第3話
田中は面接を受けていた。
ある時は普通の打ち合わせ室で。
「という事で、かれこれ6年ほどあの弁護士事務所でやってきたんですけど、そろそろ違う環境も必要かなって思いまして」
「…しかし先ほど、『もう少しで出世できるところまで来ていた』と仰っておりませんでした? そんなタイミングで辞めるのはもったいなく思うのですが」
「いや、えっと…、前の事務所は離婚と親権ばかり扱っていて、もっと多彩な事件や問題に関わっていきたいなと。出世よりも自分の知見を広める事を優先したんです」
「ウチは不動産関係を多く扱うのですが、貴方の言う『多彩な事件や問題』というご要望に応えられそうですか?」
「あー、あー、その…、」
ある時は広々とした会議室で。
「俺は何度も裁判で勝利してきたっていうのに、上司は俺を目の敵にしてきたんです」
「ほう、随分輝かしい成績だね。他の事務所であればとっくに昇進してもおかしくない戦績だ」
「そうなんですよ。実際上司が高く評価してくれていたみたいで、出世の対象者にも選ばれていたみたいです」
「あれ? 目の敵にされていたのに、評価も高かったの? 不当な評価とかされてなかったの?」
「えーっと、だから…、」
ある時は紙やファイルが積み重なった資料室で。
「今後は後進の育成も求められると思ったので、同僚に仕事を振ったんです。そうしたら上司が『なんで自分で片付けなかったの?』と」
「それは量的に自分一人で厳しかったのかい?」
「いえ、俺は仕事が早いので自分で簡単に片付けられる量でした」
「だったらなんで同僚に仕事を押し付けた?」
「それは、これからは上司としてのスキルも求められると考えての行動で…」
「でも正式に昇進を言い渡された訳じゃないのだろう?」
「まぁ、はい、ですから…、」
田中の面接は連戦連敗だった。唯一採用してもらえたのは、自宅から2時間ほどかけてやっと通える距離にあって、定年間際のご老体一人で運営していて、相続についてばかり取り扱っている、そういう事務所だった。当然それはお断りした。時間は無闇に過ぎていく。貯金は徐々に減っていく。
その日、またしても面接に失敗した田中は、スーツ姿のまま駅前の道端で体育座りしていた。何も考えずに、どこにも視点を合わせずに、ぼんやりとしていた。家に帰るサラリーマンや学生達は、彼に目もくれなかった。
「お兄さん、何してるの?」
一人の中年女性が声をかけた。
「…何もしてない」
「だったら、どいて欲しいんだけど。そこに居られると邪魔なんだけど」
田中が座り込んでいたのは、簡素な椅子と幕のかかったテーブルのすぐ横だった。その幕には、『占い一回2000円』と書かれていた。
「駅前の占いなんて、もう流行らないでしょ」
「うるさいね他人に文句言われる筋合いないわ」
そんな風に言い返されたので、田中は逆に仕返しのようにそこから動こうとしなかった。黙りこくって、目も合わせようとしなかった。
「…わかったわかった、アンタのこと一度占ってあげる。そしたらどいてちょうだい、金は取らないわ」
「仕方ないなぁ、占われてあげるか」と勝ち誇ったような顔を見せた。
田中は占いのような非科学的なものを一つも信じていない人間だ。しかしそれでも、誰でもいいからこれから先の人生がどうなるか教えてほしい、そんな藁にもすがる想いが心の奥底にあった。中年女性には正対せず体を横に向け、足を組んで椅子に腰掛けた。中年女性が机に置いてあった水晶玉に手を添えると、内側がぼんやりと光を放った。
「ふむ、アンタ今相当過酷な状況にいるみたいね。人生の中でもかなりツラそう」
「そんな事、俺の格好や表情を見ればわかるだろ」
田中は、着ているスーツのくたびれた様子を見せびらかした。
「仕事をクビになりそう、またはクビになりかねない事をしでかした、はたまた既にクビになったとか」
「…答えに幅を持たせすぎだ。スーツ姿で落ち込んでいる男がいたら、仕事に関する悩みと言っておけば大外れしないに決まってる」
田中は、中年女性の目線を避けるように顔を逸らした。
「どうやら、もうクビになってる、が正解みたいね」
「……俺の反応を見て推測しただけだ」
田中は、左の手のひらで顔を覆った。
「で、新しい仕事にもなかなか有り付けず、とても困っている」
「クビになった人はだいたいそうだろ!」
左手で机を叩き、声を荒げて立ち上がった。そして駅前を歩く人々の視線を集めた。田中は雑踏の中にいる事を思い出し、冷静さを取り戻しながら再び椅子に腰をおろした。
「…もし、本当に占ってくれるなら、俺が聞きたいのはそんな話じゃない。これから俺はどうなるのか、どうなってしまうのか、それを知りたい」
「そうじゃないでしょ。アンタが本当に願っているのは、過去のやり直し。いろんなこれまでの後悔を、無かった事にしたがってる」
水晶玉は先ほどより強い光を放っていた。駅前の街灯よりもずっと明るく。
「過去をやり直すなんて、そんなの出来ないだろ」
「いえ、出来るの。過去はやり直せる。無かった事に出来る」
「占いをそもそも信じてないのに、そんな話を信じるワケが」
二人が話しているところに、駅員がやってきた。「また貴方ですか。次ここでやったら警察に通報するって言いましたよね」呆れながら、そして威圧的な態度だった。中年女性はそそくさと荷物を片付け始めた。
「アンタどうせ無職で暇なんでしょ? だったら、月聖山の寺院に行きな。貴方の望むものがあるわ」
「ツキヒジリって、なんだよそれ。そこに何があるんだよ」
中年女性は「もう終わりだから、立って。どいて」と田中を急かした。そして椅子と机を折りたたみ、立ち去った。
田中は占いのような非科学的なものを一つも信じていない人間だ。しかしそれでも、過去をやり直せる可能性があるならそれを試してみたい、そう思っていた。
駅員は、特に追いかけたりはしなかった。
「お兄さん、何を話してたかは知らないけどインチキババアの話なんて真に受けないでくださいね。だいたい、あんなのに構っちゃダメですよ、仕事帰りで疲れてるんでしょ」
「あ、はい。俺は、仕事帰りで、疲れてます」
何故か、意味もなく嘘をついた。
・・・
「バカバカしい」
田中は、電車の音に掻き消される程度の声で呟いた。そもそも、過去をやり直すなんて出来ない、無理に決まっている。そのように心の中で決めつけていた。可能であればそうしたいが不可能であるのを理解しにいく、それが目的だった。直せるはずもない完全に壊れたおもちゃを、一応、念の為、最も修理出来る可能性の高い人間の下へ持っていくかのような。
例の中年女性が言っていた月聖山は田中の住む街から新幹線で4時間、電車で2時間、バスで30分、そこから歩いて3時間、そういう場所にあった。車で行けば歩かずには済んだが、田中は車を持っていない。レンタカーを何日も借りる金もない。かてて加えてペーパードライバーであった。と言う訳で多少大変な思いをしても徒歩移動しなければならない。
とはいえ、車を使用しない判断は間違いでは無かった。田中は中年女性からある事を聞いていなかった。それを月聖山の麓まで来てやっと気づいた。
「やべ。この山のどこにあるのか全くわからねぇ」
寺院はどこにあるのか、どんな建物なのか、どれぐらい広いのか、遠目からでも見つかるのか。何も分からない。近場に村も無く、山に詳しい猟師から情報を仕入れるのも無理だ。もし自力で探すなら月聖山を歩き回る必要がある。それには準備を整える必要がある。それには先ほど3時間ほどかけて歩いた道を戻る必要がある。陽はすでに沈みかけている。色々と考えるのが面倒になった田中は、コンクリートで舗装されていた道路から土の上に踏み出し、山へ入っていった。
とりあえず道なりに歩いた。適当に歩けばそのうち辿り着くだろう、そんな考えだった。しかし山道は何度も分岐した。その度に適当に分かれ道を歩いた。先には湖があったり崖があったり、行き止まる度に引き返した。これを数回繰り返して、夕闇のころ田中は座り込んだ。今日はもう歩き疲れた。誰も通りかかりはしないのに、律儀にも道の端に寄って時間が過ぎて陽が登るのを待った。山の夜は少し寒かったが、リュックに詰めていた上着が役に立った。
