36 地下への階段

 階段を降りながら「うぐぁあぁあっ! なんと、なんと、面妖な!」とセピアは飛び上がった。

 が、後ろからずんずん柊杜が降りてくる。ずんずん押されて引き返すことはできない。


 体をくの字にしてジャンプする成人男性セピアを不気味がるように柊杜は、きろりと爬虫類の挙動で眼球を一回転させた。


「人間は何もなくても生きることに悶え苦しむものだ、という一文を結美が小説で読んだと言ってたことがあるけど、こういうことか?」


 すかさず耐え切れないようにセピアが「音だ!」と答えを言った。


 そう。セピアが飛び跳ねる理由は、音だ。

 先程からセピアの鼓膜をたくさんの音がくすぐっていた。


 脇腹を猫の尻尾が通り過ぎるようなくすぐったさに「ひやぁっ」と奇声を上げて身をよじる。最後は耳を押さえて、階段の端にしゃがみ込む。


 柊杜がセピアの後ろに立ち止まって、益々胡乱な目を向けた。


 セピアは頑張って説明を試みた。


「音、メロディーが聴こえる。面妖な! 少し進むごとに違う音が一斉にあちこちからき、聞こえて……耳! 耳がくすぐったい!」


 セピアは何とか柊杜がつっかえないように歩幅を合わせて歩き出そうとし、三歩だけ階段を降りて限界だった。また耳を押さえてしゃがみ込む。


 セピアは以前から――というのはこの異世界に飛ばされる前から音に過敏だった。

 特にただの音の羅列られつが音楽になり音が意味を持つ瞬間に、梅干しの酸っぱさと、香辛料が鼻を抜ける辛さと、角に小指をぶつけた痛みに襲われる感覚に陥る。


 ただ今、渇色世界から地下世界に近付くにつれて、地面から様々な音が迫っていた。

 しかもそれらは規則性を持った、いわゆる音楽と呼べる物だ。


 どうやら場所ごと方角ごとに鳴っている曲が違い、セピアの耳には十曲も二十曲もあちこちからまばらに聞き取れる。

 色んな音楽を耳元で強制的に一遍いっぺんに聞かされるのは拷問だ。


 柊杜がはっと驚いたように息を呑んだ。


「音とは、方角を示すこの音楽のことか……? この地下砂漠の音楽は普通吸骨種にしか聴こえないようになっているのに?

 吸骨種はこの音楽を手掛かりに細かく曲を聴き分けて、地図や看板や標識や方位磁針代わりにして目的地へ向かう。それは吸骨種だから出来ること。

 だが、君にはこれが聴こえるんだな? 骨の幽霊ですらない君が最初から音楽を選別出来るなんて。やはり君は特別な存在なんだな……」


 と、そんな呟きは非常事態中のセピアには入ってこない。


 柊杜は出来心らしくツンツンとセピアの耳をつっついた。セピアが「ぎゃあぁっ!」とジャンプして、こけて階段に額をぶつけた。数回それを繰り返すも、耳は数多の音楽に慣れてくれない。


 自分で言うのもなんだが埒が明かない。

 耳を押さえてジタバタする三十路手前の男セピアを見かねたらしい、十二歳の少年柊杜が米俵のように軽々と肩に担いで長い階段を降り始めた。


「うひゃあああっ、痛い! いや痛くない! 痒い! 面妖な痒さだ! 耳の中に毛虫が入ってきたようだ! 想像したら気持ち悪いっ! どうしてくれるのかね!?」


 ぎゃあぎゃあ騒ぐ大人を、青髪の柊杜少年は無関心に運んだ。荷物になった気分だったし、実際荷物だった。

 初めての荷物体験は、首の骨を折られた時とおんなじくらいセピアの自尊心が傷付いた一件と相成あいなったのであった。





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