10 骨の怪物
階層上に高く深く広がる銀色の空を、鏡の地面が正確に映し出す。
そんな銀に囲まれた世界に唐突に踏み締める地面が現れた。
それは最初は黒土で徐々に茶色、黄土色となり、黄土色から灰色の舗装道路になった。
眼前にはありふれたブロック塀とフェンスに囲われた校門があった。
カネたちが、オレンジ色の髪のスポーツ少女に連れて来られたのは学校だった。
右も左も分からない場所で歩かされて疲れたが、幸いなのかカネは連れ回されることに慣れていた。
数十分前に経験した悪夢の惨劇が脳裏に再生されている。
今すぐにあのサーカステントに舞い戻り妹を助け出したい気持ちと、もう誰も生存者はいまいと冷酷な判断を下す思考との板挟みがあった。
気が逸る。
踵を返そうと身を捻って――。
カネの意思を叩き潰したのはセピアだった。
学校の玄関口に向かって校庭を横切りながら、セピアはカネの手首を強く握っていた。
彼はカネがあの悲劇のサーカスにとんぼ返りする算段でいると早々に見抜いたらしい。
「他力本願で風任せの僕から言わせてもらうと、せっかく助かった君を手放すわけにはいかない。運が向いて僕らの命は助かった。それを粗末にしないで欲しいんだ。
僕は元々サプライズは好きだけどハプニングは心底嫌いでさ。あんな地獄に戻りたくない。君をあんな場所に戻らせたくない。分かるかな?」
物腰柔らかな、一見すれば軽薄な口調の裏にはカネの行動をいつでも押さえ込むことを覚悟した強固な意志が見え隠れした。
カネはそれを認めて――、セピアに掴まれたのとは反対の手で彼の手の甲を力一杯に引っ搔いた。
三本の爪痕の線が引かれ、手の甲にじわりと赤い血が滲む。
「俺は信用できねぇオレンジ女が連れてきた幻想の安全地帯より、死ぬかもしれなくても見知った地獄に戻る! 妹が助かるならなおさらだ!」
カネの頭には、セピアを振り切って一人で惨劇の現場に戻ったところで何ができるか、などという現実的な打算は微塵もなかった。
妹に会いたい。咲来を恐怖から救いたい。それだけだった。
突如引っ掻かれたセピアは本能的な反射で痛みに怯んで、カネの手首を離した。
その隙をついて距離を取った。
「待ってっ……」
と焦るセピアを振り切り、カネは校門まで駆け戻った。
せめてもの慈悲に振り返って、十メートルは離れた場所に立つセピアの顔を見た。
彼は諦めていなかった。
カネのほうに足を踏み出すタイミングを見計らっている。
他力本願で風任せ、などと先程口では言いながら存外頑固なのか。
一触即発の空気が満ちた時、それまで怪訝そうな顔つきで静観していたオレンジ髪の少女に異変が起きた。
二人を先導し、学校の玄関口に向かう階段に片足を掛けていたオレンジの少女の左耳の穴から白い巻貝のようなものが飛び出した。
ドリルのように捻じれながら空に伸びる。
液体のように自在に動きながらも、硬質な反射の仕方を見る限り、硬さのある物質に見える。
白く、枝のような、細い――それはまるで骨だった。
「ジャッ、ジャジャーン! 超骨波ぁー、なんちゃって。びっくりした? 驚いた? これはね超音波ならぬ超骨波! 遠くにいる吸骨種同士で通話ができるんだ、便利でしょ!」
カネは呆気に取られて左耳が羊の角のように変形したオレンジ髪の少女を見つめた。
セピアも同じく緊張感を削がれて、ぽかんと口を開けている。
少女は二人からの注目に照れたように頭を掻いて、「そーしーて!」と続ける。
「今はと言うとね、白髪頭の少年! 君が戻りたがってるサーカステントにいるユミちゃんと通信が繋がってるよ」
少女は白い巻貝の重みに耐えかねたように、じわじわと頭を傾げながら、誰かに――少女が言うには「サーカステントにいるユミちゃん」に話し掛けた。
「あ、ユミちゃん? ……うん、そうそう。生存者二人は確保したよ! 予定通り避難所まで連れて来たんだけど、ちょっと問題発生で。一人男の子がねそっちに戻りたいんだって。うちは、どうしたらいい?」
まるで電話しているようだった。
