45 オトナの咲来

咲来サキ


 夫の荒井あらい智矢ともやに呼ばれた。


「嫌だな。いちごって呼んでよ……」


 釘を刺した苺を無視して、彼は続けた。

 周囲から無口だと思われることの多い夫は、実は余計なことを口にしないだけだと苺は知っている。今回の件についても彼は一切回りくどい言い方をしなかった。


「君の“お兄さん”を迎えに行かないのか? 君は再会を望まないのか?」


 今は兄の千晶が呼び掛けて行われた「作戦会議」が終わり、皆が途方に暮れるまま迎えた夜。


 苺と智矢は皆が集まっている二階の教室を避けて、四階の音楽室に来ていた。

 黒板の前に置かれた黒いグランドピアノ。埃一つ見当たらない手入れのされたそのピアノの椅子に苺は腰掛けていた。智矢はピアノに程近い教卓に尻を乗せた。


 角部屋に当たる音楽室の両脇に連なる大きな窓から星空の銀の暗がりが差し込んだ。

 苺の片頬に淡い皮肉めいた笑みが刻まれた。


「なあに、ともくん。今日は機嫌良さそうだね?」


 智矢の口にした「お兄さん」は千晶のことではない。苺はそれを瞬時に察して、誤魔化しを口にした。

 だが、誤魔化せなかった。

 智矢の目が静かに苺の返事を待っていたからだ。いつも通りに余計なことは口にせず。


 苺は長い髪に結んだ黒いリボンに無意識に触れて、震える息を吐き出した。


「……望んでたよ」


 そこからは坂道を駆け下りるように、苺が秘めてきた過去を告白した。

 小さな綻びをくぐって放たれた気持ちが、ほつれる糸のように引き摺り出されて止まれなかった。


「私の、年下の兄さん。本当に家族のように大事に思ってた。子供の頃に行方不明になった、おばあちゃんが大事にしてた猫。

 でも、彼は飼い猫じゃなくて”カネ君”で、でも本人だって何故かわかっちゃって私、自分でも気持ちに説明がつかないんだ。言うべきことが何なのか、何を言えばいいの?」


「……僕はセピアから聞いた。カネ君に、君は『帰ってくる』と約束し『待ってて』と言ったのだと。その答えを聞かせてやったら、少なくともカネ君は安心すると思う」


「『帰ってくる』……? 『待ってて』……? 私、そんなこと言ってないと思うけど……」


 智矢が怪訝そうに首を傾げた。


「私、それは勿論、心の中ではそう思ってた。

 両親を説得してちゃんとお兄ちゃんの居心地のいい場所を作りたい。安心してもらえるようになりたい。それまで我慢して待っててほしいって。

 でも私、一度も口にできたことはなかったんだ」





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