8 脱出

 長身のセピアは、半ば強引に十歳の小柄なカネ少年を背に抱えて、席から席へ駆け抜けた。


 その行動の発端は本能的な予感だった。


 ここで逃げなければ、きっと死ぬ――。

 ここにいたくない。カネのこともここに置き去りにはできない。




 唐突に乱入した中学生の少女と、妖艶な魔女の戦闘は続いていた。


 暗闇に包まれた観客席を縦横無尽に飛び交う、異なる二つの武器、彼女らの足音、血の匂い、殺気。


 洗練されたデザインの乳白色の三叉槍と、黒光りするステッキが澄んだ金属音を立ててぶつかり合う。

 再び火花が散るほどの鋭い睨み合いを繰り広げる。


 戦闘を賛辞するように、観客の空虚な拍手の音はまだ続いている。


 その中にあってはならない甲高い破裂音が時折混じった。


 また一人、セピアの走り過ぎたすぐ背後で人間が弾けた。


 赤い血が背中に降りかかる。温かい。振り返ることが出来ない。


 セピアが客席の間の階段の通路を出口に向かって駆け上がる中で、客の数人と目が合った。


 その中にはサーカスの副団長もいた。

 彼は、本当は今日の舞台に出演するはずの演者だった。


 セピアの同僚で友人の、千佐ちさ千晶ちあき


 彼が正気を取り戻した一割の客の一人に数えられることを、目を見て悟った。


 彼の目は死に物狂いでセピアに助けを求めていた。






 ――世渡り上手な風来坊。


 そんな千晶に対するセピアの第一印象は『いけ好かない』だった。


『舞台の脚本が書ける人間を探してんだ』


 行きつけの酒場で話し掛けられたのが最初だ。


 陽気さと無遠慮の塊のようなその男は気に入らない。

 が、その話には引き込まれた。


 騙される覚悟でサーカス団に入り、セピアは生まれて初めて居場所を得た。


 同僚で、信頼を置いていて、友人で。


 セピアの作詞を肯定してくれて、ファンだとはばかりもなく言う人たらしで。


 きっと長い人生で二度と出会えない無二の信頼関係。


 ――しかし、かけがえのない人たちの、かけがえのなさに優先順位を付けられることを、セピアは今日この時強く実感した。


 自分への失望と友を失う絶望を感じたが、それらを揺るがせないエゴが上塗りした。




 観客席。

 正気を保ったままの客は骨のない手足を動かし、苦しそうに藻掻いている。


 千晶がセピアにすぐさま気付き、瞠目した。


 助けを乞うように手を伸ばした同僚の彼から、セピアは冷酷に目を逸らした。


 あの槍に強襲に遭わずとも、己の情けなさで簡単に胸が破裂しそうだ。


 腕の中にカネ少年の重さがあった。

 優先順位の一番上に来るのが彼だった。


 それを投げ出すことは出来ない。


 セピアはカネを生かすためだけに走っていた。


 罪悪感から目を逸らして全力で逃げていた。


 例え同僚を見捨てる人でなしと詰られても、どうにもできない。


 優先順位は変えられない。


 その間にも少女と魔女の戦闘が激化する。


 無差別に切り裂かれ、赤い血が通路に階段に観客席に動けない人間たちに降りかかる。


 その鮮血はテント内の暗がりの中でも色鮮やかに咲いていた。


 客たち――客席にぐったりと腰掛け、藻掻いても藻掻いても起き上がれない骨抜きになった人間たちが、成すすべもなく弾けて消え去る。


 後に臓物と血が人型を失い、座席にドサッと重たい音を立てて積まれる。


 悲鳴も上げられずに、いや上げられた者も等しく死んでいく。


 セピアに背負われて藻掻いているカネが叫んだ。


「なあ! なあセピアっ!? 妹の匂いがする! 客の中に妹がいる! 俺の、妹だっ!」


 その言葉には流石にセピアも衝撃を受け、足を止めかけた。


 妹――カネ少年の探し求めていた相手その人が今、このテント内にいるというのか。


「助けないと! 今動けるのは俺らだけだっ! 引き返せ! じゃないと、妹は、妹が死ぬだろ!?」


 この場に居残ることはカネの身内だろうとそうでなかろうと、死ぬ。


 自分たちだけで逃げるということは、同じ境遇の人間を皆見殺しにするということだ。


「おい、さっさと助けねえと! 助けないと、この人たち皆死ぬんじゃ!? そんなん俺らが殺したのとどう違う!?」


 理想論を言えば、彼の指摘は正しい。


 セピアもそれは理解できている。


 だが、それを実行に移そうとした時点で殺されるだろう。


 そんな危うい理想を平気で口にできるのは、カネ少年の幼さゆえの万能感か。


 そんな高尚な世迷言を、この期に及んで吐くことのできる少年の潔癖さはやはり、セピアには眩しく羨ましく映る。


 だから今は、カネの言葉には耳を貸せない。


「さっさと『骨抜き』された客を元に戻すぞ! あの金髪魔女が持ってた砂! あの砂の瓶を皆にかけりゃいいんじゃねえのか!?

 片っ端から助けてりゃいずれ妹も見つかる! せめて咲来サキに、俺の妹に辿り着くまで皆を助けまくって……おい話聞け!」


 彼の推理は、セピアの直感では、おそらく正しい。

 実際に今、セピアとカネの「骨抜き」状態が解かれて自由に動けているのは、あの瓶の中の砂を飲んだからだ。


 魔女の持つ瓶の砂を手に入れれば、奪われた骨が戻ってくる――。

 原理は分からないが、そういう仕組みなのだろうと想像できる。


 カネの言う通りに、魔女が台車に乗せて運んできたあの白い砂を、観客の一人ひとりに分け与えれば全員助かるかもしれない。


 ただセピアたちにそうしてやる時間はないだろう。

 おめおめ戻れば瞬殺される。


「今なら戻れば拾える! 俺が秒で拾う! 俺らが元に戻れたんだから他の奴らだって、妹だって戻れる! あんただってそれは察しがついてんだろセピア!? こんのっ、シカト野郎!」


 今すぐ踵を返し、床に散らばった砂を拾い集める――。


 いいや、そんな時間はない。


 あったとしても彼を失う可能性のある行動は犯せない。


 自分が殺されるのが怖ろしい。

 それ以上にこの少年を失い希望を失くすのが怖い。


「千晶は!? さっきそこに! クソ戻れよ! 妹がいるんだよ! 俺の咲来が!! おいセピア止まれって!!」


 セピアは、カネの一切の言葉を無視し、サーカステントを飛び出した。






〈1章完〉



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