15 交代の話

 人間たちが避難した学校の家庭科室にセピアと同僚の千佐千晶が来ていた。

 結美の状況説明という演説の直後、千晶がセピアを誘い、真っ先に向かったのがここだったのだ。


 なぜセピアだけを誘ったのか理由は言わずと知れたことだ。


 千晶は家庭科室の冷蔵庫、戸棚を開けて回って「くそ……」と呻いた。


「保存食の一つも置いてねえのに何が避難所だ……」


 目の前で人間が破裂する悲惨な光景を見せられたそばから、理不尽に異世界に転移させられた事実を知り、衝撃を受けている人間がほとんどだ。


 千晶はショックからいの一番に立ち直って、食料探しに来た。


 一緒に探索するに当たって、食料がないと分かってパニックにならないことを見越した人選がセピアだった。


 そしてそれは現実となる。


 家庭科室どころかこの学校の隅々を探したが飲み食いできるまともなものは見つからなかった。

 水道が使えるのが奇跡だが、その水も安全かどうか……。

 それでも千晶は執念深く棚の底板を外したりして、食料調達の僅かな希望を捨てない。


 そうしながら、ふと背後のセピアに投げやりに言葉を放った。


「……なあ、あのさお前、あん時、見捨てたよな」


 棚漁りの戦果なく、疲れたように立ち上がった千晶は調理台に手を着いた。

 セピアと頑なに目を合わせない。

 彼は、何を、とは言わない。疑問形でもない。


 再会した時にすべきだった糾弾が今になっただけだ。

 ただ糾弾と言うには淡々とした声音だ。


「……宣がさ、死んだんだ。俺の弟が目の前で死んだ。

 セピアが逃げたすぐ後に、あの女に殺された。風船みたいに弾けて死んだ。まともな人間の形も遺ってない。血とか臓器とか、まだ残ってたものも拾い切れずにテントの中に置いてきちまった」


