止めた。狗山が大袈裟に後退すると、田中の持っていた槍を思い切り投げつけた。手元を離れ、数歩分ほどの距離を飛んでいくとすぐに消えてしまった。

「またかよ」

「この短期間でそれだけできれば充分だ」


 結界壁の張り方に光の槍の作り方、モノの動かし方。基本的な術は次々と会得していた。そのため実際の戦いに近しい魔術の使用演習を早くも始めていた。その中で田中は褒められているはずなのにも関わらず、「みんな使えるだろ、このぐらい」と何故か少し不機嫌そうにしていた。ただ、狗山には気持ちがよくわかっている。魔術の才能とは、そこから先が大事なのだ。水を動かせても水を生み出すのは難易度が全く違うし、幻を一人に見せるだけでも限られた人間にしか出来ないし、光の槍を投げるのすらも意外と難しい。田中はそこから先に全く踏み入れられていなかった。



 演習を終えて夜になると、普通の生活のように食事をとる。部屋で一人で食べるのも別段問題は無いのだが、たいていは食堂に集まっている。二人は案外野菜好きであり食事の好みが似ていたので、一緒に食べる事も多い。

「なぁ、この間借りたネクロモンドの書なんだけど」

 田中は狗山の管理する文献や書物を幾つも漁って自分の能力の向上に勤しんでいたので、よくその内容についての質問をこの時にぶつけていた。

「なんでも教えてやろう」

 結局のところ、あれ程の資料を用意してもきちんと目を通す人間は非常に少ない。口頭で教わった魔術だけで満足する人間が多い。わざわざ書庫に借りに来る者もいたが、ほとんどの場合で読まずに返されていた。

「最後の方にアレイストの提唱する四大禁術の認識を〜』とか書いてあったんだけど、四大禁術ってなんだ」

「それは死者を蘇らせる術、認識を壊す術、生命を生成する術、そして時間を逆行する術の四つだ」

「マジかよ、俺が求めてたのってそんなヤバい術なのか?」

「いや、これは決して禁じられている訳ではない。倫理的に扱いが難しいから、いっそ禁止にした方が良いだろうという提案であってだな」

 狗山には田中の向上心が嬉しかった。



 頭領と桜林はテレビを見ていた。頭領の個室には古めかしい寺院には似つかわしく無い、かなり新しい機種があった。この建物は特に外界からの情報を遮断したりはしておらず、携帯電話の電波は届かずともwi-fiはあるしテレビ放送も繋がっている。光回線も通じている。魔術を使って世界に散らばる魔術師を探すのは面倒なので、頭領が何年も前にこのような通信設備を導入した。

『次のニュースです。海外でまたしても原因不明の青い炎が上がる火災が発生しました』


 桜林は苛立ちと焦りを募らせていた。

「また竜鬼の仕業ですね」

「おそらくそうでしょう。あの者たちは目的も信念も無い愚かな集団です」

「既に奴らの拠点は割れていると聞きました。早く手を打ちましょう」

「ですがここを守る人間も必要です。魔具や呪具を奪われても厄介です」

「それはそうですが…」

 その時、外で何かが崩れるような轟音が鳴った。頭領の個室に弟子の一人が息を切らしてやってきた。

「何事なの?」

「誰かが召喚魔術に失敗し、呼び出した魔獣を制御できずにいるようです!」

 弟子と桜林が外に出ると、獣の雄叫びのような何かが聞こえた。その中心に向かうと、実践演習用の広場で既に田中が合成魔獣であるキマイラと交戦していた。

 若い弟子が桜林のもとに寄ってきた。

「田中が失敗した自分を助けてくれて、しかも被害を少なくするために、広場まで誘き寄せたんです」


 近くには、田中の様子を見守る狗山が腕を組んで立っていた。

「何ボーッと見てるの。片付けるわよ!」

 「待て!」駆け出した桜林を狗山は静止した。

「少し見ていろ」

「でもキマイラなんて、対処が簡単な魔獣じゃないわよ」

「慌てるな、面白いものが見られるぞ」

 桜林は狗山と同じ方に視線を向けた。

 広場にはキマイラを囲うようにして光の槍が何本も突き立てられていた。キマイラには獅子と山羊の頭と、尾には蛇の頭がある。

「そう、こういう頭の数が複数以上の魔獣は、攻撃の手数が多くて厄介よ」

「しかも、背後をとるのすら非常に難しい」

 しかし田中は致命的な一撃を一切受けていなかった。迫り来る爪や牙を、確実に避けられる光の槍の位置に瞬間移動して避けていたのだ。


「なるほど、時間逆行による瞬間移動ね。中々やるじゃない」

「ああ、少しだけだが、時間を操る魔術の才があったようだ」

 田中はキマイラの攻撃を避けながら、手のひらの中で結界壁を展開する準備をしていた。「よし、いけるぞ!」そう言ってからその結界壁を上に投げた。するとそれは広場を覆うように一枚の円盤のように広がり、キマイラを地面と挟むように頭から抑え込んだ。

「狗山、こいつを元の場所に送り返せるか!」

「ああ、それだけ動きを止めてくれれば充分だ!」

 狗山はキマイラの足元に陣を展開した。その内側が真っ暗な闇に染まると、沈むように落ちていった。


 安堵する田中たちのもとに、頭領がゆっくりと歩いてきた。

「素晴らしい。もうそんな技を使えるとは驚きです。桜林、これで全ての条件が整いました」

「ですね。私たちは攻め入る準備をしましょう」

 

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