第2話
そこそこの都心の中にある、そこそこの高さのビル。そのビルのワンフロアをぶち抜いた執務室。田中の勤める弁護士事務所はそこにあった。他に仕事をしている人間がいるにも関わらず彼は喚いていた。
「えー、また俺がこんなチマチマした細かい案件やるんですか? 無料相談の内容なんて誰でもいいじゃないですか」
「誰でも、じゃあないの。こういう仕事こそ、アナタのように確実にこなせる男がやってくれないと、ウチの評判が下がってしまう」
このままゴネられるのも面倒だったので、遠藤はひとまず何冊かのファイルと封筒を会話に紛れて机に置いた。
「まぁ確かに他の奴らじゃあヘマするかもしれないですけど…。こんなの、あそこで暇そうにしてる松本にやらせてもいいでしょう」
「そうは見えないけど?」
松本は固定電話を肩に挟みながら、手元の資料とパソコンのモニターを交互に眺めてキーボードを操作していた。
「あいつ、俺なら一〇分で終わる仕事をわざわざ二時間かけてやるんですよ。あんなの忙しいフリですって」
「っていうことは、この量も一〇分で終わるでしょ」
そう言い残して、遠藤は自分の個室オフィスに戻っていった。田中は舌打ちをしながら、ファイルと封筒に次々と目を通した。「はいはい、誹謗中傷に誹謗中傷、離婚関係にご近所トラブル、あと誹謗中傷ね」書類の束を乱暴に机の上に置いた。そして部屋の天井を遠い目で眺めた。しばらくしてまた書類の束を手に取ると、離婚関係の資料だけ取り出して、残りを抱えて松本の机に向かった。
「これ、一通りやっておいてくれる?」
また書類の束を乱暴に机の上に置いた。今度は松本の机に。
「いやちょっと待てよ、そんな事いきなり頼んでくるな。そもそも田中は僕の直属の上司じゃないだろ。しかも役職も同じだ」
「まあでも、俺はもう来年からは昇格が決まってる。未来の上司に媚び売っておくのも悪い策じゃないと思うぞ。それじゃ」
松本が田中の後ろ姿に向かって文句を飛ばしていたが、飛ばされた方は気にも留める様子がなかった。
田中は事務所一階にある打ち合わせ用個室にいた。
「なるほど牧村さん、貴方は不貞行為をしたにも関わらず親権を失いたくない訳だ」
「不貞行為だなんて、キャバクラと風俗に数回行っただけですよ。だいたい、その、なんというか、妻との夜のアッチの活動もご無沙汰だったし」
牧村という男は、真面目な相談をしているこの空気感により、気を遣って性的な言葉の使用を避けていた。
「つまりセックスが減っていたと」
田中はハッキリとそう告げた。「…まぁ、はい」牧村は苦笑いしていた。しかし逆に、言葉を濁さない田中の態度は逆に信頼できるとも感じていた。
「でもなんで親権が取れると思ったんです? 状況を察するに、圧倒的不利ですけど」
嫌味すらなく、純粋な興味で出た質問だった。
「正直、彼女に子育ては無理だと思うんです。感情的だし話を聞かないし変に教育ママぶってるし勝手に断捨離とかするしモノ投げたりするし…」
「つまり頭が悪いと」
「…まぁ、はい」牧村はまた苦笑いしていた。田中はその受け応えを無視するかのように言葉を続けた。
「で、話し合いはいつ?」
「今日このあと二時間後、すぐ近くで」
「あらま。つまり貴方は計画性が無い、と」
「だったら今からでも、何か策を考えましょう」田中はそう言いながら立ち上がり、「ちょっと飲み物をとってきます」と部屋の外へ出た。ウォーターサーバーでお茶を煎れると、紙コップを持ったまま一分ほど近くをウロウロしてすぐに戻った。
「思い付きました。これを試しましょう」
田中は自分の分の飲み物だけを手に持っていた。牧村はお茶を出してもらえるのかと少しだけ期待をしていたが、そんな事は無かった。「お子さん何か好きなキャラクターとかあります?」「え? 変形ロボットとか大好きですけども」「じゃあそれにしましょう」「どういう事ですか?」とりあえず答えを聞きたい内容だけを質問した。そして牧村を連れて近場のおもちゃ屋に寄ってから、話し合いに向かった。
牧村の元妻も弁護士を雇っていた。相手方の事務所に行くと、二人はエントランスで待ち構えていた。
「コウタはどうしてる?」
「このビルの託児所にいるわ」
田中は周囲を見渡して、ビルの施設の充実ぶりに関心していた。
「じゃあ、一目だけ合わせてくれないか?」
「話し合いが先よ」
元妻は、かつて結婚生活を共にしていたとは思えないほど牧村に鋭い目つきを向けていた。
それから個室に入り、淡々とした会話が始まった。
「であるからして、毎月の養育費を———」
「財産分与として現在の貯金額の———」
「精神的苦痛を与えたとして慰謝料を———」
「とりあえずお金を払え———」
それから個室を出て、淡々とした会話が終わった。
「じゃあ、今日の内容は一旦持ち帰ります。最後にお子さんに挨拶して帰りますか」
牧村の元妻は黙ったまま託児所に向かった。
二人になった瞬間、牧村は質問をいくつもぶつけた。「なんでもっと強く言い返してくれないんですか!」「あんなにお金払えないですよ!」「親権の話は!」「とりあえずお金を払えって何!?」とにかく不安を感じているのがよく分かった。そんな彼を制して、田中は言った。
「ま、本当の策はここから先ですよ。プレゼントを用意してください」
