32 異世界転移のトリガー

 思索を愛する十三歳の少年『たかし』は不思議な体験をしていた。


 己の体が学生服の青い髪の少年に振り回され、首の骨が折れてぐったり脱力した。無抵抗で青髪の少年に骨を吸い出される。


 ――そんな自分の姿を背後から見つめていた。


『まるで解離体験だ』


 その状況は流石の『尊』も驚きに値すると評価したが、慌てふためきはしなかった。


 あの体に自分の――そう、言うなれば魂といった物が残っていないことは感じ取れた。

 異世界の空気が自分に合わないと嫌悪したのは記憶に新しいのに、実体のない今は咳をすることも眉を顰めることもしないで済む。


 『尊』少年の頭にあるのは自宅の書庫の本たち。この世の物で尊が価値を感じるのがそれだ。


 本を読み、整理する。ただひたすらにこの世にある概念を整理整頓する。

 時に個人的な概念を編み出し、それを既存の概念に嵌め込む。煉瓦を地道に積み上げていつか高い塔を建造するような作業が『尊』にとっての思索であり、楽しみだった。


『尊』にとって自身の思索の出来栄えは、例えるなら塔の高さを目視で測るように、精密ではないが可視化できるものだった。




『尊』はポケットから携帯端末を取り出した。録音メニューの最新のものを呼び出し、再生した。


 それは『尊』自身がしたことではあったが、それと同時に、眼前のぐったりした自分の腕が動いてタータンチェック柄のスーツの胸ポケットから端末を取り出していた。


 録音が再生された。


 最初の数秒は風のある屋外にいるのか籠るような風の音が流れた。それからふっと息を吸う音がして、歌が流れ始めた。


 少年の澄んだ声色のみで紡がれるアカペラの歌だ。

 その声が放たれた瞬間に背後の風の音が消え去ったと錯覚するほど気にならなくなった。少年の歌声にはそれだけの求心力があった。


 ――カネ。


『尊』はその名を脳裏で呟いた。


 柔らかで鋭く、流動的で融通の利かない、独善的で博愛的なメロディー。

 いくつもの矛盾を何層にも孕んで、それが決して破綻しない自由さと精密さで構成された歌声。


 皮肉屋ゆえの純真さが滲んだ、人間臭く神々しい、憐れで気高い歌詞はきっと『セピア』が紡ぎ出して少年に与えたのだろう。

 不純物の一切混じらない天然石の眩さを儚げな歌の中に見出せた。


 この世は対比でできている。

 物事が矛盾するのは相対する概念をいつだって人間は創り出してしまうからだ。


 だからカネ少年に覚える矛盾に何の不快も不自然さも覚えないのは、それがきっと矛盾という概念を超越したところで生きるものだからなのかもしれない。


 ――『尊』はいつもの癖でつい思索に沈み込んでしまったことを反省した。

 それから束の間、思索を手放してカネ少年の歌声に静かに酔いしれ、終わりを待った。


 歌が終わると、サーカステントの中が暗転した。


『僕の睨んだ通り、これが異世界転移のトリガーのようだ』


 実はセピアも『ファイ』も手掛かりを見つけられなかったこの短時間で、『尊』少年は異世界への転移方法を導き出していた。


 それがこれ――舞台を公演し、それを終えること。


 照明の点灯が舞台の幕開け、暗転が舞台閉幕の合図だ。しかしおそらく単に誰かが人為的に灯りを灯して再び消せば転移を果たせるような容易いものではないだろう。


 つまり演者と観客がいて、それは舞台として認められる。

 舞台として観賞に値すると認められたなら自動的に照明が点いたり消えたりする。


 電気・照明のオンオフが文字通り世界を渡るスイッチ。その仕組みを理解すれば簡単だ。


 舞台の幕が上がり、カネ少年の歌声がサーカステント内に響いた。そして、歌声が途切れ、数秒の静寂を過ごしてから、暗転した。


 録音だろうと音質が悪かろうと、カネの歌は聴く者の心を打つ最上の演目だった。それが認められたからこそ無事に舞台の幕が下りたのだ。


 そして、暗転したということは今『尊』は世界を渡ったということだ。

 転移を果たし、このサーカステントの向こうには人間界が広がっているに違いない。





 尊は確信に近い静謐な予感を抱いて、背後の死体と血痕だらけの観客席を一瞥もせずに、テントの布を押しのけた。

 躊躇いなく外へ出る。


 背後でテントの垂れ幕が尊の手から離れて、ばさりと垂れ落ちる音を聞いた。