不気味な姿を晒しながら、オレンジ髪の少女は再びカネに水を向ける。
「……ねえねえ、君は何でサーカステントに――吸骨種の狩り場にわざわざ戻りたいって思うの?」
「あんたは誰と喋ってんだよ? それを先に答えろ独り言女」
低い声でカネが牽制すると、オレンジ髪の少女はきょとんとした。
「君たちは会ってないの? サーカステントで魔女と戦ってるユミちゃん。ほら、高級カプチーノみたいな綺麗なロングヘアの超絶美人の女の子。うちとおんなじ中学の制服着てたはずだよ?」
……あの女か。
先程突如として三叉槍で襲撃してきて周囲の動けない人間たちを巻き込みながら「魔女」と名乗った女と戦闘を繰り広げた少女を思い出す。
カプチーノ色のポニーテールを翻し、異次元の身体能力を発揮していた少女の悪夢。
彼女こそ多くの人間を破裂させて殺した張本人だ。
名前を覚えるのがとことん苦手なカネだが「ユミ」という名前はこの先も忘れないだろう。
オレンジ髪の少女はカネをびしりと指差した。
「よし、そしたら最初の質問に戻るね。
――君はどうして生き延びたのにまたサーカステントに戻りたいの?」
その瞬間に、カネに「超骨波」の音色が聞こえた。
故郷の帰ったような心地で耳に響く音楽だった。
どこで聞いた曲だろう? 妹の創る詩とはまるで違う。
何か音楽のジャンルに例えたいが、生憎カネは例えるべき音楽を知らない無知な十歳の少年だ。
顔を顰めたカネを見て、オレンジ髪の少女が無意識に疑問を漏らす。
「あれ? それって〈
「……〈
どこかで聞いたような単語の気がする。
それをカネは思わず復唱して――。
――――――。
――――。
――。
気が付けば、自分の体が異形に変身していた。
見下ろした己の全身から白い骨が突き出す。
皮膚が突き破られて、体が作り変えられていくが、不思議と痛みはない。
海岸にある消波ブロックのごとき、しかしそれより不安定な不格好なシルエット。
氷柱のような白く滑らかな突起が覆い、顔も胴も手足も分からない。
骨の化け物になった、と分かったが自分の全体像を掴めない。
今、視界には恐怖に顔を引きつらせながらもこちらに向かって駆け出したセピアと、「超骨波」とやらを放ったまま唖然としているオレンジ髪の少女があった。
カネは彼らを見下ろしている。
何故なら自分の体が刻々と膨張しているからだ。いまや目線が目の前の学校の二階と同じ高さになっている。
白い歪な骨が体から生える。
今の自分のシルエットは滑稽ではないだろうか。
余裕のなくなったセピアが叫んだ。
「猫っ!? 待って僕が貧乏くじを引いたのは知ってたつもりだけど、猫!? いや、虎? 違う、カバ? グリフォン? アンキロサウルス!?
わーお、カネ! 君はアグレッシブすぎる! すごい! 僕がハプニング嫌いを打ち明けたそばからこれか!」
そうこうするうちにカネを強烈な眠気が襲った。
本能に基づく睡眠欲にどうしても体が従ってしまう。
寝心地の良い体勢を探しながら校門の柵に寄りかかるようにして丸まる。
自分の身に何が起こっているのかとか、
どうなってしまうのかとか、
妹に会いたいとか、
サーカステントに残してきた観客たちが生きているのかとか、
浮かんでくる疑問を早急に解決するため動かなければならないのにままならない。
ここがどこだとか、オレンジの少女が何をするつもりだとか、セピアと話し合えず決別したままになってしまったとか、そんなことより今は眠い。
眠気に抗えない。
と同時に懐かしい音楽に駆り立てられるように、どこが源かも分からない破壊衝動が胸の内を――いいや、背骨と肋骨を支配する。
背骨と肋骨だけにそれが留まってくれているのが不幸中の幸いな気がした。
いくら骨が奮起しても筋肉と神経は動かないままだから。
やがてカネの意識を内に秘めたままの、巨大な骨の怪物は、完全に睡魔に飲み込まれていった。
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