自身の親権争い真っ只中であるコウタくんは、何も知らずに父親の元に現れた。
「パパ、パパだ!」
無邪気に抱きつく様子を母親は快く思わなかった。牧村はコウタくんの頭を優しく撫でた。
「またちょっと大きくなったな。久しぶりにあったコウタに、パパからプレゼントだ」
「これ欲しかったやつ! なんで持ってるの!」
「そりゃお前のために探し回ったんだよ」
二人がしばらく戯れあっているところに、元妻は「あなたみたいな不潔な人間が近寄らないで」と辛辣な物言いをした。そしてコウタくんを連れ去っていった。
「では我々も、次の話し合いで会いましょう」
田中は自分の職場に戻っていった。
数日後、二度目の話し合い。ここでマトモな主張ができなければ牧村が親権を手にする事はない。
「田中さん、私は何も準備してなかったけれど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、必要なものはこっちが揃えたので」
またしても四人で個室に入り、代理人を介して牧村の元妻からの要求がつらつらと告げられた。そこに適当に反論していく田中。そして代理人が親権の話題に入った時、田中はあるモノを取り出した。それは、以前買った変形ロボットのおもちゃだった。しかし随分と傷がついて汚らしくなっていた。
「これ、先日私の依頼人がコウタくんにあげたものと同じですよね」
「なんでアンタがそれを?」
「偶然拾ったんです」と元妻の問いに白々しく答えた。「器物損壊って、ご存知ですか?」更に白々しく問うた。
「でも、別のものの可能性だって」
「実はこの変形ロボット、転売対策のためにシリアル番号が割り振られてるんです。購入のレシートも、同じ番号が書かれた箱もこっちの手元にある」
「子供のものを勝手に捨てたりしませんから!」
「……ははっ」
「な、なによ?」
「私は先ほど、器物損壊を知っているかと質問しただけです。『子供のものを勝手に捨てましたか?』なんて聞いてませんよ。お母様、何か勘違いというか、早とちりしていませんか?」
田中は牧村と家庭の状況を聞き出すうちに、この元妻の性格を察していた。さらに、牧村自身も、私物を捨てられた経験が何度もあるらしかった。
「しかしそれにしても、私は心配です。今後学校に通い、学校で授業を受ける最中、コウタくんが勝手に大事なものを捨てられやしないかね」
田中自身この反論が弱く薄く軽い事は理解していた。そして元妻の代理人もそれは同じだった。しかし元妻の性格的な問題は感じ取っており、離婚の本当の理由だとか養育能力とかを掘り返されると不利になると分かっていた。代理人は元妻に耳打ちした。「これ以上戦うと、慰謝料すら貰えない可能性があります。下手に粘るより引いた方が良いかと」彼女はそれに素直に従った。
部屋を出ると、代理人は「あとは書面でやりとりしましょう」と吐き捨てた。「是非そうしましょう」田中はタクシーを拾い、牧村と共に自分の事務所に向かった。
「それにしても、何故捨てられたロボットが見つかったんですか?」
「ん? 別に見つけてないですよ。あんな子供騙しのオモチャにわざわざ転売対策しないでしょ」
ハッタリだと理解したのだが、もしそれが上手く行かなかったらどうしたのか気になった。しかし牧村はそれ以上問わなかった。なんにせよ、自分の依頼が達成されたのだから。
今後の事務的処理について説明し牧村と別れた後執務室に入ると、何やら騒がしかった。松本の机に人が集まっている。田中もそこに加わろうとした。
「あ、渦中の男が帰ってきた」
自分がこの騒ぎの当事者らしいが、一体何の事か全く分からなかった。皆が集まっているところに、遠藤もやってきた。「やっと帰ってきたね、ちょっと私のデスクに来て」言われるがままについて行った。
「アナタ、松本くんに仕事を投げたんだって?」
「えっと、暇そうにしてたので」
「私にはそう見えなかった。それにアナタの勝手な判断で面倒な事態になったの。分かってる?」
遠藤は全てを説明した。松本が忙しい中さらに仕事を押し付けられた事、松本もネットの誹謗中傷の案件を抱えていた事、田中から渡された案件の中にその加害者からの相談があった事。
「冷静に考えてみて。一人の弁護士が、一つの争いで被害者加害者両方からの依頼を受け持つなんてあり得る?」
「いや、松本だって少し調べればそれぐらい分かるはずじゃないですか?」
彼女は机の上に乗せた手の甲を眺め、しばらく黙り込んだ。そして再び口を開いた。
「問題はそこじゃないの、アナタの立ち振る舞いがこんな問題を引き起こしたから、私は怒っているの」
「でも俺だって他の案件に真面目に取り組んでいました」
「そんなのはどうでも良い。私はこれまでの行動とその末路に怒ってると言ったでしょ。それと、未だに謝罪一つもない。人間性を疑うわ」
今度は田中が黙り込んだ。彼女の剣幕に言葉一つ発せなかった。
「…これまでアナタは、その横暴な態度が許される代わりに結果を残してきた。けど、その歪な等価交換も終わり。クビよ、ここから出て行って」
「は、え…」少しだけ声が漏れると、その後は言葉に詰まりそれ以上何も言い返せなかった。
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