 そこには――――確かにそこには人間界が広がっていた。

 ただし、それは尊の見知った光景ではなかった。


 背後を見れば、黄色と紫色の見知ったサーカステントは消えていた。


 木で組まれた檻の中にいた。おそらく、信じがたい感情を切り捨てて説明するならば、ここは見世物小屋だった。


 奇形の人や動物を集めた見世物小屋は古くから栄えてきた。大昔は奇形児や身体障害者を見世物にしていたという後ろ暗い逸話を歴史書で見つけたことがあった。

 その歴史上の一途に自分が立たされていると頭脳明晰過ぎる少年は理解した。


「さあ! 寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」


 傍らにいつの間にか立っていた無骨な大男の高らかな声が道行く人々の関心を引いた。大男は頭に麻袋を被っていた。


 尊はしゃがみ込んだ格好で檻の中にいた。自分の体を見下ろせば普段より手足が縮んでいた。


 またも有能過ぎる頭で事態を理解してしまう。


 普段は三十歳くらいの大人の体の中に、人格の一つとして尊も存在した。だが尊は自身の年齢を十三歳と自認している。それでも体は大人で、現実世界に呼び出されるのが毎回不快なくらいの自認の齟齬があった。


 今、尊は自身の思い描いてきた望み通りの体を――十三歳の少年の体を手に入れていた。

 魂と肉体が完全に合致したことで、完成した人間になれた喜びがどこかで疼いた。


 木の檻の中でしゃがみこむ少年を、通行人の好奇の目がじろじろと眺め回した。


 鞭を握ってしきりに木箱を打ち付ける大男が機嫌よく声を張り上げた。


「さあさあ! ここから先が必見です! なんとこの少年の体は鉄でできています。地下に籠り、書物を読み漁り、人の心を忘れてしまった鉄人間。いつしか彼は心だけでなく肉体までも鉄のように硬く何をも寄せ付けなくなってしまったのです」


 ……僕が、鉄人間? 何の話だ?


「お客さん、どうぞ肌を触ってみてください。柔らかいでしょう? でもこの鉈で腕を殴り付けても死なないんです! 彼は鉄人間! 何を持っても彼を傷付けることはできません」


 そんな芝居がかった文句とともに、檻の扉が開いて、外に引き摺り出される。

 大男は尊を物のように乱暴に掴んだ。


 檻の少し先には、低いやぐらのような台座が用意されており、いかだのように丸太が並ぶ段上に尊は放り投げられた。


 案外見晴らしがよく、教室の教卓の上のように、遠くまで見渡せる。その遠く先まで見物客が押しかけていた。

 彼らは何を観に来ているのか。

 考えなくとも一目瞭然だ。


 この場で通行人が視線を注ぐ見世物というのは、尊のことだった。


 尊の腕に、大男の持つ鉈が振り下ろされた。


 当然に腕は切れ、見物客の頭上を飛び、ぼとりと道に落ちた。落ちて地面に激突した腕を中心に、乾いた土に歪な形の血溜まりが広がった。


「ぎ、い、がぁぁぁああああああっ!!」


 幼い悲鳴とともに、尊の腕の断面から血が噴き出した。

 これまでの思索を全て焼き尽くして余りある痛みが少年を襲った。


「あれぇぇ、失敗失敗! 鉄人間からサビが出てしやいましたぜ!」


 おどけて冗談っぽく、頭を掻く大男。


 一拍遅れて、どっと爆笑する観客たち。


 尊は見世物になるとはどういうことかを味わっていた。自分に尊厳も何もなかった。

 赤褐色に濁っていく視界に反して、笑い声がどこまでも途切れることなく鮮明に鼓膜を刺激した。


 尊は櫓の上でのたうち回りながら声もなく、帰りたい、と呟いた。


 帰りたい。思索の中に帰りたい。考えることが愉悦だった。愉悦の味を思い出したい。でも今は何も考えられない。痛い。この痛みは邪魔だ。この痛みを取り除かねば思索ができない。自分が分からなくなる。アイデンティティが崩れていく。嫌だ。帰りたい。あの家に、帰りたい……。


 思索だけが、自分が一人の人間でいられる、尊厳が保たれる時間だったのに。


 もうそれは奪い取られてしまった。


「やーさっきは失敗でしたが、今度こそ鉄人間たる所以をお見せしましょう!」


 再び高らかな上機嫌な口上が響いた。

 大男は再び尊に、銀光りする鉈を躊躇いなく残酷に振り下ろした。





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