6 惨劇のはじまりはじまり
観客の拍手喝采が地鳴りのように鳴り響き、暗転した。
サーカスの舞台として歴代これ以上の成功はないほどの盛り上がりで舞台は幕を閉じた。
束の間の幻想が終わり、長い長い悪夢が再び始まった。
舞台を円状に囲む配置の客席。
全ての演目が終了しても多くの観客はそこに座ったまま空虚な拍手を続けた。
客の中で正気を取り戻したのは僅か一割ほどだった。
セピアは己の体がまともに動かないことをようやく意識した。
客は皆、骨抜きにされたままぐったり椅子に凭れていた。
セピアはその光景に視線を走らせて、己の心に――いくつかの人格たちに動揺が走るのを受け取っていた。
「これは、面妖な……」
激しい動悸と頬を伝う冷や汗がやっと異常事態を訴えてきた。
これは対処不能な問題に直面したと判断した思考がここから逃げろと忠告しているのだろう。
それに加え、奇妙な感覚があった。
今まで起きた出来事をまるで他人事に感じた。
舞台開始前に観客席のほとんどが埋まり観客の熱狂が高まった辺りから自分の思考が曖昧だ。
無論起きた出来事は覚えている。
自分の身に起きた出来事の数々
――いつの間にかセピアの身を襲った脱力感も、
客席の異様な興奮ぶりも、
警戒と怒りと疑心を張り詰めさせるカネ少年の横顔も、
素晴らしい数々の演目の内容も、
歓喜に震えた心拍も、
食い入るように無心で見つめた舞台上も、時系列通りに記憶されている。
ただ何故自分がそれを受け入れられたのかが分からない。
特にカネのことだ。
彼があの強く鋭い意志に澄み渡った黒瞳で必死に訴えかけようとするのを何故自分は無視できたのだろう。
セピアは状況を確認しようとどうにか身を捻った。
脱力感は未だに体を支配し、まるで自分が中身のない風船になった気分だった。
実際確認できる手足は風船のように質量を感じさせない。
関節が踏ん張ってくれず、曲がるという役割を忘れている。
これでは立ち上がることは到底出来そうにない。
と、隣席に沈み込むように座るカネと目が合った。
カネもセピアと同様に立ち上がれない様子だ。
しかし、その目が正気を取り戻したことをお互いが察知した。
異常な事態で、しかしパニックになり騒ぎ立てる愚を少年は犯さなかった。
カネ少年の勘はここで喚かず時機を伺うことを選択したらしい。
息を潜めて状況把握に努めている。
ならばそれをセピアが台無しにすることは出来ない。
暗転後の、暗闇。
だが隣席くらいはうっすら見える。
おそらく足元の誘導灯の光が機能しているのだろう。
数多の人間の気配に満ち、圧迫感すら覚えた。
拍手の破裂音。
荒い息遣い。
身動ぎする服の音。
観客席の座席が軋む音。
夜闇より暗いテントの中に淀んだ狂気が溜まり続ける。
空虚な拍手を続ける観客たちの中に、少数だが正気を取り戻した者らがいて彼らはショックと混乱に飲まれている者がほとんどだった。
体が突如自由に動かせなくなった事も相まって恐慌状態と述べても変わりない。
中腹の座席で会社員風の眼鏡の男が怒鳴った。
「ちょっと、これ、どうなってるんだ!? 体が動かないんだが……!」
その怒声はすぐさま拍手の音に埋もれる。
前列の席で若い夫婦が混乱をあらわにした。
「すみません! どなたか、スタッフの方、いらっしゃらないんですか!?」
その悲痛に説明を求める声にも何処からも返答はなく、拍手音の波に攫われた。
後方で父娘が立ち上がろうと椅子を蹴ってもがいた。
「意識ははっきりしてるのに、力が入らないっ……」
その困惑と焦燥の嘆きも隙間なく鳴り続く拍手に搔き消された。
学生らしい青年らが鞄から携帯電話か何かを取り出そうと、骨の抜けた指を必死で動かした。
「ああ、くそ、落とした! 意味わかんねえ! 何なんだよ!?」
その憤慨の喚きも拍手の圧が押し潰し、なかったことにした。
必死に混乱を抜け出そうとする一割の人間の努力する様はしかし、空気の入ったバルーンが風にはためくような、コミカルな光景だった。
当然その中に、セピアとカネもいた。
悪夢はまだ続く。
赤ん坊が座席から滑り落ちて、泣き出した。
その大きな泣き声も拍手の大音量に紛れてしまう。
母親が手を伸ばすが、風船の腕では赤ん坊を抱き上げることも叶わない。
万一抱き上げられても支えて持ち上げる筋力は失われている。
母親は「何でっ……?」と悲痛な声を漏らした。
その痛切な悲鳴も拍手の海に泡と消える。
拍手の破裂音が高まり、一割の混乱と苦痛を高め、気が狂いそうな光景が出来上がっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます