2章 渇色世界
9 銀色世界
カネは、走るセピアの背に抱えられながら、眩しさに目を細めた。
セピアは上下タータンチェックのスーツを着込んで走っているため、汗びっしょりで息が上がっている。
普段の猫背がより一層丸まって、セピアの背におんぶされる形のカネまで前のめりになっている。
脳みそを揺らされて目が回るだけでなく、ひっくり返って頭から落ちそうだ。
先程までカネたちがいた悪夢のサーカステントは遥か向こうにあった。
黄色と紫の縞模様が特徴の三角錐の内部が今どうなっているのか。
セピアの足は止まることがなく、なおもテントから遠ざかっていく。
ここは一面の銀世界。と言うのはおそらく正しくない。
何故なら普通『銀世界』と言うと雪景色を指すものだが、少年の目の前に広がるのは本当に銀色の世界だからだ。
空は銀屑が連なり折り重なって何処までも高い層を作っている。
丁度、北極海の海底から分厚い海氷を見上げたような。
それらが全て銀透明に淡く輝いている。
空を明るくしているそもそもの光源は見えない。
そして地面は鏡だった。
硬質な結晶を階段状に配置した、例えるなら
空を映す銀色の地に、しかし、生き物の姿だけ映らない。
透明人間になったようにカネたちの服だけが空中に浮いていた。
空の銀屑層と地面にある鏡の結晶との境目が曖昧だからか、上下左右の平衡感覚が狂いそうだ。
歩いても歩いても進んでいないような心地になる。
世界が製造途中で、まだ完成されていない隙間に迷い込んだような気分が去来した。
この場所は明らかに地球上の何処でもない、異世界だった。
否が応でもそれを認めるしかなかった。
昼なのか夜なのかそれすら判別の付かない未知の世界。
頭の隅でカネは昔のことを思い出した。
生まれ立ての頃にカネが見続けていたのは、四方上下を金網が囲う光景だった。
閉じ込められていた。
逃げられないわけではなかったが、逃げても死が待ち受けるばかりだと悟っていた。
閉塞感と拠り所のない不安が胸に同居していた。
――ここは少し、似ているかもしれない。
右を見ても左を見ても代わり映えのしない、見る価値のない、退屈な地獄が出迎えるところなんかは特に。
カネは身を捻って、無理矢理にセピアの背から飛び降りた。
鏡張りの地に着地してすぐに、セピアの正面に回り込み、力を込めてセピアの腹を殴った。
「なあ! あんた俺の妹見捨てるのかよっ!? さっきの人たち皆、見捨てちまうのか!? あんたの友達の千晶も……?」
セピアはカネを凝視した。
己のしたことを頭の中で反芻しているような、強張ったセピアの顔。
それがふと視線を外し――
――また、カネに視線を向けた時には軽薄な、無責任な薄ら笑みがあった。
「まあそういう風にも言えるかもね」
セピアの声にあった陰気さ……要は落ち着きが消え、今は地に足のつかない声色が返ってきた。
まるでテレビドラマに出てくる結婚詐欺師の風格だ。
襲い来る違和感。
喉に魚の骨が突き刺さったような不快な不可解さが舌に込み上げた。
突然過ぎだろ。何なんだよ。意味わかんねえ。
そんな風に喚きたくなるのをこれまで培った警戒心と慎重さを総動員して堪えた。
カネはセピアをねめつけるように横目に見上げた。
「おい、なりすまし野郎。あんた誰?」
違和感の核心を、カネなりの言葉で端的に問い質す。
生じたのは、二秒に満たない静寂。
セピアは、目を逸らした。
再びカネに視線を戻した時には不思議そうな顔のセピアがいた。
そして、腕時計に目を落とした。
「……少し時間が経ってしまったようだね」
先程のカネの質問を無視したわけではないのだろう。
この時の一瞬、セピアが本人でないような違和感は消し去られた。
カネが問いを重ねようとした直前。
「見つけたっ!」
知らない声が二人の間に割り込んだ。
活発そうな少女の声。
声の主は十数メートル先にいたが、しかし耳元で喋ったようにカネに届いた。
見回すと、銀世界の鏡面に少女が立っていた。
カネには全く見覚えのない少女だ。
年は十二、三だろうか。
耳にかかるくらいのオレンジ色のざんばら髪に、豪奢で上品な髪飾り。
眉上の前髪。そもそも短い前髪はまず目元に垂れてはこないだろう。
髪飾りはあまり意味を成していないように見えた。
短くした制服のスカートからスパッツが覗き、その下は日焼けした健康的な脚。
良家の子女のごとき気品と、スポーツ少女の
「やっぱり君たち、魔女から逃げ延びたの?」
彼女の元気そうな大きな瞳が好奇心に輝く。
値踏みするような冷たい色も一欠けら混じった。
カネは敵意と警戒心を漲らせながらも内心で首を傾げた。
疑問は二つ。
一つは彼女は何者なのか。
カネやセピアと同じくあの恐怖のテントから逃げてきた客か?