翌朝、昨日電車で食べ損ねたおにぎりを一つ食べて歩き始めた。風呂も入っていないし歯も磨いていない。全身も口内もうっすらベタベタしていたので、それを不快に感じていた。せめて口の中だけても濯ごうと思い、昨日飲み残したペットボトルの水を少し口の中で掻き回してから吐き出した。田中は、今日一日歩けば流石に寺院が見つかるだろう、そう思っていた。昨日歩かなかった方の分岐の道を歩けばどこかで見つけられるはず。歩いて行き止まりになって、歩いて行き止まりになって、歩いて行き止まりになって。道らしい道を歩いても何も見つからなかった。なので今度は、茂みに入って草木をかき分けて進んだ。朝も過ぎて昼も過ぎて陽が傾きはじめた。田中はここでやっと事態の重さに気がついた。背負ったリュックには飲みかけの水とおにぎり1つとクッキーと電波の繋がらない携帯電話とモバイルバッテリー、それとあらかじめ映画をダウンロードしていたタブレット。山を登るにしては明らかに軽装備すぎる。もはや帰り道も分からない。自分はほぼ遭難状態。果たして生きてこの山から出られるのか。寺院を見つけるか帰り道を見つけなければ、おそらく死ぬ。生き残るために夜通し歩こうとしたのだが、あまりにも疲労していたせいかほんの少し休もうと座った際に、寝てしまった。
目が覚めるとかなり腹が減っていた。2日前に買ったおにぎりを食べるのは少し躊躇いがあったのだが、そうも言ってられない。ゆっくり咀嚼して飲み込むと、歩き始めた。しかし最早行き当たりばったりに歩くのみだった。
寺院を探していた筈なのにどうしてこうなったのか。俺はここで死ぬのだろうか。それとももし助かるとしたら、誰かが俺と音信不通になったからという事で捜索願を出してくれていたりしないだろうか。職場の誰かが出勤していない俺を心配して…いや、俺はもう無職だったな。そもそも職場にも、それ以外にも俺を心配してくれるような人はいないか。俺は生きてこの山から出られるのだろうか。
少しづつ食べていたクッキーも次の日には無くなった。奇跡的に水の綺麗な川があったのでそれを飲み水にしていたが、サバイバルの知識も全く無い田中の命を繋げるものはそれぐらいしかなかった。
明くる日、草木や木の枝を踏み潰す音が聞こえた。もしかしたら人が歩いているかもしれない。田中はその方向に歩いた。そこに居たのは熊だった。そもそも今までの間遭遇しない事の方が奇跡だったのだ。サバイバルの知識も全く無い田中は一目散に、逃げ出してしまった。熊は急な動きに興奮して、追いかけて来た。完全に死んだと思った。そもそもこの山に来たことを激しく後悔した。ずっと、ずっと、ずっと走ると、広い場所に出て、古めかしい建物がそこにはあった。田中はそれが中年女性の言っていた寺院だと確信した。追いかけてくる熊はいつの間にかいない。田中は助かったのだ。彷徨って7日目の出来事だった。もしレンタカーを借りていたら、返却の時いくら請求されたことやら。
田中は寺院の建屋の扉を強く叩いた。
「すみません、助けてください。遭難したんです」
するとすぐに扉が空いた。長身でメガネをかけた女が現れた。
「遭難したんですか、そうですか。でも私には関係ありません。帰ってください」
「は」
「林桜、どうしたのですか」
痩せた女の問いに、長身の女は毅然として応えた。
「頭領、玄関に怪しい者が」
「怪しい者? 遭難者かもしれませんよ」
「いえ、あの一件以来この場所の結界を強めました。魔術的な知識が無ければこの場所は発見できません」
「となると、術の使い手であり即ち竜鬼の手先の可能性があると」
林桜と呼ばれる長身の女は、小さく頷いた。頭領と呼ばれる痩せた女は手のひらから水を生み出し、それを空に放った。すると水の中に扉の外にいる田中の姿が映った。「おい、頼むよ、本当に死にそうなんだ! すぐそこに熊が来てたんだ! 見殺しにするのか!」田中は喚いていた。
「…いくら竜鬼の手先とはいえ、こんな見え透いた演技をしますでしょうか」
「そ、そうですね」
林桜は少し田中の必死さに引いていた。「中に入れて助けてあげましょう。その者が敵か味方か、有益か無益か、判断は後にしましょう」頭領は手のひらへ水を回収した。さらに扉のほうに手を向けると、ひとりでに開いて外から吸い寄せられるように田中が引き込まれた。
「とりあえず元気になるまで泊めてあげなさい」
林桜は呆れながら「はぁ」と答えると、頭領は「それに」と続けた。「それに?」と相槌を打つと、少し間が空いた。
「『いつの日か訪れる戦い』のためにも魔術師は一人でも多い方が良いでしょう」
「奴をここで寝泊まりさせて、魔術師として鍛えろと?」
「そうです。あとは頼みましたよ」
頭領が立ち去るのを確認してから、「相変わらず人がいいんだから」と自分にしか聞こえないように呟いた。
「お前、さっきはよくも見捨ててくれたな」
田中は立ち上がって、言い放った。
「アンタ一言目がそれ?」
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