42 信じられないなら試せばいい

「信じられないのならば試せば良いのです。はい、そこのお客様」


 と少女結美は近くにいた、休日の会社員風の中年男性に手のひらを差し出した。男性は瞬時に顔を強張らせた。


 男性よりずっと幼く華奢で背の低い少女に、拒否できない圧があった。周囲の人間も自分が指されることを恐れて目を逸らした。


「さあさあ、お客様。一回回ってお手をして『わん』と鳴いてくださいね」


「こらこら結美ちゃん。悪人みたいだよ?」


 たしなめる朔耶の声はどこか緊迫感が抜けていて、本気で結美の言動に抗議しているわけではないと分かる。


「でもでも私一回だけやってみたいのです」


 初めての習い事に胸をときめかせる少女の声音で、結美が可愛らしく口を尖らせた。


 だから、男性は結美の屈辱的な指示に従うしかなかった。

 ぎこちなくその場で回って結美の手のひらに手を置いて、言う通りに「わん……」と呻いた。彼はこんな屈辱があってたまるかという絶望と惨めさで赤面した顔を歪ませた。

 周囲の人間も同様の顔つきだったが、自分が標的になりたくないあまりじっと口を閉ざしていた。


 たった一人の少女に、二十名の大人が足を竦ませ、屈服する異様な事態が起きていた。


 結美は慈愛に満ちた笑みで一つ頷いた。


「ああ、従順なペットって良いものですね。この世の全てに寛容になれる心地です」


 彼女の手にはいつの間にか、コルクで蓋をされた小さな硝子の小瓶が握られていた。硝子に透ける小瓶の中身は空っぽだ。


 カプチーノ色の少女は適当に――本当にただ近くにいて手が届いたからという理由で、先程屈辱的な指示を強いた中年男性の口に小瓶を突っ込んだ。


 目にも止まらぬ速さで少女の手が伸び、男性は顔を背ける暇がなかった。


「二回目の『骨抜き』です。どうぞご堪能下さい」


「あ、結美ちゃん……!」


 軽く咎めるように声を発したのは朔耶だ。


 硝子の底が男性の前歯にぶつかるように挟まれて、コン、と冴えた音が響いた。透明な硝子瓶が男性口一杯に押し込まれた。


「え、にゃ、にゃにを」


 小瓶に言葉を阻まれ、舌足らずに男性が慌てた。


 直後、男性が崩れ落ちた。


 その表現では正しくないかもしれない。

 陸に打ち上げられた海月のように、べちゃりと足を滑らせ地に伏した。

 人間のまともな形を保つことは男性にとって至難の技だったろう。案の定すぐに軟体動物のように骨格がなくなった。


 溺れるように藻掻いていたがやがて男性は動きを完全に止め、静かになった。

 海の底のように膨大な水圧に囲まれて、音がひしげて潰された果ての無音だった。

 圧を掛けられ続けた無音は擦り切れ、ほんの数秒で決壊した。


「や、あ、あぁ…、いやあああああああああああああぁ……!」


 女性が叫び声を上げた。人間たちは全員動けなかった。


 結美が形の崩れた中年男性の口から引き抜いた透明な硝子瓶をカネは注視した。


 その中には、珊瑚サンゴの欠片のように綺麗な白い粉――男性の体からすっかり抜かれた骨が入っていた。

 しっかりコルクで封をされた瓶の中で、粒子の細かい白い骨の粉がさらりと煌めきながら瓶の側面に張り付いた。


 次にカネは滑り落ちるように倒れた男性の体を観察した。

 ついさっきまで口があった。それは確実だ。結美が口に瓶を突っ込んだのだから。だが今は口がない。それどころか顔がない。髪もない。髪どころか頭がない。何もない。


 ――つまり、彼の頭部が丸ごと欠損していた。


 首から下の体だけがどうにか持ち堪えて形を保って大の字に教室の床に広がった。風船のように空気に膨れた体になっていた。


 もう彼は死んでしまったのだろう。これが「二度目の骨抜き」で支払う代償らしい。


 カネは何の目新しさもない平凡な教室に突然生まれた惨たらしい死体を静視する己に気が付いた。


 己に対する敵意が不意に沸き立った。


 俺は何もしなかった。傍観者だった。これまで俺を疎んだ奴らと同じように人を見捨てた。

 それが腹立つしムカつくし気持ち悪い。いっそ自分に殺意すら覚える。


 それを早くこいつらにぶつけてえ。





 人間たちのの目の前で、誰かの大切な人を死体にしてまで吸骨種たちが説明したいことは、つまりこうだ。


 骨抜きせずに世界を超えようとすると人体に多大な負担が掛かり破損する。

 だが骨抜きして世界を渡ろうにも二度目の骨抜きは不可能。強行すれば人間として何かが欠損する。


「結美ちゃん、これはマズくない?」


 結美を制止しようとして間に合わなかった朔耶が、おそるおそるというように結美を伺った。


「あら? どうしてでしょう? だって言葉で長々と説明するより実際のところを見せたほうが親切だし理解が助かりますでしょう?」


 結美は周囲の人間に沸き立った恐怖に全く無頓着で、朔耶に首を傾げた。

 カプチーノ色の潤んだ瞳を受けた朔耶が「う……」とよろめいた。


「可愛すぎて無理。ああもう怒れないよ! うちが結美ちゃんのその顔に弱いって分かっててやってるでしょ」


 同年代の少女同士の仲睦まじいやり取りだが、それは表面上に限る。


 その場にいる人間たちは怯え、逃げ出したいが足が竦んで動けなかった。


 カネはそんな大人たちの間を縫って、教卓の前に、つまりは吸骨種たちの正面に歩み出た。

 背後の人間の大人たちを守るように立ち、吸骨種たちと向き合った。


「ちんたらしてんじゃねえ。さっさと説明続けろよ。

 ただし次、誰か一人でも殺したら俺があんたたちを殺るからな。覚えてろサイコパス女」


 カネの𠮟責に、吸骨種の少女たちが少し神妙な顔になって、と言っても結美は笑顔のまま、頷いた。


 オレンジ色の髪の毛先まで元気を失くしたように悄気しょげげた朔耶が、申し訳なさを表情の前面に出し、カネを拝むように手を合わせて謝罪した。


 カネは「ふん」と不機嫌に鼻を鳴らした。 その目には粗野な仕草と裏腹な、静か過ぎる敵意がまっすぐ少女らを刺した。


「あ、『骨抜き』の話だけじゃなかった。それに加えてね」


 と朔耶は言い辛そうに話を進めた。


「もし境界を越えて向こうに行けたとしても、君たちが想像する『元の』世界に帰れるかは、現時点では怪しいんだと思う」





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