 千晶は窓の外を見ている。


 大きな調理台に挟まれた通路で、セピアは無意識に後退りした。

 友人のこれまで聞いたこともない淡白な声音が怖い。


 恐怖。焦燥。後ろめたさ。罪悪感。後悔できないことに対する後悔――。


 見捨てたよな――


 ――その通り見捨てた。


 あの時セピアは目の前の同僚たちの命を見捨てたのだ。


 その一言でこれまでの関係性と培った信頼が崩れたことを確信した。


 きっと絶縁を告げられる。

 殺意を向けられる。

 断罪される。


 どうしよう。どうすればいい。

 どうして私は逃げたんだろう。逃げずにいられなかったのはどうしてだろう。

 どう弁解するのが正解だろう。


 どうしよう。どうしよう。どうしよう――。


 セピアは一人で極限まで追い詰められて、最後はこの場から逃げた。


 席を譲り『』しようとした。


 身代わりを差し出して自分は都合の悪いことから目を背けようとした。


 彼にはずっと前からそれができた。

 体がそこにあるまま自分のをその場から退場させられるのだ。


 そして、逃げ出した『セピア』の代わりに、十三歳の少年『たかし』が矢面に出た。


 セピアの外見に特別変化はない。

 変わったのは顔つきくらいだ。


 普段の陰気そうな気配が消えて、無機質な目が、この世に見るものはないと断定するように、じっと正面だけを見据えた。


『尊』の眼には何も映っていない。

 異質な世界も、隣の同僚の厳しい気配も。


「こほっ……けほ……」


 彼は不意に咳き込んだ。空気が合わない。

 異世界の乾いているくせに喉に纏わりつくような空気が、『尊』の愛してやまない思索の邪魔だった。


 考えることが好きで、研究に没頭できる変わらぬ日常が好きだった。


 こんなのは、知らない。自分には不要だ。


 彼は不快そうに咳を飲み込んで、すぐに別の者に『交代』した。


 セピアの顔つきが再び変わった。

 セピアは一瞬驚きに目を瞬かせて、首をあちこちに向けて、最後は家庭科室の調理台に両肘を乗せている千晶を隣に見つけた。


 あら、いい男。


 心なしか艶めいた唇に、妖艶でいながらお茶目な若々しい笑みを乗せた。

 セピアの姿であってセピアではない彼女は二十二歳、『シャーレ』だ。


 千晶に向けて誘い文句を口にしようとして、何だかそれどころではない状態で呼ばれてしまったのだと気付く。


 千晶の背中が怒りの覇気をわずかに放っていたのだ。


 つまらない。それに少し……怖い。


 彼女は気落ちして苛立たげに鼻を鳴らして、席を立った。


『シャーレ』の放り出した席に座り、表に出たのは十九歳の青年、『寛太かんた』だった。


 彼は眩しさに一瞬目を眇めて、自分の周りを見回した。

 ここはどうやら高い建物の一階だ。

 眼前の窓に広がる、銀色のオーロラで埋め尽くされた空と階段状の銀色の地面が真っ先に意識に飛び込んだ。


 周囲をぐるりと銀色が取り囲む中、孤島のように浮かぶ学校に似た建築物が彼のいるところだった。


 彼は見たこともない異質な景色に混乱し、必死で一番直近の記憶を掘り起こした。


 自分を落ち着かせようと無意識に左手の本来なら小指が生えている付け根をぐりぐり押し潰す。


 確かいつものように深夜の工事現場で働き、仕事終わりに仕事仲間と歓談して帰宅し、ノンアルビールを飲んでいた……。


 どうにかして状況把握の手掛かりを得ようと隣を見れば、見知った男がいる。

 サーカス団に所属する『セピア』の同僚……千晶だと即座に気付いた。


 人好きのする『寛太』は、人の顔と名前を覚えるのが得意だった。


 ああ、何だ。仕事終わったのか。と言うか千晶がいるってことは俺の出番じゃないな。サーカス団の皆といつもいるのは確かセピアだったっけ?

 ここ何処だろう? 何か空がキラキラしてる。遊園地のアトラクションっぽい? 同僚と旅行に来てるのか?

 さては人嫌いのセピアが人付き合いに疲れて、俺に丸投げしようとしたんだな。


 そんな早合点をしている間に『寛太』は眠気に襲われた。

 呑気に大欠伸をして、睡魔に飲まれていった。


 マイペースな『寛太』が退くと、いよいよ困ったセピアは別の者に押し付けようとした。


 呼んだ相手は二十四歳、『ファイ』だ。


 普段からハプニング嫌いでいながらサプライズ好きなお調子者。

 一番気さくな彼のことだ。きっと軽口を気楽な口調で叩きながら、この場を引き受けてくれることだろう。


 実際、渇色世界に来てからも何度か危うい場面や『セピア』が嫌う場面に代わりに出てくれている。


 そう高を括り安堵したことは『セピア』の失敗だった。

『セピア』の切実な期待を裏切り、ファイは交代することを断固拒否した。


 彼は『セピア』と視覚を共有し、この状況を理解している。

 唯一の理解者と言っても過言ではない。


 そんな彼は普段の軽薄な調子を引っ込めて、教育者の如く諭した。


 ――まだ逃げ続けるの? まあそれも時には悪いことじゃない。楽して生きるのは僕のモットーでもある。

 でもね、全部が全部、僕に丸投げは駄目だよ。セピアは僕より年上なんだからさ。自分の行いのつけくらい、自分で払うべきじゃない?


 そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。


 どうしよう。どうすれば切り抜けられる? 私はどうしたいのだろう――。


 現実から、声が降ってきた。


「許すよ」


 セピアが袋小路に追い込まれパニックに陥る前に、その声が滑り込んだのだ。


 思わず声を発した千晶の顔を見返した。


 彼は先と変わらず憤慨の鉛を飲み込んだ顔つきで、セピアは困惑した。


「許したくはねえけど、こーゆーの持ちつ持たれつだろうし」


「……?」


「俺にはまだ妹がいる。妹の苺まで死なせるわけにはいかない。

 妹と誰かをどっちかしか助けられない状況になったら俺は苺を選ぶだろうな。

 今度は俺がお前を見捨てるかもしれない。だからそん時ゃお前も許せよ?」


 千晶は色々な文句を飲み込んで、結論だけを簡潔に伝えた。


 最後に彼が付け加えた台詞は、およそ冗談めかしてもいないが、冗談だと分かった。

 屁理屈でもどうにか理屈をつけてセピアへの怒りを収めてくれた。


 そして、たったこれだけであのサーカステントで彼を見殺しにしようとしたことを許されてしまった。

 彼の弟を見殺しにしたことを許されてしまった。


 奇妙とも思えるほどの海容があった。


 これまで副団長として団員を率いてきた彼の懐の深さが成せる技なのか。

 突如始まった極限の異世界生活でせめて蟠りを失くし協力体制を維持しようとしているのか。

 憤慨を失くせる能力でも持っているのか。


 セピアはこれまで『交代』に――その場から逃げ出すことに疑問を抱いて来なかった。

 だが今日は逃げられなかった。

 逃げなかったから、友人の許しの言葉に立ち会うことが叶った。


 その衝撃は言い表し方が分からない。


 自分の存在に突如疑問が投じられ、いつまでもセピアの心の内に波紋を広げた。





 ――自分の感情に戸惑い立ち尽くすセピアは気付かない。


 千晶が冷酷なほど鋭く窓の外に――思考の内側にある何かに、殺意を絶えず向け続けていることに。





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