違うだろう。
あの地獄絵図を観覧した後で普通はこんなに無邪気に笑えない。
それに、オレンジ髪の少女の制服には見覚えがある。
テントの中で暴れ回っていたポニーテールの少女と全く同じ紺色の制服なのだから……。
もう一つは、自分たちは本当に自力で逃げたと言えるのか、だ。
確かにサーカステントから五体満足で逃げることができた。
骨も関節も取り戻せた。
だが、あれは逃げ延びたというより、魔女に見逃されたのだろう。
逃げるカネとセピアに戦闘中の彼女らが偶々関心を向けなかっただけ。
正体不明なボーイッシュ少女を前に、なんとも答えがたくセピアと顔を見合わせると、彼女がさらに畳みかけた。
「君たち人間なんだよね? 魔女に骨抜きにされなかったってこと?」
カネは苛立たしく鏡の床をドンドン踏みつけながら気もそぞろに「そうだよ」と返した。
セピアに問い質したいことが山ほどあるのに、目の前に敵か味方かも分からない女が降って湧いた。
それに加え、カネは早くも会話に飽きていた。
というのも目の前のオレンジ髪の少女がただ彼女自身の好奇心を満たしたいだけだと、勘で見抜いたからだ。
彼女が話したければこちらが聞き出さずとも勝手に話し出すだろう。
そんなことに意識を裂く時間は勿体ない。
今は少女との会話より、自分を取り囲む銀色の景色が気になって仕方がない。
ここが安全なのか確かめねば。
安全だと分かれば今すぐサーカステントに戻り、この場所まで妹を避難させることができる。
「よし来た! うちは
うちらは他の吸骨種たちと違って、人間に友好的に接したいと思ってるよ!」
カネはそれを無視して問いを投げた。
「なあ、ここって死後の世界?」
「えーっと、違うと思う!」
「ふーん……」
カネは少し残念に思った。
妙に親しげに振舞う少女――朔耶がさっぱりした笑顔を見せた。
そして、隣の空間に視線をやった。
少女は明らかにカネとセピアでない誰かを向いていたのだ。
「ユミちゃんが戦っている間にうちらは撤退。うちは二人を連れて帰るけど、シュウくんは?」
彼女が『二人』としたのはセピアとカネのことらしい。
彼女がそう言い終えた瞬間に、その人物が出現した。
少女から「シュウくん」と呼ばれたのは、いつの間にか彼女の隣に、影のように現れた少年だった。
オレンジ髪の少女と同じく、十三歳くらいで藍色の学ランを着用している。
正体不明な奴が増えた。
カネは警戒心と不機嫌を加速させる。
彼は文学少年っぽい朴訥とした雰囲気があるが、それを取り除くと、案外隙のない立ち振る舞いが見えた。
理知的な目元に、銀世界に溶け込むような透き通った青い髪。
カネはちらりとセピアの顔を見上げる。
また湧き上がる違和感。
セピアは内心の判らない、いや何も考えていない笑みだった。
『シュウくん』と呼ばれた青髪の少年が視線を背後のサーカステント――小さく見える紫と黄色の三角形に向けた。
きろり、と爬虫類のように少年の眼球が動いた。
「俺はあっちに、ユミの加勢に行く」
淡々とした、温度の乗らない澄んだ少年の声だった。
そう言ったきり少年は再び影のようにいなくなった。
それに驚くには色々なことがありすぎる。
カネは景色ごと残った少女を睨みつけた。
「じゃあ、二人はうちと行こっか」
オレンジ髪を元気に跳ねさせた藍色の制服の少女が、遠足にでも行くように楽しげに誘った。
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